生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

和歌山県人初の総理大臣・片山哲(田辺市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、田辺市生まれの弁護士、政治家で和歌山県出身者としてはじめて(かつ現時点では唯一の)内閣総理大臣となった片山哲(かたやま てつ)を紹介します。

片山哲 (出典:片山哲.jpg - Wikipedia

 片山について、和歌山県が運営するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」では次のように紹介されています。

政治家 片山 哲(かたやま てつ)

明治20年(1887)~昭和53年(1978)
田辺市生まれ

和歌山県人初の内閣総理大臣

 明治20年(1887)、現在の田辺市に生まれる。後に「私の身体の中には2つの血潮が流れている。1つは母から受けたキリスト教の思想、信仰、教育であり、他の1つは父から受けた孔孟の教え、老荘学派の考え方である」と述懐しているように、父母の薫陶を受け、博愛、清節の教えを強く受けて育つ。
 田辺中学校(現:田辺高校)を経て、明治45年(1912)に東京帝国大学(現:東京大学を卒業。弁護士となり、東大YMCAの一室を借り簡易法律相談所を設け、農民や労働者、女性など弱い立場におかれる人のための事件を扱った。後に中央法律相談所を開設するが、法律的、社会的な不公平をただすためには政界での活動が必要との思いを強める。
 大正15年(1926)安部磯雄※1吉野作造※2らの指導のもと社会民衆党が結成され、書記長に就任。昭和5年(1930)、43歳の時に神奈川2区から立候補して当選する。
 太平洋戦争が終った昭和20年(1945)、日本社会党が結成されるとともに書記長に、翌昭和21年(1946)には中央執行委員長に就任。昭和22年(1947)の第23回総選挙では、日本社会党が143議席を得て第1党に躍進、首相指名選挙ではほぼ満場一致で内閣総理大臣に就任した。
 民主党国民協同党との連立で組閣された片山内閣は、戦後の難局処理に当たり、新憲法下で、警察制度の民主化を図った警察法の制定、婚姻の自由や男女平等を規定した改正民法の公布などを実現したが、保守政党との連立政権であるため意見調整がたびたび難航、また社会党内の左派が造反するなど政権運営の行き詰まりが原因で、昭和23年(1948)2月に総辞職するに至った。
 東西の古典に通じ「文人宰相」と称され、平和主義のクリスチャンとして知られた片山哲は、その後も憲法擁護、国民主権の立場に立った政界浄化を訴えて長く議員活動を続け、昭和53年(1978)、90歳で亡くなった。
片山 哲 | 和歌山県文化情報アーカイブ

※1 日本における社会主義運動の先駆者。早稲田大学野球部の創設者で、「日本野球の父」とも呼ばれる。
安部磯雄 - Wikipedia
※2 東京帝国大学教授。「民本主義」を唱え、大正デモクラシーの理論的指導者となった。中央公論社が昭和41年(1966)に創設した「吉野作造賞(平成12年(2000)以降は読売新聞社の「読売論壇賞」と一本化されて「読売・吉野作造賞」)」は政治、経済、社会などの分野の優れた著作に贈られる学術賞で、吉野作造の業績を記念して設けられた賞として知られる。
吉野作造 - Wikipedia

 

 上記引用文にあるように、片山は母からキリスト教を、父からは老荘の思想をそれぞれ受け継いだとされていますが、これについて「池上彰と学ぶ日本の総理SELECT」というWebサイトでは次のように紹介されています。

 片山哲の父省三は弁護士だったが、儒教の君子道を実践する謹厳実直な人物であった。酒も煙草たばこもやらず、3度の食事以外は間食もせず、お茶も飲まなかったほどである。一方、母の雪江は敬虔なクリスチャンで、みずからも布教するという熱心さであった。女性の地位向上や幸福をテーマにした婦人雑誌『女学雑誌』を創刊号から愛読していた。
 そんな両親のもと、片山は1887年(明治20)7月28日、和歌山県西牟婁郡田辺町(現田辺市に長男として生まれた。父から「清廉」「悟り」「足るを知る」など、おのれを修める道を教え込まれ、母からは、キリスト教的な「恵まれない人々に対する強い愛」「奉仕の精神」を学んだ。
 1908年(明治41)、片山東京帝国大学法科大学独法科へ入学する。東大キリスト教青年会(東大YMCA)の寄宿舎へ入るが、ここで片山は、のちに社会党の盟友となる鈴木文治政治学者の吉野作造の知遇を得て、政治・社会思想の影響を受ける。なかでも、片山の将来を決定づけたのが、「犯罪はこれ社会の余弊(社会的弊害)なり」と説く牧野英一教授の講義であった。片山は「私の社会運動、社会事業方面に進んで行こうという心持に、理論的学問的根拠を与えてくれたのは、実に牧野先生の主観主義刑法である」と語っている。この出会いにより、片山は父と同じ弁護士の道を歩もうと決めたのである。
【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール<41>

 上記のサイトではその後の片山の歩みについても詳細に記述されていますが、ここではこのうち片山が政界へ進出して戦後、日本社会党初代委員長となるまでの物語を引用します。

弁護士から政界へ
 1912年(明治45)、東大を卒業した片山はいったん郷里の田辺に戻り、父省三のもとで法律の実務を勉強し、経験を積み重ねた。1917年(大正6)にふたたび上京し、翌年、同窓の星島二郎東大YMCA寄宿舎の1室を借りて、念願だった貧困者のための簡易法律相談所を開設した。この相談所は、吉野作造の宣伝のおかげでたいへん繁盛した。
 1920年(大正9)には事務所を日比谷に移し、「中央法律相談所」と改称、官僚主義に反対の立場をとる『中央法律新報』という雑誌を創刊した。このなかで片山は、死刑制度・公娼制度・戸主制度・小作制度の廃止治安警察法の撤廃などの持論を展開する。また、その翌年から5年間、東京女子大学の講師となり、封建的家族制や家督相続制の廃止結婚法の制定婦人参政権の必要性などを講義した。片山がとくに女性の地位向上に務めたのは、多分に母雪江の影響があったものと思われる。
 1924年(大正13)、片山らは無産政党準備会として政治研究会を結成。日本社会主義運動の先駆者である安部磯雄が中心となり、社会主義政党結成の準備が始められた。無産とは、財産を持たない労働者や農家のことで、彼らの利益を目的とする合法政党を、当時非合法とされた日本共産党と区別して、「無産政党」と呼んだのである。
 1925年(大正14)に普通選挙が公布されると、無産運動が活発化する。翌年12月、勤労者のための政党として、安部を党首とする社会民衆党が成立し、片山書記長となる。2回目の普通選挙である1930年(昭和5)2月の衆議院総選挙で、片山は神奈川2区(のち3区)から立候補して初当選した。
 このころ、無産政党は離合集散を繰り返していたが、1932年(昭和7)7月、片山が所属する社会民衆党全国労農大衆党と合同して、安部を委員長とする社会大衆党が成立。片山は、中央執行委員および労働委員長となる。1936年(昭和11)2月の総選挙で、社会大衆党安部鈴木片山以下18名が当選し、全国的政党の地位を獲得することとなった。
 しかし、翌年から始まった日中戦争によってしだいに軍部の力が強まり、1940年(昭和15)10月に大政翼賛会が成立すると、体制に迎合した各政党は翼賛会の傘下に入り、戦前の政党政治は終焉を迎えた。大政翼賛会に加わらなかった片山は、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙に非推薦で立候補するが、落選してしまう。

 

日本社会党を率いる
 終戦後、GHQの主導で民主化政策が進められると、1945年(昭和20)11月には、社会主義運動家の大同団結により、日本社会党が結成された。委員長空席のまま片山書記長に就任、翌年9月に初代委員長となった。日本社会党は、政治的には「民主主義」、経済的には「社会主義、国際的には「平和主義」を主張。1947年(昭和22)4月、新憲法施行目前の総選挙に臨み、吉田茂自由党を抑えて第1党に躍り出た。戦後復興の立ち遅れから、国民は政権交代を選んだのである。
(以下略)

 

 上記引用文にあるように、片山が同窓の星島二郎とともに東大YMCA寄宿舎で開設した簡易法律相談所は、当時の法曹会に大きな影響を与えたようです。上田理恵子氏は「大正期における民事訴訟法改正作業と在野法曹(「熊本大学教育学部紀要人文科学 51号」熊本大学 2002)」においてこの当時の様子を次のように記しています。

第2項 簡易法律相談所の法曹たち
 社会運動の第一線に立つ弁護士たちが,とくに法実務家としての特徴を生かした日常的な取り組みとしては,一般市民の法律相談を無料ないし低価格で受け付ける活動がある.訴訟を起すに際して弁護士に委任する資力のない者に対する法律扶助を行うことも,その中心事業の一つであった.明治後期から大正期にかけてこうした取り組みを進めていたのは,宗教団体や学術関係団体,あるいは地方自治体や警視庁等の法律相談部ないし法律相談所であった.
(中略)
 中でも,東京基督教青年会の「簡易法律相談所」を淵源とし,1918年に片山哲(1887-1978)と星島二郎(1887-1980)が東京に創設した中央法律相談所の活動が,全国的影響もひときわ目立つ.
 この法律相談所が開設された当時の目的は「基督教主義による実際的社会救済事業」であり,その特色は「低廉なる費用(相談料一円均一)で極々簡単に,而も親切に法律上の一切の事務を取り扱う」ことにあった(cf.[片山,1919]).ひいては,大正デモクラシーの中核となる政治上の普選問題,経済上の労働問題という「改造運動」を結実させるために,その鍵となる「法律制度即ち法制の改造」に着手するのだと宣言している([片山,1920]).中央法律相談所のスローガンとされた「法律の社会化」は「民衆化」と同義語的に実践的に解された.
(以下略)
熊本大学学術リポジトリ

 

 片山らが簡易法律相談所を開設したのは大正6年(1917)のことであったとされますが、「明治・大正・昭和・平成・令和 値段史」というWebサイトによれば大正4年(1914)の大卒銀行員の初任給が35円とされており、この時代に「1件1円」で法律相談を受け付けるというのは相当な低額であったということができます。
明治~令和 値段史

 これを現代の物価に置き換えてみると、東証プライム上場企業165社における2022年新入社員の大卒初任給平均は21万6637円となっていますので、数字だけを単純比較すると当時の相談料は「1件6,190円」相当になると考えられます。
2022年度 新入社員の初任給調査|WEB労政時報

 現在では弁護士相談も随分一般的になってきており、東京弁護士会のWebサイトによれば、法律相談だけであれば30分5,500円(延長15分につき2,750円)ということで、片山簡易法律相談所とあまり変わらない料金水準となっているようですが、当時は現在と比べて弁護士の数もはるかに少なく、一般庶民にとって「弁護士に法律相談をする」ということはとてつもなく高いハードルであったことは間違いありません。そのような時代に、現在と同じような感覚で気軽に法律相談のできる仕組みを作ったという点で、片山がその後の法曹会に与えた影響ははかりしれないと言えるでしょう。
弁護士費用について|弁護士に相談する|東京弁護士会

 ちなみに、政治評論家の小林吉弥氏が徳間書店の運営するWebサイト「Asageiplus(週間アサヒ芸能)」に連載していた「歴代総理の胆力」において片山を取り上げた際の記事によると、片山が設けた簡易法律相談所では「争いごとすなわち訴訟は一切受け付けずで和解専門、異色の方針で弱者の救済にあたった」という特徴があったそうです。
歴代総理の胆力「片山哲」(2)人道主義者と「グズ哲」 | アサ芸プラス

 

 その後、片山安部磯雄の活動を支えるように、社会民衆党社会大衆党に参加し、昭和5年(1930)の第17回総選挙に当選して衆議院議員となります。しかし、第二次世界大戦への流れの中で、社会大衆党は軍部との関係を強化し全体主義へ傾倒していったため、この動きに反対した片山らは党から除名されてしまいます。その結果、昭和17年(1942)の翼賛選挙(第21回衆議院議員総選挙の通称。政府を支持する候補者を翼賛政治体制協議会が推薦し、非推薦候補には激しい選挙干渉を行った。)で落選し、片山の国会議員としての活動は一旦ここで中断することになりました。
社会大衆党 - Wikipedia

 

 第二次世界大戦が終了すると、社会大衆党をはじめとする戦前の無産政党関係者らが再び活動を活発化させるようになり、これらが大同団結する形で日本社会党が結成されます。後に同党の書記長委員長を務めた浅沼稲次郎(あさぬま いねじろう 1898年生まれ 1960年10月12日、日比谷公会堂での演説中に刺殺された)は、昭和31年(1956)に日本経済新聞に連載された「私の履歴書」の中で同党の結成当時の状況について次のように記しています。

 やがて敗戦の現実の中に、各政党の再建が進められ、保守陣営の進歩党自由党の結党と呼応して、われわれ無産陣営でも新党を結成することになった。20年9月5日、戦後初の国会が開かれたのを機会に、当時の代議士を中心として戦前の社会主義運動者、河上丈太郎松本治一郎河野密西尾末広水谷長三郎氏が集まり第一回の準備会を開いた。そこで戦前の一切の行きがかりを捨て、大同団結する方針が決まり、全国の生き残った同志に招待状を出すことになった。当時私は衆議院議員を一回休み、都会議員をしていたが、河上丈太郎氏から『君は戦前の無産党時代ずっと組織部長をしていたから全国の同志を知っているだろう。新党発起人の選考をやってくれ』と頼まれ、焼け残った書類を探しだして名簿を作成した。その名簿によって当時の社会主義運動家の長老、安部磯雄賀川豊彦高野岩三郎の三氏の名で招待状を出し同年9月22日、新橋蔵前工業会館で結党準備会を開いた。
 ついで11月2日、全国三千の同志を集め、東京の日比谷公会堂結党大会を開いた。私はこのとき司会者をつとめたが、会場を見渡すといずれも軍服、軍靴のみすぼらしい格好ながら同じ理想と目的のため、これほど多くの人々が全国からはせ参じてくれたかと思うとうれしくてたまらなかった。同大会は松岡駒吉氏が大会議長をつとめ、水谷長三郎氏が経過報告をやり、党名を「日本社会党」と決め、委員長欠員のまま初代書記長片山哲氏を選んだ。またこの大会での思い出として残っているのは、党名が日本社会党か、日本社会民主党かでもめたことである。結局国内的には日本社会党でゆき、国外向けには日本社会民主党ということに落ちついた。
図書カード:私の履歴書

 

 昭和21年(1946)、それまでの大日本帝国憲法に代わり日本国憲法が公布※3されると、当時の首相・吉田茂(第一次吉田内閣)GHQ連合国軍最高司令官総司令部の司令により昭和22年(1947)3月31日に衆議院を解散(新憲法解散)し、新憲法下における最初の政権の行方を国民に問うこととなりました。
※3 日本国憲法大日本帝国憲法第73条に定める改正手続を経て成立しており、法制的には大日本帝国憲法は廃止されたのではなく、改正によって現行の日本国憲法になったと見ることもできる。このため、現在も日本国憲法の成立過程については種々の議論がある。
日本国憲法#成立の法理- Wikipedia

 同年4月25日に投票が行われた第23回衆議院議員総選挙の結果は、吉田茂率いる日本自由党が131議席であったのに対し、日本社会党143議席日本民主党124議席国民協同党31議席日本農民党5議席日本共産党(昭和20年(1945)12月に合法化された)4議席諸派16議席無所属12議席となり、片山哲率いる日本社会党(片山は当初書記長であったが、昭和21年(1946)9月に初代の日本社会党中央執行委員長に就任していた)衆議院第一党の座を獲得したのです。
 とはいえ、当時の衆議院の全議席数は466であり、どの党も単独で過半数を獲得することはできなかったことから、この選挙結果を踏まえて各党の間で「連立政権」の樹立をめぐる駆け引きが行われることとなりました。
 各党の利害関係が様々に入り交じる中で、結果的には片山首班指名を受けて憲法下で初めての内閣総理大臣に就任することとなるのですが、こうした一連の経緯について竹内桂氏は「中道政権期の三木武夫(「政治学研究論集 41号」明治大学大学院 2015)」において三木武夫(みき たけお 1907-1988 第66代内閣総理大臣。当時は国民協同党書記長(後に中央委員長)。)の視点から次のように記しています。

1,片山哲内閣期の三木武夫
(1)片山内閣の成立と逓信大臣就任
 第23回衆議院議員総選挙の結果,143議席を獲得した社会党が第一党に躍り出た。結果を聞いた西尾末廣書記長が「えらいこっちゃ」と漏らしたように社会党自身,第一党となることを予想していなかった。次いで自由党が131,民主党が121と続いた。三木武夫が率いる国協党は改選前の63議席から半減させて31議席にとどまった。GHQ総司令部は,日本国民が全体主義でも共産主義でもなく,中道政治を選択したとして,この選挙結果を歓迎している。
 単独過半数を占めた政党がなかったことで,選挙後にいかなる内閣となるかは流動的であった。連立内閣の結成は確実と見られており,選挙直後から各党の駆け引きが展開されていく。
 後継首班について,三木は,議会政治では第一党の党首が首班となるべきことを前提に,社会党片山哲委員長が次期首班に相応しいと思考していた。同時に,社会党の単独内閣は至難で連立内閣となるとの見通しを抱いている。選挙前には民,社,国の3党連立を考慮していたが,選挙後には政策の一致を条件に自由党を加えた挙国一致内閣が望ましいと思うようになったという。つまり,三木は,社,民,自,国の四党連立による社会党首班内閣を考えていたのである。
(中略)
 四党代表者会談は5月9日に開かれた。各党は四党連立で合意し,各党の幹事長が具体的な協議を行うことで一致した。その一方で,片山社会党首班を提案したことには,国協が賛成したが,この段階は社会党首班に消極的だった自由と民主は回答を保留している。
(中略)
 17日,自由党は役員会を聞いて首班問題を協議し,片山首班を確認した。翌18日,民主党は総裁選を実施し,社会党との連立を唱えていた芦田が総裁に選出された。こうして片山が後継首班となることが濃厚となった。19日に片山は個別に各党首脳と会談し,各党は片山首班を了承した。23日,衆参両院で首班指名選挙が行われ,両院で片山哲が首班に指名された
 こうして,政策協定と首班問題は決着した。ただし自由民主両党は片山首班には賛成したが,連立与党参加の態度を保留していた。
(中略)
 自由党は,吉田茂が19日に片山と会談した際,片山首班に同意する一方で,社会党左派の排除を求めた。すでに左派の鈴木茂三郎加藤勘十共産党と絶縁する声明を発していたが,吉田を満足させるものではなかった。このため左派は入閣見送りを決定した。しかし20日吉田は連立不参加と閣外協力の意向を片山に伝え,自由党の連立不参加が決定的となった。27日になって吉田は正式に連立への不参加を明らかにした。
 一方,民主党も連立参加を巡って紛糾した。総選挙後,民主党は四党連立を主張していた。しかし自由党の連立不参加が濃厚となると,幣原喜重郎を中心とするグループが四党連立を主張したのに対して,芦田均グループは社会・民主・国協の三党連立を唱えており,民主党の連立参加も不透明な状況であった。そうしたなか,18日に民主党党大会を聞き,芦田均を総裁に選出した。芦田の総裁就任により最終的に民主党は連立参加を決定し,社会・民主・国協の三党による連立内閣が結成されるに至った。
Meiji Repository: 中道政権期の三木武夫

 

 こうした調整の結果、5月23日に行われた衆議院首班指名選挙では片山が420票を獲得して内閣総理大臣となるのですが、この時2位の票を獲得したのは吉田茂(1票)齋藤晃(1票 右翼活動家として知られる)のみであり、その得票差はなんと419票という大差でした。これは、現時点では衆議院首班指名選挙における最高記録となっているとのことです。
片山哲#総理大臣に - Wikipedia

 ちなみに、NHKアーカイブスのWebサイトではこの首班指名選挙に関するニュース映像を動画で観ることができます。

www2.nhk.or.jp

 

 さて、こうして誕生した「片山内閣」でしたが、その足取りは最初からつまづきます。上記引用文でも「社会党自身,第一党となることを予想していなかった」とあるように片山は自分が首相となることを全く想定しておらず、上記のような各党間の微妙な関係を踏まえてバランスを取りながら閣僚の人選を行うには時間が足りなかったため、5月24日に行われた親任式までに閣僚人事を決定することができず、ほぼ全ての役職を片山一人が担う(他の役職は欠員)という異例の「一人内閣」でのスタートとなりました。
 この状態は9日間継続しましたが、6月1日にはようやく閣僚人事が決定し、ここに片山内閣が本格的に始動したのです。
片山内閣 - Wikipedia

 

 片山内閣では、国家公務員法の制定内務省の解体、警察制度の改革労働省の設置、失業保険の創設、封建的家族制度の廃止を目標とした改正民法の制定など様々な改革に取り組みましたが、これらの改革の多くはGHQの要望に従って行われたものであり片山自身の指導力によるものではなかったとして、片山を「クズ哲」と揶揄する声があったと伝えられます。
日本国憲法の制定過程から学ぶ 短命の社会党政権と民政局 〈寄稿〉文/小川光夫


 また、日本社会党社会主義的理論に基づいて主要産業の国有化を主張していたことから、片山内閣では当時の日本のエネルギー産業の中核をなしていた石炭産業を国有化すべく「臨時石炭鉱業管理法」の制定に取りかかりました。ところが、この法案は他の政党や炭鉱経営者らから猛烈な反発を受けることになります。
 福岡県に拠点を置き炭鉱業を祖業とする麻生グループ(中核となる株式会社麻生の現社長・麻生巌は麻生太郎元首相の甥)のWebサイトではこの時の状況を次のように記しています。

 この総選挙で社会党は、主要産業の国有化をスローガンにして戦い、ことに炭鉱の国家管理の大綱を公にしていた。それによると「労働者四人、技術者、事務者、経営者各一名で構成する経営委員会を炭鉱の経営の主体とする」を骨子としていたが、この基本政策によって、社会党は着々と石炭国管の準備をすすめようとしていた。
 これに対して、九州の中小炭鉱の経営者たちは、猛然と反撃に出て大挙して上京し、各党の有力者と折衝をつづけ、国有化阻止を図るなどの挙に出たが、政府は各党と論議をすすめる傍ら『臨時炭鉱国家管理要綱』に基いて『臨時石炭業管理法案』の具体的成文作業をすすめ、また『石炭非常増産対策要綱』を作成発表した。そして九月には『炭鉱管理法案』を国会に提出するに至った。しかし、連立内閣のため、閣内の民主、協同両党の反対意見にあい、大幅の修正を余儀なくされ、結局、事実上は名目だけの骨抜き国有化となってしまった
 そしてさらに、この実現化の一歩手前で“国管疑獄事件(筆者注:国営化に反対する炭鉱経営者らが国会議員に運動資金を提供したことが贈賄とみなされて国会議員ら11人が逮捕された(後の裁判で4人は無罪となった)事件)”がおこり、内閣はそれどころではない窮地に追い込まれるに至った。この事件は『昭電疑獄』〈一九四八年、このため芦田内閣解散〉とともに、戦後の二大疑獄事件に発展する。
 こうして国管問題は、さまざまな問題と波紋を引き起こしたが、昭和24年〈1949〉には、出炭量が事実上計画量を上回る成果を見るに至り、25年5月には早くも国管法は廃止された。
麻生百年史 第五章 戦後期

 

 このようなつまづきもあって、片山内閣は昭和23年(1948)2月10日に総辞職を表明し、わずか9か月の短命政権となりました。退陣の理由としては、下記のWikipediaの記述にあるように一般的には社会党内部の混乱が原因になったものと理解されています

 更には、炭坑国家管理法案採決の際の民主党幣原喜重郎派の造反と離党、社会党右派内での勢力争い西尾末広官房長官と平野力三農相との対立)衆議院予算委員会において党内調整が終わらないうちに社会党左派の造反による補正予算の否決など内部対立が表面化し、遂に政権運営に行き詰まり片山は1948年(昭和23年)2月10日退陣を表明した。
片山内閣#内閣の動き - Wikipedia

 

 しかし、片山内閣退陣の原因については当事者の間でも見解の相違があるようで、高橋彦博氏は「片山内閣崩壊の原因について(「社会労働研究 23巻 3・4号」法政大学社会学部学会 1977)」で下記のように述べています。

一 片山・西尾論争
 日本社会党の委員長として1947年に首相の地位についた片山哲氏は、1960年、民社党の分立とともに社会党を離れ、1965年には民社党からも離党している。しかし、片山氏は、この間、一貫して日本国憲法擁護の運動にかかわってきたのであり、その姿勢は今日にいたるまで変わっていない。
 その片山氏が、『朝日新聞』1976年3月4日付の「論壇」で、戦後直後の片山内閣が在任8ヵ月余で総辞職せざるをえなかった理由は、よくいわれるように社会党内部における「左派の造反」にあったのではなく、実は、アメリ力占領軍の対日方針の転換、とくに再軍備政策の隠微な押し付けにあったと発言したのが論争の発端となった。片山氏の「投稿」は次のようなものであった。

 

片山内閣総辞職の真相
-米国の再軍備政策に強く反対-
      片山 哲
(略)
 ところで、私が辞めたのは、左派がどうこうというような理由からではない。たしかに、内閣総辞職の時期を早めたのは、左派鈴木茂三郎君が委員長をしていた予算委員会において、追加予算の政府案が否決されたことであった。しかし、それ以上に、マッカーサー司令部の方針の変化があった。
 当時のアジア情勢は、毛沢東政権いまだ成功せず、蒋介石政権の時代であった。マッカーサー元帥は「憲法によって戦争を放棄した日本は、東洋のスイスであり、エデンの園である」といっていた。私はこれを喜んで、日本は新憲法をどこまでももりたて、福祉国家として新憲法を実施してゆきたいと念じていた。
 しかし、その後の国際情勢の変化をうけて、連合国、ことに米国政府の対日方針が変わりマッカーサーのいうことも変わってきた。そのころになると、かれは「エデンの園の理想は実現できないかもしれない」とほのめかすようになった。さらに、私に対し、日本の再軍備に手をつけざるを得ないよう仕向けてきたのである。これは私の信念に反する
 平和主義者の私としては、戦争を避けるためには日本は再軍備すべきでないと信じていた。再軍備をきらって、内閣総辞職にもっていったのである
(略)

 

 ところで、片山内閣が1948年2月の時点で総辞職の決意を固めるにいたった事情について、それが社会党内部における「左派の造反」によるものであったとの見解を、機会あるたびに示してきたのは、当時、日本社会党書記長であり、片山内閣においては内閣官房長官であった西尾末広氏であった。西尾氏は、衆院予算委員会における政府案否決は、予算委員長であった鈴木茂三郎を中心とする社会党左派の「計画的な陰謀」であったと断じた上で、「ここに片山内閣は、八ヶ月にして残念ながら倒れざるを得なかったのです。このことをもって、世間の多くは連立内閣そのものの失敗のようにいいますが、実は社会党の党内不統一のためであり、政局担当の政党としては社会党が未成熟であったことが主たる原因であったと思います。」と述べていた。西尾氏において、社会党左派への批判が、保守党(ここでは、保守政党とされる自由党民主党国民協同党の三党を指す)との連立政権擁護論の立場から展開されている文脈に注目しておきたい。
(略)
法政大学学術機関リポジトリ

 高橋氏は、これに続けて西尾末広は「(片山内閣の誕生時に)保守党との連立政権の樹立を最大目標にしていたのであり、社会党単独政権はおろか、社会党首班内閣すら求めていなかった」と断じ、むしろ意図的に芦田均民主党総裁)に政権を移譲(当時「たらい回し政権」と揶揄された)するために積極的に政権を「投げ出した※4ものであったとしている。
※4 同論文によれば、日本社会党の「準正史」と位置づけられる月刊社会党編集部「日本社会党の三十年(1)(社会新報社 1974)」 に「内閣にまったく存続の可能性がなかったというわけではなく、むしろ積極的に投げ出したとみられるふしもある」との記述があるとされる。
 さらに、同論文では首相を総裁とする経済安定本部(戦後の経済復興のための政策拠点)と大蔵官僚との対立日本社会党内部における執行部と議員集団(党大会)の対立などについても片山内閣崩壊の背景にあると指摘していますが、その論点は多岐にわたりますので詳細は原論文を参照いただければと思います。

 


 首相を退いた後、片山右派社会党(一時期日本社会党は「右派」「左派」に分裂した)を経て民主社会党(初代中央執行委員長西尾末広に籍を置き、長く同党(後に「民社党」と改称 平成6年(1994)新進党の結成に伴い解散)最高顧問を務めました。
 昭和53年(1978)5月30日、満90歳で老衰により死去。情報の出典は不明ですが、「歴代総理の死と葬儀」というWebサイトによれば「50年間住み慣れた藤沢市の自宅で死去。前年夏よりベッドで寝たきりだったが、家族に手を握られて苦しみもなく息を引き取った。」とされています。
歴代総理の死と葬儀(1995.11)

 

 片山哲が目指した社会主義キリスト教的人権思想と社会民主主義を融合した「キリスト教社会主義(あるいは西欧型社会民主主義」と呼ばれるものであり、当時のソビエト連邦中華人民共和国のような「マルクス・レーニン主義」にもとづく国家の建設を目指したものではありませんでした。
 このため、日本社会党内では右派社会民主主義を志向)に属して左派マルクス・レーニン主義に基づくプロレタリア独裁を志向)との対立を深め、首相を辞した後は「民主社会主義(あるいは「右派社会民主主義」)」を標榜して「右」でも「左」でもない「中道」を掲げた民主社会党民社党に参加したのは当然のことであったのでしょう。

 

 残念ながら為政者としてはそれほど高く評価されることのなかった片山哲ですが、その根底には母から伝えられたキリスト教の教えが深く刻み込まれており、「人」として正しくあろうと理想を追い求めた苦悩の日々があったのではないかと推察します。