生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

日前神宮・國懸神宮(和歌山市秋月)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、紀伊国一宮(きいのくに いちのみや)として知られ、日本で最も歴史ある神社のひとつ(二社)であるとされる日前神宮(ひのくまじんぐう)國懸神宮(くにかかすじんぐう)を紹介します。

 「日前神宮」と「國懸神宮」とはひとつの境内に並んで建つ神社で、地元では両者を総称して「日前宮(にちぜんぐう)」と呼ぶことが一般的となっています。

 同社の由緒によれば、日前神宮御神体は「日像鏡(ひがたのかがみ)」、國懸神宮御神体は「日矛鏡(ひぼこのかがみ)」で、これら二体の鏡は「岩戸隠れ(いわとがくれ 天照大神(あまてらすおおみかみ)が弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴を怒って天の岩戸(あまのいわと)に隠れたため天地が真っ暗になったという神話)」の際に、八咫鏡(やたのかがみ 天照大神を岩戸から誘い出すために鋳造された鏡、三種の神器のひとつ)に先立って鋳造されたものであると伝えられています。

御由緒
 創建二千六百餘年を溯る日前神宮國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。
 日前神宮日像鏡(ひがたのかがみ)御神体として日前大神を奉祀し國懸神宮日矛鏡(ひぼこのかがみ)御神体として國懸大神を奉祀しております。
 神代、天照大御神天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。
 時を同じくして鋳造された天照大御神の二体の御鏡が、日前國懸両神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。
 天孫降臨(筆者注:てんそん こうりん  天照大御神の命を受けて,天照大御神の孫である邇邇藝命 ( ににぎのみこと )が神の国高天原)から人間の世界(葦原中国)に降りてきたこと)の際、三種の神器とともに両神宮の御神体(筆者注:日像鏡日矛鏡も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)紀伊國造(きいのくにの みやつこ)に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。
 その後、崇神天皇五十一年、名草郡濱ノ宮遷宮され、垂仁天皇十六年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、永きに渉り鎮座の地として今に至っております。
 爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制(筆者注:平安時代中期に編纂された法令集 「延喜式」のこと)には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。
 また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ばれています。

和歌山市内の由緒ある神社、日前神宮・國懸神宮【公式サイト】

 

 上記の由緒によれば、両神宮の御神体である日像鏡日矛鏡の二鏡が日前國懸両神宮の御神体として奉祀されたことが日本書紀に記されているとなっていますが、原文を参照すると、日本書紀に記述があるのは「日矛※1」のみであり、日像鏡の初出は「古語拾遺(こごしゅうい 平安時代に成立した神道資料)」であるようです。
※1 「日矛」が鏡であるかどうかについては諸説あるため、後段において別途詳述する。

日本書紀(神代 上 天の岩屋 一書に曰く)

 

原文
故、會八十萬神高市而問之、
時有高皇産靈之息思兼神云者、
有思慮之智、
乃思而白曰
宜圖造彼神之象、而奉招禱也。
故卽、以石凝姥爲冶工、
天香山之金、
以作日矛
又、全剥眞名鹿之皮、
以作天羽韛
用此奉造之神、
是卽紀伊所坐日前神也。
日本書紀 巻第一 神代上

 

現代語訳
そこで、八十万(やおよろず)の神々天の高市(あまのたけち)という場所に会して話し合った
その時、高皇産霊(たかみ むすびの みこと)の子である
思兼神(おもいかねの かみ)という
思慮にすぐれた者がいて
こう言った
天照大神の象(かたち)を映すものを造って、招き出しましょう
そこで、石凝姥(いしこりどめ)を治工(たくみ)として、
天香山(あまの かぐやま)の金(かね)を採って、
日矛(ひぼこ)を作らせた
また、鹿の皮を丸剝ぎにして、
天羽韛(あめのはぶき 「ふいご」のこと)を作った
これを用いて造らせた神は
紀伊国にいます日前神(ひのくまの かみ)である
参考:日本書紀・日本語訳「巻第一:神代・上」 | 古代日本まとめ

古語拾遺

 

原文
于時,天照大神赫怒,
入于天石窟
磐戶而幽居焉。

爾乃六合常闇,
晝夜不分。
群神愁迷,手足罔措。
凡厥庶事,燎燭而弁。
高皇產靈神
八十萬神天八湍河原,
議奉謝之方。
爰,思兼神,深思遠慮,議曰
「宜令太玉神
 率諸部神造和幣
 仍,令石凝姥神
 【天糠戶命之子,作鏡遠祖也。】
 取天香山銅,
 以鑄日像之鏡
(中略)
於是,從思兼神議,
石凝姥神,鑄日像之鏡
初度所鑄,少不合意
【是紀伊日前神也。】
次度所鑄,其狀美麗
【是伊勢大神也。】
儲備既畢,具如所謀。
古語拾遺 一卷 加序

 

現代語訳
ここに、天照大神は激怒され
天石窟(あまの いわと)に入られ
磐戸を閉め閇め幽居された。
六合(天地と四方、「世界中」の意)が常に闇に包まれ
昼と夜の区別がなくなった。
神々は憂い迷い、手足の置き所を知らず、
凡そすべてのことは燭(ともしび)のもとで行わなければならなくなった。
高皇産霊神(たかみ むすびの みこと)
八十萬(やおよろず)の神天八湍川(あめのやすかわ)の河原に集めて、
どのようにすべきかを話し合った。
ここに、思兼神(おもいかねの かみ)が、深く考え遠く慮り、こう言った
太玉神(ふとたまの かみ)に命じて、
 諸々の部神を率いて和幣(にぎて 神を祀るしるし)を作らせ、
 石凝姥神(いしこりどめの かみ)に命じて
 [天糠戸命(あめの ぬかどの みこと)の子で鏡作の遠祖である。]
 天香山(あまの かぐやま)の銅を取り
 日像之鏡(ひがたの かがみ)を鋳造させましょう。
(中略)
ここに、思兼神の進言に従い、
石凝姥神日像の鏡を鋳造させた。
初めに鋳造した鏡はいささか意に沿うものでなかった
[これは紀伊の国日前神(ひのくまの かみ)である。]
次に鋳造した鏡はその状態が美麗であった。
[これは伊勢の大神である。]
計画どおりに設け備え終えた。
参考:角館總鎭守 神明社|古事記現代語訳(上巻)

 

 上記引用でわかるとおり、「古語拾遺」によれば、日前神宮御神体である日像鏡は、三種の神器のひとつである八咫鏡の前に鋳造されたものでしたが、その状態は「いささか不合意」であったとされています。これについては、「もともと日前神として鋳造されたが、その出来はいささか不合意であった」ものなのか、あるいは「本来は伊勢大神として鋳造されたが、その出来がいささか不合意であったために紀伊国で祀ることとし、伊勢大神の鏡をあらためて鋳造しなおした」と解釈すべきなのかは、明確な解釈が示されてないようです。
 一応、現在の一般的な解説では「石凝姥神が試作品として最初に鋳造したのが『日像鏡』であり、そのノウハウを利用したからこそ『八咫鏡』の鋳造が成功した」とすることが多いように思われますので、ここではこの解釈を採用することにしましょう。

 

 また、上記の注釈※1で述べたとおり、日本書紀では思兼神石凝姥に命じて作らせたのは「日矛」であったとされ、明確に「」とは記されていませんが、その前段で「宜圖造彼神之象(彼(そ)の神の象(みかた)を図(あらわ)し造りて)」とあることからこれが「」を指すものであろうと考えられている訳です。
 一般的に「(ほこ)」とは槍のように長い柄の先に剣がついた武器を指す言葉ですから、これが「」を意味するとはなかなか考えにくいのですが、これについて国際日本文化研究センター名誉教授であった久野昭氏(故人)は「日矛の鏡(「国際日本文化研究センター紀要 第7集」国際日本文化研究センター 1992)」において、天之日矛(あめの ひぼこ)という名の新羅の王子朝鮮半島から鏡や玉を携えて我が国に渡来したとの伝承を踏まえた論考を行っています。
 ここで久野氏は、天岩戸神話に登場する「日矛」が「」を意味することについて、巨大な鏡を榊の枝から吊るす際に長い棒状のものを補助的に使用したことから「」の語を用いたのではないかとの見解を示しています。

 伊斯許理度賣命(筆者注:いしこりどめのみこと)は、『日本書紀』の同じく天の石屋の箇所に、第一の一書では石凝姥(いしこりどめ)として、第三の一書では石凝戸邊(いしこりとべ)として登場する人物に相当する。高市(あまの たけいち)に集った神々の相談の場で、思兼神天照大神、「(そ)の神の象(みかた)を圖(あらは)し造りて、招禱(を)き奉らむ」という意見を述べた。そこで、「即ち石凝姥を以て冶工(たくみ)として、天香山(あまの かぐやま)の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ(第一の一書)。そして、「鏡作りの遠祖(とほつおや)天抜戸(あまの ぬかと)が兒(こ)石凝戸邊が作(す)れる八咫鏡(やたの かがみ)(第三の一書)が、天香山から根こそぎにして持ってきて天石窟戸(あまのいはやと)の前に立てたの、本文では中枝、ここでは上枝に懸けられた。この天抜戸は、第二の一書では「鏡作部(かがみつくり)の遠祖天糠戸者(あまの あらとの かみ)」とよばれている。

 

 日矛
 『古事記』では「天の金山の鐵」だったのが、『日本書紀』の場合、いま引いた第一の一書では「天香山の金」である。その「(かね)」で、石凝姥が「日矛」を作った。
 「日矛」とあるが、実体は八咫鏡である。「八咫」の「咫」は周尺で八寸、約十八センチメートル。八咫ならその八倍である。訓みは共に「やた」だが、『古事記』の表記は「八尺」。いずれにせよ、文字通りに取れば、円形として直径一メートルを超える巨大な青銅鏡だろう。榊の枝に吊り下げるにしては、かなり重いのではないか。だから、もし「矛」にこだわるとすれば、ここで、その鏡の重量に耐える長い棒状のものが補助的に用いられたと解釈することも、可能なのではないか。それに、『日本書紀』では、この天石窟戸の前で踊る天鈿女命(あめの うずめの みこと)も、茅を巻き付けた長い柄の矛を手にしている。無論、ここでは武器として用いるはずがない。祭祀儀礼である。
 しかも、日本語としての「矛」が必ずしも武器とは限らないのは、柳田國男が指摘したとおりである。「桙といふ言葉では、人は皆さきの尖った、武器になるやうな物ばかりを想像することになって居るが、それは中世この方の意味の限定であって、もとは只長い棒のことであった。ボウとホコとが本來一つの語であったことは、旗を立てる長い木竹の棒をハタホコといひ、屋根の萱を押へる横木を、今でも何ボコと呼んで居たのを見てもわかる。單に差別の爲に刃物をさきに取付けたものだけをホコ、其他を段々にボウといふやうになったのである」(『北小浦民俗誌』・『定本柳田國男集』第二十五巻三 七五頁)。
(以下略)

国際日本文化研究センター学術リポジトリ

 

 上記のように、この日前神宮國懸神宮についてはその御神体や創建の経緯、またなぜ二社を一か所にまとめて祀るようになったのか等、謎に包まれた部分が非常に多いと言えます。こうしたことについて「角川日本語大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」には次のように記されています。

 日前宮の神体に関するこうした解釈の混乱は、大和朝廷の皇祖神とみなされる天照大神とその神鏡、および伊勢皇大神宮に対する神話的意味付けの混乱でもあった。いずれにせよ、古代における日前宮は、皇祖神に準ずる神と見なされてい た。
 一方国懸宮は、「日本書紀」朱鳥元年7月5日条に「奉幣於居紀伊国国懸神」と見えるのが最初で、その後「新抄格勅符抄」の神事諸家封戸には「国懸須神 六十戸 紀伊国」として、「日前神 五十六戸 紀伊国」と並記され、大同元年に「日前神 五戸 <紀伊>  国懸神 五戸<同国>」の新封施入が見られる。
 このように日前国懸は別々の神社とされ、以後両宮は日前・国懸と並記されるか、日前宮の名で両宮を指すようになる。両宮がもともとは同社か別社かということについては明確な史料がない。ただ「日本書紀持統天皇6年5月26日条に見える、朝廷が奉幣した4社のうちの「紀伊大神」は、両宮がまだ一社であったころの伝承を記しているのかも知れない。

 

 冒頭の由緒にも記載されているとおり、日前神宮國懸神宮の神官は、代々紀伊国造(きいの くにの みやつこ ※2の家系によって受け継がれてきました。「国造」は古代日本において大和朝廷から任命されて国(概ね現在の「郡」程度の規模とされる)の管理を行う役職を指しますが、大化の改新以後は多くが「郡司」などの役職へと移行していきます。
※2 紀伊国造については別項「岩橋千塚古墳群」でも詳述しています。
    岩橋千塚古墳群(和歌山市岩橋 県立紀伊風土記の丘)

 しかしながら、「紀伊国造」と「出雲国造」という二国の国造職に関しては平安時代になってもその名称が用いられていたようで、平安初期に記された「貞観儀式」という宮廷儀式の説明書には「出雲国造」「紀伊国造」の記述があり、この両者に関しては例外的に平安時代まで宮廷において任命の儀式が行われていたと考えられています。
貞観儀式 (第6―10巻) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム

 

 ちなみに、Wikipediaによれば、現在の紀伊国造の当主は紀俊明氏で、初代の天道根命(あめの みちねの みこと)から数えて81代目にあたるということです。この家系についてはしばしば「天皇家より古い」と称されることもありますが、そのはじまりは神代の昔に遡るものであり、明確な証拠をもって語れるものではないということは自明でしょう。
紀伊国造 - Wikipedia

 とはいえ、紀伊国造の家系を今に受け継ぐ紀氏は我が国有数の歴史と格式を有する名家であることは間違いなく、全国的に見てもこれに匹敵する家系は先述の出雲国造の家系を受け継ぐ旧・出雲氏(55代目から千家氏北島氏の2流に分裂)などごく僅かな数しかないことは間違いないようです。
出雲国造 - Wikipedia

 

 毎年の新春には大勢の初詣参詣者で賑わう日前神宮國懸神宮ですが、時には人影少ない普段の神宮を訪れてその歴史をゆっくりと味わいのもよいでしょう。
 なお、由緒書にもあるように、日前神宮國懸神宮が最初に鎮座したのは現在の和歌山市毛見であり、そこから二度の遷宮を経て現在の地に祀られるようになったと伝えられているのですが、これについては次項で「元伊勢の大神・濱宮」として紹介します。