生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

和佐山城跡(和歌山市禰宜)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回は和歌山市禰宜高積山(たかつみやま)の山頂付近で発見された大量の古銭について紹介しましたが、今回はそこから尾根伝いに南進したところにある「城ケ峯(じょうがみね)」の「和佐山城跡(わさやまじょう あと)」を紹介します。

 地元の人はこの山全体を指して「高積山」と呼ぶことが多いのですが、正式にはこの山全体を「和佐山連峰」と呼び、「高積山(標高237m 上記写真の左(北)側の峰)」と「城ヶ峯(標高255.2m 右(南)側の峰)」という二つのピーク(山頂)で構成されています。標高をみていただくとわかるとおり、城ヶ峯の方が標高が高く、こちらが和佐山連峰の最高峰となります。

 この「城ヶ峯」は、その名からもわかるとおり、かつてはここに城が築かれていました。これについて和歌山市のWebサイト「和歌山市文化財」では次のように解説されています。

和佐山城跡(わさやまじょうあと)
 高積山の南につらなる城ヶ峯(和佐山)の山頂に築かれた、南北朝安土桃山時代とみられる山城跡です。南北朝時代を舞台とした軍記物語である『太平記』の「紀州龍門山軍事」に、南朝方の四条中納言隆俊が、塩屋伊勢守とともに紀の川市最初ヶ峰に布陣し、北朝方の畠山義深がこれを討つために、和佐山に布陣したとあります。
 城跡は、東西30m、南北20mの曲輪で、南端に10m四方の櫓台があります。さらに東側に二段の曲輪を備え、北と西に畝状の竪堀があります。堀切をはさんだ西側の峰には、周囲を土塁で囲んだ跡があります。天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めの際にも使用されたとも伝わります。

和佐山城跡 | 和歌山市の文化財

 

 上記引用文にある「太平記にある紀州龍門山軍事という物語」というのは一般的に「龍門山の戦い」として知られる南北朝時代紀伊国最大の戦闘を指します。

 14世紀のはじめ、後醍醐天皇が奈良の吉野に転居したのに対し、足利尊氏平安京光明天皇を立てて、吉野の「南朝京の「北朝の二つの朝廷が並び立つ「南北朝時代」に突入します。

 観応2年(1351)には北朝南朝に降伏する形で一旦は決着がつくかに見えたのですが正平一統、この体制は4か月あまりで瓦解し、再び北朝南朝の対立が激化しました。
 正平13年/延文3年(1358)には北朝方の征夷大将軍足利尊氏が死去。南朝方の軍事部門のリーダーであった楠木正儀(くすのき  まさのり 楠木正成の三男)はそれまでに北朝から京を3度奪還(正平16年/康安元年(1361)に4度目の奪還を果たす)するなど八面六臂の活躍を見せますが、尊氏の跡を継いで新将軍となった足利義詮足利尊氏の三男)南朝方に大攻勢をかけはじめると徐々にその勢力を削がれていきます。正平14年/延文4年(1359)5月には楠木正儀の本拠であった赤坂城も落城することになるのですが、その直前にあたる正平14年/延文4年(1359)4月に紀伊国で行われた戦闘が「龍門山の戦い」でした。

 この戦いの詳細については別項「塩塚のいわれ※1」で紹介しているのでこちらをご覧いただければと思いますが、この当時の紀伊国は、足利幕府から畠山国清(はたけやま くにきよ)紀伊国守護に任じられていた※2にもかかわらず、湯浅党※3湯河(湯川)※4熊野水軍などの強力な在地勢力が林立しており、幕府の支配はほとんど及んでいない状態でした。
※1 塩塚のいわれ ~桃山町(現紀の川市)最上~ 
※2 上富田町文化財教室シリーズ
※3 夜泣き松 ~湯浅町吉川~
※4 湯川直春の亡霊 ~日高町志賀~ 

 こうした在地勢力の多くは南朝を支援する者が多かったため、足利義詮紀伊国守護・関東執事関東管領畠山国清紀伊国南朝鎮圧を命じました。これを受けて、正平14年/延文4年(1359)4月に国清は弟の畠山義深(はたけやま よしふか/よしとお)を大将とする3万の軍勢を紀伊国に送り込みました。この時、畠山軍の本拠地となったのがこの和佐山城なのです。
 これに対抗して南朝方は「最初が峰紀の川市」に四条中納言隆俊(しじょう ちゅうなごん たかとし)塩屋伊勢守(しおのや いせのかみ)山本党湯浅党などの南朝勢力が集結しました。
 この状況について「太平記」巻三十四の「紀州龍門山軍事」には次のように書かれています。

紀州竜門山軍事

原文
 四条中納言隆俊は、紀伊国の勢三千余騎を卒して、紀伊国最初峯に陣を取てをはする由聞へければ、同四月三日、畠山入道々誓が舎弟尾張守義深を大将にて、白旗一揆一揆・諏防祝部・千葉の一族・杉原が一類、彼れ此れ都合三万余騎最初が峯へ差向らる。
 此勢則敵陣に相対したる和佐山に打上りて三日まで不進、先己が陣を堅して後に寄んとする勢に見へて、屏塗り櫓を掻ける間、是を忻らん為に宮方の侍大将塩谷伊勢守、其兵を引具して、最初峰を引退て、竜門山にぞ篭りける。
太平記/巻第三十四 - Wikisource

 

現代語訳(抄) 
  四条中納言隆俊紀伊国の軍勢三千余騎を率いて最初が峯に陣を張ると聞いて、4月3日、畠山道誓(国清)は弟の尾張守義深を大将として、白旗一揆一揆(いずれも関東を拠点とする血縁集団)諏防祝部(すわ ほうりべ 諏訪大社神職を中心とした集団)千葉(下総の豪族 千葉氏)の一族、杉原(備後の豪族 杉原氏)の一類など、かれこれ都合三万余騎を与えて最初が峯へ差し向けた。
 義深の軍勢は敵陣に相対する和佐山に上って三日間移動しなかった。まず自軍の陣地を固めてから後に攻め込もうとするものらしく、塀を塗り、櫓を建てていたので、南朝方の侍大将であった塩谷伊勢守は、これを好機と兵を引き連れて最初が峯から退き、龍門山に籠もった。

※現代語訳は筆者

 

 前置きが非常に長くなりましたが、この際に畠山義深の軍勢が築いたとされるのがこの「和佐山城跡」です。現在は草木が生い茂り遺構は明確ではありませんが、よく見れば人工的に設けられたと思しき土塁や空堀の跡を確認することができます。以下の写真は筆者が撮影したものですが、城構えの詳細については前項でも紹介した「美わしの和佐」という個人ブログにおいて詳述されていますのでこちらも参照ください。
和佐山城跡 - wasa2017 ページ!

 

 なお、「塩塚のいわれ」で書いているとおり、この「龍門山の戦い」では功を焦った北朝方の軍勢が南朝方の計略にかかって惨敗を喫することになりますが、これに引き続いて行われた「第二次龍門山の戦い太平記「二度紀伊国軍事付住吉楠折事」)」では湯川庄司の裏切りもあり、北朝方の勝利となります。

 ということで、この和佐山城はもともとは畠山義深の軍勢がわずか3日で築いたものとされ、それほど堅固なものであったとは考えられません。しかしながら、上記「和歌山市文化財」からの引用文にあるように天正13年(1585)に行われた秀吉の紀州攻め(第二次紀州征伐)の際にも使用されたとの伝承があるようですので、龍門山の戦い以後もなんらかの形で城として利用できるよう手が加えられ続けていたのかもしれません。

 

 ちなみに、秀吉の紀州攻めの際にこの和佐山城が使用されたという明確な記録はないようですが、「根来焼討太田責細記」という史料には「和佐山の酉(西の方角)に大槗新平・木戸雄五郎らが立て籠もった」という記述があるようですので、これが和佐山城を指しているのかもしれません。
 なお、この「根来焼討太田責細記」については各所でしばしば言及されるもののその詳細がよくわからないのですが、イラストを中心としたコミュニケーションサイトPixivに「根来焼討太田責細記」というページが設けられており、ここに同史料に関する注釈と本文の全文(ページ制作者が独自に解読したものとの断り書きがあります)が掲載されていますので、その一部を引用します。

 『根来焼討太田責細記』は、和歌山市に伝わる天正十三年(1585)の秀吉の紀州攻めを、雑賀衆の構成員である宮郷(現・和歌山市太田党の視点から書きまとめられた、戦国時代の雑賀衆に関する数少ない資料の一つです。
 この資料は、秀吉に敗れ、帰農した太田党の子孫が江戸時代前期~中期に記したとみられ、明治時代にその写本が作られ、幾つかの図書館や大学に収蔵されました(巻末に「根来寺焼討太田責細記 右紀伊和歌山市高市伊兵衛氏所蔵明治三十八年六月寫了」とあります)
(中略)
根来焼討太田責細記
(中略)
武士の魂は石龍の如し
運つよき豊臣秀吉には一太刀うらみんずといへ
共城を枕に打死せん
先手
初に左近を斬んと三十七人ばらゝと取巻ば
太田左近大に悦び 人々を征して
我今のは各の心威を見せん計の謀なり
いで是上は軍神の血祭せんと
白馬を斬て 是を祭る
山東三之右衛門は 太田に助勢すべしと
妻子を太田城に送りて人質とし
永山の城に篭る岡崎の砦には
土槗平九郎 長山甚左衛門
和佐山の酉(筆者注:西の方角)には
大槗新平 木戸雄五郎 等楯篭り
中津 雑賀 小雑賀 弥勒寺山 吹上の峰には
雑賀一徒
又 熊野八庄司は後詰すべしと
芝庄司の臣 井田十兵衛使者として入来れば
大に悦びさまゝ饗應して使者をかえしたり
※読みやすさを考慮してカタカナをひらがなに改めた

#雑賀衆 #太田城 根来焼討太田責細記 - B.Lの小説 - pixiv


 さて、前回、高積山の山頂から大量の古銭が発掘されたことを紹介しましたが、その中で「この「銭」を誰が、なんのために埋めたのか」という疑問を挙げました。
 もちろんこれに対する明確な回答はありませんが、上記の出来事などをみると、この地域に勢力を有していた豪族にとってこの地は軍事上非常に重要な意味を持っていたものと考えることができます。他の地域から攻め込まれたら、とりあえずこの山に籠もって防衛戦を戦いながら他の地域からの援軍を待つ・・・、そういった戦略を描いていたのではないでしょうか。その際に、手持ち金が全く無い状態では必要な物資を手配することができないので、さしあたり必要な程度の「銭」を山中にこっそり隠しておく、そう考えた知恵者がいたのかもしれません。妄想を逞しくするならば、その人物こそが、上記の「根来焼討太田責細記」で名前の挙がっていた大槗新平や木戸雄五郎だったという可能性だってあるのかもしれません。