生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

ヤマハ創業者・山葉寅楠(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、和歌山市出身の実業家で、ヤマハ株式会社(及び同社から分離独立したヤマハ発動機株式会社)の創業者である山葉寅楠(やまは とらぐす)を紹介します。

山葉寅楠
File:Torakusu-yamaha.jpg - Wikimedia Commons

 山葉寅楠は、嘉永4年(1851)、紀州藩士・山葉正孝の次男として現在の和歌山市で生まれました。
 17歳で大阪に出たのち、時計の製造や医療器械の修理などに携わりますが、静岡県浜松市にいた時にひょんなことからオルガンの修理を依頼されたのをきっかけにオルガンの国産化に乗り出しました。これが現在の「ヤマハ YAMAHA」へとつながるのですが、この創業の物語についてはヤマハ株式会社Youtubeチャンネルにおいて「創業者・山葉寅楠とヤマハの創業物語」と題した動画が公開されていて、これが非常にわかりやすい解説となっています。動画といっても全編ナレーションのみで構成された作品であり、そのナレーションは次のような内容となっています。

 ヤマハの歴史は、1887年(明治20年)に和歌山出身の山葉寅楠が、浜松でリードオルガンを製造したことに始まります。
 寅楠は、ペリーが来航する2年前の1851年に、紀州藩の武士の子として生まれました。父親は、暦を作ったり土木工事の設計や土地の測量を行ったりする天文係という役に就いていました。
 幼い頃より父の仕事や道具に親しんだ寅楠は、自然と技術やものづくりに興味を持つようになります。
 そして明治維新の年、17歳で大阪に出ると、当時普及の兆しを見せていた時計の国産化を志し、長崎へ赴いてイギリス人から時計の製造を学びました。
 しかし事業資金が集まらずに時計の国産化を断念すると、今度は医療機器の修理や製作を手がけるようになり、やがて縁があって浜松の病院に招かれます。1886年寅楠、35歳の年でした。
 寅楠浜松にやって来た翌年の1887年、尋常小学校の輸入オルガンが、突然、鳴らなくなってしまいます。地元にはオルガンの技術者がおらず困った学校は、病院長の紹介で手先が器用な寅楠に修理を依頼します。
 故障はバネが2本折れていただけで簡単に直りましたが、寅楠はオルガンの内部を見て、自分で作ることを決意します。このオルガンが45円もしたと聞いて、「自分ならもっと安く作れる※1。安く作れば日本中の学校にオルガンが行き渡り、子供たちの音楽教育に役立つ」と考えたのです。
 そして2ヶ月の苦労の末に試作機を完成させ、東京の専門家のもとに持ち込みました。東海道線の鉄道が全線開通する前でしたので、寅楠は事業パートナーとふたりでオルガンを担いで箱根の山を越えたといいます。
 しかし専門家の評価は、音程が不正確という理由で不合格でした。寅楠は落胆しますが、気を取り直し、専門家の下でひと月のあいだ音楽理論と調律法を学んで2号機を作りました。
 この2号機がようやく認められ、寅楠はオルガンづくりを事業としてスタートさせます
 これがヤマハの出発点となりました。

www.youtube.com

※1 「浜松・浜名湖観光情報サイト 浜松・浜名湖だいすきネット」にはこのとき寅楠が「これくらいのオルガンなら、自分は3円でつくる自信がある。」と言ったとの記述があるが出典は不明。
山葉 寅楠|公式/浜松・浜名湖観光情報サイト

 

 また、音楽学者の井上さつき氏は、「ミクスト・ミューズ(MIXEDMUSES) 愛知県立芸術大学音楽学音楽学コース紀要 No.13(2018)」に掲載された「山葉寅楠と鈴木政吉:明治期の博覧会とのかかわりを中心に」という論文において山葉寅楠の出生から創業期までの足跡についてより詳細に記述していますので、その一部を引用します。

1.山葉寅楠とオルガン
 山葉寅楠は幕末の1851(嘉永4)年、紀州藩山葉正孝の次男に生まれた。父正孝は藩の天文係で、地図の作成や橋の架設、からくり人形の考案などに、すぐれた才能を示したが、寅楠は乱暴者に育ち、ついには勘当の身となって、1868(明治元)年、17歳で大阪に飛び出す。そこで時計商の徒弟となり、1871-72(明治4-5)年には長崎時計製造を学ぶ。その後、大和高田西洋医療器械師を兼ねた時計商の店を出したもののうまくいかず、その後は医療器械師や時計師を兼ねた渡り職人として各地を遍歴していた。
 その途中、浜松にやって来た寅楠は、医療器械の仕事を通して、浜松病院長福島豊と知り合いになる。そして、元城小学校の舶来オルガンアメリカのメーソン・アンド・ハムリン製)が故障したときに寅楠に修理の声がかかった。社史によれば、1887(明治20)年7月のことであった。
 機械の修理ならお手のもの。寅楠は苦も無くオルガンを修理し、そこで、自分でオルガン製造すれば金になるとオルガン製造を志した。その際、仕事場、資金、技術すべてを提供して手伝ったのが、錺(かざり)職、つまり、金属工芸職人の河合喜三郎※2であった。
(中略)
 アメリカ製のオルガンの修理をきっかけに、河合喜三郎と共に1台のオルガンを作り上げた寅楠は、東京音楽学校に楽器を持参し、「審査」を受けることになった。記念誌によれば、寅楠はこれを浜松の学校当局に見せ、次いで静岡師範学校にも持参して意見を求めたが、十分な批評を得られなかったので、東京音楽学校にもっていったという。
 その第1号の試作オルガンを、寅楠と河合喜三郎は天秤棒に担ぎ、箱根の山を越えて徒歩で東京まで運んだというエピソードは有名だが、これはあやしい。浜松の港から船で運ぶなど、ほかにも交通手段はあった。
 唱歌教育を普及させるために、国産楽器が早く製造されることを望んでいた伊澤(筆者注:文部省音楽取調掛、東京音楽学校東京芸術大学音楽学部の前身)初代校長 伊沢修二は、音楽学校で楽器を鑑定することをそれまでにも行なっていた。何しろ、輸入楽器は高価だった。不平等条約の制約があり、船賃や多額の手数料を入れると、楽器は現地価格の2、3倍になってしまう。輸入超過で外貨不足に悩んでいた明治政府にとっては、大問題である。
(中略)
 寅楠東京音楽学校にオルガンを持ち込んだときの様子を、当時学生で、試弾に参加した鈴木米次郎(1868-1940、東洋音楽学校(現東京音楽大学)の創始者は次のように書いている。

 

 日本でオルガンが出来たと云うので、見た所が、立派なものが出来て居た。……総ての塗りが漆の黒塗りで中に金の蒔絵があって鳳凰の絵なんか描いてある。よく見るとオルガンが仏壇のような気がした。……体裁は非常に好いのですが、弾いて見る音色が笙(筆者注:しょう 雅楽で用いられる管楽器で、17本の竹管により構成される)の音と同じ様です。……私共書生のことですから四五人も居りましたが寄ってたかっていろいろな酷評を致しました。

 

 ちなみに山葉はこの後、漆塗りで蒔絵をほどこしたピアノを作り、博覧会で評価されることになるが、そのアイデアは最初にオルガンを作ったときから使われていたわけである。
 ただし、このとき、伊澤修二が出した結論は、「体はなせども、調律不備にして使用に耐えず」であった。伊沢寅楠に、東京で勉強していくように勧め、寅楠は1か月間、調律を勉強した。1か月で一体まともな調律ができるようになるものだろうか。このあたりも考えるべき問題があるが、ともあれ、浜松に帰った寅楠は、再びオルガン製造にチャレンジし、第2号を東京音楽学校に持参。今度はめでたく合格となった。ここから山葉寅楠のオルガン製造の快進撃が始まる。
(以下略)
愛知県立芸術大学リポジトリ
※2 寅楠は後に「河合小市」という少年を丁稚にとり、小市は長じて河合楽器研究所(現在の河合楽器製作所)を創業する(後述)が、この人物は「河合喜三郎」と同姓ではあるものの血縁関係は無い。河合喜三郎は後述の「日本楽器製造株式会社」の設立の際にも寅楠の事業パートナーとなり、終生寅楠の片腕として重要な役割を果たしたとされる。

 

 その後、寅楠明治21年(1888)に「山葉風琴製造所(「風琴 ふうきん」はオルガンのこと)」の看板を掲げて事業を拡大し、その翌年には「合資会社山葉風琴製造所」を設立しますが、同社は明治24年(1891)にいったん解散し寅楠による個人事業に戻ります。しかし、明治30年(1897)には資本金10万円をもって「日本楽器製造株式会社」を設立して初代社長に就任しました。これが、現在に続くヤマハ株式会社(昭和62年(1987)に創業100周年を契機として社名を「日本楽器製造株式会社」から「ヤマハ株式会社」に変更)の始まりとなります。
 この経緯について大塚昌利氏は「浜松地域における楽器工業の集積(「地理学評論 53巻3号」公益社団法人日本地理学会 1980)」において次のように記述しています。

(前略)
 1888年に市内の廃寺跡に山葉風琴製造所を設立し,8人でオルガンの製造に入った.山葉はオルガンの販売にあたって,東京の書籍兼楽器商の共益商会(筆者注:正しくは「共益商社」であると思われる)および大阪の書籍商三木佐助と特約を結び,静岡県内を山葉の直売区域とするほかは,この2商が全国を2分することとなった.この年のオルガン生産台数は不明であるが,ほぼ近畿以西を販売区域とした三木楽器※3だけで,同年44台を販売した(大野木,1966).
 翌1889年には資本金3万円で合資会社とし,職工100余人を数えるに至った.翌年出資者の足並みが乱れ,そのため再び個人経営に戻ったが,1897(明治30)年に日本楽器製造株式会社を設立,工場を板屋町(筆者注:現在の浜松市中区板屋町)に移した.この間1892年には48台のオルガンをロンドンへ輸出するのに成功しており,1900(明治33)年にはピアノの生産を開始するに至った.
浜松地域における楽器工業の集積
※3 現在の三木楽器株式会社(本社:大阪市)。Wikipediaによれば創業は1825年(文政8年)で、表明している限りでは日本最古の楽器店とされる。
三木楽器 - Wikipedia

 

 上記引用文の末尾で言及されているピアノの生産にあたっては、若干10歳(11歳とも)寅楠に弟子入りしたと伝えられる河合小市(かわい こいち)の貢献が非常に大きかったとされています。これについて、浜松市が制作するPRブック「HAMA流(はまる) 第17号(2014)」に掲載された「日本の音を作り上げた、二人の天才 はままつピアノヒストリー」という記事では次のように紹介しています。

山葉と河合の努力の結晶 国産ピアノ第一号誕生!
 小市の加入で益々事業を軌道に乗せた寅楠は、それまで誰も為し得なかった国産初のピアノ開発に挑んだ。しかし、ピアノの構造はオルガンに比べはるかに複雑で、製造は容易ではなかった。寅楠は研究のために渡米を決意。当時海外に行けるのは官僚ぐらいのもので、アメリカに行くというだけで浜松は町を挙げての大騒ぎ。出発の日、浜松駅のホームは見送りの観衆で溢れかえったという。寅楠はシカゴやニューヨークなど、107日間かけて100箇所もの工場を見て回った。
 一方、日本に残った小市は、ピアノの重要部品であるアクション※4(打鍵装置)の研究に取り組んだ。若干14歳の少年は、家にも帰らず不眠不休で研究を続けたという。
 そして半年後、寅楠アメリカから持ち帰った技術と、小市が開発したアクションを合わせることにより、1900年、国産ピアノ第一号がついに完成した。この一台がなければ、日本の音楽史はどうなっていただろうか。何度失敗しても決して諦めず研究を重ねた寅楠小市が、今日へと続く日本音楽産業史の大きな扉を開いたのである。
浜松市PRブック『HAMA流』第17号/浜松市
※4 ピアノのしくみ:ピアノのアクションって、何? - 楽器解体全書 - ヤマハ株式会社

 

 初の国産ピアノ開発に貢献した河合小市は、寅楠死後の大正15年(1926)に日本楽器製株式会社での労働争議の影響を受けて同社を退社、翌年「河合楽器研究所」を創設します。同社は後に株式会社河合楽器製作所となり、販売額世界第二位のピアノメーカー(世界第一位はヤマハへと成長していきます。
河合楽器製作所 - Wikipedia

 

 こうして日本楽器製造株式会社の経営を軌道に載せた寅楠は大正5年(1916年)に64歳で亡くなりますが、「ヤマハ」ブランドはその後も発展を続け、ピアノ電子楽器電子部品リゾート施設スポーツ用品などの分野に進出してそれぞれの分野で大きな成功を収めています。
製品・サービス - ヤマハ株式会社

 また、オートバイで有名なヤマハ発動機株式会社はもともと日本楽器製造株式会社の二輪部門が独立した会社(昭和30年(1955年)に日本楽器製造から分離されるかたちでオートバイ製造販売業としてスタート)であり、親と子の関係にあったのですが、現在はヤマハ株式会社の持分法適用対象から外れており、両社の関係は徐々に薄くなってきているようです。
ヤマハ発動機株式会社 製品サイト

 

 ところで、近年、インターネット上では「ヤマハのコピペ」という文章がしばしば見受けられます。もともとの出典は不明なのですが、上述のようにオルガンの製造から出発したヤマハ電子機器オートバイプールなどさまざまな分野に進出してきた経緯を簡単にまとめたもので、同社が歩んできた道のりの複雑さ、不思議さを感じさせるものとなっています。
 ただ、一般に流布している「ヤマハのコピペ」は必ずしも正確なものではないようで、フリーライターヨッピー氏がヤマハに直接取材したうえでこれを一部修正した「完全版 ヤマハの歴史」をネット上で発表しています。それが以下のようなものです。

ヤマハの歴史】

  • 最初は輸入オルガンの修理
     →楽器関係作る
  • 楽器やってた流れで電子楽器も作る
     →LSI※5も作る
  • LSIを作ったからパソコンも作る
     →他にも利用しようとしてルーター※6作る

という流れで、楽器、電子機器、ネットワーク関係の製品を作るようになった。
※5 大規模集積回路。初期のコンピュータの中核部品であった。
※6 複数のコンピュータ間でデータを送受信する際に用いる中継装置のこと

 

じゃ、なんで発動機や家具とかも作ったのかというと、

 

  • オルガンやピアノ作りで木工のノウハウが蓄積される
     →家具を作る
     →住宅設備も作る
  • 戦時中に軍から「家具作ってるんだから木製のプロペラ作れるだろ」といわれて航空機のプロペラ作る
     →終戦後にGHQから返してもらった設備バイクとエンジン作る
  • ヤマハ発動機を立ち上げる
     →設立9日後に初めて作ったバイクでレースに優勝
  • 社長が弓道やってたからFRP※7アーチェリー作る
     →FRPあるからも作る
  • 社長が自分で使ってたアメリカ製の船外機がよく故障するので船外機作る
  • FRPを利用してプールを作る
     →ついでにウォータースライダーも作る
  • インドネシアの駐在員の家族から「水道水が汚い」ってクレームがきたから浄水器作る
  • バイクから出る二酸化炭素を何とかできないかと思ってバイオ事業化
    ※7 繊維強化プラスチック。プラスチックにガラス繊維を混ぜたもので、軽量で強靭であることが特徴。

【撤退した事業】
パソコン、風力発電、ガスヒートポンプ、バイオ事業
家具(リビング)事業

persol-tech-s.co.jp

 

 上記の記事には登場していませんが、ヤマハ発動機自動車エンジンの開発・製造も手掛けており、トヨタ自動車と深い関わりがあります。実はトヨタ製の高性能車の中にはヤマハ発動機が開発に関わったエンジンを搭載したモデルがたくさんあるのです。
 中でも、映画「007は二度死ぬ」に登場したことでも知られる1960年代を代表する名車「トヨタ2000GT」は、その開発の段階からヤマハ発動機が深く関わっていました。同社のWebサイトではこの時のことを次のように記しています。

 トヨタ自動車工業ヤマハ発動機の間に、スポーツカー開発に関する技術提携の契約が交わされたのは1965年9月8日。しかしその前年の12月には、「トヨタ2000GT」の開発協力プロジェクトはスタートしていた。
 トヨタ2000GTの全体レイアウト計画やデザイン、基本設計などはトヨタ側でなされ、ヤマハは同社の指導のもとで主にエンジンの高性能化と車体、シャシーの細部設計を担当した。開発チームの平均年齢は30歳前後。全員が自動車に並々ならぬ関心を持っていたが製造上の知識、経験はゼロに等しかった。
(中略)
 車体の設計や製作も初の試みとなるものが多かった。トヨタ自動車の基本設計から原寸大の図面をつくり、それをもとに板金用の木製グリッドを作成した。ボンネットやトランクリッドには、ボート製造で培われた手づくりのFRP成形技術を活かし、ルーフやフェンダー、ドアなどは"匠"の技による板金叩き出しで製作を進めた。また、内装部品では木製のステアリングやシフトノブ、インパネなどが採用された。夏期には異常な高温となる車内で天然木の割れやヒビなどが出ないようにするため高度な技術を必要としたが、楽器づくりで培った木工技術を駆使してそれへの対応を図った。ほかにもマグネシウム鋳造のディスクホイールの採用や手吹きによる外観の塗装など、さまざまな面で高度な技術を必要とした。
 こうして、当時考えられる最新・最高の技術要素を取り入れて完成した試作車は、トヨタ2000GTとして1965年の東京モーターショーで発表された。
 市販車としてのトヨタ2000GTは、第1期工事を終えた磐田新工場で生産を開始したが、内容は試作車製作と大きく変わることはなかった。
(以下略)

トヨタ2000GT

ストーリー:12 「トヨタ2000GT」の試作から生産へ - ヤマハヒストリー | ヤマハ発動機

 上記引用文でわかるとおり、トヨタの名車「2000GT」は、実はヤマハ発動機の磐田工場で製造されていたのです。その製造にあたっては、「ボート製造で培われたFRPの成形技術」や「ピアノ製造で培われた高度な木工技術」などヤマハならではの技術がフルに生かされていました。
 これ以外にもヤマハ発動機トヨタの高性能エンジンの開発に携わっており、1970年代の多くのスポーツモデルセリカカローラ・レビン/トレノ等)に搭載された2T-G型や1980年代の「ハイソカー(高級車)」ブームのきっかけとなったマークIIやクレスタなどの車種に搭載された1G-GEU型などが、代表的な「ヤマハ製エンジン」であるとされています。
1970年 Toyota 2T-G | ヤマハ発動機
1982年 TOYOTA 1G-GEU | ヤマハ発動機

 21世紀になってからでは、トヨタの高級車ブランド「レクサス」が2010年から2012年にかけて全世界500台限定で生産・販売したスーパーカーレクサス LFA(国内販売価格3,750万円)」に搭載された1LR-GUE型がよく知られています。このエンジンも磐田市ヤマハ発動機本社工場で生産されており、エキスパートが組み立てた証としてエンジン1台1台に担当した職人の名を刻んだアルミ製プレートが装着されているとのことです。

レクサス LFA

2011年 レクサスLFA (1LR-GUE)| ヤマハ発動機

 「世界のトヨタ」も、そのブランド力は紀州藩出身の山葉寅楠が創業した「ヤマハ」がおおいに支えているのだ、と考えれば痛快ではありませんか。


 ちなみに、「ヤマハ」の商標(ロゴ)には円の中に3本の音叉がある、いわゆる「音叉マーク」が用いられていますが、「ヤマハ発動機」が使用する音叉マークでは「ヤマハ」と異なり三本の音叉が車輪のスポークのように外周の円とつながっているなど、両社が用いるマークには若干の違いがあります。また、商標全体の色がヤマハ」はバイオレットヤマハ発動機」は赤色になっていて、YAMAHA」の「M」の字形が異なる(「ヤマハ」の「M」は中央部が下に付いていない)などの違いもあります。ヤマハ株式会社のWebサイトによると、これ以外にヤマハ発動機」はYAMAHAの各文字が左右対象に書かれているのに対し、ヤマハ」は各文字が左右非対称(縦棒の太さが左右で異なる)であるという違いがあるらしいのですが、これは普通に見ている限りでは絶対に気付きようのない違いですね。

ロゴの歴史 - 企業情報 - ヤマハ株式会社