「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
今回は、世界で初めてビタミンAの分離・抽出に成功した科学者・高橋克己(たかはし かつみ)を紹介します。彼の発明は世界各国で特許を獲得し、その商品化による利益は彼が所属していた理化学研究所(通称:理研 現在は国立研究開発法人理化学研究所)の経営難を解消したばかりか、やがて新興財閥「理研コンツェルン」を生み出す礎ともなったのです。
和歌山城の近くにある岡公園の中に、「農学博士 高橋克己 頌徳碑」と刻まれた石碑が建立されています。この石碑は高橋克己顕彰会によって昭和44年(1969)に建立されたものですが、その脇にある説明板には次のように記されています。
農学博士 高橋克己頌徳碑
高橋克己(1892-1925)は、世界ではじめてタラの肝油からビタミンAを分離抽出したことで知られる科学者です。この碑は、高橋克己博士顕彰会によって、昭和44(1969)年に建てられました。
明治25(1892)年、海部郡木本村(現和歌山市木ノ本)に生まれた高橋は、県立和歌山中学校(筆者注:現在の県立桐蔭高等学校)、官立第三高等学校(筆者注:現在の京都大学総合人間学部)を経て、大正3(1914)年に東京帝国大学農科大学(筆者注:現在の東京大学農学部)農芸化学科に入学しました。大正6年、大学院に進み鈴木梅太郎の研究室で油脂の研究に取り組み、卒業後も理化学研究所研究生として研究を続けます。大正11年、ついに世界に先駆けて油脂からのビタミンAの抽出に成功し、翌年イギリスから特許を受けました。その後も研究所研究員として研究を続けましたが、大正14年に病により32歳の若さで亡くなりました。
岡公園|和歌山市
東京帝国大学農科大学で高橋が師事した鈴木梅太郎(すずき うめたろう 1874 - 1943)は、明治43年(1910)に米糠の中に脚気を予防してこれを快復させる成分が含まれていることを学会で発表し、明治45年(1912)にはその成分を結晶として抽出(この時点ではニコチン酸を含む不純化合物という形であった)することに成功し、これをオリザニンと名付けました。鈴木はこのオリザニンを「ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素である」と指摘しましたが、これはまさに現在で言う「ビタミン」の概念そのものであり、鈴木は「世界で最初にビタミンを発見した科学者」であると言われています(現在ビタミンは13種類あるとされており、鈴木が発見したオリザノールはビタミンB1に該当する)。
くすりのあゆみ | くすり研究所 | 日本製薬工業協会
しかしながら、鈴木の最初の発表からしばらく後にポーランドの生化学者カシミール・フンク(CasimirFunk 1884-1967)が同様の成分を発見して、これを「ビタミン」と命名する論文を発表しました。この時点では鈴木の論文は日本国内において発表された日本語の論文のみであったため、国際的には「ビタミンの発見者、命名者」の栄誉はフンクのものになってしまったのです(その背景には、当時の日本の医学界では鈴木の説があまり支持されていなかったという問題もあったとされます)。
公文書にみる発明のチカラ - 51. オリザニンの発見(鈴木梅太郎) : 国立公文書館
鈴木に師事した高橋が抽出に取り組んだビタミンAは、1914年にアメリカの生化学者E.V. マッカラムが発見したものです(当初は「脂溶性A(fat-soluble A)」と命名されていた)。これについては、小柳達男氏が「ビタミンAの発見 マッカラムの想い出(「化学と生物 7巻1号」公益社団法人日本農芸化学会 1969)」においてマッカラムによる思い出話として発見当時のエピソードを紹介していますが、その過程では日本で大規模な疫学調査を行った森正道という日本人医師の知見が活用されたということも記されており、大変興味深い内容となっています。
(前略)
4年ほどたって脂肪の試験にとりかかったとき,意外な現象を見て驚いた. それは,いつも使っているバターの代わりに豚脂やオリーブ油を使ってみると,ネズミのまぶたがふくらみ,目の角膜がいたみ,発育も止ってしまうことであった. 当時は脂肪は炭水化物と同様にカロリー源としてのみ価値をもっていると考えられていた時代であるから,脂肪の種類により成長したり死んだりするというこの成績は意外であったのである.
私はバターの中に未知栄養成分があるにちがいないと考えた. そこで,バターからこの成分をオリーブ油に移してみようと思った.
(中略)
このオリーブ油をバターの代わりにネズミに与えると,バターと同じようにネズミは成長した. すなわち,バター中の未知栄養成分はバターの不鹸化物中にあり,この操作でオリーブ油のほうに移ったのである. 私はこの栄養成分を脂溶性Aと呼んだ. これが後にビタミンAと名づけられるものであり,私は新しい栄養素を発見したことになった. これは1913年のことであり,このことから牛の試験の成績(筆者注:マッカランがこの研究に取り組み始めたきっかけは牛の栄養不良に関するものであった)も説明できることになった.
(中略)
1921年には日本から病理学者の森博士※1が私のところに留学し,ビタミンA欠乏の初期の目の状態を組織学的に観察した. 彼は表皮細胞が乾いてかたく角化するということがビタミンA欠乏の最初の変化であり,これが目の病気の原因であることを示した. すなわち,角化は涙腺をいため,涙が出なくなるとまぶたの内壁に微生物が繁殖し,角膜をいため失明するようになるのである. 彼はすでに1904年に,日本の2~5歳の子供にビタミンA欠乏による目の障害について1,400という驚くべき多数例を報告していた.
肝油にビタミンAが濃厚に含まれていることがわかり,夜盲症が肝臓を食べることでなおるということが説明できるようになった.
(以下略)ビタミンAの発見
※1 三重県の医師・森正道。「脾疳(ひかん)」という小児病の大規模な疫学研究を行い、その治療に肝油が極めて有効であることを発見した。
公益財団法人 乙卯研究所
マッカラムの研究により、当時我が国でも多数の症例が発生していた目の障害(多くが「とり目(鳥目、後天性夜盲症の一種で暗部の視力が著しく衰える病気。やがて失明に至ることもある。)」と呼ばれるものであった)がビタミンAの欠乏によることがわかり、森正道の疫学研究によってその成分が肝油※2に多く含まれていることが判明しました。
※2 肝油(かんゆ)は、タラやサメ、エイの肝臓に含まれる液体、およびそれから抽出した脂肪分。古くから栄養剤・強壮剤などとして用いられてきたが、我が国では幕末期にオランダ人医師ポンぺ(安政4年(1857)にポンペが長崎奉行所西役所の医学伝習所において講義を開始した日が現在の長崎大学医学部の創立日とされている)が栄養剤として用いたのが最初の使用例とされる。
参考
肝油の産業技術史的研究(1)-日本における肝油の伝来と製造起源-/小野忠義
(「技術と文明 7巻2号」日本産業技術史学会 1992)
「技術と文明」バックナンバー目次
初期の肝油は強烈な魚の生臭さを持っていたために服用しにくかったが、河合亀太郎がゼリー状のドロップの形でビタミンを安定に保つ技術を開発。これを「肝油ドロップ」として発売したところ大ヒット商品となった。これは現在も「カワイ肝油ドロップ」として販売されているが、一定の年齢以上の方には小学校で夏休み前に申込用紙が配られて団体購入していた経験を持つ人が多く、「夏休みの味」として記憶されていることも多い。
夏休みの味 – 富山の映像・CM制作会社 ビジョン21
そこで、肝油に含まれるビタミンAを純粋な形で取り出そうと世界各地の研究者が取り組み始めたのですが、なかなか成功には到りません。これに敢然と挑戦したのが鈴木梅太郎研究室で学んでいた高橋克己です。師匠である鈴木が「ビタミンの第一発見者」という国際的栄誉を手にすることができなかったことに対するリベンジマッチという意識があったのでしょうか、高橋は持ち前の油脂に関する豊富な知識を武器として従来とは異なる手法でビタミンAの抽出に取り組み、わずか一か月という短期間でこれに成功しました。この研究経過について「ビタミン 79巻 (2005) 2 号(公益社団法人日本ビタミン学会)」に掲載された「日本の天然ビタミンA産業開拓の歴史(曽根博,夕田光治,東伸好,妹尾春樹)」には次のように記されています。
1-3.高橋克己の研究とその成果
高橋克己は東京帝国大学を卒業後,同大学院で鈴木梅太郎教授の指導を受け,その後理研の研究生となり,同教授の下で食物の研究の一貫として米油の研究と取り組んだ.
(中略)
高橋克己は米油の研究を通して,特に油の中の微量成分に関する栄養学上の問題に興味を持ち研究を行っていたが,その後,ビタミンAの研究に極めて積極的に取り組み始めた. その頃,同じく鈴木梅太郎教授の指導で医学を専攻の三浦政太郎(夫人は有名なオペラ歌手の三浦環※3)がロンドンでビタミンAの研究と取り組んでおり,帰国後,理研で同じくビタミンAの研究を続けていた. しかし,高橋克己の情熱に鈴木梅太郎教授は三浦の研究テーマをビタミンCに替えたなどのエピソードもあり,鈴木梅太郎教授の水溶性,脂溶性にわたる広範な学問の取り組みが垣間見られる.
当時,バターの中にある動物の成長因子であるビタミンAがタラ肝油の中にも多量に含まれている事は分かっていたが,極めて不安定な物質であり取り出す事は出来ていなかった. 高橋克己はそれまでの油脂に関する豊富な経験を基にして,極めて大胆な方法で取り組み,肝油の油脂成分をカルシウムで石鹸とし,その中から不鹸化物としてビタミンAを取り出して,世界で初めてビタミンAを抽出分離する事に成功した. また,その後,真空下高温で蒸留するとか,極低温を使って溶剤中で結晶分別を行うなど,様々な手法を用いてビタミンAをほぼ純粋に近い状態で取り出す事に成功し,更にその理化学的性質や,生理作用についても広範な研究を行い,肝油からビタミンAを抽出する基礎技術を確立した. これが1922年である.
(以下略)
日本の天然ビタミンA産業開拓の歴史※3 日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。プッチーニの「蝶々夫人」にちなんで「マダム・バタフライ」と称された。
伝説のプリマドンナ 三浦環の軌跡
この当時高橋が所属していた鈴木研究室は、理化学研究所の第3代所長・大河内正敏(おおこうち まさとし 1921~1946)が提唱した「研究室制度」に基づいて新たに設けられた組織で、その代表たる主任研究員(高橋の場合は鈴木梅太郎)が研究室の運営に関して大幅な裁量権を持っていることが特徴でした。
そもそも理化学研究所は、タカジアスターゼやアドレナリンの発見者として知られる高峰譲吉(たかみね じょうきち 1854 - 1922)の「国民的化学研究所(有能の士に自由な研究の場所を提供する民間機関)」開設に関する提言に端を発し、渋沢栄一を設立者総代として皇室からの御下賜金、政府からの補助金、民間からの寄付金を基に設立された民間研究機関です。
沿革 | 理化学研究所
しかし、初代所長であった菊池大麓は就任後5か月で急逝し、第2代所長の古市公威もまた所内の意見対立に直面して健康問題を理由に辞任してしまいます。その後を受けて第3代所長となった大河内は、わずか43歳という若さでしたが、所内の大改革に乗り出します。これについて、松井孝司氏は「「理研」に結実した高峰構想 民間非営利法人の利点を力説(「近代日本の創造史 2006年1巻」 特定非営利活動法人 近代日本の創造史懇話会)」において次のように記しています。
思い切った「主任研究員」制度
43歳の若さで第三代所長に選任された大河内正敏氏は、対立していた物理部と化学部を廃止し、部長という職制も無くし、いままで誰も考えなかった新しいシステムを考案しました。それが「主任研究員制度」です。主任研究員の指導下に研究室を独立させ、研究課題はむろんのこと、予算の使い方も人事も一切を主任研究員にまかせる方式を採用したのです。長岡半太郎※4と池田菊苗※5は主任研究員となって新所長を支えました。研究テーマは自由で、新所長は「物理が化学を、化学が物理をやってもいっこうにかまいません」と言ったそうです。出勤簿などもなく、理研はまさに「科学者の楽園」になったのです。※4 大阪帝国大学初代総長。原子の構造について、世界で初めて「原子核のまわりを電子が回っている」とする「土星型原子モデル」を提唱したことで知られる。
世界で初めて土星型原子モデルを提唱 | シリーズ偉人たち | 広報活動 | 中部原子力懇談会 | エネルギー・環境教育※5 「味の素」の主成分として知られるうま味成分「グルタミン酸」の発見者。
うま味発見から商品化への軌跡ー池田菊苗物語 | ストーリー | 味の素グループ
しかし、こうした「科学者の楽園」を維持していくためには十分な研究費が必要です。それまでも財政的な困難を抱えていた理化学研究所は、研究室制度が活発になるのと反比例するように財政は危機的状況となっていたのでした。この危機を救ったのが高橋克己によるビタミンAの抽出に関する発明でした。こうしたことについて、1999年に理研(この時点では特殊法人理化学研究所)が発行した「理研ニュース No.221 1999 11月号」に掲載された「特別企画 ベンチャーの源流を探る~理研を救ったビタミンA」という記事には次のように書かれています。
財団法人理化学研究所の第3代所長・大河内正敏が打ち出した「主任研究員が予算、人事権を握り、研究テーマも自主的に決める」という研究室制度は、研究者たちが渇望していた「研究の自由」を実現して理研の活性化をもたらした。その半面、湯水の如く研究費が投入されたことから、財政のピンチをも招く結果となった。これを救ったのが、鈴木梅太郎研究室の高橋克己が1922年(以下、年はすべて西暦で表示)に魚のタラの肝油から世界で初めて分離・抽出に成功したビタミンAの企業化だった。24年時点では理研の収入の柱である作業収入(発明品などの売り上げ)の8割をビタミンAが稼ぎ出した。大河内が作り出した、基礎研究重視の伸びやかな環境の中から、工業化に直結する発明が生まれ、理研ベンチャーの第1号につながったわけだ。
高橋克己が世界で初めて抽出
(中略)
理研がビタミンAをゼラチンのカプセルに手で詰める形で試作して売り出したところ、肺結核の特効薬との噂が広まり、患者の家族らが殺到する事態となった。これを目の当たりにした大河内は、即座に企業化を決断、鈴木研究室のチームに工業化のための研究を委ねた。大河内が毎日のように研究室に顔を出しては「どうだね」とせっついたせいもあってか、高橋や上野康次郎らは不眠不休に近い状態で開発に没頭、わずか4ヶ月で工業化技術の完成にこぎつけた。
「研究者の楽園」を支える
工業化した段階でのビタミンA入りカプセル1つの原価は1、2銭だったが、大河内は、これを10銭の高値に設定、関係の深い製薬会社三共での企業化を望んでいた鈴木の主張を容れずに、理研での自主生産に踏み切った。公的な支援を受けている理研が安値販売すれば、製薬業界に打撃を与えるからというのが表向きの理由だが、その裏には「何とかして基礎研究の費用をひねり出そう」との思いがあったことも確かだ。
「理研ビタミンA(筆者注:当時の表記は「理研 ヴィタミンA」)」と名付けられた製品は売れに売れたが、そのうち「学名のビタミンAを商品名に使うのはけしからん」との反発が強まった。大河内は、「それならば、Aをとって理研ビタミンにすればよい」と即断、このすっきりしたネーミングがかえって製品の知名度を高める結果ともなり、「理研=ビタミン」のイメージも一段と浸透していった。ビタミンAの売上高は、当時、鈴木研究室にいた武居三吉や、岩田元兄らの記憶によれば「企業化して3年目ころには年間100万円以上になった」という。24年から26年ころまでの理研の年間支出は90万円弱から120万円弱の規模だったから、その貢献度は大変なものだったといえよう。研究者の意欲を引き出す狙いもあってか、大河内が発明者に与えた報酬も莫大なものとなった。33年上半期に計上されたビタミンAの利益のうち、60%を理研が取得、残る40%はすべて高橋の遺族と5人の技師に配分されている。
(以下略)『RIKEN NEWS』1999年 | 理化学研究所 1999年11月
上記引用文にあるように、大河内の改革には、研究成果への対価として研究者個人に多額の報酬を支払うということも含まれていました。Wikipediaによれば、高橋は特許取得後の8年間で48万円(現在の金額に換算すると7億2,000万円)程度の発明報奨金を得ているとされます。
大河内はこの大成功を受けて理研の各種発明品を工業化するための機関として昭和2年(1927)に理化学興業という会社を設立しました。同社では「理研ビタミン」の販売を理研から受託した以外にも工作機械、マグネシウム、ゴム、飛行機用部品、合成酒など多数の発明品の事業化に成功し、それぞれの事業分野ごとに独立した企業を設立していきました。その結果、理研(理化学研究所・理化学興業(のちに理研工業と改称))を中核とする企業群は最盛期には会社数63、工場数121を擁する一大企業集団(「理研コンツェルン」または「理研産業集団」と呼ばれる)へと成長していったのでした。
第二次世界大戦後、この企業グループは「財閥」とみなされたため、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による財閥解体の対象となり、それぞれ独立した企業へと分離されてしまいました。Wikipediaの「理研グループ」の項によれば、次のような企業が理研コンツェルンに所属していたとされています。
「理研と未来を創る会」正会員のうち理研を出自とする企業
科研製薬
リケンテクノス(旧・理研ビニル工業)
理研製鋼(現大同特殊鋼持分法適用会社)
リケン(ピストンリング製造の国内最大手)
理研電線(現古河電気工業子会社)
理研計器(ガス検知器メーカー)
理研ビタミン
理研香料工業
リコー(旧・理研感光紙、理研光学)
過去の理研コンツェルン構成企業(上記と重複するものを除く)
機械・金属
宇部マテリアルズ(旧・理研金属)
エルゴテック(旧・理研鋼機)
理研軽金属工業(現日本軽金属ホールディングス子会社)
新日軽(上記会社の建材部門の譲受先、2011年度よりLIXIL)
理研アルマイト工業
化学・食品
オカモト(理研ゴムを吸収合併)
理研コランダム(オカモト子会社、研磨材製造)
協和発酵キリン(利久発酵工業(旧社名:理研酒工業)を吸収合併)
これらの各種事業のうちビタミンAの製造販売については、上述のように一旦は理化学興業が主要業務を担当することになったものの、昭和13年(1938)には理研栄養薬品株式会社を設立して業務全体(理化学研究所栄養薬品部・同医療薬品部及び理化学興業薬品部の業務)を同社に移管します。終戦後の混乱の中で理研栄養食品は会社清算に追い込まれますが、昭和24年(1949)には同社のビタミンA部門を引き継いだ理研ビタミン油株式会社を設立し、これが現在に続く理研ビタミン株式会社となります(昭和55年(1980)に現在の社名に名変更)。
「理研ビタミン株式会社」という社名だけではピンとこないかもしれませんが、「リケンのわかめスープ」「ふえるわかめちゃん」といった商品名を聞けばご存知の方は非常に多いと思います。
研究開発 | 会社情報 | 理研ビタミン株式会社
同社の主力製品であった「ビタミンA」と「わかめ」とはなかなか結びつくように思えないのですが、実はビタミンAの原料となる「魚の肝」を大量に仕入れるためにかつての同社では漁業者や水産学者と関係が深く、そのルートを通じてわかめの養殖技術に関わりはじめたのだそうです。これも、「学際的研究」を奨励した理研の3代目所長・大河内氏の薫陶の賜であるといっても過言ではないのでしょう。
Aから始まる理研ビタミンストーリー | 会社情報 | 理研ビタミン株式会社
以上のような経緯で理化学研究所(ひいては理化学コンツェルン)の発展の基礎を築いたとされる高橋克己ですが、彼自身は大正13年(1924)に腸チフスに感染し、病の床につきます。その功績の偉大さを鑑みた東京帝国大学農学部では翌14年(1925)1月31日に臨時教授会を開催して高橋に農学博士の学位を授与しましたが、高橋はその8日後の2月8日、遂に病を克服できず死去します。満32歳の短い生涯でした。
高橋は生前、後進の育成にも心を配っていたようで、大正13年(1924)に彼が恩師・鈴木梅太郎とともに帝国学士院賞(受賞研究の題目は「副栄養素の研究」)を受賞した際には、その賞金の全額を母校である和歌山中学校(現在の県立桐蔭高等学校)に寄付し、「高橋賞」を設けて理科分野に秀でた生徒を表彰することとしました。
恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧 第11回 (大正10年) ~ 第20回 (昭和5年)|日本学士院
現在も、この意思を継ぐ高橋克己顕彰会が「日本学生科学賞」の県審査において、優秀と認められたものに対して、「高橋克己特別賞」を贈り続けています。
桐蔭高校ホームページ - 桐蔭の歴史 大正13年7月
冒頭で紹介した「農学博士 高橋克己 頌徳碑」はこうした功績を記念して顕彰会により建立されたものですが、令和2年(2020)になってまた新たなモニュメントが設けられました。これは、和歌山市木ノ本にある高橋の生誕地に設置されたもので、同年8月4日付けのWeb版「WBS和歌山放送ニュース」には次のような記事が掲載されていました(現在当該記事は削除済)。
ビタミンA世界初分離抽出の髙橋克己博士生誕地に胸像設置
August 4, 2020, 8:21 pm
世界で初めてビタミンAの抽出に成功した和歌山市出身の農学博士・髙橋克己(たかはし・かつみ)の功績をたたえようと、和歌山市などが生誕地に胸像や功績を説明する碑を設置すことになり、今月(8月)8日に現地で記念の式典を行います。
髙橋克己は明治25年、1892年和歌山市木ノ本生まれ、世界で初めてビタミンAの分離抽出に成功し、多くの病気の治療推進に貢献しました。
和歌山市はこの業績をたたえ、平成19年、2007年に偉人・先人として顕彰しています。
和歌山市は今年(2020年)になって髙橋克己の親族から生誕地の一部区画の寄附を受けたことから、高橋克己博士顕彰会が制作した胸像や業績を紹介する説明板を設置し、後世に伝えていくことにしました。
この完成を祝うお披露目は今月(8月)8日午前10時から現地で、市と顕彰会の共催で行われます
ちなみに、戦後の財閥解体により当初の「財団法人理化学研究所」は昭和23年(1948)に解散しますが、同年、これに代わって「株式会社科学研究所(科研)」が発足します。科研は、その後二度にわたる組織変更を行った後、昭和33年(1958)に国の特殊法人となり「特殊法人 理化学研究所」が誕生することになりました。そして、平成15年(2003)には独立行政法人、平成27年(2015)には国立研究開発法人と法人格は移り変わってきましたが、その研究内容は物理学、工学、化学、数理・情報科学、計算科学、生物学、医科学など幅広い分野に及び、日本唯一の自然科学の総合研究所としてそれぞれの分野で世界最先端の研究成果を挙げ続けています。
理研について | 理化学研究所
理化学研究所といえば、「2位じゃダメなんですか?」との指摘を受けたスーパーコンピュータ「京」や、科学の信頼性そのものに大きな影響を及ぼした「STAP細胞」事件など、あまり良くない話題の際にメディアで大きく取り上げられることが多いような気がしますが、「京」の後継であるスーパーコンピュータ「富岳」が5期連続で世界最速の座を獲得したり、原子番号113の新元素「ニホニウム(Nh)」を発見するなど、その研究成果は国際的に高く評価されているのです。
高橋克己によるビタミンA抽出という成果がなければこの理化学研究所という組織自体が財政難により設立まもなく解体されてしまう可能性があったということを考えると、その活躍期間は極めて短かったものの、氏の功績は我が国科学技術発展のために言葉では言い尽くせないほどの大きなものであったということができるのでしょう。