生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

ドクトル(毒取る)先生・大石誠之助と大逆事件(新宮市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、明治時代の新宮で医師として活躍するとともに、「太平洋食堂」を開いて西洋流の食生活を紹介するなど、様々な活動で地域の人々から敬愛されたにもかかわらず、社会主義思想に興味を持ち、活動家と交流していたことから「大逆事件(幸徳事件)」で無実の罪をきせられ、遂に死刑に処せられてしまった人物・大石誠之助(おおいし せいのすけ 1867 - 1911)を紹介します。


 新宮市熊野速玉大社(くまの はやたま たいしゃ 世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産のひとつ)にほど近い住宅地の一角に「大石誠之助宅跡」の碑がひっそりと建立されています。これは、「大逆事件」に連座して無実の罪で死刑に処せられた大石誠之助の旧宅があった場所を示すものです。
 この碑の脇には次のような解説板が添えられています。

大石誠之助宅跡
 新宮町(現新宮市に生まれた大石誠之助(1867~1911)は、アメリカやインドで医学を学び、船町のこの場所で開業、貧しい人々に無料で診察をし、遊郭設置に対して反対の論を張るなど人権擁護のための活動をした。
 しかし、社会主義者の一掃を図った「大逆事件」に連座死刑となるが、戦後、多くの研究者により大逆事件の解明がすすみ、事件とは無関係で、大石誠之助らは冤罪(えんざい)事件の犠牲者となったことが明らかになった。平成13年9月、非戦・廃娼を唱えた人権の先覚者として新宮市議会で誠之助らの名誉回復宣言が採択された

 また、新宮駅新宮市役所にほど近い新宮市春日には「志を継ぐ」という石柱とともに次のような文が刻まれた「大逆事件犠牲者顕彰碑」が建立されています。

 

 1911年、この熊野の地で、「天皇暗殺を企てた」とする「大逆事件」のために、死刑2名 無期懲役4名、都合6名の人々が犠牲になった。
 ・大石誠之助(1867-1911) ・成石平四郎 (1882-1911)
 ・高木 顕明(1864-1914) ・峯尾 節堂(1885-1919)
 ・成石勘三郎(1880-1931) ・崎久保誓一(1885-1955)
 太平洋戦争後、この事件は自由思想弾圧のための国家的陰謀である真相が判明し、かれらはその犠牲者であった。
 これらの人々は、必ずしも同じ思想を有していたわけではないが、熊野独特の進取の精神や反骨の気風のなかで、平和・博愛・自由・人権の問題においては、むしろ時代の先覚者であった。こうしたかれらの志は、いま、熊野に生きるわれわれにも当然受け継がれるべきもの、受け継がなければいけないものと確信する
(なお、当記念館の主西村伊作(1884-1963)は、大石誠之助の甥で、幼くして両親を亡くし、誠之助に育てられ、その生き方に深い影響を受けた。※1
         大逆事件」の犠牲者を顕彰する会
※1 この碑は当初「西村伊作記念館(新宮市丹鶴)」の前庭に建立されたが、同館は国の有形文化財に登録されていたため、文化庁から「新規建造物は好ましくない」との指導を受けて現地に移された。これにより、碑にはカッコ内の文言が刻まれているものの、実態に則さないことからこの部分のみ色を抜いて目立たなくしている

 

大石誠之助
画像は Wikipedia より

 冒頭で述べたように、大石誠之助は貧富の別け隔てなく困っている患者を診察する医師であり、篤志として地域では敬愛される存在でした。和歌山県が管理するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」では誠之助について次のように紹介しています。

篤志家 大石 誠之助(おおいし せいのすけ)
1867年(慶応3年)~1911年(明治44年
新宮市 生まれ

「ドクトルおほいし」と大逆事件

 慶応3年(1867)、新宮(現:新宮市で生まれる。同志社英学校、東京の神田共立学校で英語を学ぶ。明治23年(1890)渡米、アメリカ、カナダの大学で医学を学び、医院を開業するが、明治28年(1895)帰国する。
 翌年、新宮町仲ノ町(現:新宮市仲之町)で「ドクトルおほいし」の看板をかけ開業する。和貝彦太郎によれば、「アメリカ帰りの新しい医術が光っている上に、患者には至って優しく、貧しい人々に対しても極めて気安く診察する上、診察料も薬代も積極的には請求しないと云うので、庶民の間では一種の信仰的存在であった」と言う。       
 明治32年(1899)、伝染病学研究のためインド・ボンベイ大学に留学する。このインドで見聞したカースト制度が、誠之助に人権について深く考えさせるきっかけとなり、社会主義へ近づかせることになった。
 明治34年(1901)、病気のため帰郷し、新宮町船町(現:新宮市船町)で再び開業。この頃から、地方新聞に文芸作品及び社会主義的評論を投稿するようになる。また、堺利彦幸徳秋水らと交流、資金援助を行う。明治43年(1910)、大逆事件が発覚。共同謀議の罪で誠之助も起訴され、明治44年(1911)処刑された。43歳であった。
 戦後、多くの研究者により大逆事件の解明がすすみ、宮下太吉菅野すが新村忠雄古河力作以外は事件とは無関係で、大石誠之助らは冤罪事件の犠牲になったといわれている。新宮では「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」が結成され、非戦・廃娼を唱えた人権の先駆者として新宮市議会で誠之助らの名誉回復宣言が採択されるなど活発な活動が行われている。
大石 誠之助 | 和歌山県文化情報アーカイブ

 

 誠之助はまた、明治37年(1904)に新宮に洋食レストラン「太平洋食堂」をオープンし、新宮の人々に洋食を紹介しました。これには、単に美味しい料理を提供したいという思いだけではなく、貧困のために栄養状態が悪く、病気が治っても健康の回復が難しい人々のために滋養になる西洋風の家庭料理をふるまい、その調理法を教えるという意図も含まれていたと伝えられています。下記の個人ブログによると、大石誠之助全集にはボイルド・サーマン(鮭)、ローストビーフ、サンドウィッチ、臓物を使った料理、スープ、ドレッシング、飲み物など各種の料理が紹介されているとのことですので、太平洋食堂ではこうした料理が提供され、またその調理法を多くの人々が学んでいたのでしょう。

readyfor.jp

 

 そんな誠之助が日本を揺るがす大事件に巻き込まれた経緯について、和歌山県教育委員会が発行する「ふるさと教育読本 わかやま発見」では次のように解説しています。

第2編 わかやまの歴史
第4章 近代和歌山の発展

社会主義思想と「牟婁新報」
 日露戦争に反対する声は,和歌山市でもキリスト教青年グループを中心に行われています。日露戦争の勝利は,わが国の国民に大きな自信を与えましたが,多大の負担を強いることにもなりました。そういった世相を反映して,社会主義の思想もおこってきました。
 毛利柴庵(もうり さいあん)が1900年に紀南の中心地田辺で発行した『牟婁新報(むろしんぽう)』は,社会主義の考えをもった記事も書かれている新聞として,広く世に認められていきました。柴庵は,新しい仏教の考えを取り入れた社会主義の傾向のもち主でしたが,考え方の広い人でしたから,1905年に社会主義者荒畑寒村※2(あらはた かんそん)が記者として田辺に招かれ,ついで管野スガ※3(かんの すが 後に幸徳秋水※4(こうとく しゅうすい)の妻)も田辺に赴任すると,同紙はさらに激しい社会主義的主張をくり広げました。また,東京などの社会主義者たちとも交流が深かった,新宮の医師大石誠之助も,この牟婁新報』の有力な投稿者の1人でした。

 

牟婁新報』と大逆事件
大逆事件と大石誠之助らの悲劇
 社会主義思想が田辺で最も盛んであったのが,荒畑寒村らが活躍した1905~06年で,新宮で最も盛んになったのは1908年のことです。幸徳秋水がこの年の夏,新宮に大石をたずねています。大石は困っている人からは治療費をもらわないなど,「ドクトル(毒取る)さん」と親しまれていました。若者にも共感をよせていた大石の人柄をしたって,社会主義に関心をもつ青年たちが,大石のまわりに集まり,さかんに論議しあいました。1910年,長野県爆弾を持っている者が見つかり,天皇の暗殺を企てたとして,全国で社会主義者の逮捕がつづきました。その中心者は,幸徳秋水ということにされました。世に大逆事件とよばれた事件ですが,このとき,大石を中心とする「紀州グループ」の人々6名も次々にとらえられていきました。そして,大石成石平四郎(なるいし へいしろう)の2人が死刑成石勘三郎(かんざぶろう)高木顕明(たかぎ けんみょう)らが無期懲役に処せられました。高木顕明は,新宮の浄泉寺(じょうせんじ)の住職で,貧困などで苦しんでいる人々の相談相手としてやさしく手をさしのべていました。そうしたことから,たくさんの人々からしたわれていました。また,成石勘三郎平四郎の兄弟は請川田辺市で将来を期待されていた青年たちでした。
 この事件をきっかけに,日本では,特に社会主義者のとりしまりがたいへん厳しくなりました。第二次世界大戦後,大逆事件にかかわる資料が次々と発見されてこの事件の真相が明らかにされ,大石らは,全くの無実であったことがわかりました
わかやま発見|目次

※2 社会主義者労働運動家・作家・評論家。日本共産党および日本社会党の結党に参加するが、のち離党。戦後1946年から1949年まで衆議院議員を務めた。主義主張の一貫した生涯は、日本社会主義運動の良心の軌跡とされている。荒畑寒村 - Wikipedia

※3 新聞記者・著作家・婦人運動家・社会主義運動家。明治40年(1907)に荒畑寒村と結婚したが、後に既に妻帯者であった幸徳秋水と交際を始め、寒村と離婚。秋水も妻・千代子と離婚したが、スガとは内縁関係のままであった。大逆事件の根幹とされる明治天皇暗殺計画に関与した4人(宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作)のひとりとされる。管野スガ - Wikipedia

※4 ジャーナリスト、思想家、共産主義者社会主義者無政府主義者明治36年(1903)、日露戦争開戦に反対する「非戦論」を人々に訴えるために平民社を開業し、週刊『平民新聞を創刊。後に無政府主義(中央集権的な国家の存在を排除し、自由な人々の結合に基礎を置く相互扶助の組織を社会の中核とする思想 アナキズムに傾き、直接行動論(労働者の直接行動(ゼネラル・ストライキ)により社会の変革を図る)を唱えた。内縁の妻であるスガとともに逮捕され、死刑に処せられたが、後の研究によれば秋水は冤罪であったとされる。幸徳秋水 - Wikipedia

 

 「大逆事件」とは、正式には明治41年(1908)施行の現行刑法73条(この条文は1947年に削除)に定められていた「天皇太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又は皇太孫に対し危害を加え又は加えんとしたる者は死刑に処す(カタカナをひらがなにするとともに、かなづかいを現代のものに改めた)」との規定(通称「大逆罪」)が適用された事件の総称です旧刑法にも同様の規定があったものの適用例は無いとされる)
 実際にこの規定が適用された事件としては「幸徳事件(1910)」「虎ノ門事件(1923)」「朴烈事件(1925)」「桜田門事件(1932)」の4件があるとされていますが、一般的に「大逆事件」と言う場合にはこのうち最初に発生したいわゆる「幸徳事件」を指すことがほとんどだと思われます。
大逆事件 - Wikipedia

 幸徳事件の発端は、政府による社会主義弾圧に抵抗するために、明治天皇の暗殺により国民を覚醒させようと爆弾を製造していたことが明らかになった事件(明科事件)でした。その動きを察知していた取締当局は首謀者の一人である宮下太吉が働く明科製材所(あかしな せいざいしょ 現在の長野県安曇野市にスパイを送り込むなどして事件を摘発し、関係者を逮捕しますが、この際に当局は宮下太吉に少しでも関わりのあった社会主義者を一斉に検挙し、強引に有罪に持ち込みました
 これについて、国立国会図書館が運営する「レファレンス協同データベース」の「明治末の大逆事件について知りたい」という項では、「日本大百科全書」からの引用として次のような解説が紹介されています。

 迫害に窮迫した彼らは急速に、直接行動・ゼネストによる革命の実現に突破口をみいだそうとし、とくに弾圧への復讐の念に燃えた菅野は、宮下太吉新村忠雄古河力作とともに、天皇の血を流すことにより日本国民の迷夢を覚まそうと爆裂弾による暗殺計画を練った。宮下は長野県明科の製材所で爆裂弾を製造し、09年11月爆発の実験も試み、10年1月には東京・千駄ヶ谷平民社で投擲の具体的手順を相談するが、幸徳は計画に冷淡で著述に専念しようとした
 取締当局スパイを潜入させたりなどしてこの計画を感知し、1910年5月25日の長野県における宮下検挙を手始めに、6月1日には神奈川県湯河原で幸徳を逮捕。政府はこの長野県明科爆裂弾事件を手掛かりに一挙に社会主義運動の撲滅をねらって、幸徳が各地を旅行した際の革命放談などをもとに、大石誠之助らの紀州松尾卯一太らの熊本派武田九平らの大阪派、さらに森近運平奥宮健之内山愚童26名を起訴するほか、押収した住所録などから全国の社会主義者数百名を検挙して取り調べた。第二次桂太郎内閣下の平田東助内相有松英義警保局長平沼騏一郎司法省行刑局兼大審院検事松室至検事総長らの指揮により、全国的な捜査、取り調べと裁判が進められ、元老山県有朋をはじめ政府部内や枢密顧問官らの強い圧力を受けて、事件全体が終始政治的に取り扱われた

crd.ndl.go.jp


 誠之助幸徳事件連座させられたのは、上記引用文に「幸徳が各地を旅行した際の革命放談などをもとに」とあるように、明治41年(1908)8月に秋水が新宮を訪れて誠之助宅に滞在したこと、及び同年11月に誠之助東京で秋水と会ったことが「謀議」であったとみなされたことによるものでした。
 これについて、泉惠機氏は「大逆事件真宗大谷派(「大谷大學研究年報 54号」大谷学会 2002)」において次のように記しています。

b 大逆事件の経過
三つの事件
 世に「幸徳事件」と称ばれる「大逆事件」は、このような第二次桂内閣による社会主義者弾圧の最も過激な一例であった。
 この大逆事件は、相互にほとんど関連をもたない三つの事件を、国家が意図的に結びつけたものというのが今日の定説である。それらは、「明科事件」、「十一月謀議」、「皇太子暗殺計画事件」と言われるが、「信州爆裂弾事件」とも称ばれる「明科事件」を除く二つは、もともと事件と言うべきものではない。この三つがどのように縫い合わされて、世を震撼せしめた「大逆事件」にフレームアップ(筆者注:事件を捏造したり、人に無実の罪を着せたりすること)されていったのかについて、些かなぞっておきたい。
 明科事件というのは、天皇暗殺を目的として爆裂弾を作っていたとして、信州明科の製材所員宮下太吉が拘引されたことに始まる。1910(明治43)年5月25日のことであった。それより新村忠雄新村善兵衛の兄弟と古河力作が次々と拘引され、同月末日に幸徳秋水菅野須賀子宮下新村兄弟古河新田融の7名が起訴された。幸徳は彼等の計画を聞いてはいたが直接関わってはいなかった。しかし他の被告との関係の深さや彼の社会主義運動に於ける位置などによって、首魁とされていったのだった。
 幸徳の拘引は6月1日であるが、この時点では爆発物取締罰則違反の事件であった。この事件が紀州新宮に飛び火し、社会主義者でクリスチャンであったドクトル大石誠之助が6月5日に起訴されたが、これらの人々への訊問が行われる過程で、「11月謀議」という第二の事件が生み出されていく。つまり、計画内容の杜撰さなどのことはともかく明科事件は明確に天皇暗殺を目的として爆裂弾を製造していたのであるから、いわば事件の本体であり、実態をもつものである。
 だが、天皇暗殺の計画を話し合ったという「11月謀議」なるものは、実際の中身は「謀議」ではなく「雑談」、あるいは「放談」とでもいうべきものであったが、この二つが縫い合わされてフレーム・アップされていったのである。
 1908年8月に、土佐に帰郷していた幸徳が、赤旗事件※5で多くの仲間が逮捕されたことにより再び東京に出たが、その途次新宮に立ち寄り、大石誠之助宅に逗留し熊野川で船遊びをしたことが船上での謀議とされ、さらに三ヵ月後の11月に、今度は大石誠之助が東京の平民社に幸徳を訪ねて菅野とともに診察したが、このとき「11月謀議」がなされたとされた
 大石誠之助が新宮に帰る途中、京都、大阪で社会主義者などと出会ったりするが、11月謀議が伝えられ同意されていったと捏造されていった。その翌年の1月下旬、新年会ということで大石に招待された高木顕明成石平四郎峯尾節堂崎久保誓一が、天皇暗殺謀議の内容をうち明けられ同意したとされ、いわゆる"新宮グループ"が作られていった。熊本へも同様の形で伝えられたとされたが説明は省く。これが「11月謀議」である。
(中略)
 ただ、宮下が逮捕された頃は「爆発物取締罰則違反」の事件であったが、1910年6月4日から、明科事件幸徳宮下菅野などの拘留状では「刑法第73条ノ罪ノ被告事件」とされている。
 新宮、熊本などに拡大されて行く流れも、同様に6月初めに出てくるが、6月4日には、東京地方裁判所の小林検事正の談話があり、翌5日にいくつかの新聞に掲載された。

 

 今回の陰謀は実に恐るべきものなるが、関係者は只前記7名のみの間に限られたるものにして、他に一切連累者なき事件なるは余の確信する所なり。されば事件の内容及びその目的は未だ一切発表しがたきも、只前記無政府主義者男4名、女1名が爆発物を製造し、過激なる行動をなさんとしたること発覚し、右5名及び連累者2名は起訴せられたる趣のみは、本日警視庁の手を経て発表せり。

 

 しかし、この談話の前日の6月3日には和歌山県では新宮で大石高木顕明西村伊作崎久保誓一沖野岩三郎らが、本宮で成石平四郎、田辺で毛利柴庵が家宅捜索をうけ大石誠之助は直後に拘引されているのであり、これによる限りでは、6月4日の段階では事件のこれ以上の拡大はなくしたがって新宮には飛び火しないことを発表しているのと矛盾する。この辺は当局側の足並みの乱れが感じられるが、捜査の進展とともに行われていったフレーム・アップは、少なくとも「東京地方裁判所検事正」などではない、当時の国家の中枢部分から発せられていたことが推測される資料もある。
(中略)
註1 大逆事件研究は、敗戦までは皆無といってよいが、それ以後、ことに坂本清馬などによる再審請求の動き※6の中で一挙に進んだと言ってよい。以下に一、二の研究を挙げておく。塩田庄兵衛・渡邊順三編『秘録大逆事件』 春秋社刊、絲屋寿雄著『増補改訂大逆事件』 三一書房刊、神崎清著『大逆事件』1~4巻 あゆみ出版刊など。

大谷大学学術情報リポジトリ

※5 明治41年(1908)6月22日、東京・神田の映画館・錦輝館(きんきかん)で行われた山口孤剣(こけん 本名は義三)の出獄歓迎会(封建的家族制度を批判する記事を平民新聞に寄稿したため新聞紙条例違反の罪に問われて禁錮刑を受けていた)の際、大杉栄荒畑寒村らが「無政府共産」「無政府」の文字を縫い付けた赤旗を翻し、革命歌を歌いながら会場外へ出てデモ行進を行った事件。これを阻止しようとした警官隊と衝突し、14名が逮捕、起訴された。赤旗事件 - Wikipedia

※6 坂本清馬幸徳事件で逮捕され、一旦は死刑判決を受けたが後に無期懲役に恩赦減刑され、昭和22年(1947)大逆罪廃止により特赦を受けた。後に無罪の判決を求めて東京高裁に再審請求を行ったが棄却最高裁への特別抗告も棄却された。坂本清馬とは - コトバンク

 

 このように、現在では誠之助が死刑に処せられたのは明治政府による冤罪であったとの認識が定着してきているものの、上記引用文中の※6にあるように大逆事件関係者が無罪の判決を求めた件で再審請求、特別抗告がいずれも棄却※7されているように、関係者に下された死刑、あるいは無期懲役という判決は明示的には取り消されていません。
 このため、地元では誠之助らを先進的な人権思想家として顕彰しようとする動きがあったものの、罪名を課せられた者を顕彰することに対する抵抗感は拭えないとして反対する意見もあり、長期にわたる論議が繰り返されました。
 これについて、令和2年(2020)に公表された「新宮市人権教育・啓発推進計画(第2次)」では、「第3章 主な人権問題の現状と課題」の中で「12.その他の人権課題 (4)大逆事件犠牲者(紀州新宮グループ)の顕彰」という項を設けて次のように記しています。
※7 坂本清馬らによる再審請求は、東京高等裁判所において「無罪を言い渡すべき明確なる証拠を新たに発見した場合にあたらない」として棄却されており、清馬らが潔白であったとの事実認定はされていない。これを受けて、清馬らは、この棄却決定は憲法に違反しており裁判の手続きにも瑕疵があるとして最高裁判所に特別抗告を申し立てたが、これについても棄却された。

(4)大逆事件犠牲者(紀州新宮グループ)の顕彰
(略)
 本市においては、第2次大戦直後より大逆事件」犠牲者の名誉回復の動きが起こります。1960年(昭和35年)には「大逆事件50周年紀南関係者追悼記念行事委員会」によるいわゆる「紀州新宮グループ」の慰霊祭が行われました。その後も「大逆事件」関係者や社会運動家による犠牲者の墓参、「大逆事件の真実をあきらかにする会」など「大逆事件」に関心を持ち、風化させてはならないと考える市民の手により、大石誠之助高木顕明らの「紀州新宮グループ」の名誉回復や史料の掘り起こし、集会や講演会などがなされてきました。
 また市立図書館が発行する『熊野誌』においても何度か「大逆事件」に関する特集が組まれています。
 2001年(平成13年)8月には「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」が設立されました。同会は、市長及び正副議長に対して「大逆事件」の犠牲者に対する名誉回復と顕彰の申し入れを行い、同年9月には、市長提案を受けて市議会が全会一致で「大逆事件」犠牲者の名誉回復と顕彰を決議しました。2003年(平成15年)には大逆事件」の犠牲者顕彰碑『志を継ぐ』を建立(筆者注:上述の「大逆事件犠牲者顕彰碑」とともに建立されている)、多くの人が訪ねる場所となりました。また「大逆事件」から100年の2010年(平成22年)6月には、新宮市民会館で「大逆事件100年フォーラム in 新宮 闇を翔(かけ)る希望」が開催され、市内外から多くの方の参加を得て盛大に開催されています。
 2018年(平成30年)1月、本市は、大逆事件」の冤罪であることを確認した上で、すでに名誉市民である佐藤春夫西村伊作の先覚者として位置づけ、「平和、博愛、自由、人権」を訴えた大石誠之助を名誉市民としました。同年10月には、大逆事件をめぐり、事件の犠牲者の名誉回復や顕彰活動をする全国の団体が一同に会する「第4回大逆事件サミット」が新宮市福祉センターで開催され、およそ230人が参加しました。
(以下略)
和歌山県新宮市 和歌山県新宮市 新宮市人権教育・啓発推進計画(第2次)の策定について

 上記引用文のとおり、新宮市では、平成13年(2001)に市長からの提案を受ける形で新宮市議会において大逆事件犠牲者の名誉回復と顕彰を決議し、平成30年(2018)には大逆事件が冤罪であったことを確認した上で誠之助を名誉市民とする決定を行いました。
 しかし、その背景には様々な紆余曲折があったようで、平成22年(2010)には同市議会において名誉市民条例の改正案が否決されています。この改正は、名誉市民の候補者を市長だけでなく議会からも推挙できるようにしようとするもので、実質的には誠之助を名誉市民とすることに慎重な市長に対して議会からの推挙をもって名誉市民を決定できるようにすることを意図していた模様です。しかしながら、採決の結果この議案が否決されたことにより、誠之助を名誉市民にしようとする動きはここで一旦停滞することとなりました。
 この動きが再び議会に登場したのは平成29年(2017)のことでした。前回とほぼ同内容の名誉市民条例改正案が議会に提出され、このときは賛成多数により可決されました。そして、この規定に基づいて誠之助を名誉市民として推挙することに議会が同意するか否かの論戦が展開されたのです。
 その内容については、新宮市議会のWebサイトに正式な議事録が掲載されており、正確を期すためにはこちらをご覧頂くべきなのですが、このうち「賛成」「反対」の意見の中で私が注目した部分を一部引用したいと思います。あくまでも一部の引用であり、全体の文脈とはニュアンスの異なる点もあろうかと思いますがご容赦ください(議員の個人名は省略しています)

12番
 ただいま上程をいただきました議員発案第2号、新宮市名誉市民の候補者の推挙について。次の者を新宮市名誉市民の候補者として市長に推挙したいので、新宮市名誉市民条例第3条第2項の規定により議会の同意を求めるものであります。
 候補者の氏名は、大石誠之助(故人)であります。
(略)
 このような誠之助の論は、今でいう民主主義や人道主義、人権意識に通じ、既に新宮市の名誉市民である佐藤春夫西村伊作を初め、後世の新宮人に多大な思想的な影響や共感を与えました。
(略)
 誠之助に名誉市民の称号を贈ることは、ある意味、国家の非をただすことにほかなりません。中央より遠く離れた人口3万人足らずの小さなまちが新宮です。巨大な国家権力を前に国家の非をただす、これこそ新宮の矜持というものではないでしょうか。国家に対し物を申すということは少し勇気が要ります。でもその少しばかりの勇気こそふるさとの心であり、人の情けであるのであります。
(略)
 今こそ誠之助が主唱した自由と平等、人権と博愛、非戦と平和の大切さを紡いでいかなくてはなりません。その象徴として、民主主義や人道主義、人権意識を論じ、実践した先達である誠之助を今この時代に名誉市民に推挙する意味があります。
(以下略)

 

7番
 私は、本議案に対して絶対反対の立場から討論を行います。
(略)
 大石誠之助先生が生誕されてから100年の年月が流れました。昭和34年に再審請求を行いましたが、却下されました。たとえ明治時代の旧憲法とはいえ、当時の刑法で起訴され、有罪判決が下されたことも現行憲法においても判決は覆っていないことも認識しなければなりません。
 大石誠之助先生が博愛主義の信念のもと、医者として貧しい人には診察代や薬代も請求せず、文学者としても優秀であり、持って生まれた反骨精神は、新宮人としての誇りであると思っております。しかし、戦後多くの研究者によって大逆事件の解明が進む中において、大石誠之助先生らは、冤罪事件の犠牲者になったことが明らかになりつつあります。
 しかしながら、国家による名誉回復はできておりません。すなわち有罪判決のままで現在に至っております。このような現況の中で何ゆえ名誉市民に推挙されようとするのか、私には理解に苦しむところであります。
(略)
 私は新宮人であるとともに市民に選ばれた議員であります。新宮市の名誉と市民の名誉を守る義務があります。日本は法治国家であり、たとえ明治憲法下の裁判による有罪判決であっても、現在の憲法下において再審を請求してもなおかつ有罪判決が覆ることができないならば、裁判の決定を遵守することが当然であります。すなわち大石誠之助先生を名誉市民に推挙する議案には、市議会議員としての矜持に基づき、断じて賛成することはできません。
(以下略)

会議録表示

 

 このように様々な意見がとびかったものの、結果として上記の議案は可決され、新宮市は誠之助に名誉市民の称号を授与することを決定しました。
 下記はその授与式に関する地元紙・紀伊民報の記事ですが、授与式には誠之助の遺族として誠之助の甥である西村伊作(建築家・文化学院創立者の孫にあたる方が出席して田岡市長から表彰状を受け取ったということです。

2018.01.25
紀伊民報
大逆事件の大石 命日に名誉市民称号授与
 和歌山県新宮市は24日、明治末期の大逆事件で刑死した同市出身の医師・大石誠之助(1867~1911)への名誉市民称号の授与式を開いた。式は大石の命日に合わせて開き、処刑された時間に皆で黙とう。大石の遺族に表彰状を手渡した田岡実千年市長は「功績を広く内外に発信し、より一層の顕彰に努めたい」と誓った。
 授与式は市役所6階の議場で開催。午後2時23分に皆で黙とうをした後、田岡市長が大石のおいで、すでに名誉市民となっている西村伊作(1884~1963)の孫・立花利根さん(81)=千葉県市川市=に表彰状を手渡し「明治政府による思想弾圧、いわゆる大逆事件で時代の犠牲となり、非業の死を遂げられたが、現在においても熊野独特の進取の精神や反骨の気風の中、平和、博愛、自由、人権を唱えた先覚者としての功績は大きい」などとあいさつ。屋敷満雄市議会議長も「志は現在熊野・新宮に生きるわれわれが受け継ぎ、子々孫々へと伝え続けなければならない」と述べた。
 式終了後には、関係者で市内にある大石の墓に参り、名誉市民称号の授与を報告した。
 立花さんは「いつかこういう日が来るのではないかと思っていたが、皆さまのご努力でできたこと。『誠之助さん、よかったですね』と墓に語り掛けた」と話した。 この日は、大石をモデルにした小説を著した印南町出身の芥川賞作家・辻原登さん(72)=横浜市=も式に参列。「正の遺産ばかりでなく、押しつぶされていった人の考えや生き方そのものを名誉市民として顕彰することは、日本だけでなく世界でもまずない。偉大な決断」と高く評価した。 「大逆事件』の犠牲者を顕彰する会」の二河通夫会長(87)=新宮市=は「英断に深く感動した。歴史の一こまが動いた感を強くし、ただ感無量。志を次の世代につなげていくよう努力していきたい」とコメントした。
大逆事件の大石 命日に名誉市民称号授与 | 全国郷土紙連合

 

 ちなみに、上記記事に登場する辻原登(つじはら のぼる)氏は昭和20年(1945)和歌山県印南町生まれの作家。「村の名前」で第103回(平成2年(1990)上半期)芥川賞のほか、紫綬褒章(2012)、日本芸術院賞・恩賜賞(2016)などを受賞しています。大石誠之助をモデルにした作品は「許されざる者毎日新聞社 2009 のち集英社文庫」で、2010年に第51回毎日芸術賞を受賞しました。下記のリンク先で一部を試し読みすることができますので興味があればこちらもご覧ください。
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