生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

真土の飛び越え(橋本市隅田町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前回、前々回は、奈良時代紀伊国を治め、あるいは守護するために国家事業として建立された「紀伊国」及び「紀伊国分寺」を紹介しましたが、今回はこの「紀伊国」と「大和国」との境界にあたる「真土(まつち)の飛び越え」を紹介します。


 「真土(まつち)」というのは、古代の紀伊国大和国との境界とされる山の名前で、奈良時代末期に成立したとされる日本最古の和歌集「万葉集」には「真土山(まつちやま)」を詠んだ歌が8首も含まれています。
 このことについて、公益財団法人和歌山県文化財センターが発行した「シンポジウム 南海道の原風景 -発表資料集-(令和2年2月1日)」において大岡康之橋本市郷土資料館・あさもよし歴史館)は次の8首の和歌について解説を行うとともに、「これだけの万葉歌が残されていることは、かつての南海道を行き交う古代の人々にとって、真土山越えは感慨の深い所であっ たことは想像に難くない。」と述べています。

1 あさもよし 紀人(きひと)(とも)しも 亦打山(まつちやま)
   行き来(く)と見らむ 紀人羨しも
             調首淡海 (巻1-55)
2 亦打山(まつちやま) 夕越え行きて 廬前(いほさき)
   角田(すみだ)河原に 独(ひと)りかも宿(ね)
             弁基(巻3-298)
3 大君の 行幸(みゆき)のまにま 物部もののふ
   八十伴(やそとも)の雄(お)と 出(い)で行きし
   愛(うつく)し夫(つま)は 天(あま)飛ぶや
   軽(かる)の路(みち)より 玉襷(たまたすき)
   畝火(うねび)を見つつ あさもよし
   紀路(きじ)に入り立ち 真土山
   越ゆらむ君は 黄葉(もみじば)
   散り飛ぶ見つつ 親(むつま)しみ
   われは思はず 草枕
   旅をよろしと思ひつつ
   君はあらむと あそそには
   かつは知れども しかすがに
   黙然得(もだえ)あらねば わが背子が
   行(ゆき)のまにまに 追はむとは
   千重(ちえ)におもへど 手弱女(たわやめ)
   わが身にしあれば 道守の
   問はむ答を 言い遣(や)らむ
   術(すべ)を知らにと 立ちてつまづく
             朝臣金村 (巻4-543) 
4 石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は 手弱女(たわやめ)
   惑(まどひ)に依りて 馬じもの
   縄取り附け 鹿猪(しし)じもの
   弓矢圍(かく)みて
   大君の 命(みこと)(かしこ)み 天離(あまざか)
   夷辺(ひなべ)に退(まか)る 古衣
   又打山(まつちやま)ゆ 還り来ぬかも
             石上乙麻呂 (巻6-1019)
5  白栲(しろたえ)に にほふ信土(まつち)の 山川に
    わが馬なづむ 家恋ふらしも
             作者不詳(巻7-1192)
6  あさもよし 紀へ行く君が 信土山(まつちやま)
   越ゆらむ今日そ 雨な降りそね
             作者不詳(巻9-1680) 
7 橡(つるばみ)の 衣(きぬ)解き洗い 又打山(まつちやま)
   古人(もとつひと)には なほ如(し)かずけり
             作者不詳(巻12-3009)
8  いで吾(あ)が騎(こま) 早く行きこそ 亦打山(まつちやま)
   待つらむ妹(いも)を 行きて早見む
             作者不詳 (巻 12-3154)

シンポジウム要旨集等|公益財団法人 和歌山県文化財センター


 今回紹介する「真土の飛び越え」は、この「真土山」の山裾を流れる合川を渡る地点に該当し、両岸にある大きな2つの石がそれぞれ紀伊国和歌山県大和国奈良県とに分かれているとつれています。

真土の飛び越え

 万葉の時代、奈良の都の人々はここを越えることによって、いよいよ故郷を離れるのだという哀惜の思いを抱くとともに、陽光輝く海の広がる異国への憧れを胸に、この川を渡ったことでしょう。
橋本ぶらり旅⑩ | 橋本商工会議所

 

 

 一般的には上記のように解説されている「真土の飛び越え」ですが、詳しくみていくと、この解説には色々と難しい問題が含まれていることがわかります。

 まず第一の問題が「『真土山』とはどの山なのか」という問題です。
 確かに橋本市には「隅田町真土(すだちょう まつち)」という地名があり、現在もこの地の東端を流れる「合川」が和歌山県奈良県との境界になっていることは間違いありません。

 ですから、「真土山」は当然この地にある山を指すものと考えられるのですが、これについては現存する資料では明確になっておらず、学術的には「どの山が真土山なのかは、わからない」ということになっているようです。
 このことについて、上述の大岡康之氏は「南海道の原風景 -発表資料集-」の中で次のように述べています。

4. 真土山と南海道
 8首もの万葉歌に詠み込まれている真土山。しかしながら、現在、奈良県・和歌山両県の県境付近には「真土山」の名を持つ山は存在せず、どの山が真土山であったのか明らかでない。また、真土山または真土山の近くを通っていたであろう南海道も具体的にどういうルートで通じていたのか、記録や伝承も残されておらず詳らかでない。以下にわずかに見える古代史料と、万葉の時代からは相当下るが江戸時代の史料からその位置を求めてみたいと思う。


 『古事記垂仁天皇の事績の記述に、「(しか)して、山辺之大鶙(おおたか)を遣して其ノ鳥を取ら令メたまひき。故、是ノ人其鵠(くくひ)を追ひ尋ね、木国(きのくに)自り針間国(はりまのくに)に到り」とあり、また、「唯木戸是掖月之吉き戸ト卜へ而、出で行かす時、到り坐す地毎に、品遅部(ほむちべ)を定メたまひき」と見える。前者の「木国」は「紀伊国」であって、後者の「木戸」は大和から紀伊への入口となる真土山とされ、「那良戸(大和から山城へ行くのに越える奈良山)、「大坂戸(大和から河内へ行くのに越える大坂山〔穴虫峠〕)とともに「戸」は入口を指す語として用いられている。この時期南海道真土山から紀伊路に入るから「木戸」はまさしく真土山のことであったろう。


 続いて『紀伊国名所図会』には次のように記している。
(中略)
 江戸時代において、真土山大和国に属していたと言い、古い時期にはこの山は国境となっており、東を大和国、西を紀伊国としたとある。また、古くは峠より少し南の方を南海道が通じていたと見える。現在の奈良県和歌山県の県境は江戸時代の紀和国境をそのまま引き継いでいるので、合川が境界となっているが、真土山は大和領とのことであるので合川の東に立ち上がる山のうちいずれかが真土山であったと推定される
(中略)
 ところが、同書の「真土山」と題した絵図には南から望んだ鳥瞰図が描かれているが、真土山「薬師」と記された寺と集落の背後に位置する。この寺は今も真土集落の中にある極楽寺のことで、本堂とは別棟の薬師堂に旧大聖寺薬師如来が安置されている。その右側には「真土川」が描かれ「大和紀州サカヒ」と記されていることから現在の合川のことであり、真土山は紀州側にあるかのように描かれている。さらに、真土山真土峠は別の独立した山として描かれており、比較的位置関係が正確に描写されている『紀伊国名所図会』の絵図としては、文章として記述された内容と、絵図の内容に相違が生じており、『紀伊国名所図会』が編纂された江戸時代後期においては、すでに真土山や南海道の位置はよくわからなくなっていたというのが正直なところではなかろうか。

国立国会デジタルコレクション 紀伊國名所圖會 三編(二之巻)

 

 

 次の問題が紀伊国」と「大和国」との境界についてです。
 大化2年(646)に発布された「改新の詔(かいしんのみことのり)※1」では、我が国の国家としての体制を整えるため様々な規程が盛り込まれましたが、その一環として広義の「都」の範囲を示す「畿内」と呼ばれる地域の明確化を行っています。このときは、いわゆる「国」を単位とするのではなく、東西南北の境界地点を明示することで「畿内の範囲」を定めており、その南限は「紀伊国兄山(せのやま)」であると定められました。
※1 「改新の詔」は後世に潤色されたものであるとの意見もあり、その成立には異論も多い 
発令から日本書紀の編纂まで70年以上も経て、「改新の詔」に修飾が加えられた理由を知りたい。 | レファレンス協同データベース

改新の詔
(原文)
凡畿內東自名墾橫河以來。南自紀伊兄山以來。〈兄。此云制。〉西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來。爲畿內國。

 

(読み下し)
およそ畿内(うちつくに)は ひがしは 名墾(なはり)の 橫川よりこなた、南は きのくに 兄山(せのやま)よりこなた、西は あかしの くしふちよりこなた、北は あふみの 狹々波(ささなみ)の あふさか山よりこなたを、畿内(うちつくに)とせよ。

改新の詔 - Wikisource

 このため、「改新の詔」が発布された時(646)では現在の橋本市周辺は「畿内」に含まれていたと思われるのですが、大宝元年(701)に制定された「大宝律令」では「五畿七道(ごき しちどう)」が規定され、大和山城摂津河内和泉の五国五畿をもって「畿内」とすることが定められたと考えられています大宝律令の原典は失われているため、他の資料からの推測となります)

 つまり、「改新の詔」の時点では現在の橋本市周辺は「畿内」であったものが、「大宝律令」の時点では畿内」から除外された、ということになるのです。そうであれば現在の橋本市周辺はかつては「大和国」に含まれていたのではないか、との想像もできるのですが、実は、そうでもないようです。

 こうしたことについて、門井直哉氏は「古代日本における畿内の変容過程 ―四至畿内から四国畿内へ―(「歴史地理学 第54巻第5号(第262号)」 歴史地理学会 2012)」において、「伊都評(「評」は律令制における「郡」と同じ意味 現在の橋本市周辺を指す)」はヤマト政権にとって「親密な空間」であったことから当初は「畿内」とみなされていたが、律令制の確立の過程で「国」を単位とする行政区画が重視されるようになってきたため、都の属する「大和国「伊都評(郡)」の属する「木国(紀伊国)」との境界をもって「畿内」の線引きとしたものであろう、との説を述べています。

 畿内の制度がわが国に初めて設けられたのは大化 2(646)年のことである。ただし,当時の畿内は「畿内東自二名墾横河一以来。南自二紀伊兄山一以来。西自二赤石櫛淵一以来。北自二近江狭々波合坂山一以来。為二畿内国一。」とあるように,四至によって境界が画されていた。大化の畿内律令期の畿内(以下,本稿では前者を四至畿内,後者を四国畿内と呼ぶ。)の境界は必ずしも合致しておらず,このことから文献史学や歴史地理学の分野では,四至畿内の性格や四国畿内との関係についてさまざまな議論が展開されてきた。
(中略)
Ⅱ 四至畿内の境界
(2)紀伊兄山
 紀伊兄山和歌山県伊都郡かつらぎ町の背山(背ノ山)が遺称地とされる。ところが,同地は大和・紀伊国境から20 km 近く隔たっている。このことから,山尾幸久紀伊兄山=背山とする通説を疑問視し,大和・紀伊国境に位置する真土山を紀伊兄山にあてる説を唱えている。
(中略)
 したがって,万葉集』にみえる背山とは現・背山のこととみて間違いなく,紀伊兄山の比定地にいては通説を是とすべきであろう。
(中略)
Ⅳ 境界の乖離の発生プロセス
(1)四至畿内と国・評の関係
 第Ⅱ章で確認したように,四至畿内の東・南・北の境界は四国畿内の国境と乖離する。このうち北の境界が山城・近江国境と乖離する理由については既に第Ⅲ章で述べた。本章では残る東と南の境界と令制国境との乖離がいかにして生じたのか考えてみたい。
(中略)
(3)紀伊兄山と大和・紀伊国
 背山から真土山までの距離は約20 km ある。この二つの山はそれぞれ四至畿内四国畿内の境界をなしたが,紀伊国伊都郡の東西を画する境界でもあった。
(中略)
 筆者は,畿内および評・国の領域が編成された当時の地域認識に着目すると,次のような畿内の境界移動プロセスを想定しうるのではないかと考える。
 つまり,大化前代において紀の川中流ヤマト政権の支配者層にとっての「親密な空間」であり,さらに四至畿内の創設にあたっては先述の原則に従って背山がその境界として選ばれた。
 一方,真土山以西の紀の川両岸には和泉山脈紀伊山地が迫り,とくに南岸の紀伊山地紀伊半島の奥深くまで山林が続いている。このような地勢から,紀の川流域一帯は古くから「木国」と呼ばれていた。大化2年8月の国造のクニの境界画定にあたっては,こうした地域認識にもとづいて紀の川河口から真土山までが紀伊国造のクニとして定められ,大化 5 年に名草評となった。そして伊都評はその後いずれかの時点で名草評,ないしそこから派生した那賀評から分立し,紀の川沿いの平地を区切る真土山と背山を東西の境界とした
 そして,評の上位区画としての紀伊国は大化2年に画定された紀伊国造のクニ野国造のクニをあわせた範囲をその領域とした。そのため,紀伊国造のクニにルーツをもつ伊都評は紀伊国編入されることとなったのである。
 要するに,ヤマト政権の支配者層にとっての「親密な空間」という地域認識山林が広がる「木国」という地域認識は相互に排他的なものではなく,その縁辺部においてオーバーラップする部分があった。そして,四至畿内の境界選定にあたっては前者の認識が反映され,評やその上位区画としての国の領域編成にあたっては後者の認識が反映されたのである。さらに天武朝以降には,畿内の行政区画化が進み,国を基礎とする四国畿内の成立をみるに至った。その結果,畿内の境界は背山から真土山へと移動することになったのであろう。
歴史地理学 第54巻第5号(第262号)[2012年12月号] | 歴史地理学会

 学術的には様々な見解があるのでしょうが、とりあえず「当初は紀伊兄山が畿内を離れる境界の地と認識されていたが、律令制度が定着するにつれて(落合川ではなく)真土山が境界の地とみなされるようになった」と考えておけばよいようです。このため、万葉集おいても兄山(背山)真土山の両方が歌枕として定着していったのでしょう。もしかすると歌が作られた時期によって、歌枕が兄山(背山)から真土山へと移動していったのかもしれませんが、これについては現時点では確認できておりません。

 


 さて、最後の問題が「飛び越え」についてです。
 観光ガイド的な説明によれば、あたかも万葉時代の人々がこの「飛び越え」を現在と同様に文字どおり「飛び越えて」大和国から紀伊国へ、あるいはその逆方向へと移動していたように思われますが、どうやらこの「飛び越え」という場所が人々の間で認知されるようになってきたのは比較的最近の話であるようなのです。

 現在、「真土の飛び越え」の近くには次のような内容の説明板が設置されています。

まつち」は、大和と紀伊国のさかいの地である。
まつち山の西には国境となる合川の流れがある。
その流れが狭まり、「飛び越え石」とも呼ばれる大岩の窪みを流れている。
万葉の時代の旅人は、この岩を跨ぎつつ、都の家族や旅先への思いを馳せた。
犬養孝先生は、著書「紀ノ川の万葉」の中でこの地を次のように述べられている。

飛び越え石
こんにちは、草ぼうぼうになった古い小道をくだると土地の古老らが「神代の渡り場」と称している合川(真土川)の渡り場に出る。ふだんは水の少ない涸川だから、大きな石の上をまたいで渡るようになっている。ここがおそらく古代の渡り場であったろう。

   白栲に にほふ真土の 山川に
     わが馬なづむ 家恋ひらしも   
            作家不詳 (巻7-1192)

この川のところで馬が難渋するのも、家人らがこちらを思っているからだろうと郷愁を訴えるのだ。
物すごい交通量の国道のかげに、ひっそりと古代の谷間が眠っているようである。

Google マップ

 

 この説明板に登場する犬養孝(いぬかい たかし 1907 - 1998)氏は、「万葉集研究に生涯を捧げた」とも称される日本文学者です。「犬養節」といわれる独特の節回しで万葉集に収載された和歌を朗誦するとともに平易な語り口でその歌の意味や背景を解説することで人気を博し、各地での講演や現地解説会のみならず、テレビやラジオにも多数出演して国民的人気を得ました。
犬養孝 - Wikipedia

 そんな犬養氏は一時期たいへん和歌山県内の歌枕(和歌に詠まれた場所)を重視されていて、現在も県内各地に犬養氏を記念した歌碑などが数多く残されています。後に犬養氏不老橋和歌山市和歌浦の改修事業に大反対されたことをきっかけとして晩年には和歌山県とは疎遠になってしまいましたが、和歌山県の歴史的魅力を全国に発信するうえで非常に大きな貢献をされた方であったと思います。
「和歌山市」不老橋・あしべ橋・三段橋 和歌の浦三橋の関係 | りょかいらいふ(旅懐らいふ)

 

 さて、そんな犬養孝氏ですが、上記解説板によれば、同氏がその著書「紀ノ川の万葉」において「ここがおそらく古代の渡り場であったろう」と記したことが、「真土の飛び越え(あるいは「飛び越え石」)」の伝承を根拠づけるものとなっているようです。
 ところが、学術的にはこの「真土の飛び越え」が特に意味を持つものであるとは考えられていないようで、上述の大岡康之氏も「南海道の原風景 -発表資料集-」の中で次のようなやや曖昧な表現で注意喚起を行っています。

「飛び越え」について
 現在、奈良県和歌山県を画する合川の国道24号の橋の下流約200mの河床に、川の流れをひとっ飛びで飛び越えることができる岩場がある。この岩の上を一跨ぎして県境の川を越えることができることから、和歌山県側では「飛び越え岩」と呼び、奈良県側では「神代の渡し」と呼んでいる。不思議な景観ではあるが、『紀伊風土記』や『紀伊国名所図会』には載せられていないので、書物が編纂された江戸時代後期には認識されていなかったとみられる。しかし、平成の初め頃、ある万葉学者が「これこそ万葉の国宝」と絶賛され、地域ではここが万葉の道という意識が高まった。ただし、前記史料にも見えるとおり、現在ここは県境ではあるものの、万葉の当時はこの東の丘陵尾根が紀和国境であったことから飛び越え岩は当時の紀和国境ではないことに留意したい

 

 どうやら、あまり難しいことは考えずに、「古代の歴史ロマン」と考えて楽しむのが一番よさそうです。