生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

初の国産飛行船・山田猪三郎(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、日本で始めてエンジンの力で自由飛行できる飛行船を開発した航空界の先覚者・山田猪三郎(やまだ いさぶろう)を紹介します。

山田猪三郎 - Wikipedia

 山田猪三郎文久3年(1863)、現在の和歌山市に生まれました。
 少年時代から研究熱心であったと言われていますが、明治19年(1886)、23歳の時に熊野灘で発生したノルマントン号事件※1をきっかけに救命具の開発に取り組み始め、明治25年(1892)にはゴムを使った救難浮輪を製造するため現在の東京都港区芝浦に事業所を開設します。
※1 明治19年(1886)10月24日、英国貨物船ノルマントン号が暴風により勝浦沖で沈没した際、イギリス船員26名は全員ボートで脱出したが、日本人乗客23名全員が船に残されて水死した。治外法権下の領事裁判権(外国人は日本の法律で裁けず、本国の駐日領事による裁判を受ける)に基づき船長は無罪とされたが、これは日本人に対する差別であるとして日本の世論が沸騰、不平等条約改正に向けての機運がおおいに高まるきっかけとなった。
ノルマントン号事件 - Wikipedia

 

 やがて猪三郎は、救命具に用いるゴムの技術を応用して気球を開発しようと考えるようになります。明治30年(1897)から研究に着手し、以後亡くなるまでの16年間にわたって私財の全てを費やすほど気球・飛行船の研究に没頭したといいます。
 この当時、戦場における空中からの偵察の重要性に着目していた日本陸軍の支援を受けて猪三郎が明治33年(1900)に開発した「山田式凧式気球」と呼ばれる係留気球アドバルーンのように地上からロープなどで繋がれている気球)は、日露戦争(1904~1905)における旅順攻囲戦(ロシアの旅順要塞を日本軍が攻略した戦闘。映画「203高地」などで知られる)の際に偵察用として使われたことが知られています。

 

 ちなみに、「日本陸海軍写真帖(高島信義編 史伝編纂所 明36.7)」には下記の写真とともに「陸軍砲工学校にて挙行の凧式軽気球にして 昇せる軽気球より下図を撮影し 下より軽気球を撮影せられしものなり」との解説が掲載されています。新井葉子氏の「明治期の軍用空中写真(気球写真)に関する研究報告(「文化資源学 15巻」文化資源学会 2017)」によれば、この写真は明治34年(1901)12月23日に行われた陸軍砲工学校第九期高等科・第十期普通科学生の卒業式の際に撮影されたものとされていますが、上述のように猪三郎の気球研究には陸軍の援助があったとされているので、おそらくこれが上述の「山田式凧式気球」なのでしょう。
明治期の軍用空中写真(気球写真)に関する研究報告

 

日本陸海軍写真帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 なお、荒木肇氏が発行するメールマガジン「軍事情報」に連載の「日本陸軍兵站戦」シリーズのバックナンバー「陸軍工兵から施設科へ(20) 陸軍の気球の発展」によれば、この気球は全長25m最大中径7.2m高さ9.3mというかなり大きなものだったようで、前述の新井葉子氏の論文によれば上記写真の撮影の際には2名が搭乗し、高度400mまで上昇したことが記録されているそうです。
陸軍工兵から施設科へ(20) 陸軍の気球の発展


 気球の開発に目処をつけた猪三郎は、次に飛行船の開発に取りかかりました。通常の気球は風船(袋状または球状)の中に空気より軽い気体(この当時は主に水素が用いられたが、1937年の飛行船ヒンデンブルク号爆発事故以降は気球・飛行船ともヘリウムガスを用いることが主流となった※2を入れることで空中に人や物を浮かべるようになっていますが、大半が推進装置を有していないため進行方向は基本的に「風まかせ」であり、目的の方向に向けて自由に飛行することはほぼ不可能と言えます。

ja.wikipedia.org※2 現在では水素ガスの引火・爆発が直接の事故原因ではなく、静電気による放電で飛行船の外皮が発火・炎上したことが原因との説が有力であり、この説に従えばヘリウムを用いていたとしても飛行船が炎上した可能性は高い。ただし、ヘリウムを用いていれば爆発を避けられるので被害が少なくなった可能性は否定できない。
ヒンデンブルク号爆発事故 - Wikipedia

 

 これに対して、飛行船は空気より軽い気体によって浮力を得ることは気球と同じですが、推進装置(エンジン・電気モーター、プロペラ等)操縦装置(方向舵、昇降舵等)などを装備して空中を自由な方向に移動することが可能であるという点が大きな特徴となっています。

ja.wikipedia.org

 

 猪三郎は幾度となく飛行船を試作しては次々に改良を加えていき、遂に明治44年(1911)には東京上空を約20kmにわたって周回飛行し、「帝都一周飛行」として人々を驚かせました。現在も各種記念行事が行われている「空の日」は、この「山田式飛行船の帝都一周飛行」を記念したものであると言われることもあります(詳細は後述)

 

 山田猪三郎の足跡について、和歌山市のWebサイトに掲載されている「和歌山市の偉人・先人」の項では次のように紹介されています。

山田 猪三郎(やまだ いさぶろう)
文久3年(1863年) ~ 大正2年(1913年)

 山田猪三郎は、文久3年(1863年)12月1日に紀州藩士の子として和歌山城下の七軒丁(現:和歌山市堀止西1丁目)で生まれる。何事にも研究熱心に取り組み発明心が旺盛で、川の流れを使って水の浮力や抵抗を研究し、これを空気中の風に応用したという。
 明治19年1886年)イギリスの貨客船ノルマントン号が串本の大島沖で遭難した事件を機に、猪三郎は人命を救う救助具製作の研究に取りかかり、21年大阪に出て外国人からゴムの製法技術を教わると、ゴム製浮輪の製作を始め防波救命具の特許を得た。その後同25年に上京、気球の研究にも熱心に取り組み、33年には係留気球を考案し「山田式凧式気球」と名づけた。日露戦争では日本軍がこれを採用し、旅順攻略の際、偵察用として使われている。
 明治40年代になると、猪三郎飛行船を製作し次々と改良を加え、より性能のよい飛行船を完成させていった。全長30メートル以上もあるような飛行船にエンジンを積み、空を飛行したのである。特に、明治44年9月17日に大崎(現:品川区)から飛び立った3号船は、東京上空を巡航し、その飛行距離は約20キロメートルに及んだ。これによって、自由飛行できる飛行船は実用化されることになった。これらの飛行船は山田式飛行船と呼ばれている。
 猪三郎の発明は日本の航空界に大きな影響を及ぼした。今日あるその盛況は、猪三郎の寄与するところが大きいとして、明治42年勲六等単光旭日章を下賜されている。その後、猪三郎大正2年(1913年)4月8日、満49歳で死去。昭和4年(1929年)には和歌山市内の新和歌浦の章魚頭姿山中腹に顕彰碑が建てられた。
   平成23年:偉人・先人顕彰

和歌山市の偉人・先人|和歌山市

 

 上記引用文にある山田猪三郎の顕彰碑は、和歌浦地区にあるホテル「萬波 MANPA RESORT」から章魚頭姿山(たこずしやま 高津子山(たかづしやま)とも)へ至る遊歩道の脇にあります。もともとは上記のとおり昭和4年(1929年)に当時の文部大臣・鎌田栄吉※3を代表とする有志により建立されたものですが、近年老朽化が激しくなってきたため、地元の有志で設立された山田猪三郎顕彰会(小林護代表世話人が中心となって寄附を募り、平成24年(2012)に耐震補強工事が行われました。

山田猪三郎顕彰碑

新和歌の浦開発の跡を訪ねて | わかやま歴史物語」より

※3 鎌田榮吉(かまた えいきち 1857 - 1934)は、紀州藩出身の明治期の官僚、政治家で慶應義塾大学塾長を務めた。
鎌田栄吉|福澤諭吉をめぐる人々|三田評論ONLINE

 

 気球の歴史を遡ると、中国やタイでは古くから天灯(てんとう)と呼ばれる熱気球が作られており、これには三国時代諸葛孔明(亮)が紙を貼った大型の籠を用いた熱気球を用いて外部に救援を要請したのが発祥であるとの伝承があるようです。
天灯 - Wikipedia
 また、ポルトガル人のバルトロメウ・デ・グスマンが1709年に現代の熱気球に似た空中船「パッサローラ(Passarola)」を発明したとされますが、これも実際に飛行に至ったかどうかは不明です。
 こうしたことから、現時点では、確実な記録がある気球の有人飛行としては1783年のフランスのモンゴルフィエ兄弟による熱気球実験が最初のものであると考えられているようです。
気球#歴史 - Wikipedia

 

 我が国における気球、飛行船、飛行機等の開発の歴史については、吉田光邦氏が「初期航空の関係資料(「技術と文明 5巻1号 第8冊」日本産業技術史学会 1989)」において当時の資料の記述をもとに概説していますが、この中では山田猪三郎の業績について次のように記されています。

(前略)
 明治10(1877)年の西南の役に, 陸軍気球を製作したことは有名である。その最初の試みは失敗したが,ついで上原六四郎が担当して9月に完成した。 “球皮はゴム塗りの甲斐絹にて,其口を網にて包み,其下に畳みたる風傘を付け,万一危険の際には上部の球を切り離し,之を広げて安全に下降せん備へなり”(“明治事物起原”)とあるから “博物新編”のタ イプである。 しかしこれが実際に飛揚したのは翌年6月である。
 これとならんで明治10年の12月に,京都では仙洞御所において軽気球があげられた。製作は島津源蔵(筆者注:島津製作所の創業者),乗りこんだのは中村寅吉,球皮は羽二重にダンマーゴムを荏油でといて塗ってつくられた。12月13日付の朝野新聞によれば,見物人は5万と伝えている。
(中略)
 これに対して研究や実用化を進めたのは民間人と陸軍である。和歌山の人,山田猪三郎は独力で気球の研究を開始したが,これには陸軍の工兵会議の援助があった。その結果,山田は明治33年2月に第4164号を以て特許を得た。凧式と称した形式で“気球の長さにおける中部の稍や前方に偏する箇所より前頭上部に向ひ,漸次狭小になして,其先端を縦に恰も刃物における両刃の如く,又円形の儘狭小にして成る”という形で“強風に際するも依然沖天に安定を保つのみならず,風力を利用して益々昇騰力を増進せしむる”(特許公示)機能をもつものであった。これは明治36年,大阪に開かれた第5回内国勧業博に出陳されている。
 この山田式の気球はさらに改良されて,明治37年旅順の攻囲軍に2個が参加したことは有名である。この製作と使用に関して田中館愛橘(筆者注:たなかだて あいきつ 地球物理学者であるが、航空学にも携わり臨時軍用気球研究会等の委員となったほか、東京帝国大学航空研究所の創立にも大きく関与した)が協力したことは,中村清二田中館愛橘先生”(昭18)に詳しい。山田はこの形式の気球について,明治39年1月に特許を取得した。その特徴は“気球の大体を顛倒したる2等辺3角形の如き形状を有し,其最も長き個所を上背となし,球体の中央部においては断面を尖円若くは尖楕円形となし,其尖端より前頭及び後頭上部に向ひ漸次狭小ならしめ,其断面を円形若くは楕円形ならしめた”ものであった。その効果は“長時間空中にあるも球の上背は水平の平衡を保ち,受風の作用をして常に正しからしむるを以て,強風に際するも,依然、沖天に安定を保ち,且つ風力を利用して益々昇騰力を増進せしむる”ものとされている。
(中略)
 明治41(1908)年,アメリカのハミルトンが,小型の飛行船をもって来日した。石油発動機推進のものである。これに刺激された山田は直ちに飛行船の設計と製作に着手した。42年の特許安全空中飛行機がそれで“凧式気球の凧面に繋留せる繋留索に,進行機を連結したる空中飛行機”とある。山田はこれを日本式空中船と呼んだ。
 この詳しい構造は,山田猪三郎自身によって“科学世界”(4巻3号,明34.10(筆者注:明治43年10月の誤りか))に“日本式空中船の構造”と題して解説されている。推進にはガス機関14h.pを利用した。しかし同誌にはツェペリン飛行船第7号の遭厄(筆者注:1910年6月28日、ツェペリン飛行船第7号「ドイッチュラント」が初飛行から9日目にトイトブルクの森の上空で事故に遭い、修理不能の損害を受けたことを指すと思われる。ツェッペリン飛行船一覧 - Wikipediaが報道されている。これは乗客24人を乗せ300マイルを飛行するという巨船であった。彼我の差は大きかった。
(以下略)
「技術と文明」目次(1巻~10巻)とPDF

 

 残念ながら猪三郎が製作した飛行船は現存していませんが、和歌山市に本社を置く金属製模型のメーカー・エアロベースでは、当時の写真をもとに製作した山田式飛行船の300分の1模型キットを販売しています。同社のブログでは同飛行船の特徴が詳細に紹介されていますので、興味をお持ちの方はぜひこちらをご覧いただきたいと思います。

www.aerobase.jp


 上記の模型キットは、14hp(馬力)のエンジンを搭載しているということなので、猪三郎が製作した、いわゆる「山田式1号飛行船」であろうと思われます。西宮敦氏が運営する個人サイト「Aircraft-Archive」にある「Blimp & Semi-Rigid Airship」という頁には、初期の世界各国の飛行船の諸元とともに猪三郎の年表山田式飛行船の諸元などが掲載されており、非常に充実した内容となっていますが、これによれば山田式1号飛行船及びその改良型の山田式2号飛行船の諸元は次のとおりであったとされます。

山田式1号飛行船
気嚢のサイズ: 全長30m 全幅11m 全高8m 容積1,600m3
総浮力1,100kg(水素) 搭載量188kg
胴体中央に自動車用 Detroit 14hp エンジンを配置
最大速度17km/h 初飛行時は高度100mを維持

 

山田式2号飛行船
乗員/乗客 5名
全長 33m
全容積 1,500m3
エンジン Wright 水冷直4 50hp

Blimp & Semi-Rigid Airship

 

 こうして我が国航空産業の先駆けとなった猪三郎でしたが、中国革命軍からの発注を受けて明治45年(1912)に飛行船販売のために中国大陸に渡った際に悪天候で飛行船が破損するなどの不運に見舞われ、多額の借金を抱えて失意の内に帰国します。不運にもその帰国の船上で病を発し、体調を取り戻すことなく翌年(大正2年 1913)4月に満49歳で亡くなりました(51歳没との記述もあるが、これは旧暦から新暦への移行と数え年の関係によるもので誤りではない)

 

 しかし、猪三郎が興した会社「気球製作所(同社の創業は明治27年(1894)とされる)」は、その後、猪三郎の娘婿である豊間靖氏に引き継がれ、広告用アドバルーン気象観測用ゴム気球パラシュートなどに事業分野を拡大しつつ現在に至っています。同社のWebサイトによれば、主要取引先は気象庁防衛省宇宙航空研究開発機構JAXA)、高エネルギー加速器研究機構産業技術総合研究所放射線医学総合研究所理化学研究所、大学等となっており、高い技術力を活かして研究開発などの分野に広く貢献していることが伺えます。
株式会社気球製作所:会社概要・沿革


 我が国の航空業界に大きな足跡を残した山田猪三郎ですが、県内ではその偉業を知る人も少なくなってきていることから、平成25年(2013)に猪三郎没後100年を迎えるにあたり、前述の山田猪三郎顕彰会では猪三郎の功績をもっと多くの人々に知ってもらおうと伝記絵本「大空へかけた夢 山田猪三郎物語 紀州が生んだ航空界のパイオニア」を制作し、県内の学校や図書館等に合計546冊を寄贈しました。
わかやま新報 » Blog Archive » 和歌山市の偉人発信 『山田猪三郎物語』出版


 また、国際航空連盟(FAI)の下部機関である国際気球委員会CIA Comité International d'Aérostation)では、2016年の総会において「日本航空界の先覚者」として山田猪三郎功労者殿堂(CIA Hall of Fame)入りを承認しました。これを受けて、同年9月30日には米国アルバカーキ市の気球博物館で開かれた殿堂入りセレモニーに、猪三郎氏のひ孫で気球製作所5代目社長である豊間清氏が出席し、展示品として上記の絵本エアロベース社による山田式飛行船の模型などを贈呈してきたとのことです。
山田猪三郎氏が国際航空連盟殿堂入り | ゴム報知新聞NEXT 
参考:日本気球連盟(市吉三郎氏の「2016CIA国際気球委員会 Mallorca, Spain 報告」中の「33. CIA Hall of Fame」の項に「2016  Inductees  Living Troy Bradley, USA   Posthumous Isaburo Yamada, 山田 猪三郎(Japan)」の記述がある) 


空の日
 さて、国土交通省では毎年9月20日を「空の日」と定めています。これは、もともとは昭和15年(1940)に制定された「航空日」をルーツとするもので、第二次大戦後に一旦廃止されましたが、昭和28年(1953)に同名の「航空日」として復活し、平成4年(1992)に民間航空再開40周年を契機として名称が「空の日」に改められたものです。
 そして、通説ではこの「空の日(航空日)」が9月20日と定められたのは、明治44年(1911)9月20日に山田式飛行船が「帝都一周飛行」を実現したことを記念したものであると言われています。
 ところが、残念なことに国土交通省の公式見解としては、9月20日と定められたことに特別の由来はなく、第一回の航空日は昭和15年(1940)9月28日に定められたものの、その翌年(昭和16年 1941)に航空関係省庁会議において9月20日に変更され、以後、これが定着したものとしています。
なぜ9月20日なの?

 このことについて、一般財団法人日本航空協会の機関誌「航空と文化」に川畑良二氏が2005年10月15日付けで寄稿した「「空の日」はなぜ9月20日」という記事に次のような記述がありました。

 さて、これまでに以下が「航空日」、「空の日」9/20の由来とされていた。
①山田式飛行船の帝都一周飛行
②晴れの特異日
 先ず①については数年前の「空の日」・「空の旬間」のイベントで配布された公式パンフや新聞・雑誌等にも記されていた。そして、NHKもこれを前述のラジオ番組で流していた。しかし信頼性の高い年表や専門資料を調べてみれば直ぐに判るが、山田式飛行船の帝都一周飛行は代々木の初飛行の翌年の9月17日である。そのうえ山田式飛行船の初飛行は代々木の飛行機よりも、なんと3ヶ月ほど早い明治43年(1910年)年の9月8日である。従って山田式飛行船の飛行/動力飛行にこだわって「航空日」が制定されたとすると前出の航空局の解説文にある「日野・徳川両陸軍大尉が代々木練兵場にて我が国で最初の動力飛行を披露した明治43年(1910年)からちょうど30周年・・・・・」と大きく矛盾することになる。その場合解説文は「山田式飛行船の初飛行からちょうど30周年・・・・・」でなければならないはずである。国土交通省や「空の日」・「空の旬間」実行委員会、NHKもこれには気がついたようで、現在は山田式飛行船の存在についてはなにも触れていない。けれども、まだ誤った資料を基にしたと思われる記事や報道が今も巷に、はびこっているので要注意である。
 ②については調べても9/20が特異日であるとの裏付けが取れない。よって①は錯誤で②は俗説と思われるが、これだけでは9/20に由来が無いことの完全な証明にはならない。
 そこで、決定的な新聞記事、昭和16(1941)年2月27日の朝日新聞をご紹介したい。これは鎌倉在住の郵便史家、荻原海一氏が見つけられた。その記事は前年の9月28日に第1回が催された「航空日」が、第2回以降については9/20に決まったと報じたものだが、その最後に小文字だが念のため『なほ第1回といひ、第2回といひその日取りは別に航空関係の意味ある日ではなく主催者間における最も都合の良い日取りとして選ばれたのである』と付け加えられていた。この記事を前にしては、いかなる説も反論できない。当時は全く余計なことであったかもしれないが、後年のことを配慮した価値ある付け足しであった。
WEB版「航空と文化」 「空の日」はなぜ9月20日? 川畑 良二

 ということで、巷間に喧伝されている「空の日は山田式飛行船の帝都一周飛行を記念して制定された」との言説はどうやら誤りであるようなのですが、それでも一時は公式パンフレット等に記載されていたことも事実であり、明確な誤りとして捨ててしまうのも勿体ないような思いはありますが・・・


はね駒
 もう一つ、この「山田式飛行船」に関連して押さえておきたいエピソードがあります。
 NHKのいわゆる「朝ドラ」つまり「連続テレビ小説」の第36作として昭和61年(1986)に放送された「はね駒(はねこんま)」という番組があります。主演はその前年にフジテレビ系「スケバン刑事」で主人公・麻宮サキを演じた斉藤由貴で、平均視聴率は41.7%、最高視聴率49.7%という抜群の人気を誇った作品です(1980年以降で平均視聴率40%を越えた朝ドラは「おしん 52.6% 1983年」、「澪つくし 44.3% 1985年前期」「はね駒 41.7% 1986年前期」「心はいつもラムネ色 40.2% 1984年後期」の4作のみ 朝ドラ歴代視聴率ランキング )

 この作品は、明治・大正期に活躍した新聞記者で「女性新聞記者の草分け」と言われる磯村春子をモデルにしたものですが、春子明治43年(1910)に山田式1号飛行船の浮揚実験に記者として同乗しており、これが日本人女性記者の航空取材のさきがけであったとされています。
磯村春子 - Wikipedia

 このエピソードは「はね駒」の劇中でも取り上げられており、最終回の直前回である第155話において主人公りん斉藤由貴山田猪三郎(演者不明)に直談判して取材許可をとり、飛行船に乗ったという場面が描かれているようです。

peachredrum.hateblo.jp