生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

茶道表千家4代家元・江岑宗左(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、千利休を祖とする千家流茶道の本家である表千家(おもてせんけ)の4代家元・江岑宗左(こうしん そうさ)を紹介します。江岑宗左千利休の曾孫にあたる人物で和歌山県の出身ではありませんが、江岑徳川頼宣の招きによって紀州藩の茶堂となって以降、幕末に至るまで表千家紀州藩の庇護のもとで発展をとげていきました。

 和歌山市内の市堀川しほりかわ)に架かる堀詰橋の南側に「紀州藩 表千家屋敷址」と記された石碑が建立されています。これは、かつてここに表千家下屋敷(しもやしき 別邸)があったことを示すものです。


 表千家の本拠地は京都の茶室「不審庵(ふしんあん 京都市上京区」なのですが、冒頭に記したようにその家元は代々紀州藩の茶堂(「茶道」「茶頭」とも。大名などに仕えて主君の茶会で茶をたてたり、道具を管理するなど、茶の湯全般に携わる専門家を指す。筆頭茶人。)となっていたため、藩主の招きに応じて長期にわたって紀州に滞在する機会が多く、そのためにここに下屋敷が設けられていました。

 現代の茶道の主流となっている「わび茶」の様式を完成させた人物が千利休であることは誰もが知っているところですが、利休天正19年(1591)に豊臣秀吉から切腹を命じられて70年の生涯を閉じることになってしまいました。これにより利休が興した茶道の流儀(千家流茶道)は存続の危機に瀕することとなってしまいます。
 幸いなことに、2代・千少庵(せんの しょうあん 利休の養子、女婿)、3代・千宗旦(せんの そうたん 母は利休の娘、父は千少庵とされる)の尽力により千家流茶道はかろうじてその命脈を保つことができましたが、宗旦家督を継いで4代家元となった三男・千宗左(せん そうさ 江岑宗左のこと※1 1613~1672)紀州藩に仕えたことで千家流茶道は新たな発展期を迎えることになります。
 こうして千宗左が受け継ぎ発展させた千家流茶道の本家を「表千家(おもてせんけ)」と呼びますが、後に宗左の兄・千宗守(せん そうしゅ)が「武者小路千家(むしゃこうじせんけ)」を、弟の千宗室(せん そうしつ)が「裏千家(うらせんけ)」を興したことにより、ここに現代の茶道の主流とされる「三千家(さん せんけ)」が成立することとなりました。
※1 「江岑(こうしん)」は千宗左が名乗った号。他に「逢源斎(ほうげんさい)」とも号した。江岑宗左以降、表千家の家元は代々「千宗左」を襲名することになるため、4代家元のみを指す際には「江岑宗左」または「江岑」と称するのが一般的である。


 表千家により運営されている文化施設表千家北山会館」では、令和4年(2022)10月8日から12月18日までの日程で「特別展 三千家のはじまり 江岑宗左と千家茶道の確立」が開催されていますが、そのパンフレットで江岑宗左について次のように紹介しています。

 表千家四代家元・江岑宗左(こうしん そうさ)は、寛文12年(1672)10月27日に没し、昨年、350回忌をむかえました。
 江岑は、千利休の孫、元伯宗旦(げんぱく そうたん)の三男に生まれ、江戸時代の前期、千家家督を相続して、利休茶の湯を継承する表千家不審菴(ふしんあん)の基盤を築き、千家茶道を確立しました。そして兄の一翁宗守(いちおう そうしゅ)武者小路千家(むしゃこうじせんけ)官休庵(かんきゅうあん)、弟の仙叟宗室(せんそう そうしつ)裏千家今日庵(こんにちあん)の基礎を築き、利休の道統をこんにちに伝える三千家が成立しました。
 また江岑紀州徳川家茶堂(さどう)として出仕し、以後、幕末に至るまでおよそ二百年にわたって表千家の歴代家元は同家に出仕し、茶の湯を通じた深い結びつきを持つことになります。
(以下略)

 
表千家北山会館


 また、「日経ビジネス 電子版」で2016年から2018年にかけて連載されていた「和道 日本文化 心のしきたり 美のこだわり」という特集では、2017年1月13日付けで「利休切腹から、千家復興までの苦難の道のり」と題して書家の木下真理子氏と国文学者・茶道研究家の生形貴重氏との対談が掲載されています。これによると利休死後から三千家の成立までの過程は次のようであったとされます。

木下:
 利休の死後、千家はやはり厳しい状況にあったのでしょうか。
生形:
 侘び茶は、宗旦が復活させたのですが、生涯大変な苦労をして。利休切腹の時、宗旦は14歳。父の少庵秀吉に許され、18歳で還俗して、少庵と親子で千家の再興に取り掛かるんです。ただ1614年の大坂の冬の陣の時に少庵が死んでしまいます。
木下:
 千家の再興宗旦に託されるということですね。
生形:
 ところが少庵が亡くなると、1614年から1633年の19年間、宗旦はほとんど茶道資料には出てこないんです。このことは今まで謎だったのですが、表千家の『不審菴(ふしんあん)文庫』に宗旦の手紙が二百数十通あって。その中に医者へ出した自己診断の病状を記した自筆の控えがあったんです。
 そこには〈全く体は悪くない。だが言葉も喋べれないし、文字も思うように書けない、隣の部屋にも行けない。まるで木像のごとし〉と書いてあるんです。この手紙を歴史学者熊倉功夫先生が神経科医に見せたところ、重度の「うつ病」だと。
木下:
 父を亡くして、一人で千家を担うというプレッシャーに潰れてしまったんですね。そんな病にあった宗旦が復活するのは、やはり1633年以降ということでしょうか。
生形:
 寛永10年(1633)という年は、三男の宗左唐津藩寺沢家(後に島原の乱の責で減封)に仕官※2して、千家の未来に少し光がさした年で、また父少庵の二十回忌に当たる年でもありました。宗旦も、永い心の病から立ち直って、利休が理想としていた一畳台目(一畳半)の茶室を造ったんです。
 すると、その茶室を近衛信尋がぜひとも見たいと、宗旦のもとに訪れるんです。
※2 江岑宗左は紀州藩に仕える前に唐津藩高松藩に仕えたことがある。この経緯については後述の村井節子氏の論文を参照されたい。
木下:
 近衛信尋という人は、書にも長けていたとも言われますが、宮廷文化復興に意欲的だった後水尾(ごみずのお)天皇の弟で。
生形:
 近衛信尋は最高の公家ですから。宗旦が茶を点て、茶碗を畳に直に置いたところ、驚きました。信尋は、茶は天目台に載せて出されるものとばかり思っていたのでしょう。「宗旦よ、これはどういうことか」と。
 宗旦は「祖父の利休が理想としていたのは、こういう茅葺(かやぶき)屋根の狭い空間で行う茶である。天目台でのお点前は、隣の書院で点てましょう」と言うと、すぐに宗旦の言葉を理解して。大変ご機嫌になって帰られたと。当時の文化人のトップが、初めて“侘び茶”を理解した瞬間ですね。
木下:
 三千家はどのようにして生まれたのでしょうか。
生形:
 元伯宗旦(げんぱく そうたん)、つまり千宗旦の四人の子のうち、長男・閑翁宗拙(かんおう そうせつ)と次男・一翁宗守(いちおう そうしゅ:武者小路千家の祖)は、宗旦の先妻の子供で、三男・江岑宗左(こうしん そうさ:表千家の祖)と四男・仙叟宗室(せんそう そうしつ:裏千家の祖)とは母親が違うんです。
 長男の宗拙は事情があって義絶されました。しかし、後に宗拙の死去を聞いた宗旦は、〈言語に絶す〉と宗左への手紙に記しています。
木下:
 親としての愛情が深かったんですね。
生形:
 三男の宗左は、宗旦大徳寺で修業していた時の先輩の沢庵和尚玉室和尚、それから将軍の剣術指南役でもあった柳生宗矩(むねのり)※3などが奔走してくれて、寛永19年(1642)に紀州徳川家への仕官が叶うんです。そこから「表千家」が始まります。
※3 大和柳生藩初代藩主。徳川将軍家の兵法指南役で、将軍家御流儀の剣術として柳生新陰流の地位を確立した。
 宗左が3回目の仕官でやっと仕えた紀州徳川家というのは、いわゆる御三家の一つですから、ここで千家の格も大変上がったと思います。その4年後、宗旦宗左家督を譲ります。
木下:
 そうなんですね。
生形:
 四男の宗室はもともと野間玄琢という宮中出入りの医者の弟子になって、玄琢の「玄」を頂いて玄室と名乗っていました。でも、野間玄琢が急死して、再び千家に戻りました。そこで、宗旦が、先に述べたように家督と屋敷を宗左に譲り、その屋敷の“”に隠居する為の新たな屋敷を建てて。そこに玄室が一緒に移り住んだのです。
 その後、玄室加賀の前田家にお仕え出来て、宗室と名乗り、さらに宗旦の晩年、この裏の隠居屋敷を譲り受けたのです。
木下:
 そこには茶室の「今日庵」もあって。これが「裏千家」ですね。
 その今日庵不審菴は、今も隣接しています※4よね。
※4 Google マップ

生形:
 次男の宗守については、塗り師の仕事をしていた吉岡家へ養子に出て、吉岡甚右衛門と名乗っていましたが、弟の宗左の仕官が叶った後に、自分も茶の湯で生きることを志して、塗の仕事を中村宗哲に譲り、千家に戻ってくるんです。
木下:
 中村宗哲というのは、「千家十職(千家の好み道具を制作する十家)」の。
生形:
 ええ。宗旦がすぐに大徳寺に出家させて、宗守という号を授けてもらいました。そして後に、高松松平家に仕官し、その職を辞した(仕官を休む)ということから、茶室は「官休庵」と呼ばれるようになったと思われます。
木下:
 「武者小路千家」ですね。
生形:
 ええ。こちらは京都の武者小路の。
木下:
 整理しますと、三千家成立の順はどのようになりますでしょうか。
生形:
 茶人として「宗左宗守宗室」と名乗ったことを起点とするならば、表、武者小路、裏の順なのですが、茶堂として大名家へ仕官したのは、表、裏、武者小路の順となります。
(中略)
生形:
 表千家紀州徳川家に仕えましたでしょう。ただ家元はいつも紀州や江戸にいなくて良かったのです。お正月と盆あたりに紀州へ出仕して。それで紀州を往復する際に、淀川を下って大坂へ出ますよね。
 すると両替商などの船場の大商人たちが、家元が来たということで、茶を教えてくださいと。江戸時代から船場の豪商表千家の弟子となりました。
 有難いことに、三井さん鴻池さんなどは、現在も千家の役員に入ってはりますし、今日まで茶の湯の関係が繋がっているんですね。
木下:
 それは本当に素晴らしいお話ですね。「一期一会」で得たご縁をずっと大切にされて。

利休切腹から、千家復興までの苦難の道のり (3ページ目):日経ビジネス電子版

 

 上記の対談にあるように、千利休が没した後の千家は経済的に非常に厳しい状況にあったようです。3代・千宗旦は生涯にわたって武家に仕えることをせず清貧を貫いたことから「乞食宗旦こじきそうたん)※5」とも呼ばれるほどでしたが、それは利休が残した「(わび)」の精神を継承するという意味ばかりではなく、現実にこうした経済的困窮の状況にあったことも大きく影響しているようです。
※5 千 宗旦 - 辞書辞典無料検索JLogos

 そして、こうした宗旦の生活をおおいに助けたのが紀州藩に仕官した4代・千宗左(江岑)でした。こうした状況について、茶の湯文化学会発行の「茶の湯文化学会会報 No.86(2015)」には中村静子氏による次のような報告が掲載されています。

千宗旦の経済に関する考察-江岑宗左との関係を中心に
         中村静子
 千宗旦乞食宗旦と称されるほど、経済的に困窮していた印象が強い。しかし、利休の孫であり、一生涯貧乏だったわけではない。経済状態を「第一期 誕生から父少庵が亡くなるまで」「第二期 体調不良による活動停滞期」「第三期 江岑宗左の紀州徳川家出仕以降」に別けて考察した。
 随流斎覚書『寛永八年本』には、利休の手伝いをする宗旦秀吉の交流が確認できる。利休自刃後は、本法寺前町に父少庵と同居し、少庵が亡くなる頃迄は、金銭的に困らなかった模様である。
 『元伯宗旦文書』には、病気の話が頻繁に見受けられる。病気がちな為に手元不如意で、大黒茶碗を売却、園城寺の花入を担保に借金もしている。財政困難な中、特に支出を要したのは、少庵年忌茶会と茶室の造立で、資金調達に大変苦慮している
 宗旦の主な援助者は江岑宗左。21歳の時に仕官先を求め江戸に下り、紆余曲折の末、紀州徳川家に仕官する。『南紀徳川史』によると、初めは現米八十石、その後加増され知行二百石を得る。加増後は十分な仕送りが可能となり、宗旦の生活も潤った。宗旦紀州藩内の道具斡旋等の仕事を支え、又、東福門院壬生忠利等からの注文を承っている。『忠利宿禰』からは、道具の極書、斡旋等に対する報酬も分かる。宗左の紀州出仕以降の生流は満ち足りていたと考える。
会報|茶の湯文化学会(公式ホームページ)

 千宗旦自身は生涯にわたって大名に仕えることがありませんでしたが、自分の息子たちには仕官することを望んでいたようで、そのために尽力した様子が伺えます。村井節子氏は「宗旦の茶考(「美学・美術史学科報 3号」跡見学園女子大学美学美術史学科 1975)」において宗左(江岑)の仕官について次のように記しており、唐津藩高松藩に仕官するも宗左とは何の関わりもない理由によりいずれも失職の憂き目にあったため、最終的に宗旦の口利きにより柳生宗矩※4を通じて紀州藩に仕官がかなったとしています。

 三男江岑宗左は、幼名を十三郎といったが、寛永10年2月に、玉室和尚の世話で、肥前唐津城寺沢広高へ有付が決まったのち、宗受と改名した。宗旦は、息子が、利休と関係の深い寺沢家へ有付できたことをたいへん喜び、寺沢氏が京に上ったとき、茶湯によんでいる。しかし、寛永14年、島原の乱がおこり、島原の領主寺沢兵庫頭堅高は、責任を問われ、寛永15年4月、天草の所領をとりあげられ謹慎の身となった。そのため宗受は職を失う宗旦はその間、江戸にいっていたと思われるが、なにくれとなく気をつかい、大変、心配していた。寛永16年9月、玉室玉舟和尚の世話で、宗受は、生駒藩※6に有付し、宗左と名を改めたが、翌年、生駒藩主高俊の家に騒動※7があり、領地没収となって、またもや、失職した宗旦は、宗左の有付を、柳生氏などに頼み、寛永19年、宗左柳生宗矩の世話で、紀州徳川頼宜に有付した
※6 正しくは讃岐高松藩生駒家である。
※7 讃岐高松藩の運営をめぐり、藩主の後見役となっていた津藩藤堂家の家臣・前野助左衛門及び石崎若狭一派と、高松藩国家老・生駒帯刀の一派とが争いになった。時の将軍・徳川家光は頻繁に諸大名の改易や取り潰しを行う「武断政治」を信条としていたため、この事件を知った幕府は前野・石崎派の関係者の多くを死罪とし、帯刀派の主要関係者を他の大名預けとしたうえで、騒動の原因は藩主生駒高俊が暗愚であったことによるとして領地を没収、一万石に減封して出羽国秋田県)由利に配流した。生駒騒動 - Wikipedia

 

 江岑宗左紀州藩への仕官は、千家流茶道にとって非常に大きな転換点となりました。後に兄の一翁宗守武者小路千家の祖)高松藩松平家に、弟の仙叟宗室裏千家の祖)加賀藩前田家にそれぞれ仕えることになるのですが、これも江岑宗左が徳川御三家のひとつである紀州藩に召し抱えられたということが大きな後押しになったであろうことは想像に難くないところです。
 それでは、なぜ紀州藩江岑宗左を召し抱えるに至ったのかということですが、これについて前述の茶の湯文化学会が発行する「茶の湯文化学会会報 No.97(2018)」の冒頭に掲載されている砂川佳子氏の「紀州徳川家伝来の茶道具」という報告によれば、当時の紀州藩では「数寄屋御成(すきや おなり)※8」に対応するために、それなりの人物を迎え入れる必要があったからであろうと考えられているようです。
※8 徳川幕府二代将軍・秀忠は茶の湯を好み、しばしば大名の江戸藩邸を訪れて「数寄屋(小規模で軽妙洒脱な茶室)」でのもてなしを希望したとされる。これを「数寄屋御成(すきや おなり)」と呼び、迎える側の大名にとっては茶室や茶道具を整えるために莫大な負担を要した半面、自邸の私的な空間で将軍と親密な関係を築くことができるというメリットもあった。秀忠の跡を継いだ三代将軍家光も茶の湯への造詣が深かったとされ、江岑宗左が仕官した時点では数寄屋御成が引き続き行われていたものと考えられる。三重:「数寄屋御成」大事な営み:地域ニュース : 読売新聞オンライン

紀州徳川家伝来の茶道具
           砂川佳子
(前略)
 紀州徳川家は、徳川家康の十男頼宣が、元和5年(1619)に紀伊国和歌山55万5千石へ転封されたことにはじまる。以後、十四代茂承の時に明治維新を迎えるまで続いた。
 その間、代々の藩主はそれぞれ茶の湯に関わってきた。なかでも、初代藩主頼宣、十代治宝、十一代斉順は、紀州徳川家で所蔵する茶道具の収集や伝来に、大きな役割を果たしたことから、この三人の藩主と茶道具との関係を紹介したい。
 紀州徳川家初代藩主頼宣は、慶長7年(1602)伏見で生まれた。翌年、常陸水戸藩20万石、同14年(1609)には駿河遠江50万石へ転封された。慶長19年(1614)、大阪冬の陣に参戦した。元和5年に紀州へ入国し、安藤水野の付家老に支えられながら、よく治めた。寛文7年(1667)に隠居し、同11年(1671)に没している。
 茶の湯の作法については、数寄屋御成に対応するため、それなりに身に付けていたと推定される。
(中略)
 こうした数寄屋御成の受入・随行や道具の管理の必要もあってか、寛永17年(1640)、幕府御数寄屋頭の親類であろう中野栄を召出し、寛永19年(1642)には、千宗左(初代江岑)を迎えている。
(中略)
 頼宣自身が、どの程度茶の湯を嗜んだかは判然としないが、家臣に対しては、「少に而も可学茶道を不知は他行馳走のもてなしには先ツ茶の湯なりそれを不知は不骨にてさなから下臈立にて見ゆる(『南紀徳川史』第一冊)と語っている。つまり、少しでも茶の湯を学ぶべきであり、茶道について知らなければ、外出した先でのもてなし、まずは茶の湯であるが、それを知らなければ、まるで下人のような身分の低い者に見える、とし、武士の教養として認識していた様子がうかがえよう。
(中略)
 十代藩主治宝は、明和8年(1771)に誕生した。寛政元年(1789)藩主となり、幕府の寛政改革に倣って、紀州藩でも行財政改革に着手している。文政7年(1824)養子斉順に代を譲って隠居するも、嘉永5年(1852)に没するまで、藩政の実権を握っていた。
 治宝の治世は、文化・文政期に重なったこともあり、書や絵画、それに雅楽の習得と楽器の収集を行うなど、文化的事業にはみずから積極的に取り組んでいる。なかでも茶の湯は、家臣である千宗左(九代了々斎)から皆伝を受け、のちに十代吸江斎へ「返り伝授」したほどであった。
(中略)
 明治に入ると、紀州徳川家当主の興味や関心あるいは趣味は、茶の湯よりも時流に沿ったものに移って行った。具体的には、十五代当主頼倫による平城宮跡の発掘支援、十六代頼貞の楽譜や音楽文献、古楽器類の収集※9などである。紀州徳川家当主は、時代が変わっても芸術家のパトロンであり、自らも収集家としてあり続けた。芸術や文化に理解を示し、莫大な財産をつぎこむことによって、貴重な文化財の保護や発展につながったことは間違いないが、その一方で、紀州徳川家伝来のコレクションは、売立により散逸の憂き目にあった。競売にかけた、頼貞が憎い。
会報|茶の湯文化学会(公式ホームページ)
※9 頼貞が収集した音楽関係のコレクションは「南葵音楽文庫」として和歌山県立図書館で公開されている。南葵音楽文庫ホームページ|音楽の殿様・徳川頼貞のコレクション|和歌山県立図書館

 

 上記引用文中では、紀州徳川家十代藩主徳川治宝表千家10代家元の吸江斎に「返り伝授」したとのエピソードが語られています。
 吸江斎が先代の了々斎から家元を継いだのはわずか9歳の時であったため、幼い吸江斎の支えとなったのが徳川治宝でした。その時既に了々斎から皆伝を授かっていた治宝は、吸江斎が19歳になったときに皆伝を授けて表千家の正統を繋いだのです。表千家では、この経緯について、9代了々斎から治宝へ一時的に預けていた「皆伝」をあらためて治宝から10代吸江斎へ返したという意味で、「返り伝授」と呼んでいるようです。
 一時的であったとはいえ表千家の家元「皆伝」を紀州藩主が保有していたというのは、それはそれで凄いものであると言えるでしょう。
表千家[十代]_祥翁宗左_吸江斎

 

 ちなみに、現在も表千家で用いられる茶道具の中に「三木町棚(みきまちだな)」という棚がありますが、これは冒頭で紹介した表千家下屋敷が「三木町」と呼ばれる場所にあり、ここで用いられた形式の棚を江岑宗左が好んだとされることから現在も用いられ続けているものです。
江岑好 三木町棚

 

 このように、紀州藩表千家とは非常に深い関係で結ばれているのですが、こうした伝統を踏まえて和歌山では茶道を嗜む人が多いようです。近年は新型コロナウイルス感染症対策で様変わりしていますが、和歌山市ではしばらく前から「和歌山城市民茶会」というカジュアルな大規模茶会が行われており、表千家裏千家の垣根を越えて市民に広くお茶席を楽しんでいただく機会を設けています。

令和3年 和歌山城茶会

 また、今年(2022)11月には、表千家の家元を中心とする全国組織「表千家同門会」の全国大会が和歌山市内で開催されることとなっており、これとタイミングをあわせるように和歌山市立博物館では「秋季特別展「表千家とわかやま -紀州藩における交流-」の開催が予定されています。
和歌山市立博物館ウェブサイト

 

追記:同門会全国大会は予定通り開催されました。

www.sankei.com

 

 和歌山がこのように表千家と深く結びついているということは、残念ながら茶道を嗜んでいる方々以外にはあまり良く知られていないように思われます。

 近年では外国でも「抹茶」がブームとなっていたり、来日した外国人観光客に「茶道体験」が人気であるというような話もよく聞きますので、今後インバウンド観光が再び活性化してくれば、こうした要素も観光に結び付けられるかもしれないですね。

 

(補足情報)
 表千家裏千家武者小路千家など、茶道の各流派ごとの違いについては、下記のWebサイトが参考になると思います。

wa-gokoro.jp

 ちなみに、上記サイトで表千家の流れを汲む流派の一つとされている「江戸千家」を創始した川上不白(かわかみ ふはく)現在の新宮市の出身で、父は紀伊新宮藩水野家の家臣であったとされます。令和元年(2019)は不白生誕300周年となるため、地元では記念行事などが行われたようです。

www.agara.co.jp