生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

日本霊異記の著者・景戒(和歌山市粟)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回、前々回と飛鳥時代の呪術者・役小角(えんの おづぬ/おづの)に関連した霊場を紹介しましたが、前々回の「墓の谷行者堂」の項で詳述したように、「小角は不思議な能力を有し、自由自在に鬼神を使役していた」という伝承は「日本霊異記(にほん りょういき/れいいき)」という説話集に描かれた物語が原型となっているようです。
 今回は、その「日本霊異記」に関して、その作者が紀伊国名草郡楠見粟村(現在の和歌山市粟)と密接な関係を有していたのではないか、という論文を紹介したいと思います。

 「日本霊異記」は正式名称を「日本国現報善悪霊異記(にほんこく げんほう ぜんあく りょういき)」といい、現存するものの中では日本最古の説話集(「説話」は広義には「古くから伝承されてきた話・物語」を指し、狭義には「民話・伝説」を指す)とされます。平安時代初期(9世紀頃)に成立したものと考えられており、著者は奈良・薬師寺の僧、景戒(きょうかい/けいかい 生没年不詳)とされています。

 

 景戒は上述のとおり薬師寺の僧であったとされますが、その出自や経歴などはほとんど知られていません。今回紹介するのはそんな景戒の出自について詳細に考察した論文で、国文学者・民俗学者である丸山顕徳(まるやま あきのり)氏が昭和49年(1974)に記した「景戒の出自とその背景(「論究日本文学 38号」立命館大学日本文学会 1974)」という著作です。
立命館学術成果リポジトリ


 この論文において、丸山氏景戒が「紀伊国名草郡楠見粟村(現在の和歌山市粟)付近の出身か、あるいは同地に相当長く居住していた人物」であろうと考察しています。また、その論考の過程において同地(粟村)周辺における民間信仰のありようについても概括しており、これらの環境が日本霊異記の成立に大きな影響を与えたものと論じてします。論文としてはかなり古いものではあるものの、この地域の宗教的背景を考えるうえで非常に興味深い内容となっていますので、下記にその一部を引用しつつ紹介していきたいと思います。

 


 丸山氏は、まず景戒の出自について先行研究を踏まえて「景戒が名草郡出身ではなくとも長期に渡って住んでいた事を示すものとして誤りないのではないかと思うのである。」と結論づけています。

 景戒名草郡の出身であることについては諸説がある。橋川正氏は「紀伊国に関係ある説話は十八条の多数に上り、平城京及び大和国に次いで居る」事と、「下巻の自叙の中に延暦六年九月四日の子の時に見た夢相を見るに『爰景戒聞之廻頭而睠乞人者、有紀伊国名草郡内楠見粟村之沙弥鏡日也』とある。いくら夢の出来事とはいへ、かくまでも地名が細しく出る以上はその土地は景戒と最も親しい処でなければならぬ。」と二点を上げ、「彼是綜合して考えると紀伊国は景成の故郷であるか或ひは少くとも嘗て比較的永く住んだ土地で密接な関係を有するに相異ない。」と述べている。更に志田諄一氏は、主として上巻第五縁の大部屋栖野古の話の検討や、名草郡に大伴氏が集住していたことから「景戒は紀伊国名草郡の人で、その出自は名草郡の郡司層大伴氏ではないか」と推測している。また原田行造氏は「説話の骨格ともいうべき年時、場所、人名の整備度を一定の数値に置き換え、整備値を求めてみた結果、奈良京周辺は57%強で、『霊異記』全説話の平均整備値60%弱よりも低率を示している。更に大和50%強、畿内諸国47%強と帝都より遠ざかるにつれて整備値が低下していくが、紀伊国のそれは76%強と格段の高率を誇っている。また関係説話を郡別に検討してみると、名草郡を舞台に展開する説話の整備値は83%であるのに対し、それ以外の郡関係のそれは72%を示し、約10%のひらきがでた。」とし、紀伊国名草郡在住説を有力にしている。
 これに対して、高瀬承巌氏橋川氏を批判して「若し記事が多いとのことを以て論じたら大和生れなりと云わなければならず、一歩退いて大和はその半生の住処であった関係と当時の文化が大和中心であったから多いとしたら、河内に属するもの又頗る多いから河内生まれとも云得るのであって、数字で推定することは全然誤りであるとは云へぬが、相当危険を伴ふものといはなければならぬ。」と述べている。又同様な見地から八木毅紀伊国名草郡出自説を批判している。しかし、原田氏の出した整備値からの見解、および夢の中に鏡日が現われ『諸教要集』を与えた※1というこの二つの事柄は、景戒が名草郡出身ではなくとも長期に渡って住んでいた事を示すものとして誤りないのではないかと思うのである。
※1 筆者注:『日本霊異記』下巻第38縁「災と善との表相先づ現れて後に其の災と善との答を被る縁」において、景戒の夢に「紀伊国名草郡楠見粟村の沙弥(しゃみ 修行未熟の僧または寺院に属さず信仰生活を送る者を指す)鏡日」という人物があらわれて「諸教要集」という経典を書写せよと命じられ、同経典と紙を与えられた、という物語が記されていることを指す。
ドイツ語サイト「Projekte zu Religion in Japan」へのリンク(pdfファイルへ直接リンクしています)

https://religion-in-japan.univie.ac.at/ryo/images/4/49/Snkbt_III-38.pdf

 

 これを踏まえ、丸山氏名草郡楠見粟村を中心とする紀の川河口付近の民間信仰について次のように考察しており、この粟村の周辺は山民に支えられて葛城修験に結び付く山岳信仰と、海人に支えられて淡島少彦名神を祀る海の信仰が重なる地域だったのではないかと述べています。
 その上で、景戒はこの地においてこれらの民間信仰を踏まえて唱導(しょうどう 説話などを語り聞かせて仏教の教義を庶民に広めていくこと)を体験した人物であり、その経験が日本霊異記に色濃く反映されていると結論づけています。

(略)
 そこで鏡日を名草郡における象徴的人物と考えて、鏡日を軸に名草郡を中心とする紀の川河口付近の民間信仰の実体を考えていこうと思う。
 紀の川河口周辺の民間信仰については、第一に葛城山系を中心にする山岳信仰第二に加太淡島を中心にする海の信仰があげられる。しかし、この両者の研究は不十分で、その全貌が明らかでないが、本稿ではある程度の推論を混えながら論を進ゆていきたい。
 まず山岳信仰については、山師・金堀・山法師等の山の鉱山師が祭る丹生津姫信仰と、山の狩猟民の信仰と思われる古代熊野信仰等があるが、ここでは特に葛城山系に発生した、葛城修験道の原初的な形が見られるのではないかと思う。
(中略)
 そこで我々が注目の鏡日の住んでいた楠見もこの葛城の山岳信仰とはかなり強い関係のある地ではないかと思われる。
 現在、楠見を流れて紀の川に注ぐ鳴滝川の上流に葛城修験の第三の宿である鳴滝不勤尊があって、役小角龍大愛染明王稲荷大明神を祭祀する民間信仰の聖地である。この滝不動の地が修験の聖地となる条件には、神の霊のこもれる神無備信仰(筆者注:山や森林などを「神が鎮座する聖地」とみなす信仰を指す)があったとみなければなるまい。原始修験の発生が神無備信仰によると考えられているからである。だとすれば、神無備山に源を発する鳴滝川神無備川ということになる。この図式は、葛城山に対する葛城川吉野山に対する吉野川と同じ関係である。この神無備川の下流楠見という地があり、そこに観音信仰を奉ずる一宗教者鏡日が住んでいたのは、葛城川下流の茅原に役小角が住んでいて、そこに宗教集団を形成したこと、吉野川の流域の夏実(菜摘)、国栖あたりの山民が吉野修験の最初の姿であったと思われることと同じである。更に、捕見から約三K東方にある葛城修験第五の宿で、六十谷川を流れ紀の川に注ぐ直川の中流にある直川観音は、神無備山である墓の谷(あるいは母の谷)へ修行する修験者が入峯に際して観音霊を護持するところであり、この神無備山である墓の谷と直川観音の関係は、鳴滝と楠見における観音の変化(筆者注:へんげ 観音菩薩が他者の姿に変身したもの)鏡日と同じ関係にあると考えられないか。鏡日観音の変化と考えられているが、現実的には観音を奉ずる山岳宗教者であり、楠見と言う土地柄から、鏡日も山民の中から成立したとする原始的修験者ではなかったかと推測するのである。
 ところで、この楠見という土地柄については、地名の由来、あるいは民俗的に見て注目すべき所であるように思われる。
 まずその地名自体、山民の定着した後に付けられたものと考えられる。奈良から和歌山にかけては、国栖(くず)(くす)等の地名が多い。国栖なる地名は神武東征にみられる吉野の国栖が古い例であるが、我々の楠見(くすみ)もこの系列とみられる。
(中略)
 次に海の信仰について考えていきたい。紀の川河口周辺で海の信仰に係わるのは延喜式神名帳にみえる加太淡島神社である。この神社の祭神は少彦名神大己貴神息長足姫命の三柱である。この淡島神社は社伝によると、元は加太の沖にある友ヶ島に祭祀されていたもので、後に現在の地に移された。この友ヶ島は地の島・沖の島・神島からなり、弥生時代の遺跡があるとともに、葛城修験の序品窟修験道における最初の行場(修行場))としての聖地でもあるところである。この神社の主神が常世国から農耕神として来臨する神話を持つ少彦名神であることから、海中にある友ヶ島は異界への入口として信仰されていたものであろう。海中に突出した岬にある離れ小島が聖なる地とされる例は他にも多く見られる。この少彦名神は『書紀』一書には、熊野の御碕から常世郷に渡ったとも、淡島に行って粟茎にのぼったところが弾かれて常世郷に至ったとも伝えている。これは少彦名神常世の神であったことを示しており、 (中略) 今に鳥取県米子市に上粟島、下粟島の地名を伝えており、少彦名神粟神として祭祀されている所に、粟なる地名がついていることがわかる。

 実は私が先に述べた鏡日の住処のある楠見山岳信仰と係わりあることを述べたが、大字楠見、小字粟村の粟なる地が、どうもこの淡島系統の信仰を持つ地と想像させるからである。現在の栗村付近は紀の川の堤防が完備しているが、昔は低湿地帯であったと想像される。海の信仰として常世の神を迎え、粟神として少彦名神を祭る信仰が行われていたと考えられる。ところで、この(粟)なる地名は、四国の阿波紀淡海峡路島友ヶ島の別名、加太の、楠見のというように一連の地域に(粟)の名が付いていることは、その地理的性質から考えて、海人族の移動を示しているとも考えられる。薗田香融は、紀の川下流域地方、特に海部(筆者注:あま)郡を中心とする地域の海人の存在を指摘し、臼田甚五郎氏は「あはとは海部の民の根抑地につけられた名であると思ふ。あまあはとは意味と発音の上で相通じたのである。 (中略) 紀伊国加太のも有力な海部の根拠地であった。」と述べている。そして、この地に海人の宗教者が発生していたと考えられないか。
(中略)
 下巻三十八縁に見える景戒の論理展開はすぐれて学問的である。にもかかわらず「霊異記」の説話はあまりに現実的で、かつ奇異である。それは中巻第一話の検討でも述べたが、霊異な語り口を示す呪術的な宗教者の力による所が大であったからである。景戒呪術的な民間の宗教者としての唱導体験が無ければ、霊異記は成立しなかったと思われる。紀の川河口周辺の民間宗教者の影響は景戒の基礎体験であり、「霊異記」の根底をなすものであったと思われる。

 

 上記の論文は現在から50年ほども前に出版されたものですが、現時点でのWikipediaでは景戒の出自について次のように記述されており、丸山氏の考察から大きく変わってはいない模様です。

景戒
(略)
 出自についても詳細は不明であるもの、『日本霊異記』の諸記述の検討の結果、紀伊国名草郡の大伴連の先祖の話や大伴氏の歴史的な活躍を詳細に伝えることから、同地の大伴氏の出身とする説が有力である。薬師寺の僧となってからも景戒はふだん名草郡粟村の近くに住んでおり、貴志村にあった貴志寺の行者であっただろうと考えられるのである。
景戒 - Wikipedia

 そう考えると、日本霊異記に描かれた紀伊国に関する説話は景戒自身が見聞きしたものである可能性が高いのではないかと思われ、そうであれば、そこには意外と真実に近い話が含まれているのかもしれません。


 ちなみに、丸山氏は同論文の中で日本霊異記に含まれる紀伊国関連の説話について整理していますが、このうち日本霊異記に登場する紀伊国の寺院一覧についてはこのブログで過去に取り上げた話に関連あるものがいくつか含まれていますので、最後にこれを紹介しておきます。
[霊異記所収・紀伊国寺院一覧]

郡名 寺院名 備考 説話番号
名草郡 藥王寺 壇越に渡来人あり 中32
能忘寺(弥勒寺) 三間名観規の祖の建立 下30
貴志寺 村人の建立 下28
大谷堂 村人の建立 下34
那賀郡 弥気の山室堂(慈氏禅定堂) 村人の建立 下17
伊刀郡 狭屋寺   中11
安諦郡 私部寺   上34
日高郡 別寺   下33

 このうち、名草郡の薬王寺については、薬王寺の牛」という項で、まさに日本霊異記に登場する「寺の息利の酒を借用て償はずして死にて牛と作り役はれ債を償ふ縁」という物語を紹介しています。

oishikogennofumotokara.hatenablog.com


 また、同郡の能忘寺についても、「上野廃寺跡」の項で、上記の表内に登場する三間名観規(みまなの かんき)という人物が上野廃寺の建立に関わったのではないかとの説を紹介したところです。

oishikogennofumotokara.hatenablog.com


 さらに、那賀郡の「弥気の山室堂(みけ の やまむろどう)」については、「小川八幡神社大般若経」の項で紹介した経典のうち最古級のものが製作(書写)されたと伝えられる「三毛寺(みけでら)」に該当するものと考えられており、この経典の存在が日本霊異記の記述を補強するものとして高く評価されていることを示しました。

oishikogennofumotokara.hatenablog.com

 

 「日本霊異記」といえば日本の文学史の中でも非常に重要な位置を占める書物であると言えますが、その著者が意外と近いところに足跡を残していたというのは非常に興味深いことです。