生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

和歌の浦(和歌山市和歌浦南ほか)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前回は、「紀伊国と「大和国」との国境にあたる「真土(まつち)の飛び越え※1」について紹介しましたが、今回はここから南海道を西に向かい、紀伊国の北西端近くに位置する「和歌の浦」について紹介します。
※1 正確には当時の国境ではない。詳細については前項参照。


現在の「和歌の浦」とその周辺

 「和歌の浦」は、現在の和歌山市南部にある景勝地で、和歌川(かつては紀の川の本流であった)の河口付近に大きく広がる干潟と、南に伸びる砂嘴(さし 岬や半島の先端から海に向かって細長く突き出た嘴(くちばし)状の地形)が作り出す独特の景観や、奠供山(てんぐやま)の山上からの展望、対岸に見える名草山(なぐさやま)の姿など、その風光明媚なたたずまいは万葉の昔から多くの文人・武人らを魅了してきました。和歌山大学名誉教授を務められた故小池洋一氏は、「日本大百科全書(ニッポニカ) 小学館」の「和歌浦」の項で次のように解説しています。

和歌浦(わかのうら)
 和歌山市南部の海浜。近年「わかうら」ともよばれる。聖武天皇行幸の際に山部赤人(やまべの あかひと)が詠んだ「若の浦に潮満ちくれば潟をなみ……※2(『万葉集』巻6)で知られた古くからの景勝地。丘陵をなす雑賀(さいか)山の南麓、紀ノ川旧河道の和歌川河口に臨む砂浜で、赤人の歌にちなんで片男波(かたおなみ)とよばれる砂嘴が南に長く延び内湾を抱いている。古書に若の浦弱浜(わかのうら)明光浦(めいこううら)などとも書かれるが、形成されたばかりの若い浜辺の意味である。
※2 筆者注:後述の「和歌の浦学術調査報告書」で紹介された山部赤人の「和歌浦讃歌」のうち返歌の第2首(万葉集 巻6・919番)
 湾を隔てて名草山とその中腹の紀三井寺を遠望する風景は古くから都に知られ、和歌浦の一角にあり、かつては島で現在は陸続きになっている玉津(たまつ)に鎮座する玉津島神社聖武天皇をはじめ貴族の来遊が多く、歌会の歌が『万葉集』『新古今集』などに収録されて歌枕うたまくら)の地となった。国指定名勝。
 玉津島東方には観海閣のある小島があり、玉津島とは三断橋で結ばれ、玉津島から片男波へは石造アーチ型の不老橋が架かる。周辺には和歌祭で知られる東照宮天満神社がある。湾内は和歌ノリの養殖地で、和歌浦漁港ではかまぼこ製造が行われている。大正初年ころから和歌浦の西方、雑賀山が海に臨む地域が新和歌浦として観光開発され、現在、旅館も新和歌浦に移り、和歌浦は旧和歌浦ともよばれ、名所の名残をとどめるばかりになった。新和歌浦のさらに西方の雑賀崎周辺を奥和歌浦とよんでいる。新和歌浦・雑賀崎瀬戸内海国立公園に含まれ、雑賀崎は指定特別地域として保護される。
[小池洋一]

 

 以前、紀の川河口部における古墳時代の遺跡を順次紹介した際に、この地を支配していた紀氏大和朝廷に対して大きな影響力を有していたことを詳述しましたが、「和歌の浦」はこうした紀氏勢力の重要な拠点の一つでした。これについて、和歌山県教育委員会が発行した「和歌の浦学術調査報告書(平成22年12月17日)」では次のとおり解説されています。

第4章 名勝・史跡和歌の浦
第1節 古代
 紀ノ川河口部に位置する和歌の浦景勝地として著名であるが、奈良時代以前、紀伊国では政治的、経済的にどのような位置を占めるのか。栄原永遠男氏によると、古墳時代後期の紀ノ川河口部の和歌の浦は、「大嘗祭の由加物を採集する聖なる場所」であり、沿岸地域が、「物資や船の集積」など、「中央への物資貢献の基地」として紀伊国の経済上の最重要拠点であった。この地は、「紀ノ川下流平野の開発と支配を通じて、巨大な経済力を持ち、紀ノ川水上交通の掌握を通じて巨大な水軍力をもって瀬戸内海の海上交通を支配した紀氏集団により支配されていた。大和朝廷は、この地を支配下に治めるために、経湍屯倉、河辺屯倉、海部屯倉を設置し、河川・海上交通の要を押えて巨大な力を誇る在地の紀氏集団を分裂に追い込み※3支配下に治めた。和歌の浦は、景勝地であると共に「紀伊国の宗教上・経済上・交通上、したがって政治上の最重要地点」(栄原1993)として存在した。
※3 筆者注:本ブログでも度々言及している「紀朝臣」と「紀直」の2系統への分化を指すものか。

文化財各種報告書 | 和歌山県教育委員会

 

 こうした「和歌の浦」が、奈良時代において格別の意味を持つ景勝地と位置づけられるようになった背景には、この地の景観に感激した聖武天皇が出した一通の(みことのり 天皇の命令)がありました。この詔は、従来「弱浜(わかはま)」と呼ばれていたこの地の名前を「明光浦(あかのうら)」に改めるとともに、守戸(しゅこ 近隣の百姓などで清掃・管理などの業務を命じられた者)を置いて荒廃しないよう管理し春と秋には役人を派遣して祭礼を行うように、ということが定められていました。
 また、このとき聖武天皇に同行していた歌人山部赤人和歌の浦(明光浦)の景観を詠み込んだ「玉津島讃歌」を残しており、これ以後、和歌の浦は著名な「歌枕(歌の題材として頻繁に取り上げられる場所)」として多くの人々の憧憬を誘うようになるのです。
 こうしたことについて、上述の「和歌の浦学術調査報告書」では次のように紹介されています。

1 聖武天皇山部赤人
 神亀元年(724)10月8日、聖武天皇は、紀伊国行幸する。玉津島に到着し、その後14日間滞在する。12日には「岡の東」に「離宮」を造営し、そして16日に天皇は次のようなを出す。

 

山に登り海を望むに、この間最も好し。遠行を労せずして、以て遊覧するに足れり。故に「弱浜(わかはま)」の名を改めて「明光浦(あかのうら)」とし、宜しく守戸を置きて荒穢(こうわい)せしむことなかれ。春秋二時に官人を差遣し、玉津島の神・明光浦の霊を奠祀せしめよ。(『続日本記』)※4

 

 同行した宮廷歌人山部赤人は、長歌一首反歌二首からなる玉津島賛歌を詠む。

 

神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸す時に山部宿彌赤人の作る歌一首併せて短歌
  やすみしし わご大君の 常宮と
  仕へ奉れる 雑賀野ゆ
  そがひに見ゆる 沖つ島
  清き渚に 風吹けば
  白波騒ぎ 潮干れば
  玉藻刈りつつ 神代より
  然そ貴き 玉津島山 
       万葉集 巻6・917)
反歌二首
  沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち
    い隠り行かば 思ほえむかも
       万葉集 巻6・918)
  若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ
    芦辺をさして 鶴鳴き渡る
       万葉集 巻6・919番)

 

 この玉津島賛歌は、「若浦」の初見史料であり、歌枕和歌の浦本歌の地位を占める。
 長歌では、天皇家の平安と永遠を、行幸和歌の浦・玉津島の尊さを讃え、反歌では、叙景を中心に据えて、第一首は潮干の、第二首では満ち潮の和歌の浦を歌う。
 海上に点々と伸びる玉津島山の連なり、この玉なす島々の連なりは、ある種の霊的存在であり、そこに神が宿ると、古代の人々は神の存在をみていた。聖武天皇赤人もこの玉津島山の景観を前にして、「玉津島の神・明光浦の霊」をみて、「神代より 然そ貴き 玉津島山」と詠み、玉津島の神代以来の貴さに満たされた(村瀬1993)

 

※4 筆者注:原文は次のとおり
又詔曰 登山望海,此間最好。不勞遠行,足以遊覽。故改弱濱名,為明光浦。宜置守戶,勿令荒穢。春秋二時,差遣官人,奠祭玉津嶋之神、明光浦之靈。
新編 續日本紀 卷第九 元正天皇 日本根子高瑞淨足姬天皇 聖武天皇 天璽國押開豐櫻彥天皇

 

 聖武天皇が感激したという「玉津島山」が具体的にどの山を指すのかは現在では判然としませんが、近年の通説としては、玉津島は一つの島の名称ではなく、紀ノ川(現和歌川)河口部西方の島々、現在の船頭山妙見山雲蓋山奠供(てんぐ)鏡山妹背山のことで、聖武天皇行幸時、現在の雑賀山方面から南東に向くと、これらの島々(山々)が複数の玉が緒でつながれたひと塊に見えたとして「玉の緒をなす玉津嶋山の景観」と評価されたものであろうとされているようです。
わかやま新報 » Blog Archive » 古代玉津島の場所に新説 藤本名誉教授が著書で


 ちなみに、江戸時代後期に「紀伊風土記」を編纂した仁井田好古(にいだ よしふる/こうこ)は、聖武天皇が詔を発した場所奠供山(てんぐやま)の山頂であったと考察しており、麓にある玉津島神社にその旨を記した碑が建立されています。
奠供山碑 (仁井田好古撰文碑) | 和歌山市の文化財

奠供山から和歌浦干潟を望む

 「和歌の浦学術調査報告書」には、この当時の地形に関する興味深い資料も掲載されています。それが、下記の「図8 聖武天皇行幸経路」です。現在の地形や交通状況を見慣れた私たちからすると、わざわざ紀の川の北岸を随分西に進んでから大きく南に回り込むようなルートで和歌浦へと向かっていることにかなりの違和感を感じるはずです。

  

 これについては、もうひとつの図である「図10 奈良・平安時代の地形と主な遺跡」をご覧いただくとよく理解できると思います。以前、古墳時代の遺跡を紹介した際にも当時の地形図を紹介しましたが、奈良時代においてもまだ紀ノ川平井付近で大きく南に蛇行しており、和歌浦へのアプローチとしては、紀の川南岸から行くよりも、紀の川北岸から南下した方が便利だったのです。

 

 古墳時代と比べて若干変化しているのは、紀の川河口部では海岸部における砂州の堆積がだいぶ進んでおり、現在の西庄から和歌の浦に至る範囲がかなり陸地化していたという点にあります。これについて、同書では次のように解説しており、当時は地形上の繋がりから和歌の浦は「可太(加太)郷」の一部であると認識されていたことを示しています。

5 奈良~平安時代(8世紀~12世紀)
 この頃までに陸化はかなり進み、海岸部の砂州がさらに発達している。紀ノ川本流土入梶取付近で大きく湾曲し、城北広瀬を経て南流し、名草山西麓に注いでいた。このルートは律令時代において名草・海部両郡の境界となっていたとみなされる。海部郡は現在の加太から吹上和歌浦、さらには海南市下津町まで海岸線に沿って点々と分布する特殊な郡域をもっていたことが指摘される。海部郡内の可太郷は、そのうちの加太から黒江付近までを占め(一部、途中に木本郷が存在)和歌浦 」も郷内に含まれる

 

 また、「紀伊国府跡」の項でも述べたように、奈良時代になると南海道の整備が進められるようになり、(当時は平城京から伸びる官道賀太(加太)まで一本で繋がりました南海道は賀太から海路を経て四国へ伸びる)
 つまり、当時の交通事情を考えると、和歌の浦という場所は、から南海道を用いてひたすら西へ西へと向かって賀太の直前にまで至り、そこから陸地になって間もない砂州を南に向かって進んだ先にある、いわば「陸地の最果て」であったわけです。
 普段は奈良の都にいて、周囲では大きな川すらも目にすることのない生活をしていた貴族たちが、長い旅を経てようやくたどり着いた南海道の「最果ての地」に立つと、目の前には見たこともない「」が広がり、陽光輝く干潟に徐々に潮が満ちてくる、という風景を目にしたとすれば、それは確かに生涯忘れられない体験になるのではないでしょうか。
 現在でも奈良県に住む人々は海水浴などを求めて和歌山市内の海水浴場へ良く遊びに来ると言われますが、鉄道も自動車も存在しなかった奈良時代の貴族にとって、はじめて「海」を見た感動というのはなにものにも代えがたいものであったに違いありません。
 
 その後も和歌の浦は我が国有数の景勝地であり続けました。
 これを受けて平成29年(2017)には「絶景の宝庫 和歌の浦」として日本遺産に認定され、公式Webサイトが開設されていますので、興味のある方はこちらもぜひ御覧ください。

wakanoura-nihonisan.jp

 


若干の補足

 本来の「和歌の浦」は、冒頭の Google Map のうち、現在「片男波公園」となっている南に大きく突き出した砂嘴やその東側に広がる干潟、そして玉津島神社奠供山などを含むエリアのことを言いますが、明治時代の後半から、その西側にある章魚頭姿山(たこずしやま 高津子山(たかつしやま)とも)の南麓で観光開発が進められたため、この地域を「新和歌浦」と呼ぶようになりました。これについて、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県(角川書店 1985)」では次のように解説しています。

新和歌浦 しんわかうら 和歌山市
 和歌山市の南西部、雑賀(さいか)のほぼ中央にそびえる章魚頭姿(たこずし)の南麓に位置する浦。和歌浦海食崖の海岸美を誇る観光地。
 「和歌山史要」によると新和歌浦一帯は断崖絶壁で昔から1mほどの里道一筋しかな く、田野まで民家もなかったが、この景勝に着目した 伊都郡かつらぎ町森田庄兵衛氏が明治43年私財を投じて車道約1km(トンネル2つを含む)を開削し、この地を「新和歌の浦」と呼んだ。また、3年後の大正2年和歌浦口から路面電車が開通(昭和46年廃止)すると、にわかに観光旅館などが立ち並び、紀北屈指の新名所として発展したとある。
 新和歌浦遊園入口の近代的な観光橋、磯馴松や千鳥・蓬莱岩などの風景や立ち並ぶ旅館街などが観光地の雰囲気を感じさせる。波打ち際に遊歩道があり、磯の散策も楽しめる。
 昭和35年背後の章魚頭姿山ロープウエーが通じる。また、山頂には回転展望台が設けられ、眺望に優れる。交通は国鉄和歌山駅和歌山市駅から和歌山バス新和歌浦行が運行する。


 上記引用文中にある章魚頭姿山へのロープウエー新和歌浦ロープウェイ)は、平成9年(1997)に廃止されました。あわせて、同山の山頂にあった回転展望台も撤去されて現在は簡易な展望台があるのみとなっています。

 

 また、新和歌浦からさらに西側に位置する雑賀崎(さいかざき)エリアも、別称を「奥和歌浦」といいますが、近年は和歌の浦」「新和歌浦」「奥和歌浦」の区別が曖昧になってきており、これら全体を指して「和歌浦和歌の浦」と呼ぶこともあるので注意が必要です。

 

 ちなみに、奥和歌浦地区で旅館「観潮(現在は「シーサイド観潮」)」を創業した坂口邦三(元和歌山県観光連盟副会長)の述懐によると、新和歌浦奥和歌浦地区が発展した大きなきっかけが、昭和37年(1962)の天皇皇后両陛下の和歌山県への行幸であったとされます。両陛下が雑賀崎を見学されることになり、急遽、安全に自動車が通行できるよう道路整備が行われた結果、京阪神からバスで直接乗り入れる観光客が爆発的に増えたということです。和歌の浦聖武天皇により全国にその名を知られるようになったのと同様に、奥和歌浦新和歌浦昭和天皇により発展の礎が築かれたというのは非常に興味深いことではありませんか。
老舗新和歌浦と奥新和歌浦が握手「[ 巻き返し図った旅館組合」

 

 昭和末期頃までは「関西の奥座敷」とも言われ、有名観光地として賑わった「和歌浦(ここでは広義の「和歌浦」)」地区ですが、バブル崩壊前後から徐々に客足が衰え始め、2000年頃には「廃墟マニアの聖地」と呼ばれるほどに廃業したホテルや旅館が立ち並ぶ地域となってしまいました。
かつて関西最大の廃墟だった和歌山県の宇宙回転温泉、北村荘グランドホテルを創業当時パンフレットを見る 和歌山市和歌の浦 | 昭和40年代生まれの昭和レトロ探索とバブル時代の回顧 昭和の銭湯


 しかしながら、近年は景観整備も進み、新たなホテルの開業などもあって再び観光地としての元気を取り戻して来ているように見えます。前述した「絶景の宝庫 和歌の浦」の日本遺産認定はその絶好の後押しになっていると思われますので、地域の今後ますますの発展を祈ります。

www.wakaura-kanko.com