生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

高積山埋納銭遺構(和歌山市禰宜)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回は和歌山市禰宜にある高積神社(たかつみじんじゃ)を紹介しましたが、その中で、現地案内板に同社上ノ宮の近くで大量の古銭が発掘されたとの記述があることをあわせて紹介しました。今回はその話題です。

高積山山頂付近(石碑は古銭とは無関係)

 和歌山市のWebサイトによると、この古銭が発掘された場所は「高積山遺跡」として市から遺跡埋蔵文化財の指定を受けていますが、残念ながら当時発見されたという1万枚余の古銭は所在不明となってしまっているようです。

 高積山遺跡昭和3年(1928)に発掘された埋納銭遺構です。埋納坑は深さ約60cmで、平瓦を敷いた底から約45cmまで銅銭が積まれていました。銅銭は藁に通した緡(筆者注:さし)の状態であったと考えられます。なお、これらの銅銭の所在は現在不明ですが、総数10,470枚で、その大部分が宋銭であったことが分かっています。
高積山遺跡 | 和歌山市の文化財

 

 この古銭が発掘された経緯については、「美わしの和佐」という個人ブログにおいて「和歌山県史跡名勝天然記念物調査会報告書第八輯(昭和4年3月発行 和歌山県)」をもとに詳述されていますのでそちらをご覧いただければと思いますが、いわゆる「巷によくある埋蔵金伝説」が現実のものとなったような出来事ですので、簡単にその内容を紹介させていただきます。

 古くから同地では「朝日さし 夕日輝く 其の中に 大判千枚 小判千枚 朱8石(3石)おわします」との伝承があった。
 これを子供の頃から聞かされていた高西凡骨氏(当時は兵庫県西灘村に在住)と、高積神社神下博氏が、昭和3年11月に県の許可を得て発掘を開始。
 はじめに神社の南端で地下約3尺(約90㎝)の所から4枚の宋銭を発見したのでこれに勢いを得て発掘範囲を広げたところ、神社の北側の板碑の西隣から多量の古銭が発見された。そこでは、地表から約2尺(約60㎝)のところに敷かれた瓦の上に約1尺5寸(約45㎝)程の厚さに銅銭が積まれており、その上に土や瓦、砂利などが載せられていた。また、別の場所では銅銭の上下四方を瓦で囲っているものも発見された。

 発掘された古銭の総数は約15,000枚とされるが、調査できたものは10,470枚で、全て中国の古銭(明(1368~1644)の初期まで)であり、宋代(960~1279)に鋳造されたものが大多数を占めていたという。
髙積山古銭埋蔵地 - wasa2017 ページ!

 

 発掘調査を行った高西凡骨氏が幼少の頃から聞かされていたという「朝日さし 夕日輝く 其の中に・・・」というのは全国にあまたある埋蔵金伝説の中では非常にポピュラーなフレーズで、俗に「朝日長者」と呼ばれる類のものとして知られています。しかしながら、この伝承に基づいて実際に埋蔵金が発掘されたケースは非常に珍しいのではないでしょうか。
 ちなみに、「朝日長者」について小学館の「日本大百科全書(ニッポニカ)」では次のように解説しています。

朝日長者(あさひちょうじゃ)
 日本長者伝説の一つ。朝日夕日ともいう。長者、豪族の屋敷跡に黄金を埋めたという伝説で、多くはその財宝のありかを「朝日さし 夕日輝く そのもとに 黄金千枚 瓦(かわら)万枚」などの口承歌謡をもって示唆する類型がほとんど。(以下略)
朝日長者とは - コトバンク

 

 ここで発掘された古銭はその多くが宋銭(宋代に鋳造された銭)であったとされますが、これは単なる異国の通貨というわけではなく、長い間日本における主要な通貨の地位にあったものです。詳細は下記のWikipediaや個人サイトに詳しいのですが、9世紀頃にいわゆる「皇朝十二銭」の価値が大幅に低下した後、一定期間は「」や「」を通貨の代わりに用いていたものの、平安時代中期(10世紀)頃から始まった日宋貿易が発展するに従って中国から「」が輸入されるようになり、やがてこれが「」や「」による取引を駆逐して主要通貨の地位を占めることになるのです。
 後に貨幣経済の進展に伴い貨幣の供給量が不足するようになると各地で私鋳銭(政府公認ではないが、一定の通用力を有した銭)が作られるようになりますが、中央政府が正式に銭を大量に鋳造するのは寛永通宝(かんえいつうほう)が発行された寛永13年(1636)以降のことになりますから、概ね10世紀から17世紀の間は宋銭(後に明銭も加わる)が「日本における最も信用力ある通貨」の地位に君臨していたことになります。
宋銭 - Wikipedia
中世の銭貨


 
 ちなみに、しらかわただひこ氏が運営する「コインの散歩道」というWebサイトでは奈良時代から現代までの貨幣価値を簡単にまとめられていますが、これによれば鎌倉時代から江戸時代初期にかけて「米一升(約1.5kg)」の代金は概ね「10文」であったとされています。
中世の銭貨

 これを踏まえると、高積山から発掘された古銭約15,000枚が全て一文銭であればその価値は「米2,250kg」に相当すると考えられ、これに現在の米の平均価格(2020小売物価統計調査 うるち米5kg 全都道府県庁所在市の年間平均小売店価格 2234円をかけると「1,005,300円」となります。まあ、ざっくり「百万円」ぐらいの価値ということになりましょうか。 
小売物価統計調査 小売物価統計調査(構造編) 年次 2020年 | ファイル | 統計データを探す | 政府統計の総合窓口

 これを高いと見るか、安いと見るかは人それぞれでしょうが、現在とは貨幣に関する考え方自体が大きく異る時代のものですから、当時は今の貨幣価値では計り知れないもっと重要な価値を持っていたのかもしれません。


 さて、それではこの「銭」を誰が、なんのために埋めたのか、ということを知りたくなってくるのは当然ですが、ここで発見された古銭の中で最も新しいものが明(1368~1644)の時代の初期のものであることを考えると、銭が埋められたのは14世紀後半から15世紀頃のことであったと思われます。
 その当時、この地で何があったのか?
 これについては、この高積山のとなりにある城ケ峯の遺構が関係してくるのではないかと考えられますので、あらためて次項で検討したいと思います。