生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回・前々回は「紀伊国一宮(きいのくに いちのみや)」と称される日前神宮國懸神宮とその旧社地に建つ濱宮を紹介しましたが、今回はもうひとつの「紀伊国一宮」である伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)※1を紹介します。

※1 この神社の名称は「伊太曽神社」と書いて「(ta)キソ」と読みますが、神社の所在地の地名と最寄りの駅名は「伊太」と書いて「(da)キソ」と読みます。漢字表記も読み方も異なりますのでくれぐれもご注意ください。

 

 一般的に「一宮」というのは、一定の地域(基本的には律令制にもとづいて定められた「国」単位)の中で最も格式の高い神社のことを指し、おおむねひとつの国に対してひとつの神社が「一宮」として位置づけられています。
 しかしながらこれには例外も多くあり、紀伊国においては先述の日前神宮國懸神宮和歌山市秋月)に加えて、今回紹介する伊太祁曽神社和歌山市伊太祈曽、次回紹介を予定している丹生都比売神かつらぎ町上天野)の三社がそれぞれ「紀伊国一宮」に位置づけられています。そう、紀伊国一宮」は三社あるのです。
一宮 - Wikipedia

 

 そして、このうち伊太祁曽神社日前神宮國懸神宮とは古代から深い関係にあります。
 前回・前々回の項で、垂仁天皇16年(神武紀元によれば紀元前14年)日前・国懸両大神が現在の地名でいう和歌山市毛見地区から秋月地区へと遷座したことを紹介しましたが、この際、秋月の地には既に伊太祁曽神社(当時の社名が何であったかは不詳です)が祀られていました。このため、(旧)伊太祁曽神社が現在の地(正確には現在地から南東約500mにある「亥の森」)に移転することとなり、その跡に現在の日前神宮國懸神宮が創建されたと伝えられているのです。
伊太祁曽神社 - Wikipedia

 

 このため、伊太祁曽神社の歴史を考えるには、同社がもともとは秋月の地で創建されたということを理解しておかなければなりません。ここで、当時の地形を確認しておきます。

和歌山市文化財2 国指定史跡 大谷古墳」より

 上記の図はこれまで何度も紹介してきた古墳時代紀の川河口部の地形図です。
 伊太祁曽神社が創建されたと伝えられる秋月の地は図の中央右付近の「秋月遺跡」と表示されている場所にあたります(前回紹介した濱宮はこの図に含まれていませんが、図の中央付近の直下にあたります)。そう、現在の伊太祁曽神社和歌山市の中ではかなり内陸に入り込んだ地域に所在していますが、創建当時は紀の川河口部にあって海に向かって広く開かれた場所にあったと考えることができるでしょう。
 以前「平井津と古代の海上交通」の項で紹介したように、当時のこの地域は紀の川の舟運を通じて大和朝廷と、また紀伊水道から瀬戸内海を経て朝鮮半島中国と、それぞれ密接な関係を築いており、こうした交易から莫大な利益を得ていたものと考えられています。
平井津と古代の海上交通(和歌山市平井) - 生石高原の麓から

 

 よく知られているように、伊太祁曽神社の創建神話では、同社の祭神である五十猛命(いたけるの みこと 素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子)高天原から持ってきた樹木の種を韓国(からくに)には植えず日本中に撒いて全国を青山にした、という話が語られますが、上記の地図を参考にこの物語を読むと、なぜ五十猛命が最後に紀伊国に鎮まったのかが理解できるような気がします。それほど当時は紀の川河口部が国際交易の要衝であったのでしょう。

 

 その伊太祁曽神社の創建神話ですが、これは「日本書紀」の「巻第一 神代上」にある有名な「八岐大蛇(やまたの おろち)」の項に登場します。
 八岐大蛇とは出雲国に住む8頭8尾の怪物で、住民は大蛇の怒りを恐れて毎年土地の娘を生贄として捧げてきましたが、素戔嗚尊が計略をもってこれを退治し、その尾から一振りのを取り出しました。これが三種の神器の一つ「草薙剣(くさなぎのつるぎ 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも)」であると伝えられています。
※2  草薙剣の本体は熱田神宮御神体として祀られており、天皇家に代々伝えられているのは「形代(かたしろ 神霊を宿したレプリカ)」であるとされる。当初の形代は壇ノ浦の戦いで失われたが、後に別の形代が伊勢神宮から献上されており、これが現在の神器たる剣となっている。
     
天叢雲剣 - Wikipedia     
※3 映画「シン・ゴジラ」に登場する作戦の名称「ヤシオリ作戦」及び特殊作戦部隊の名称「アメノハバキリ」は、それぞれ八岐大蛇退治のエピソードに登場する「八塩折之酒(やしおりの さけ)」及び素戔嗚尊が用いた剣「天羽々斬(あめのはばきり 「十握剣(とつかの つるぎ)」とも)」に由来する。

 このうち、伊太祁曽神社に関わるエピソードは、本文とは別の「一書曰(いっしょにいわく 「別の伝承」を紹介する際に用いられる表現として書中では頻繁に用いられる表現)」 として二つの伝承が紹介されています。

 その一つが、上述した「五十猛命が樹木の種を日本中に撒いて全国を青山(樹木が青々と生い茂る山)にした後に紀伊国に鎮座した」という話です。

日本書紀 巻第一 一書曰(四)
(略)

 

原文
五十猛神天降之時
多將樹種而下
然不殖韓地盡以持歸
遂始自筑紫
大八洲之内
莫不播殖而成青山焉
所以
五十猛命有功之神
紀伊所坐大神是也

日本書紀/卷第一 - 维基文库,自由的图书馆

 

現代語訳
はじめに、五十猛神が天降った時
多くの樹木の種を持ってきた
しかし、韓地(からくに)には植えずすべて持ち帰った
遂に筑紫から蒔き始め
(およ)大八洲(おおやしまのくに 「日本」のこと)の国中
種を蒔き殖やし、すべて青山となった
このため、
五十猛神有功之神※4(いさおしの かみ 大変功績のあった神)と云う
紀伊にいます大神がこの神である。
※現代語訳は筆者
※4 明治22年(1889)から昭和33年(1958)まで有功村(いさおむら 発足当時は海草郡、現在は和歌山市六十谷・園部の一部)が存在したが、この名称は村の中心部にある伊達(いたて)神社の祭神が五十猛神であるところからその別称にちなんで名付けられたものという。

 

 また、もうひとつの伝承には、(ひのき)(まき)(くす)という有用な樹木は素戔嗚尊の髭や毛から生まれたものであり、それぞれの用途(杉と楠は船に、檜は宮殿に、槙は棺桶に)が定めたものであること、及び五十猛神とその妹である大屋津姫命(おおやつひめの みこと)柧津姫(つまつひめの みこと)の三神が全国に樹木の種を撒いたので、三柱とも紀伊国で祀られていること、などが記されています。

日本書紀 巻第一 一書曰(五)

 

原文
一書曰
素戔鳴尊
韓郷之嶋 是有金銀
若使吾兒所御之國 不有浮寶
未是佳也
乃拔鬚髯散之 即成
又拔散胸毛 是成
尻毛 是成
眉毛 是成
已而定其當用
乃稱之曰
櫲樟 此兩樹者 可以爲浮寶
 可以爲瑞宮之材
 可以爲顯見蒼生奥津棄戶將臥之具
夫須噉 八十木種皆播生
于時 素戔鳴尊之子 號曰五十猛命
大屋津姬命 次採津姬命
凡此三神 亦能分布木種
即奉渡於紀伊
(以下略)

日本書紀/卷第一 - 维基文库,自由的图书馆

 

現代語訳
一書に曰く
素戔嗚尊はこう言った
韓郷(からくに)の島には金銀(こがね しろがね)がある
 もし、我が子が治める国に浮宝(うくたから 船)がないのであれば
 それは良くないことだ」
そこで鬚髯(しゅぜん あごひげ・ほおひげ)を抜いて散らすと、の木になった
また、胸の毛を抜いて散らすと、(ひのき)になった
尻の毛は、(まき 槙)になった
眉の毛は、(くすのき 楠)になった
そして、その用途を定めてこう言った
櫲樟(くす 樟・楠と同じ)の二つの樹木は浮宝(船)とすべし
 宮殿を作る木材とすべし
 (槙)は顕見蒼生(うつしき あお ひとくさ この世に生きる人々)奥津棄戸(おきつすたへ 墓)に将(も)ち臥さむ具(そなえ)とすべし(棺の材料とせよ)
 噉(くら)うべき(食用の)多くの木の実の種は、皆で播いて生えている」
時に、素戔嗚尊の子を五十猛神と云い
妹を大屋津姫命、次が柧津姫
凡そこの三神がよく樹木の種を播いたので
紀伊に渡って、祀られている
※現代語訳は筆者

 

 古事記では紀伊国のことを「木国(きのくに)」と表現することが多く、当初はこのように表記されていたと思われるのですが、和銅6年(713)に元明天皇が「畿内七道諸国郡郷 名着好字畿内七道諸国の郡郷には好字を用いよ)」という詔を発し、中国にならって各地の国名は「佳名(良い字)二字」とするよう定めたことから、以後は原則として「紀伊国(きのくに/きいのくに)」と表記されるようになったと考えられています。
紀伊国 - Wikipedia

 そもそも現在の和歌山県のあたりを「木国」と呼んでいたことについては、大和朝廷に近く、温暖な気候により船や館の材料となる木材が良く採れたことによるとされるのが通説ですが、伝承としては「木の神」である五十猛神がこの地に鎮座したことにより「木国」と呼ばれるようになったとの説も残されているようです。
 これについて、江戸時代中期の元文4年(1739)頃に書かれたとみられる和歌浦周辺の名所案内記「和歌浦物語 乾坤」には次のような記述があります。

和歌浦物語 乾の巻
○和哥浦
古今序註(第八)云、わかの浦とは紀伊国(キノクニ)にあり
 以上紀伊国とは伊の字をよまざるを習いとす。されば古事記等には所々に木国とあり。素盞男(ソサノヲ)の命の御子五十猛イソタケルノ)、八十木種(ヤソコタネ)を天が下にまき施し給ふ。此神のいます国なる故に木国と名付けしとなり
 しかれども今紀伊と二字になすことは、人皇四十三代元明天皇の御宇に、吾朝の国郡等の名よき字を以て二字に限りて名付くべきよし勅有しとき、紀の字には下におのづから以の音のひびきあれば、音便にそえたる伊の字なり。さればにや、郡名人名なんどにも伊の字よまざるをならいとす。
ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム 

 

 このように、現在に至る「紀州 紀の国(木国) 和歌山県」のルーツとも言える伊太祁曽神社なのですが、上述したとおり垂仁天皇16年(神武紀元によれば紀元前14年)に現在の山東地区に移転し、そのあとに日前神宮国懸神宮遷座することとなりました。これはいわば、上記の地図にあるとおり紀の川河口部にある「一等地」の場所が、「木の神」である五十猛命から「皇祖神に準ずる神」である「日前大神・国懸大神」禅譲された、ということになるわけです。

 この話の背景にどのような物語があったのか、今となっては知るすべも無いわけですが、想像を逞しくするならば、当初は紀の川南岸一帯を支配し、木材を用いた造船・建築などでおおいに勢力を伸ばしていた山の民木国」の一族が(旧)伊太祁曾神社を祀っていたのに対し、毛見付近に上陸した海の民が次第に勢力を拡大し、やがて大和朝廷と結んでこの地を支配するようになり、その証として(旧)伊太祁曾神社山東の地に追いやって日前神宮国懸神宮を祀るようになった。こうして誕生した海の民である支配者層が「紀」の一族である・・・。というようなストーリーを描けるのではないでしょうか。

 あるいは、紀氏はもともとこの地を支配する在地の豪族であったが、大和朝廷との関係が深まるにつれて自らの権威を高めるために皇祖・天照大神と繋がりの深い日前神宮国懸神宮を前面に打ち出すようになり、在地勢力としての象徴であった(旧)伊太祁曽神社を内陸の奥まった地へと匿い、ひそかに信仰した・・・、というようなストーリーが成立するかもしれません。

 いずれにせよ、この日前神宮国懸神宮(旧)伊太祁曾神社の関係は全国的に見ても非常にユニークなものですので、興味をお持ちの方は更に深く調べていただきたいと思います。

 


 ところで、冒頭で(旧)伊太祁曾神社は創建の地である現在の秋月地区から退いた後、一旦は「亥の森」という場所に移ったことを紹介しました。その地には現在三生(みぶ)神社と呼ばれる小祠があり、伊太祁曽神社の摂社(管理下にある神社)と位置づけられているようです。

 こうして一旦は亥の森に鎮座した(旧)伊太祁曾神社ですが、その後この神社は(現)伊太祁曾大屋都比賣(おおやつひめ)都麻都比賣(つまつひめ)の3神社に分割されることになります。これについては、平安時代初期に編纂された史書続日本紀(しょくにほんぎ)」の「大宝2年2月」の項に次のような記述があることから事実であろうと考えられています。

日本紀 巻第二

原文
分遷 伊太祁曾 大屋都比賣 都麻都比賣 三神社

読み下し
伊太祁曾、大屋都比賣、都麻都比賣の三神社を分かち、遷す

続日本紀 上代古典集∥埋もれ木

 この際、3社に分割された(旧)伊太祁曾神社のうち、(現)伊太祁曽神社は現在の場所に鎮座し、今に至るのですが、大屋都比賣神社は一旦北野の地に鎮座したものの、後に宇田森にある現社地へ遷座したとされます。
大屋都姫神社 - Wikipedia

 また、都麻都比賣神社に関しては、平尾の都麻都姫神吉礼の都麻津姫神のいずれかがこれに該当するものと考えられているようですが、これとは別に禰宜髙積神社に比定する意見もあり、現時点では明確な結論は出ていません。
都麻都比売神社 - Wikipedia

 

 

 2度にわたる移転、3社への分割など、歴史的にみるとかなり紆余曲折を経て現在の姿に至った伊太祁曽神社ですが、上記のような創建の経緯から、現在もなお「木の神」として全国の林業・木材産業関係者から幅広く崇敬されています。毎年4月に行われる「木祭り(きまつり)」にはこうした関係者が一同に会して餅まきなどのイベントが開催されますので、機会があればこうした行事に参加するのもよいでしょう。
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