生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

鳴神貝塚(和歌山市鳴神)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前回までは、和歌山県にまつわる古事記日本書紀に描かれた物語や、これとほぼ同時代の出来事であったと考えられている古墳の築造や古墳時代の遺跡などについて順次紹介してきましたが、今回は、これよりかなり時代を遡った昔、縄文時代の遺跡である「鳴神貝塚(なるかみ かいづか)」について紹介します。


 「貝塚」とは、一般的には古代の人々が貝を取って食べた後に捨てた貝殻が塚のように積み重なったもの(遺跡)を指すと考えられていますが、近年では単なる捨て場ではなく、貝殻の加工を行っていた場所だったのではないか、等の新たな解釈も行われているようです。これについてWikipediaでは次のように解説されています。

貝塚
 貝塚(かいづか)とは、貝類の常食に適した地に居住する先史時代の人々が、日々ごみとして大量に出る貝殻と他の様々な生活廃棄物と共に長年に亘って投棄し続けることで、それらが累積した特定の場所をいう。ただ従来の定説では貝殻の捨て場所と認識されてきたが、貝の加工工場あるいは塩の生産工場のような役割を果たした場所とする解釈もある。
(中略)


日本の貝塚
 縄文時代貝塚は、日本列島では約2500個所発見されている。既に発見されている箇所の4分の1近くは、東京湾の東沿岸一帯で占められるが、これは、この地域での土地改変が著しく、分布調査及び発掘調査が進んでいることが大きな理由であり、地下に埋蔵される貝塚の全国的な分布状況とは別問題であることには注意を要する。なお、東京湾の東沿岸(千葉県下)でも、とりわけ千葉市内は分布密度が高いとされる。このほか貝塚が集中して分布している地域としては、太平洋沿岸の大きな内湾であり干潟がよく発達した仙台湾大阪湾などをあげることができる。
(中略)
 日本における貝塚の本格的調査研究は、1877年(明治10年)、アメリカ人動物学者エドワード・S・モースが列車の窓越しに発見して同年中に直ちに行った大森貝塚(大森貝墟)の発掘調査に始まる。大森貝塚は、東京府荏原郡大井村鹿島谷にある、鉄道建設に伴う掘削工事に伴って露出した、貝殻が混じった土手であったが、一躍、モースの業績によって貝塚研究の分野では広く知られる遺跡になった。また、日本の考古学の発祥地と見なされることになった。
 日本最古とされる貝塚は、千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚であり、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両貝塚から出土している。
 日本人によって初めて本格的な発掘調査・報告が行なわれた貝塚は、茨城県稲敷郡美浦村陸平貝塚である。1905年(明治38年)には、横浜に居留していたイギリス人医師ニール・ゴードン・マンローによって、縄文時代後期から弥生時代前期の貝塚である三ツ沢貝塚(所在地:神奈川県横浜市神奈川区沢渡ほか)が発見される。


新たな解釈
 従来の定説では貝塚は単に貝殻の捨て場所と認識されてきたが、貝の加工工場あるいは塩の生産工場のような役割を果たした場所とする解釈もある。さらに干潟とともに木の杭が出土する例もありカキなどの養殖が行われていた可能性も指摘されている。
(以下略)
貝塚 - Wikipedia

 

 上記のように、貝塚が日本で始めて学術的な意味で「発見」されたのは明治10年(1877年)のモースによる「大森貝塚」であることはよく知られていますが、近畿地方で最初に発見された貝塚和歌山市鳴神(なるかみ)にある「鳴神貝塚(なるかみ かいづか)」であることはあまり知られていないと思います。
 鳴神貝塚の発見は明治28年(1895)のことであり、上記で「日本人によって初めて発掘調査が行われた貝塚」として紹介されている陸平貝塚(おかだいらかいづか 茨城県稲敷郡美浦村明治12年(1879)よりはだいぶ後のことになりますが、考古学者による日本最初の正式かつ大規模な発掘調査であったとして知られるマンロー三ツ沢貝塚の発掘調査(1905)よりは10年も早く報告がなされていました。これにより、鳴神貝塚昭和6年(1931)に国の史跡として指定を受けています。

 ちなみに、昭和60年(1985)に発行された「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店)」の「鳴神貝塚」の項には次のような解説が掲載されています。

鳴神貝塚 <和歌山市>
 縄文時代中期から晩期に至る貝塚和歌山市鳴神字惣垣内に所在。国史昭和6年指定)。紀ノ川の南岸、岩橋(いわせ)山塊の北西端にある花山の西すそ、標高5~10mほどの南西向きの緩斜面に位置し、貝層は、東西約45m、南北約40mの広がりを持つと考えられる。周辺の開発が進み、住宅地に囲まれている。
 明治28年にはじめて報告され、近畿地方で最初に発見された貝塚と して著名。以後下村武一郎鳥居竜蔵直良信夫などにより、数次にわたり調査され、最近では、昭和41・42・45年に調査された。
 貝塚を構成する貝は、ハマグリが最も多く、ハイガイがこれに次ぎ、マガキ・アカ ニシ・サザエ・ヤマトシジミなど。貝層中からは、イノシシ・シカ・ツキノワグマなどの獣骨、サメ・エイ・クロダイ・マダイなどの魚骨も検出され、犬の骨も出土している。
 土器は、中期前半および晩期前半のものが多く、中期後半から後期のものは少ない。貝層に掘り込まれたピットからは、弥生時代前期の壺の破片が出土した。石器は、石鏃・石斧・磨石・凹石・敲石・石錘が出土し、硬玉製小玉が1点発見されている。また、へら状骨器・やす・石鏃の根ばさみなどの骨角器も出土し、県下でも数少ない例として貴重である。
 昭和27年、貝塚のほぼ中央部付近で、伸展葬の女性(推定18歳ぐらい)人骨が発見されている。この女性人骨は、上顎の犬歯2本を抜歯しており、猿の撓骨製の耳栓(耳飾)を伴っている。愛知県伊川貝塚の例などから、この女性は、巫女的な性格を有した人物ではなかったかと考えられる。埋葬人骨は、このほかに西牟婁郡白浜町瀬戸遺跡で1例知られているにすぎず、重要な資料といえよう。

 

 また、現地には和歌山市教育委員会が設置した説明板があり、次のような解説が記載されています。
 ちなみに。この説明板の記述と上記の「角川日本地名大辞典」の記述とを比較すると、貝塚のできた時期「縄文中期~晩期」から「縄文時代早期~晩期にかけて断続的に存続した」と変わったり、貝塚の範囲が「東西約45m、南北約40m」から「東西130m、南北100m」へと拡大されるなど、近年の発掘調査によって新たな知見がどんどん積み上がっていることが見てとれます。

鳴神貝塚(なるかみかいづか)
           平成25(2013)年 和歌山市教育委員会
概要
 鳴神貝塚は紀ノ川の南岸、和歌山平野の中央部にある花山西麓に位置します。明治28(1895)年に近畿地方で初めて発見された貝塚として、昭和6(1931)年に国の史跡に指定されました。貝層の範囲は東西130m、南北100m(平成24(2012)年12月現在)におよび、 県内最大級の規模を誇ります。
 その後の昭和27(1952)年以降の調査の結果、人骨の埋葬された土坑や縄文時代早期の貝層、縄文時代早期~晩期の土器を含む包含層を確認したことから、鳴神貝塚縄文時代早期~晩期にかけて断続的に存続した集落遺跡の一部と考えられます。
 鳴神貝塚からは、縄文土器以外にも石鏃(せきぞく)、削器(さっき)、石斧(せきふ)、敲石(たたきいし)、磨石(すりいし)、石皿(いしざら)などの石製品、シカなどので作られたヘラや根バサミ、エイの尾鰭(おびれ)で作られたヤス、ヒスイ製の小玉やサルの橈骨(前腕の骨)製の耳飾り等が出土しています。また、貝層からは主体となるハマグリのほか、ヤマトシジミやマガキ、ハイガイ等の貝類、タイ科やアジ科、エイ・サメ等の魚骨類、シカやイノシシ、サル等の動物骨などの食物残滓(食べカス)も出土しています。
 特筆すべきものとして、史跡指定地内で発見された手足を伸ばした状態(伸展葬)で埋葬された女性の人骨があげられます。この女性は、上顎の犬歯2本を抜歯し、サルの橈骨製の耳飾りをしていた ことから、シャーマンであった可能性が考えられます。

 

 この看板には、鳴神貝塚ができた約7000年前縄文時代は概ね紀元前14000年頃~紀元前1000年頃)の同地の地形が描かれていますが、これを以前から何回か紹介している古墳時代の地形図と比較すると、はるかに海岸線が陸地の奥まで到達していることがわかります。

 
左:古墳時代(約1550年前)  右:縄文時代中期(約7000年前)


 このように、縄文時代に海岸線が陸地の奥まで深く入り込んでいった現象は一般的に「縄文海進(じょうもん かいしん)」と呼ばれますが、この原因は、この時期に世界的に温暖化が進んだことにより北半球にあった巨大な氷床が溶けて海水面が上昇したことによるものと考えられています。これは地域によって程度に大きく差はあるものの世界的に発生した現象なのですが、この現象が発見されたきっかけとなったのが、日本において縄文時代貝塚が相次いで海岸線から遠く離れた陸地の奥で見つかったという現象に研究者たちが疑問を抱いたことでした

 こうした研究の経緯については、神戸市教育委員会が制作した「デジタル化・神戸の自然シリーズ4 六甲の森と大阪湾の誕生(前田保夫 久後利雄 著)」の「3 大阪湾の誕生 7縄文海進の研究史」に詳しいのでこちらをご参照ください。
3 大阪湾の誕生 7縄文海進の研究史

 

 また、「日本第四紀学会(「第四紀」とは地質時代の区分でヒト属が出現した258.8万年前から現在までの間を意味する)」のWebサイトでは「縄文海進」の原因とその後の様子についてわかりやすい解説が掲載されていますのでこちらもご覧いただければと思います。これによると、縄文海進の原因は地球温暖化により北半球の巨大な氷床が溶けたことによるものですが、その後海岸線が現在のように後退したのは再び海水が氷になったことによるものではなく、急激に増加した海水自体の重さにによって海底が沈降し、反対に陸地が隆起したことによるものであるとされています。

質問
 縄文海進の原因について。日本史教科書には温暖化で氷河が溶けたためとあるのですが、氷河は主因ですか。   質問者:高校教員(神奈川県)

 

答え
 この日本史教科書の記述は、ある意味では正しいと言えますが、十分な説明がないと誤解を与える表現とも言えるかもしれません。その理由は以下の通りです。

 「縄文海進」とは、約7000年前ころ縄文時代に含まれる)に、現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入した現象をさします。この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。その後海面は現在の高さまで低下し、かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を作りました。 この海進の現象は日本では東京の有楽町で最初に調べられたこともあり、地質学的には「有楽町海進」、あるいは「完新世海進」とか「氷期海進」などと呼ばれています。花粉化石や貝化石の研究に基づくと、「縄文海進」の時期の日本列島は、今よりも数℃以上気温、水温が温暖な時期であったことも推定されています。
 過去の地球の歴史を研究すると、何度も海面が大きく上昇や下降(面的には海進や海退)する時期があったことが知られています。 この現象をもたらす原因はいくつかありますが、その主要なものは、 極域の陸上に存在する巨大な氷の塊である氷床の融解や拡大によって、海水の体積が増減することに由来します。
(中略)
 最終氷期と呼ばれる今から約10000年以上前の時代には、北アメリカ大陸ヨーロッパ大陸の北部には現在の南極氷床の規模にも匹敵する厚さ数千メートルにも達する巨大な氷床が存在していました。 これらの氷床は、約19000年前に最大に達し、それ以降急激に融解し、約7000年前までには、ほぼ完全に融けきってしまったことが、氷河の後退過程で削剥・運搬されて残された地形や堆積物の研究からわかっています。 ところが、約7000年前以降に、海面を数メートルも低下させるような氷床の再拡大を示す地形の証拠は確認されていません
 この北半球の巨大な氷床の融解に伴って、約19000年前以降、氷床から遠く離れた場所では、 海面は年間で1~2センチメートルというものすごい速さをもって100メートル以上も上昇し、 ちょうど約7000年前までには海面が一番高くなりました。これが「縄文海進」の原因です。しかし、その後起こった海退の原因は、氷床が再拡大したためではなく、その後、氷床融解による海水量が増大したことによって、その海水の重みで海洋底が遅れてゆっくりと沈降した結果、海洋底のマントルが陸側に移動し、陸域が隆起することによって、見かけ上、海面が下がって見えることによります。 これが約7000年前の「縄文海進」の背景にある地球規模の出来事です。
 こういう目で改めて世界の海岸を眺めたとき、日本と同様な「縄文海進」に相当する海進は、どこでも必ず認められるものではなく、氷床から遠く離れた地域にしか認められません。かつて巨大な氷床が存在したイギリスアメリの海岸では、 「縄文海進」に相当する海進の証拠は認められていません。これは、これらの地域では重たい氷床が消失したために、 氷の荷重で押し下げられていた固体地球の表面が、海水面の上昇速度よりも速く隆起し続けてきたためです。実際にスカンジナビア半島ハドソン湾の周辺では、今でも土地が隆起していることが観測されています。つまり、氷床や海水量が増減して、地球上におけるそれらの配置が変化することによって、入れ物になる器(地球表面の形)もゆっくりと形を変えるので、全体の海水量は同じように変化しても、地球上の様々な場所ごとに海面変化(陸と海との相対的な位置関係)の歴史はそれぞれ違って見えるというわけです。
日本第四紀学会 だいよんきQ&A

 

 現在盛んに喧伝されている「地球温暖化」の問題ですが、その端緒となった「地球温暖化によって氷床が溶けて海水面が上昇する」という研究のスタートラインには、日本で発見された貝塚の存在が大きな影響を与えていたというわけなのです。そして、その貝塚の近畿で最初の発見例がこの鳴神貝塚であったのです。
 世の中のことがらは、いろんなルートで様々に絡み合っているものなのですね。