生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

高山寺貝塚(田辺市稲成町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前回は、近畿で最初に発見された縄文時代貝塚鳴神貝塚(なるかみ かいづか)」を紹介しましたが、今回はこれに勝るとも劣らないほどの重要性を持つ同時代の遺跡「高山寺貝塚(こうざんじ かいづか)」を紹介します。

 

 高山寺貝塚は、田辺市稲成町にある古刹・高山寺(こうざんじ)の境内で発見された貝塚です。

 

 寺伝によれば、同寺は推古天皇の時代に牟婁の長者上宮太子聖徳太子の御意を得て創建されたと伝えられており、また、弘法大師空海が修行の途中でこの地に立ち寄った際に自ら製作したとされる弘法大師像が祀られていることでも知られています。
高山寺 (田辺市) - Wikipedia


 また、このブログでも「復刻&解説 紀州 民話の旅」カテゴリー内の「高山寺」の項で、空海稲荷(稲成)との遭遇譚について詳述したところです。
高山寺 ~田辺市稲成町~ - 生石高原の麓から

 

 高山寺貝塚昭和13年(1938)に境内で墓地拡張工事及び道路新設工事を行っている際に発見されました。調査の結果、この貝塚海産貝の貝殻を主体とした貝塚としては近畿唯一のものであることがわかり、また、同貝塚から発見された土器はその特徴的な形状から「高山寺式土器」と名付けられて西日本における縄文式土器の製作年代を推定するうえでの重要な指標となりました。こうしたことから、高山寺貝塚縄文時代早期の「標識遺跡(考古学上の時代区分の基準とされる遺跡)と位置づけられています。

 

 こうしたことについて用語解説サービス「コトバンク」内の「高山寺貝塚」の項では、「国指定史跡ガイド講談社」の記述として次のような解説が掲載されています。

高山寺貝塚 こうざんじかいづか
 和歌山県田辺市稲成町にある縄文時代早期の貝塚遺跡田辺湾を望む標高32mの丘陵上、高山寺の境内に所在する。
 貝塚は1938年(昭和13)の秋に寺の境内西斜面で発見され、発掘調査が実施された結果、近畿では海水産の貝殻からなる唯一のもので、縄文時代早期高山寺式土器を出土する標式遺跡として有名になった。この貝塚は、斜面の3ヵ所に点在し、発見順に第1号貝塚、第2号貝塚、第3号貝塚と名付けられ、1970年(昭和45)に国の史跡に指定された。貝塚は谷の斜面に1mの厚さで残され、ハイガイ、ヒメアカガイ、カキ、ハマグリなど海産貝が中心であった。
 土器の形状は尖底(せんてい)円錐形で、文様は楕円文を主体に格子文、山形文を混じえる押型文で、口縁部の内側に溝状の斜行文をほどこし、高山寺式と呼ばれている。
高山寺貝塚とは - コトバンク

 

 また、同貝塚の発見と発掘の経緯については、Local Wikiの「高山寺」の項に詳しく紹介されています。ここでは、同貝塚から縄文時代のものだけではなく、弥生時代後期の土器や遺構も発見されたと書かれており、非常に長い期間にわたってこの地で人々の生活が続けられていたと考えられているようです。

高山寺貝塚
 高山寺貝塚遺跡は田辺湾に臨む標高30メートルの丘陵上、高山寺の寺域内にあります。会津川の右岸、現海岸線から約1.3キロの位置にあり、貝塚はこの丘陵の西南・西・東北の斜面三ケ所に点在し、第一号貝塚第二号貝塚第三号貝塚と発見順に名付けられています。
 この貝塚は昭和13(1938)年の秋、墓地の拡張と道路新設工事中に初めて発見されました。調査によって、海水産の貝殻からなる近畿唯一のもので、しかも縄文早期の高山寺式土器をだす標式遺跡として有名になりました。
 昭和14年3月、第一号貝塚から北へ約40メートルの地点、西南傾斜面で電柱が立てられたときに貝塚が掘り出されましたが、貝塚として確認されるには至りませんでした。ところが昭和41年4月、この電柱から近接した場所で下水管工事のため長さ約10メートル、探さ約3メートル、幅約80センチの溝を掘ったところ、約60センチの厚さで貝殻が堆積していることがわかり貝塚であることが確認されました。これが第二号貝塚です。
 昭和39年10月高山寺本堂改築に伴って東北の斜面に基礎工事を始めたところ貝層にあたり貝塚のあることが確認されたので、昭和40年12月に発掘調査が行なわれましたが深くて地山に達するにいたませんでした。
 昭和55(1980)年、高山寺境内の西側に駐車場が造られることになったのを契機にして、三か年計画でこの丘陵上が調査されることになりました。初年度は駐車場予定地を中心に行われ、中近世の陶器類、弥生土器等が採集されました。次いで昭和56年は第一号貝塚の斜面を登った平坦部が掘られましたが、近世の墓地跡でそれ以前のものはありませんでした。最後の調査は昭和58年2月、第三号貝塚の範囲確認調査をおこなったところ、貝塚中心に縄文土器弥生土器とが混在するだけではなく、貝層下の地山直上にある押型文土器の包含層の上まで弥生土器が僅かでしたが認められました。
 このように高山寺貝塚とその周辺部との調査により、この丘陵には三か所の貝塚の他にほぼ全域にわたって弥生後期の土器と遺構が存在することが判明しました。
 代表的な遺物がいわゆる高山寺式土器と呼ばれる押型文土器で標式土器です。
高山寺 - 田辺(Tanabe) - LocalWiki

 

 上記で繰り返し述べられている「高山寺式土器」は、縄文時代早期後半(約8000年前)に製作されたと考えられている土器で、大きな区分としては「押型文土器(おしがたもん どき 丸い棒に各種の山形や紡錘形などの文様を彫刻し、これを生乾きの土器の表面にころがしていくことで土器自体に文様を付けていく技法で製作された土器)」の範疇に入ります。押型文土器の中で、さらに「高山寺式土器」に分類されるものの特徴について、鹿児島県立埋蔵文化財センター発行の「縄文の森から 第2号(2004)」に掲載された横手浩二郎氏の「田村式土器とその周辺(覚書)」には次のような記述があります。

 高山寺式土器は、和歌山県田辺市稲成町高山寺貝塚出土の押型文土器を標式資料とする。守屋豊人の紹介では、器形は「口縁部が大きく外反し、胴部がふくらむ尖底の深鉢で器壁が厚く胎士中に繊維を多量に含むものが多く見られる」とされ、文様は主に楕円押型文山形押型文もあり、ほかに撚糸文などがあり、それらを外面に縦位に密接施文するほか「幾重にも重なった粗い手法」で施文しており、内面には斜行沈線が多く施文されるという(戸沢光則編1994)。
紀要第2号 – 鹿児島県上野原縄文の森

 

 また、静岡県富士宮市富士宮埋蔵文化財センターが発行する「埋文ふじのみや Vol.4」では同市内の縄文時代の遺跡が紹介されていますが、その中で黒田向林遺跡から出土した土器が高山寺式土器の特徴をよく表しているとして表紙にも取り上げられています。
埋文ふじのみや | 静岡県富士宮市

 

 以前の「高山寺」の項で紹介したように、高山寺には聖徳太子にまつわる開創伝承をはじめ、空海による自作の像や稲荷神との邂逅、南方熊楠の墓、植芝盛平翁の碑など様々な物語が伝承されているのですが、これに加えて考古学の世界でも極めて重要な遺跡となっています。

 こうしたことを考えると、田辺湾に面した高台に位置するこの高山寺の立地というのは、縄文時代の昔から近現代に至るまで、この地方において変わることなく重要性を保ち続けた場所であったということができるのではないでしょうか。