生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

日本初の近代的軍隊を整備 津田出とカール・ケッペン(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回は「文武両道の学僧豪傑」とうたわれた北畠道龍を紹介しましたが、今回は道龍とともに和歌山藩に近代的軍制を導入するために尽力した津田出(つだ いずる)と、津田に招かれて和歌山藩兵を「日本最強」と呼ばれるまでに強化した「お雇い外国人カール・ケッペンを紹介します。

 和歌山市吹上にある和歌山大学教育学部附属小中学校の駐車場の一角に「カールケッペン寓居之跡」という石碑が建立されています。これは、「和歌山日独協会」が創立10周年を記念して平成29年(2017)に建立した(傷みの激しかった旧来の木製碑を石碑に建て替えた)もので、和歌山藩(江戸時代の藩名は「紀州藩」であるが、明治2年(1869)の版籍奉還から明治4年(1871)の廃藩置県までの間の正式名称は「和歌山藩」である)の軍事力強化に貢献するとともに、母国から軍需物資の製造技術を伝えて皮革・繊維・化学など和歌山の地場産業の礎を築くこととなった「お雇い外国人カール・ケッペン(CarlCöppen、KarlKöppen カッペン、カッピン、コッピンとも)の居宅がここにあったことを示しています。
わかやま新報 » Blog Archive » 県産業の礎築く カール・ケッペン石碑除幕

 

「ふるさと教育読本 わかやま発見」より

 ケッペンの功績について、和歌山県教育委員会が発行する「ふるさと教育副読本 わかやま発見(平成21年発行)」では次のように紹介されています。

第4章 近代和歌山の発展
和歌山県の成立

カール・ケッペンと交代兵

 1869(明治2)年,藩主徳川茂承(もちつぐ)版籍奉還を申し出て認められ,和歌山藩知藩事(ちはんじ)に任命されました。
 和歌山藩では,津田出徳川茂承に命じられて藩政改革に取り組みますが,1869年10月,プロイセン(ドイツ)カール・ケッペンは、「交代兵」という徴兵制の軍隊をつくることを津田に提案しました。ヨーロッパの強国プロイセンの兵制を参考にしたのです。1870年に定めた「兵賦略則」は、身分の別なく,20歳になった男子を検査し,合格した者から兵役につかせるようになっていて「交代兵」は,1873年明治政府がつくり出そうとしていた徴兵制にさきがけてつくられたのです。
 「交代兵」は,プロイセン式の訓練をするので,兵隊の服装や長距離の行軍に不向きなわらじを洋靴に改める必要がありました。そこで外務省に願い出て,プロイセンから靴製造の技師を雇い入れました。洋靴の原料となる皮革は,1874年に友ヶ島牛の牧場を設けて供給することにし,牛肉を兵士の食料にしました。同年に始まった「西洋沓製法伝習」は、のちに和歌山の地場産業となる皮革産業になり,また兵士の軍服の整備にともない,「紀州ネル(綿ネル)の主産地へと発展しました。しかし,「交代兵」は民衆にとってたいへん重い負担で,反対運動もおこりましたが,廃藩置県の実施によって廃止されるまで続きました。
わかやま発見|目次

 

 ケッペン和歌山藩兵の強化を委ねたのは上記引用文にも登場する津田出でした。津田は「最後の紀州藩」であり「最初の(結果的には唯一の)和歌山藩」となった徳川茂承から和歌山藩の藩政改革について全権を委任されており、幕末から明治維新期における動乱の時期において軍事力の強化は何よりも重視されるべき事項だったのです。
 津田が提唱した改革は幕末期に一旦は挫折しますが、明治維新の後、再び藩政改革の中心人物として位置づけられるようになり、はじめ「執政」、のちに「和歌山県大参事」として強力なリーダーシップを取り、改革を実現していきます。
 津田による改革の最たるものが兵制の大転換でした。従来の藩兵は藩から俸禄(給与)が支給される藩士(武士)によって構成されていましたが、前回の「北畠道龍」の項で紹介したとおり道龍が率いた「法福寺隊」や津田の弟である津田正臣が率いた「農兵隊」の働きが目覚ましかったことから、和歌山藩では「徴兵制による四民皆兵」の藩兵組織を構築しようとしたのです。
文武両道の学僧豪傑・北畠道龍(和歌山市)

 これは「藩兵」であることを誇りにしていた藩士からの反発を招くことになり、同時に近代的な装備を購入する経費の調達のために藩士の俸禄が大幅に減らされることもあって、その実現には大きな困難があったようですが、津田はこの困難な改革を実現に導くことに成功しました。この背景には、藩兵となることを望む庶民の熱意が後押しになったのではないかとの見方もあります。
 これについて、新谷和之氏は「〈史料紹介〉奉願上候口上覚(旧八塚家文書)(「民俗文化No.32」近畿大学民俗文化研究所 2020」)」において小山譽城氏の「徳川将軍家紀伊徳川家(清文堂 2011)」での記述を踏まえて次のように記しています。

 津田の率いる農兵隊が一定の成果をおさめたため、紀州藩文久三年九月、津田農兵総裁に命じる。この頃の農兵は、鉄砲や諸費用を自弁とし、財政の負担なく軍事力を増強することを藩は意図していた。この一方的ともいえる申し出に、身分上昇を望む上層農民たちが応じ、進んで農兵になった小山譽城はみている(小山 2011)

 現代の日本人の感覚では、「徴兵制」「四民皆兵」というのは国民から兵役拒否の自由を奪う強権的な制度であり、ネガティブな印象を持つ言葉ですが、身分制度が固定されていたこの時代にあっては、町民や農民・漁民であっても旧来の武士階級と同等の社会的身分が得られるというこの制度が非常に魅力的に映ったと考えても不思議ではないでしょう。

 津田によるこうした藩政改革は明治新政府の政策に大きく影響を与えることとなり、後に津田大蔵少輔陸軍少将貴族院議員などの要職に就くこととなりますが、残念ながら薩長出身者で固められていた明治新政府ではその力量を十分に発揮することはできなかったようです。
 こうした津田の生涯について、和歌山県が管理するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」では次のように紹介しています。

津田 出(出典 wikipedia
File:Tsuda Izuru.jpg - Wikimedia Commons

政治家 津田出(つだ いずる)
天保3年(1832)~明治38年(1905)
和歌山市生まれ
明治新政府に大きな影響を与えた藩政改革を断行
 天保3年(1832)、現在の和歌山市に生まれる。安政元年(1854)江戸に出て蘭学を学び、江戸赤坂邸蘭学所で教授となる。
 紀州藩は、慶応元年(1865)の第2次長州征伐の莫大な軍事費負担などによる財政難に陥っていた。慶応2年(1866)藩主茂承御国政改革制度取調総裁に任じ、藩政改革に着手。出の改革構想は兵制改革に力点を置き、財政再建のために藩士の禄高を減らし、農兵を用いて西洋式火器で装備した近代的軍隊を作ろうとするというものであった。しかし、藩内保守派が頑強な抵抗を示し、改革は挫折蟄居を命じられてしまう。
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦い幕府軍が新政府軍に敗れた際、紀州藩を頼ってきた敗残兵を江戸へ脱出させたことがとがめられ、藩主茂承は京都に幽閉され、紀州藩は存亡の危機に立たされる。新政府内にいた陸奥宗光のとりなしもあり、新政府への協力として、近代国家のひな形となる藩政改革に取り組むことを表明、明治元年(1868)再びを中心に藩政改革が進められることとなった。
 執政となったは、明治2年(1869)藩政改革の綱領を発表、以前なしえなかった改革を推し進めていく。藩士の俸禄を大幅に削減するとともに、徴兵制を施行、近代的な軍隊の育成をめざして、初代戍営都督(筆者注:「戍(じゅ)」は「武器を持って国境をまもる」の意で、旧来の「軍務局」を廃して新たな軍制の統括部門を「戍営(じゅえい)」と名付けた。都督は中国由来の用語で軍の司令官を意味する)に就任した。ドイツ人の下士官カール・ケッペンを招いてプロシア式軍事教練を導入し、当時としては全国最大級である2万人規模の精鋭軍を築き上げた。また、近代的な軍隊の整備に伴って関連産業が発達、綿ネル皮革などが和歌山の地場産業として成長することとなった。
 四民皆兵の徴兵制を実現したこの藩政改革は、近代国家をめざす明治政府のモデルとして大きな影響を与え、明治4年(1871)に実施された廃藩置県の先例となるものであった。
 改革の手腕を評価されたは新政府に採用され、明治4年(1871)に大蔵少輔陸軍少将などを歴任、明治23年(1890)には貴族院員に勅選されたが、薩長藩閥政府の中ではその力量を振るうことは困難であった。
 大胆な藩政改革を行い、近代国家としての日本の軍制の姿を示した津田出は、明治38年(1905)に73歳で亡くなった。
津田 出 | 和歌山県文化情報アーカイブ


 津田が志した近代的兵器を備えた西洋式軍隊を作り上げるためには、四民皆兵による人材の確保とともに西洋式火器の導入が不可欠でした。この当時、歩兵用の小銃(現代のライフル銃にあたる)の主流であった「ゲベール銃」や「ミニエー銃」は「前装式(ぜんそうしき 「先込め式」とも)小銃」と呼ばれるタイプのもので、弾を一発撃つごとに銃を垂直に立てて銃口から火薬を流し込み、銃弾を棒で奥まで押し込む必要がありました。
小銃の使用方法【名古屋刀剣ワールド】

 これに対して津田和歌山藩に導入したのはプロイセン軍が用いて世界を震撼させた「ドライゼ銃」という小銃でした。この銃は、現代の銃弾と同様に弾丸・雷管・黒色火薬を紙で包んで一体化させた薬莢を用いてこれを銃尾から装填(後装式)し、「ボルトアクション」と呼ばれる機構によって装填口の閉鎖や撃発、使用済薬莢の排出などの一連の動作を行うもので、「世界初の実用的ボルトアクション小銃」とも言われています。特に銃弾の再装填の際に銃を垂直に立てる必要がなくなったので、現代の歩兵と同様に「射撃をしながら匍匐前進する」という行動ができるようになったことが大きな特徴です。
ドライゼ銃 - Wikipedia

 

 津田は、プロイセンレーマン・ハルトマン商会を経営していたカール・レーマンを通じてこの最新式銃を3,000丁輸入しました。この際に、あわせてドライゼ銃に詳しく、和歌山藩の軍事教練を担当できる能力を持った指導者の派遣も依頼していたところ、たまたま同商会で倉庫番をしていたカール・ケッペンを紹介されたのです。こうした経緯について和歌山社会経済研究所谷奈々氏は「21世紀わかやま Vol.85(和歌山社会経済研究所 2017)」の「編集後記 紀州藩の「御雇い外国人」軍事顧問、カール・ケッペン」において次のように記しています。

 当時、大阪で武器貿易を行うレーマン・ハルトマン商会カール・レーマンは、紀州藩から最新鋭のライフル、ドライゼ銃3,000丁の注文を受け、その調達にプロイセンを訪れていた。この銃は専用の弾薬の製造能力が必要で、軍隊の教官にプロイセン式の指導者が求められた。この時、ケッペンは、下士官を退き、レーマン商会の倉庫番をしていたが、新式銃に詳しく、藩の招聘に応じ、1869年、ドライゼ銃と共に来和した。翌年には、横浜在住のドイツ領事の推薦で軍事調練を担当する教官や製靴師、製革師が来日し、洋式製靴・製革の技術指導を担った。同じ頃、洋行中の陸奥(筆者注:陸奥宗光は、ケッペン家を訪問、夫人に贈り物をしたという。
 北畠(筆者注:北畠道龍)は既に隊を組織し、徴兵実施のひな形をつくっていたが、津田は、藩に軍務局を新設、「交代兵」という身分を問わない徴兵検査による徴兵制度を施行し、近代的な軍備の充実をはかった。兵制改革は、藩政改革の極めて重要な柱であり、陸奥は、彼等の徴兵法の案を朝廷に奏上し、紀州藩の勤皇の志を示すことにより、朝廷の嫌疑を解いた。そして、長らく京都で人質同様であった茂承公の帰藩が許された。
 新政府に先立つ紀州藩の兵制改革の実施は、当時の外国公使にも注目され、明治3、4年には米英プロイセン等から、公使が軍艦等で来訪、ケッペンの指揮による600人大隊4個の統率された隊列で、行軍・発砲する様を見学した。ブラントプロイセン公使は、視察結果を本国の宰相ビスマルクに伝え、特旨により、ケッペン陸軍少尉に進級した。洋式軍隊の創設は、化学、機械製造等の関連産業の萌芽となり、後の第一次世界大戦当時、和歌山市域は、「南海の工都」と呼ばれるに至ったのである。

 

 この当時の和歌山藩の様子について、木村時夫氏は「明治初年における和歌山藩の兵制改革について(「早稻田人文自然科學研究 第4巻」早稲田大学社会科学部学会 1969)」において次のように記しています。

 例えば独逸公使フオン・ブラント(Von Brandt)英公使パアークス(H.S. Parkes)米国公使デ・ロング(De Long)が日時は不詳であるが、恐らく3年の11月頃か、和歌山に来てその実状を視察した。
 当時の状況を伝うるものとして明治3年11月23日の「兵庫新聞(英文の翻訳)がある。すなわち

 

 英国公使シル(Sirの意味か)パークス紀州に至らば当節彼地に於て専ら行るゝ兵勢の高大なるを見るべし。 (中略) 余も亦過日其兵の一隊を見たるに皆青色を以飾たる黒き一様の服※1を着し当今天下に名高き針筒※2を帯ぶ。これ迄見たる日本の兵卒よりも軍卒らしき人躱也 紀州に於ては孛国※3の如く上より下迄何の職によらす数年の間兵に入らしむ。其教師の切なる其門弟の意を用る 恐らく再び国乱ある時国君若し高大の望あらば其心の欲る迄其国界を固守し得べき程なり
※1 藩兵の制服。それまで各藩の兵士の服装は各自が準備していたため統一された制服は無かった。後述の二橋氏の論文中のケッペン回想録に記載された服装がここでの描写に該当するものと考えられる。
※2 ドライゼ銃は「撃針」と呼ばれる長い針によって雷管を撃発させることから「ニードルガン」との異名を有しており、「針筒」とは英語の「ニードルガン」を日本語に直訳したものであろう(日本語の名称としては「針打式」「撃針銃」とするのが普通)。
※3 プロイセンを指す。通常、プロイセンは「普国(普魯西)」と表記されるが、明治時代には「孛国(孛漏生)」という表記も用いられた。プロイセン王国#国名 - Wikipedia

 

とあるが、一異国人の眼に和歌山藩の兵備は確かに一偉力として映じたのであろう。この兵制改革が当時の朝野にどれだけの関心を持って迎えられたかについて、前出岡本柳之助は次のように述べている。

 

 津田が恁うして和歌山藩で徴兵訓練をやって居る事が当時の朝廷並びに各藩の識者間に喧伝されると近隣各藩より伝習生を送り又見学に来る者が夥しかった。中にも明治3年先づ第一に遣って来たのが薩摩の西郷従道である。続いて兵部大亟山田顕義が和歌山へ来て軍隊訓練の実際に就て熱心に視察見聞して帰って行った。同年の冬には薩藩の村田新八大西郷※4の意を齎して遙々和歌山に津田出を訪ねて来て
大西郷が参る筈であったが免れ難き要件の為に不参致しました 来春は東京表でお目にかゝりたいと思ひますから 尊公にも是非上京して頂きたい
と懇なる大西郷の意を伝へて云った。
※4 西郷隆盛のこと。「大」とは、明治維新最大の功労者であるという意の敬称(幕末から明治期において南朝の忠臣・楠木正成を「大楠公(だいなんこう)」と称えた)と捉えることもできるが、弟である西郷従道と区別する意味で用いられる(西郷隆盛を「大西郷」と呼ぶのに対して、最後従道を「小西郷」と呼ぶことがある)場合もある。

 

 大村益次郎亡き後の兵部省を背負って立ら、軍制の確立に努力した山田顕義にしても、すでに津田の改革を視察して帰り、又後年軍部内に重きをなした西郷従道が実地訓練に参加しているのを見ても、この改革が後の徴兵令にどれだけの貢献をなし、先蹤をなしているかは明かである。わけても西郷隆盛が一面識もない津田出に対し、かくまで丁重な態度を持していることは、先に大村益次郎の唱えた兵制改革に反対した彼だけに、和歌山藩の兵制改革がどれだけ見事なものであり、その成果に彼がいかに魅せられていたかの例証とすることが出来ようかと思う。

早稲田大学リポジトリ

 

 こうして短期間のうちに我が国トップレベルの精強な軍事力を手にした和歌山藩でしたが、明治4年(1871)、廃藩置県により和歌山藩が廃止されて和歌山県になると、この藩兵組織は解散されてしまいます。廃藩置県後の明治新政府の組織体制は津田らが実施した藩政改革をおおいに参考にしていると言われており、和歌山藩のノウハウはそのまま明治新政府へと取り入れられていきます。
廃藩置県#紀州藩(和歌山藩)の藩政改革 - Wikipedia

 特に兵制については、明治新政府が導入することとなった「徴兵制」は和歌山藩が編み出した「交代兵制」をそのまま全国に適用したものであると言ってもかまわないほどであり、これについて和歌山県立博物館のWebサイトでは次のように紹介しています。

和歌山の誕生 近代と現代
<1>和歌山藩の交代兵制
・交代兵制※5と徴兵制
 明治3(1869)年、和歌山藩では「兵賦略則」という軍隊編成の規則を制定した。それは封建制軍隊の解体をめざして、20才の男子を士農工商の別なく常備軍(交代兵)予備軍(予備兵・補欠兵)に分けて徴兵して、藩の正規軍を創出しようとするものであり、わが国兵制史上画期的なものであった。これは、政府が明治6(1873)年に公布した徴兵令にきわめて類似している。

この図はリンク先の画像をもとに筆者が再構成したものですが、元画像の解像度が低いため誤りが含まれている可能性があります。

常設展示図録 「きのくにの歩み-人々の生活と文化-」

※5 「交代兵」という名称について、上述の「明治初年における和歌山藩の兵制改革について」には「交代兵という名称は少しく奇異にひびくが、従来の士族が終身武職にあるを例としたのに反し、徴兵令によると一定の服役年限がすぎると新しい応募兵と交代する組織になっていたのでかく称したかと思われる。」と記されており、「兵」という職が「身分」と結びついた終身職ではなく、誰もが「交代」で分担すべき役務であることを強調するために用いられた言葉であろうとしている。これはつまり「武士」という階級が不要になったことを表すものであり、連綿と続いてきた武士を中心とする封建的身分制度の崩壊を如実に示す出来事であったともいうことができよう。

 

 こうして明治新政府の施策に大きな影響を与えた津田出の藩政改革でしたが、成立した新政府では明治維新に功績のあった薩摩・長州出身者が大きな権力を握っており、残念なことに津田らはその実力を発揮できないままに終わってしまうのです。
 和歌山県知事の仁坂吉伸氏は和歌山県の広報誌「和(nagomi) Vol.5(2008)」における岡崎久彦(外交評論家 陸奥宗光は岡崎氏の祖父・岡崎邦輔氏※6の従兄にあたる)との対談で次のように語り、明治新政府紀州人が活躍できなかったことを残念がっています。
※6 岡崎邦輔氏については別項参照
政界の策士・岡崎邦輔(和歌山市) - 生石高原の麓から

仁坂知事
 陸奥宗光津田出が活躍したころの紀州は、徴兵制と洋式軍隊ですごく強い。それで、士族中心の社会など保守的なことばっかり言っていた薩長政府が、「紀州藩の改革を全部取り入れるから、あなたがたも協力してくれ」と。そこでお人好しっていうか、論理に弱いというか、紀州藩の洋式軍隊を解散してしまう。そういったところが今も続く紀州人の長所でもあり、弱点かもしれませんね。その後、陸奥津田以外の北畠道龍岡本柳之助などの紀州藩出身者が、新政府に“上の下”くらいの幹部で入りますよね。

岡崎理事長
 せいぜい数年間ですね。薩長出身者並みに扱われるのは。

仁坂知事
 その後は、誰も政府に残らない。薩長勢力にやられちゃう。津田出は、世が世なれば、総理大臣だったのに
【知事対談】明治を支えた歴史を語る。−紀州人のDNA−


 明治新政府にその制度を引き継いで解散してしまった和歌山藩の藩兵ですが、その成果が何も残らなかったかというと、実は産業の分野でこの藩政改革は大きな財産を残していきました
 和歌山県工業技術センター平成28年(2016)に発行した「和歌山県工業技術センター 創立100周年記念誌」では、和歌山県における近代産業のはじまりとしてケッペンらの功績を次のように紹介しています。

【近代産業のはじまり】
 兵制改革にあたり、プロイセンから陸軍士官カール・ケッペンを軍事教官として雇用し、プロイセン式兵制に基づく藩陸軍を養成させた。ケッペンの雇入れ交渉は当時兵庫県知事であった陸奥宗光が担当した。その後兵庫県知事を免じられた陸奥和歌山藩の藩政改革に参与した。
 ケッペンは軍事教練を実施するうえで兵士の服装改革の必要を認識し、まず行軍に不向きな草鞋を洋靴に改めることを進言した。藩はこれを受け、明治3年、プロイセンから製革師ワルテー(アドルフ・ルボスキー)製靴師ブラットミドル(ヘルマン・ハイトケンペル)らを雇い入れた。また原料の皮革を生産するために明治4年1月友ヶ島牛牧場を開設し、同年4月から西洋沓製法伝習も開始された 。
 明治2年4月、本町一丁目に「官民有志の徒相図りて」商会所を設立した。商会所は藩の徴兵軍隊の創設時に軍装備品の調達を行い、軍装肌着・靴を藩内で生産するために綿織物を改良して綿フランネル(綿ネル)を創りだし、西洋沓伝習所を商会所付属施設として設立するなど、県内の近代産業の誕生に一定の役割を果たした。

 

【事業の民営化】
 明治4年廃藩置県により藩の兵制は廃止され、綿ネル皮革産業は商会所の経営を離れて民間企業による経営となった。藩に代わって設置された和歌山県は、これらの産業に対して資金貸付などを通して支援を行った。
 和歌山靴製造所主の平松芳次郎は、綿ネル創製者の一人とされる瀬戸重助より事業を引き継ぎ、その協力を得て明治9年和歌山織工所(おりくしょ)を設立した。県は資金貸与などをとおしてこの産業の保護・発展を支援した。明治10年には県資金貸付の製造所は、織工所・染色所・靴製所・製革所・陶器所の5カ所にのぼった。
創立100周年記念誌|和歌山県工業技術センター


 このように、和歌山藩の兵制改革は当地に近代産業を生み出す大きなきっかけとなったのですが、これには上記引用文にもあるとおりケッペンが大きな役割を果たしていました。従来、ケッペンは「軍事教官」として招かれたと言われており、その役割は兵士の教育・訓練が主たるものと考えられてきましたが、二橋依里子氏は「和歌山藩の兵制改革とカール・ケッペン(「佛教大学大学院紀要 文学研究科篇第45号(佛教大学大学院 2017)」において次のように記しており、ケッペンが果たした役割としては技術伝習が軍事指導と同等、もしくはそれ以上に重要であったとしています。

(前略)
 そしてカール・レーマン紀州の希望に沿った人物を探し出した。ここで出された和歌山藩の希望は恐らく、近代兵術に明るくまた後装式小銃の弾丸製造法にも明るい人物と言った所だろうか。そしてその人物が、ケッペンであった。カール・レーマンを通じ、レーマン・ハルトマン商会が仲介する形で、和歌山藩ケッペンの契約が結ばれた、と考えられる。事実、大参事津田出は既存の藩兵の視察よりも早い段階で、ケッペンに点火薬製造についての説明を求めており、強い関心があることを伺える
(中略)
 また、ケッペン本人に関しても「日記」の明治3年4月1日条で弾薬工場の用地検分など、その設立に向けて本格的に動き出してからは、弾薬工場での仕事が主になる。そのため、例え本人が「軍事教官」だと名乗っていたとしても、ケッペンは技術者としての役割を期待されて招かれたのだろうと思われる。
(中略)
 ケッペンが制度整備や訓練の際に、まず気にしたことは、兵士の服装であった。この時の兵士の服装は袴に草履ばきで各自ばらばらの物を着用していた。ケッペンがもともと所属していたプロイセン軍は近世の早い時期から服装の統一に乗り出していたこともあり、余計に目についたのかもしれない。
 そして和歌山藩でも、画一的なプロイセン式の軍装を導入するために、綿ネルの製造、軍靴や皮革製品の自給が計画される結果となった。
(中略)
 ケッペンは「日記」中に、たびたび岡本遠藤プロイセン型の軍装採用について話し合ったと記述している。制服について「回想録」によると、

 

制服を定めることもやはりこの両人の仕事であった。一度見本を作り、その後さしあたって400人分の制服をそれを手本として作った。ズボンも同じ布地である。上着の背面にはバンド用の巾広のフックが二箇ついている。階級章は皮革と絹でできていて、下士官は肩飾りと黄色い袖口皮緒をつけ、大尉までの士官は胸に青い絹地騎兵用胸紐を五本、袖口には青い巾広の袖緒を一本、肩には一本から三本までの青い肩飾りをつけた。参謀将校は青い絹の階級章、そして将軍は白絹の階級章であった。頭には黒塗りでたいそう見栄えのする紙粘土性の帽子をかぶった

 

とされている。
(以下略)
BAKER(佛教大学論文目録リポジトリ)詳細画面

 

 ケッペン和歌山藩に導入しようとしたプロイセン式の軍装は、その下着用の生地としてフランネル(柔らかく軽い毛織物 「ネル」とも)を用いていました。当時、フランネルは輸入に頼るしかなく大変高価なものであったため、和歌山藩ではこれをなんとか国産化できないか藩内の事業者に相談をもちかけたところ、仕立屋を営んでいた宮本政右衛門という人物が木綿を用いてフランネルに良く似た織物を開発することに成功しました。これは、それまでも藩兵が軍服に用いていた紋羽(もんば)という織物を改良したもので、「毛出し木綿」「綿ネル」「紀州ネル」などと呼ばれて広く全国に知られるようになります。和歌山県が管理するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」では、その創始者である宮本政右衛門の項で紀州ネル(綿ネル)開発の経緯を次のように紹介しています。

事業家 宮本 政右衛門(みやもと まさえもん)
文政13年(1830)~ 明治32年(1899)
和歌山市生まれ

紀州ネルの創始者

 文政13年(1830)、現在の和歌山市に生まれる。明治2年(1869)、衣服の仕立屋を営んでいた政右衛門のところに、軍制改革を行う紀州藩から、フランネル生地のドイツ式軍服の仕立てが依頼される。当時輸入に頼るしかなかったフランネル生地は高価であったが、政右衛門は、すでに和歌山で生産されている木綿の紋羽織を改良すれば代用品になり、藩財政の節約と地域産業の発展に繋がると発案。紋羽織を起毛してフランネルに似た生地の製作に取りかかる。織物の糸の太さや配置、撚り具合など、日夜研究に没頭し試行錯誤を繰り返しながら、明治4年(1871)、柔らかな感触と暖かさを備えた新しい生地の製作に成功。この生地は「毛出し木綿」と呼ばれ好評を博し、大阪鎮台や海軍省などからも注文を受け、また一般の需要も増加していった。フランネルとよく似ているこの生地は、やがて「綿フランネル」「紀州ネル」と呼ばれ、広く全国にその名を知られ、地域の主要産業に発展していくこととなった。
(以下略)
宮本 政右衛門 | 和歌山県文化情報アーカイブ

 

 こうして誕生した「紀州ネル」産業は、やがて技術や市場の変化に伴いニット(かつては「メリヤス」と呼ばれた)へと移行していくことになるのですが、今でも和歌山県世界的な競争力を有したニット産業の集積地となっており、そのルーツを辿れば、間違いなくこの津田出カール・ケッペンによる和歌山藩の兵制改革にたどり着くのです。
ものづくり和歌山 ニットの産地紹介 | ものづくり和歌山 和歌山県のものづくり企業、伝統産業をご紹介。

 また、別項「有機化学工業の先駆者・由良浅次郎」で紹介したように、和歌山県の重要産業である化学工業ルーツは綿ネル染色用の染料を国産化しようという取り組みにあり、これもまた同じ源から生み出された産業であると言えるでしょう。
有機化学工業の先駆者・由良浅次郎(和歌山市) - 生石高原の麓から

 


 兵制改革というと表面的にはネガティブな印象を与えかねない施策にも思われますが、少なくともこの時代、この地域にあっては、和歌山藩の改革が日本全体に大きな影響を与え、後世に続く産業の礎を築いたという点で偉大な貢献を果たした改革であったと評価できるのではないでしょうか。