生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

元伊勢の大神・濱宮(和歌山市毛見)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回は日本有数の歴史を持つ神社として知られる日前神宮(ひのくまじんぐう)國懸神宮(くにかかすじんぐう)を紹介しましたが、由緒によれば同社はもともと毛見(けみ)の地にあったものが垂仁天皇16年(神武紀元に従えば紀元前14年)に現在地へ移転したと伝えられています。
 そこで、今回は日前神宮國懸神宮の旧社地であり、「元伊勢の大神伊勢神宮が成立する前に天照大神の神霊が祀られていた神社)」とも称される「浜宮神社(はまのみやじんじゃ 正式名称は「濱宮(はまのみや)」)」を紹介します。

 濱宮は、和歌山市海南市との境界にほど近い小高い山並の麓にある神社です。

 

 以前、「くも池 名草戸畔終焉の地」の項で神武東征伝を紹介した際に下記の地図を示して、紀伊国造の記録では神武軍が毛見に上陸したと伝えられていることに触れましたが、濱宮の創建はこの伝承と密接な関係があります。
くも池 名草戸畔終焉の地(海南市且来) - 生石高原の麓から

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

 

 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「濱宮」の項には同社の歴史について概ね次のような内容が記されています。


 紀伊国造に伝わる「国造家旧記」という書物によれば、神武東征の際、国造家の祖である天道根命(あめの みちねの みこと)が「神鏡」と「日矛」という2つの神宝を携えて加太に上陸し、木本を経て琴の浦毛見の南側にある海岸)の岩の上に神宝を祀ったとされます。この神宝が現在の日前宮日前神宮・国懸神宮)御神体である「日像鏡」「日矛鏡(前項参照)であり、ここに日前宮の歴史が始まったのです。


 また、「倭姫世記(現在は一般的に「倭姫命世記(やまとひめの みこと せいき)」と呼ばれる)」という書物には、現在の伊勢神宮が創建されるより前に、伊勢神宮の祭神である天照大神がこの地に三年間鎮座していたと書かれています。
 「倭姫命世記」というのは鎌倉時代中期に編纂されたと考えられている書物で、垂仁天皇の皇女・倭姫命天照大神(あまてらすおおみかみ)の霊八咫鏡とされる)を奉じて各地を巡幸し、最終的に伊勢に鎮座するまでの物語を記したものです。このうち濱宮が登場するのは崇神天皇51年の項で、「木乃国紀伊国奈久佐浜宮(名草濱宮)に遷り、三年間奉斎。この時の紀国造は 舎人 紀麻呂 良き地口御田を進った。(後段の意味は不詳とされる)」とあります。

 

 「続風土記」で紹介されている出来事を年代順に整理すると、まず神武東征の際に「日像鏡」「日矛鏡」が琴の浦の岩上に祀られます。
 そして、崇神天皇51年(同 紀元前47年)になって倭姫命(続風土記にある豊鋤入姫命(とよすき いりひめの みこと)は倭姫命の母で、倭姫命豊鋤入姫命の跡を継いで天照大神の神霊の鎮座地を求めて全国を巡幸したとされる)濱宮天照大神の神霊を鎮座させた際に、日前・国懸の両大神(具体的には日像鏡日矛鏡を指す  日前大神は天懸大神と同一神とされる)」も同地に遷座しました。
豊鋤入姫命については別項「三船神社」において詳述している。
   三船神社 ~桃山町(現紀の川市)神田~ 

 三年後の崇神天皇54年(同 紀元前44年)天照大神の神霊吉備國名方濱宮岡山市北区の伊勢神社、あるいは南区の内宮との説があるが定かでない)に移されましたが、このとき日前・国懸の両大神濱宮に残りました。

 その後、天照大神の神霊は各地への巡幸を経て、垂仁天皇26年(同 紀元前4年)伊勢国五十鈴川に到り、ここに現在の伊勢神宮皇大神宮 内宮)が創建されることとなります。

 少し時間は前後しますが、濱宮への鎮座から30年あまり後の垂仁天皇16年(同 紀元前14年)になって、日前・国懸の両大神は現在の和歌山市秋月の地へと遷座しました。これが、現在の日前神宮国懸神宮の始まりとなったのです。
 この際、濱宮に残された旧社地には改めて神社が祀られることとなりました。当初は日前神宮国懸神宮摂社(管理下に属する神社)となっていたようですが、現在ではこの関係は解消され、「濱宮(浜の宮神社)」として独立した一社となっています。
濱宮 - Wikipedia

濱宮
(中略) 
村中にあり 一村の産土神なり

倭姫世記云う
崇神天皇51年甲戊
木之国奈久佐濱宮
積三年間奉斎
于時紀伊国造舎人紀麻呂
良地口御田
54年丁丑
吉備國名方濱宮
四年奉斎
于時吉備國造采女吉備津比賣
又地口御田

 

國造家舊記
神武天皇東征之時
神鏡日矛
天道根命而斎祭焉
天道根命奉二神
神寶到于紀伊國名草郡加太浦
加太移于木本
木本到于名草郡毛見郷
則奉安處于琴浦之岩上也至

 

崇神天皇51年
豊鋤入姫命天照大神御霊遷坐
于當國名草濱宮之時
日前国懸兩大神
琴浦移于名草濱宮
並宮鎮坐蓋三年也て

 

同54年11月
天照大神雖遷吉備名方濱宮
日前国懸兩大神留坐
名草濱宮
垂仁天皇16年
濱宮遷于同郡名草之萬代宮
而鎮座也今宮地是也

とあり
按ずるに
伊勢大神日前国懸兩大神の此地に御鎮座ありし始末
日前宮の條に詳なり
伊勢大神吉備名方に遷り給い
日前国懸萬代宮に遷り給いて
猶其御神を此処に祭りて其舊跡を存せり
古は神田も多く
寛永記に
濱ノ宮免田三段中言ノ社五段里神ノ社二段 天正13年没収す
とあり
宮居も厳粛なるに天正の兵燹に罹り
社殿神領まて亡失せしに
元和中 國命ありて再興せられ
享保以後は伊勢ノ宮殿を模せられしかは
往古の遺風宛然としていと崇き神境とはなれり
筆者注:読みやすさを考慮して適宜改行、かなづかいの変更などを行った
(以下略)

 

 同社の歴史については、現地にある石碑にも次のような内容が刻まれています。ここには江戸時代の国学者紀伊藩に使えたこともある本居宣長の和歌も刻まれていました。
吹上寺・本居大平の墓(和歌山市男之芝町) - 生石高原の麓から

御由緒
(略)
 悠久二千有余年の昔、崇神天皇51年(西暦紀元前47年)豊鋤入媛命天照皇大神の御霊代を奉戴して、すでに天懸国懸両大神の鎮座しておられた名草濱宮遷座せられ、三年間並び奉斎せられました。
 その後、天照皇大神の御霊代伊勢の五十鈴川のほとりを永久の宮地として御遷座(現在の伊勢神宮になり、天懸・国懸両大神垂仁天皇16年(西暦紀元前14年)に至って現在の秋月の地を常宮としてお鎮まり日前宮になられました。
 その御由緒により、第一殿に天照皇大神、第二殿に天懸・国懸両大神を奉祀し、「元伊勢の大神」と称えられて毛見・布引・琴の浦・紀三井寺団地の氏神様として、また「アシ神様」の御名で霊験あらたかな健康増進の神様として広く尊崇されて参りました。由緒深い神社であります。

 

     本居宣長
 紀の国の いせにうつりし跡ふりて
   なくさの浜に のこる神がき


 上記「紀伊風土記」の記述にあるとおり、濱宮を「元伊勢の大神」たらしめているのは「倭姫命世記」という書物の記録によるものですが、この「元伊勢」の伝承を有する地域は全国に数多くあり、現在では60か所以上の場所が「元伊勢」を標榜しているようです。
 その詳細についてはWikipediaの記述を参照いただければと思いますが、こうした「元伊勢」の多くはあくまでも「候補地」であり、一つの宮名に複数の候補地が名乗りを上げているというのが実情です。その中で「木乃国奈久佐浜宮紀伊国 名草 濱宮)」はほぼ疑問の余地なく一箇所に特定されている「元伊勢」であり、他の「候補地」よりも一段その価値が高い、とするのは言い過ぎになるでしょうか。

元伊勢
 伊勢神宮内宮の祭神・天照大御神は皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられる。
 すなわちそれまでは皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖した同天皇が皇女・豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城(筆者注:かさぬいむら しき)の厳橿(筆者注:いつかし 神聖な樫の木)の本に「磯堅城の神籬(筆者注:しかたきのひもろぎ 堅固な石で作った神の降臨所)」を立てたことに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したとされる。
 遷座の経緯について、『古事記』ではこれを欠くが、『日本書紀』で簡略に、『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく、そして中世の『神道五部書』の一書である『倭姫命世記』において、より詳しく記されている。
(中略)
 元伊勢伝承は『皇太神宮儀式帳』・『止由氣宮儀式帳』や、『古語拾遺』、『延喜式』などの所伝から派生しているが、詳細な伝承地については不明な点が多く、以前は二十数箇所とされていたものが現在では六十箇所を超える。これらは各地の神社に伝わる伝承が元となっており、中には近隣で伝承地を唱えるものもあるなど、伝承地の真偽のほどについては不明である。
元伊勢 - Wikipedia

 

 なお、「倭姫命世記」については、国文学研究資料館のWebサイトにおいてその原文を参照することができるので、興味のある方はこちらもご参照ください。
【倭姫命世紀】

 

 濱宮のすぐそばには一年中マリンスポーツで賑わう「浜の宮ビーチ」があり、関西有数のリゾートアイランド「和歌山マリーナシティ」へも橋を渡れば指呼の距離なのですが、ここにこうした深い歴史を持つ神社があることを知っている人はごく少ないと思われます。

 神武東征伝伊勢神宮の成立といった話は我が国の成立にもかかわる大きな物語ですが、一度この地に立ってこうした歴史について思いを巡らすというのも良い経験になるのではないでしょうか。