「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
前回は白鳳時代に建立されたと考えられている「上野廃寺跡」を紹介しましたが、今回はこれとほぼ同時代に活躍した伝説的なスーパーマン(呪術者)として知られる役小角(えんの おづぬ/えんの おづの 「役行者(えんの ぎょうじゃ)」とも)ゆかりの「墓の谷行者堂(はかのたに ぎょうじゃどう)」を紹介します。
「墓の谷行者堂」は、正式には「墓の谷山行者寺」といい、「修験道の開祖」とされる役小角の母・白専女(しらとうめ)が没した場所と伝えられています。このことについて、現地にある説明板には次のように記されています。
墓ノ谷山行者寺縁起
当山は日蓮宗身延派に属し、大福山本恵寺(通称 直川観音)※1より、又はJR阪和線六十谷駅より約6キロメー トル(五十丁・一里半)の地にある。
大宝2年(西暦702年) 今から1,300年前に修験道の祖と云われる役行者小角(えんのぎょうじゃ おづぬ)が開祖で、役行者小角と母公 白専女(しらとうめ)を祀っている。
役行者は幼少の頃、葛城山中を行学中大病になり、母公の看病に依り全快した。
母がのち大峰山に行くも女人禁制のため登ることが出来ず、この地で息子の大成を念じながら没した。
役行者が妓楽・妓女の二鬼を使わしその霊を祀った事から墓ノ谷(母の谷とも云う)と称し、毎月7日は母公の命日に当り遠近を問わず多くの善男善女が、我が子の大成を願うために詣でている。
平成十年九月吉日
直川地区連合自治会
直川史保存会
寄贈 和歌山市府中 中屋哲治氏
※1 筆者注:直川観音については別項「白髪餅」を参照されたい
白髪餅 ~和歌山市直川~ - 生石高原の麓から
役小角は、7世紀から8世紀にかけて活躍したとされる人物で、山伏の姿で知られる「修験道(しゅげんどう)」の開祖と言われています。役小角ゆかりの寺院を中心として結成された「役行者霊蹟札所会」のWebサイトでは、役小角について次のように紹介しています。
役行者とは
「役行者(えんのぎょうじゃ)」とは、7~8世紀に奈良を中心に活動していたと思われる、修験道の開祖とされている人物です。
「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われ、またほかに「役優婆塞(えんのうばそく)」、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」、「山上様(さんじょうさま)」などの呼び名があります。
役行者が、7~8世紀に実在したことは確かなようですが、生没年など詳しいことは不明です。もっとも、伝説の多くは、舒明天皇六年(634)1月1日に大和国茅原にて生まれ、大宝元年(701)、68歳の時に「没した」のでなく、「昇天した」としています。いずれにせよ、この世の人でなくなった、ということでしょう。(中略)
さて、役行者にまつわる伝説は、大変多く残されており、それらが記された書物なども数多く伝わっています。それら伝説のなかで、役行者は、不思議な力を駆使して空を、野山を駆けめぐり、鬼神を自在にあやつった人とされています。
(中略)
しかし、そのように伝説に彩られた役行者ですが、それが実在の人物であったことを確認できる正史と言われる史料は、非常に限られています。いや、たった一つで、しかもわずか数行でしかありません。平安初期に編纂された、『続日本紀(しょくにほんぎ)』にある記述がそれです。
『続日本紀』にみる役行者
「文武天皇三年五月丁丑」
役君小角(えんのきみ しょうかく) 伊豆島ニ流サル。初メ小角葛城山(かつらぎさん)ニ住シ呪術ヲ以テ称サル。
外ノ従五位下韓国連廣足(からくにのむらじ ひろたり)焉ヲ師ト為ス、後其ノ能ヲ害(そね)ミ、讒(ざん)スルニ妖惑ヲ以テス。故ニ遠島ニ配セラル。
世ニ相イ伝エ言ク。小角能ク鬼神ヲ役使シ、水ヲ汲ミ薪ヲ採セ、若シ命ヲ用ヒザレバ即チ呪ヲ以テ之ヲ縛ス。(原漢文)
〈訳文〉
文武天皇3年(699)5月24日、役君小角が伊豆島に流された。小角は葛城山に住み、呪術をよくすると、世間の評判であった。従五位下の韓国連廣足という者が、当初この小角を師と仰いでいたが、その能力をねたんで、(役小角が)人々に妖言を吐き惑わしていると朝廷に誹謗中傷した。そのため、(小角は)遠島の刑に処せられたのである。
世間の噂では、小角は巧みに鬼神を使役して、水を汲んだり薪を採らせ、もし(鬼神が)命令に背くようならば、たちまち呪術によって身動きがとれないようにしてしまう、などと言われている。
ここからわかることは、「鬼神を使役できると世間で噂されている、葛城山に住む行者の役君小角が、従五位下というかなり高い官位にあった弟子の告発で島流しにあった」ということだけです。
(中略)
『日本霊異記』にみる役行者
次に挙げるのは、史料ではなく、あくまで説話集です。(中略)
〈訳文〉
「孔雀明王の呪法を修め、不思議な力を得て、現世で仙人となって天に飛んだ話 第二十八」
役優婆塞(筆者注:役小角を指す)は、賀茂役公、今の高賀茂朝臣の出身である。大和国葛木の上郡茅原村の人であった。生まれつき博学でぬきんでており、仏法僧の三宝を深く信じていた。
いつも(彼が)心に願っていたのは、五色の雲に乗って、果てしない空を飛び、仙人の宮殿にいる客人と一緒になって、永遠の楽園や、華の満ちた苑起居してその「気」を得、身心生命を養う事を心掛けていた。
(若い頃からそのようにねがっていたので、)四十歳を過ぎるころには、洞窟で生活するようになり、葛で作った着物を羽織り、松の実を食べ、清らかな湧き水で沐浴するなどして、俗世間の垢を落とし、孔雀明王の呪法を修行して、不思議な力を得たのである。鬼神を使役することは自由自在であった。(以下略:後述)
原文の全てとその訳文を掲載するのは長くなりすぎるため、省略いたしました。
以上に述べられているのは、役行者は、三宝に帰依する優婆塞(うばそく 男性の在家信者)であり、その上に道教的、密教的な苦修練行によって不思議な修験の術を得たというのです。
ここでは道教と仏教とが混在しており、なんとも奇妙ですが、これが『日本霊異記』当時の日本民族宗教に対する一般的な見方とも考えられます。これは、いまだ弘法大師空海によって、悟りをその第一目的とする「純密(じゅんみつ)」が、唐からもたらされる以前に行われていた、悟りを第一目的にするのでなく、超自然的能力の獲得をこそ主目的とする「雑密(ぞうみつ)」を、役行者が行っていたとする伝承と見ることが出来るでしょう。また、修験がまだ正統な密教の影響を多分にうけて「修験道」として成立していない時代の反映とも見ることも出来るでしょう。
さて、以下に、先ほどは長きに過ぎて省略した箇所の、概要だけを示しておきます。<概要>
この後、孔雀明王の呪法を習得した役行者は、鬼神達に、「金峯山(きんぷせん)と葛城山(かつらぎさん)の間に橋を架けろ」と、(途方もない無理難題を)言いつけます。鬼神達はそんなことは到底出来ない、と悩み、困り果てます。そこで、葛城山の一言主(ひとことぬし)という神は、(役行者の無理難題から逃れるため、人にとりついて)「役行者が、文武(もんむ)天皇を抹殺しようとしている」という託宣をさせます。
当然、文武天皇は、役行者を捕縛しようとしますが、役行者は不思議な力があるため容易に捕まりません。そこで、天皇が役行者の母を捕らえると、役行者は母のために自ら捕縛され、伊豆に流されます。
役行者は、昼は刑罰どおり伊豆でおとなしくしているも、夜になると富士山に飛んで行き、そこで修行する日々を送っていました。しかし、何者かが再び天皇へ讒言(ざんげん)したため、役行者は今度こそ極刑に処されかけます。ところが、不思議な出来事があって助かるのでした。
伊豆での生活も3年を過ぎた大宝元年(701)正月、役行者は恩赦(おんしゃ)によって許され、大和に帰ります。そして、役行者はついに仙人となって、どこか天高く飛んでいってしまうのでした。
この後、日本の道照(どうしょう)という高僧が、天皇の命によって唐に渡り、そこで五百人の中国僧を前に『法華経』を講義していると、日本語で問い掛けてくるものがあります。道照が「誰だ」とその名を問うと、「役優婆塞」という返答があります。道照は、日本の聖人に違いないとおもってその声の主を探しますが、ついに見つけることは出来ませんでした。
さて、役行者を讒言(ざんげん)によって流罪にさせた一言主は、いまだに役行者によって呪縛されたまま(『日本霊異記』編纂当時)だといいます。
以上が、『日本霊異記』に掲載される役行者の説話です。この説話の最後は、「役行者があらわした奇瑞はあまりに多く、それらを逐一挙げることは面倒である。ほんとうに仏法の不思議な力は広大で、信仰した者は必ずそれを知ることになるだろう」と結んでいます。
(中略)
このような『日本霊異記』に見られる、伝説的存在としての役行者像の原型は、幾多の書物の中に踏襲され、鎌倉・室町・江戸と時代が下るごとに、さらに超人的能力を持った者として描かれていきます。
そしてまた、『日本霊異記』ではある観点からすると、むしろ「不思議な力で鬼神をも使う呪術者」とも捉えうる人であったのが、後代になるに従い前鬼後鬼を改心させた、あるいは雨乞いの民衆を助けた等の民話が出てきて「人格的にも優れた立派な人であった」と描かれるようになっていき、全国各地で民衆の信仰をより集める存在となっていきます。
上記引用文にあるとおり、役小角に関する唯一の公式記録とされる「続日本紀」の記述によれば小角は当初葛城山に住んでいたとされます。このとき、小角が修行を積んでいたと考えられているのが、現在に繋がる「葛城修験(かつらぎ しゅげん)」の聖地「葛城二十八宿(かつらぎ にじゅうはっしゅく)」です。
葛城二十八宿 - Wikipedia
ここには、役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる「経塚(きょうづか)」があり、第一番経塚の「友ヶ島虎島(和歌山市加太)」から和泉山脈、金剛山地を経て第二十八番経塚の「亀ヶ瀬(亀の尾宿(柏原市亀の瀬)、明神山(奈良県王子町明神山)とも)」に至るルートが現在も修験道の行場(修行を行う場所)として受け継がれています。
この葛城28宿を中心とした修験道の聖地は、令和2年(2020)6月に「修験の聖地-修験道はここから始まった」として日本遺産※2に認定されました。その詳細はWebサイトでご覧いただけますが、「墓の谷行者堂」もその「構成文化財」の一つとして登録されています。
※2 筆者注:「日本遺産」とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーとして文化庁が認めたものをいう
「墓の谷行者堂」は、上記で紹介した現地説明板のとおり、役小角の母である白専女が没した場所と伝えられています。白専女については、奈良県吉野郡天川村にある「母公堂(ははこどう)」にも類似の伝承があり、ここでは「白専女が危険な山に入らないようにと「女人入山禁止の結界門」を設け、その手前に庵を建てて白専女を住まわせた」と伝えられているようです。
大峯山洞川温泉観光協会 » 母公堂
「母公堂」は子授け・安産に霊験あらたかとされているのに対し、「墓の谷」では、母・白専女が病気になった役小角を看病により回復させ、母の祈りによって小角が大成した、という故事にちなんで、我が子の大成を願う母親たちから深く信仰されています。特に白専女の月命日とされる毎月7日には多数の参詣者が訪れるとのことで、和歌山市を中心に配布されているコミュニティ紙「ニュース和歌山」には次のような記事が掲載されていました。
子の大成を願った役行者の母にあやかり
「六十谷の北側の山中にある墓の谷。毎月7日にお参りする人が多いのはなぜ?」。墓の谷行者堂を管理する直川観音の西山一亨住職は「子の大成を願った役行者の母親のお墓があると言い伝えられ、月命日とされる7日にお参りする人が多いです」と教えてくれました。
役行者は日本遺産、葛城修験道の開祖です。和歌山市立博物館で、その歴史にまつわる複数の資料を見せてもらいました。
まず、直川観音が所有する最も古い文書『大福山旧記』(1322年)に、「石廟あり役行者亡母の墓所と云々」との記述。江戸時代編さんの『紀伊続風土記』には、墓の谷の説明に「修験者の行所なり。役小角の母の墓なりといふ」とあります。役小角とは役行者のこと。昭和初期発行の『直川村郷土誌』で、「霊験あらたかにして、毎月の新旧7日には遠近より参拝する者多く」とにぎわう様子が書かれています。
西山住職によると、役行者の母にあやかり、いつの時代も子の将来を願う親が参るそう。戦時中は出兵する子の帰還を、戦後は受験祈願、近年は就職や結婚、病気回復など。子を思う親の心は変わりませんね。
墓の谷、なぜ毎月7日に参る? | ニュース和歌山
また、現地説明板では役小角が「妓楽」、「妓女」という二匹の鬼をこの地に遣わせてその霊を祀ったとされていますが、この詳細は不明です。「妓女」というのは、一般的には中国の遊女・芸妓のことを指し、「妓楽」というのはその妓女が演奏する音楽そのものを指すとされており、鬼の名前としてはやや不似合いな感じがします。想像を逞しくするならば、後述する前鬼・後鬼夫婦が残した子は「真義」「義継」「義上」「義達」「義元」とそれぞれ「義」の字を通り名として用いていることから、後の子孫が「義ガク」「義ジョ」と名乗ったものが誤って伝えられた、という仮説がたてられるかもしれません。
ちなみに、通説によれば役小角が使役した鬼は「前鬼(ぜんき)」「後鬼(ごき)」という夫婦であったとされています。
前鬼・後鬼 - Wikipedia
奈良県下北山村には現在も「前鬼」という集落があり、ここには前鬼と後鬼との間に生まれた5人の子供が人間になって暮らし始めたとの伝承があって、その子孫とされる方々が代々修験者のための宿坊を開いていました。現在は、小仲坊(おなかぼう)という屋号を持つ五鬼助(ごきじょ)家のみが宿坊を続けているとのことです。
技とこころ 五鬼助 義之さん
役小角については、あまりにも多くのフィクションで取り上げられていて、その殆どが超人的な能力を持つ呪術者という設定になっていますので実像が非常にわかりにくいのですが、実在した人物であることは間違いないようです。その能力がどのようなものであったにせよ、彼の足跡が1300年以上の時を経た現在においてもなお様々な形で受け継がれているということは、それだけ役小角が卓越した影響力を有していたことの証左であり、それはたしかに人知を超えた存在であると言っても間違いではないのかもしれません。