生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

文化学院創立者、建築家・西村伊作(新宮市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、前項で紹介した大石誠之助の甥で、日本で初めて「居間式住宅(家族団欒のための居間を中心とした住宅)」を建築し、建築家として活躍するとともに、自由な校風で多数の芸術家や文化人を輩出した学校・文化学院創立者としても知られる西村伊作(にしむら いさく 1884-1963)を紹介します。

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 新宮駅前から国道42号に向かう通称「駅前本通り」からほど近い場所に、大正時代に建てられたモダンな住宅があります。これが「旧西村家住宅(きゅう にしむらけ じゅうたく)」と呼ばれる建物で、現在は「西村伊作記念館」として一般に公開されています。
旧西村家住宅(西村伊作記念館)|新宮市観光協会


 この建物は、それまでの日本の住宅が主人とその客を最重視した「客間中心」の考え方に基づいたものであったのに対し、家族のくつろぎの場であることを根本に据えた「居間中心」の考え方に基づいて建築された最初期のもので、平成22年(2010)に国の重要文化財として指定されました。その重要性について、文化庁が管理するWebサイト「文化遺産オンライン」では次のように解説されています。

旧西村家住宅 主屋
 旧西村家住宅は、熊野川の河口付近に位置し、社会思想家で建築家でもあった西村伊作が、自邸として設計したものである。
 1階に、この住宅の中心となる居間と食堂を、南庭側に向かって配置し、家族全員で過ごす一体的な空間をつくっている。2階に南面バルコニーに面して洋間の寝室を並べ、そのほか子供用の寝室、風呂や便所などを配している。外観は、洋風にまとめる一方で、軒下には、紀伊熊野地方の民家でみられる伝統的な意匠も用いている。
 旧西村家住宅は、新たに興った住宅改良の動きの中で、家族本位の思潮に基づいて計画された郊外型住宅の初期の遺構として高い歴史的価値を有する。

bunka.nii.ac.jp

 

 西村伊作明治17年(1884)に新宮の豪商・大石余平の長男として生まれました。父が敬虔なクリスチャンであったため、「伊作」の名は旧約聖書の「創世記」に登場するイサク(Isaac)※1にちなんで名付けられたといいます。
※1 イサクは、アブラハムイスラエル民族の伝説的な父祖)の子。神がアブラハムの信仰を試みるため、イサクを犠牲としてささげることを命じた時、アブラハムは神の命令に従ったので、神はイサクの命を救ったとされる。アブラハムとは - コトバンク

 伊作の母・ふゆ奈良県下北山村一帯の山林王である西村家の出身で、同家に跡継ぎが途絶えたため、幼い伊作西村家を継いで西村姓を名乗るようになりました。

 伊作が7歳のとき、家族で移り住んでいた名古屋周辺を濃尾地震が襲い、伊作の両親は建物の下敷きとなって亡くなってしまいました。伊作はしばらくの間西村家の祖母に引き取られて下北山村で暮らしますが、11歳の時に父の弟である大石誠之助が新宮で医院を開業したことから、誠之助とともに新宮で暮らすようになります。後に誠之助大逆事件連座して無実の罪で死刑に処せられるのですが、この際、伊作もまた連行されて取り調べを受けたようです。(別項「ドクトル(毒取る)先生・大石誠之助と大逆事件」参照)

 その後、建築に興味を持ち、自らの設計により自宅を建築するほか、「楽しき住家」などの著作を通じて日本に「居間式住宅」を定着させようと尽力しますが、これと並行して自分の娘のために自らが考える真の学校教育を実現しようと「文化学院」という学校(当時の中学校令や高等女学校令には適合しなかったので、「各種学校」として認可を得ている)を創立しました。
西村伊作 - Wikipedia


 伊作について、昭和41年(1966)に発行された「紀の国百年人物誌(阪上義和著 紀の国文化社 非売品)」では次のように紹介しています。

西村伊作
 明治16年(1883)9月、東牟婁郡新宮町(現在新宮市仲ノ丁)大石余平の長男として生まれた。大石家は新宮の旧家である。父は熱心なクリスチャンで、伊作の生まれた年に新宮教会を建て、献堂式を挙げた。明治22年、父余平は亜炭採掘事業とキリスト教伝道のため、名古屋に移住した。このため伊作も名古屋の小学校に入ったが、24年(1891)10月に濃尾大地震にあい、両親は落下する煉瓦に打たれて惨死した。8歳の伊作も負傷し、3人兄弟は一瞬にして孤児となった。まもなく母方の西村家に入籍し、相続することになった。母の実家は奈良県吉野郡下北山村の富豪である。
 この頃叔父の大石誠之助アメリカから帰朝し、新宮で医院を開業したので、伊作兄弟を引き取って面倒をみることになった。明治31年に広島の明道中学校に入学し、36年に卒業、翌年徴兵検査に合格したが、日露戦争に非戦論を抱き、社会主義のビラを貼ったりした。召集を忌避してシンガポールに旅行し、油絵の展覧会を開いたりしながら戦争終了まで帰らなかった。若い時分から強い平和論者だったのである。
 明治40年建築学の研究に欧米を巡遊、43年に大石誠之助幸徳事件に連坐して検挙され、年末には伊作も東京で留置されたが、翌44年に大石らが処刑されたときはかなり強いショックを受けたようである。
 大正9年(1920)沖野岩三郎とともに新宮幼稚園を開設した。この頃には陶器の製作に熱中し、富本憲夫保田竜門厳谷小波佐藤春夫らがよく西村邸をおとずれた。大正10年東京に私費25万円を投じて東京文化学院を設立し、新しい教育方法を打ち出した。それは先ず男女共学により人間として円満な発達をとげさせること感性と理性と創造力を並進させることよく思索しよく感じよく創作する生活を基礎づけること、この三点を学是とした、現在の教育方針と全く一致したものであり、伊作の進歩した考え方に感銘させられるものがある。しかも教授陣は当時の一流人士をそろえていたという。
 軍国主義が発達してくると、彼の思想が受け入れられるはずはなく、昭和18年頃、太平洋戦争の激化とともに反戦論者として留置され、文化学院閉鎖命令をうけた。戦後昭和21年に文化学院再開、ますます隆盛をきわめ、紀州の生んだ先覚文化人として称えられたが、昭和38年(1963)3月に79歳で没した。著書は自叙伝をはじめ十数種あり、新宮の西村邸は記念館として保存されている。

同書より

 

 上記引用文では文化学院の創立伊作の主な功績と位置づけており、建築家としての功績には触れられていません。しかしながら、その名が多くの人々に知られるようになったのは、まずは建築の世界からだったのです。
 ところが、伊作は建築に関する専門的な教育を受けたわけではなく、基本的には自学自習で建築を学んだといいます。こうした事柄について、一般社団法人和歌山県建築士のWebサイトでは次のように紹介しています。

建築家 西村伊作 について
○はじめに
 西村伊作の活動で最もよく知られているのは、大正10年、東京・駿河台に与謝野晶子らと共に「文化学院」を創立し、わが国最初期の自由主義教育を実践したことかもしれない。
 しかし彼は同じ頃、日本の住宅を主人の見栄や体面のためでなく、家族の団欒のためのものにすべきであると訴え、当時の人々から熱烈な支持を得、その結果、その主張である「リビングを中心とした住宅」が、我が国に誕生した。そして人々の求めに応じて設計を行い、全国各地に数多くの作品を残したのだった。
 教育と建築の両活動を同時に行うということは奇異に感ずる人も少なくないのではと思うが、彼には「日本人の生活近代化」という統一した視点があった。ここでは彼の建築活動について紹介しよう。

○明治の日本
 明治維新以後、西欧から新しい文物が流入し、我が国は大きく変貌を遂げていったが、あらゆるものが同時進行で変化していったわけではない。社会の表層は洋風化が進んだが、明治末にあっても一皮向くとまだまだ江戸の残渣というべき非近代的な部分が多く残されていた。
 住宅は、貴紳らが競って豪華な洋館を建築しようとしたが、それはあくまでも接客の場であって、家庭生活の場ではなかった。日常生活の場は、そこは封建的な家族制度のもと、それを反映し客を迎え入れる座敷や玄関は上質で広く日当たりのよう場所を占め、普段の生活の場、茶の間は重視されず家族のプライバシーも守られなかった。これが明治から大正前半期までの状況である。

○西村の思い
 このような中で子供の頃から西欧の生活文化に接し育った西村伊作は、今後の日本人の生活は封建的な権威主義から脱却し、洋風を中心とした実質本位のものに転換すべきであると考えていた。
 しかし、この転換は言うのは易いが容易なことではない。例えば、座敷を重視した接客中心の間取りから、居間を重視した家族生活を第一に考えるそれに転換するということは、祖父・主人・長男のみの尊重から、妻や女子も含めた家族平等への転換であり、それは住む人々の家族観・人間観の転換を必要とする。これは容易ではない。
 勿論このようなことは西村一人で頑張っても成し遂げられることではない。そこには時代の大きな流れというものがあった。大正デモクラシーの大きなうねりの中、心ある人々は今後の日本の新しいあり方、教育や住宅ほかあらゆる分野においてそのあり方を真剣に模索していた。そんな中、今後のあり方を著書で、新聞の連載論文でさらに講演で、明確に国民に示し、彼は時の寵児、今風に言えば大ブレイクしたのだった
 国民が強く支持するということは、それを受け入れる素地が既に出来上がっていたということであるが、彼が主張するまではそのことは誰も言い出しえなかった。家族観・人間観の転換は、国家のあり方にまでも及ぶ重大な問題を含み、国家を背負うことを義務づけられた帝大卒のエリート建築家は主張できなかったであろうことは容易に想像できる。

○なぜ西村が
 彼は特に専門教育を受けず自学自習で建築を学んだ。歴史的にはこのような建築家で大きな業績を残した人は少なからずいるが、しかし、現在とは比べることが出来ないほど交通不便な新宮の地にすむ西村が、時代をリードする主張を展開することが、なぜできたのか。その理由にはいくつか考えられるが、その一つは、彼は生活改善に熱心なプロテスタントの強い影響のもとで育ったことが先ずあげられる。また、彼は親代わりでもあった米国帰りの医師大石誠之助からも大きな影響を受け、欧米の生活改善の動きをよく把握していたこと。そして彼が養子となった奈良県南部の西村家は大山林家であって世間とのしがらみがない自由な立場にあったこと。そして、彼は資産家であっても人々のために役に立ちたい、今風に言えば強い社会貢献の意欲を持っていたのだった。
 このように彼の活動の背景には、紀伊半島が、交通不便な地ではあるが海外には開かれていたことや、豊かな森林資源をもつ地であったことがある。

○デビューまで
 彼の建築活動は、明治37年(20才)の時、新宮でわが国最初のアメリカンバンガローを建てたことに始まり、現在新宮に遺る西村記念館と呼ばれる自邸を建築したのは大正3年(30才)のこと。これらの建築を通じて経験を深めていった。
 最初に注目を集めたのが大正8年出版した著書『楽しき住家』である。そして与謝野寛※2の紹介を得て大阪毎日東京日々新聞紙上で連載された「文化生活と住宅」でさらに大きな反響を呼び、全国各地から住宅設計の依頼を受けた。そのことが契機となって大正10年(37才)の時、自身の建築事務所阪神間と東京に開設することとなった。
(以下略)
西村伊作について | 一般社団法人 和歌山県建築士会

※2 歌人として知られる与謝野鉄幹(よさの てっかん)の本名。妻は同じく歌人与謝野晶子

ja.wikipedia.org

 

 上記のような思いを込めて伊作が作り上げた自宅(現在の西村記念館)の当時の状況について、平沢信康氏は「西村伊作文化学院日露戦争後における脱国家意識の生長と大正期自由教育-(「教育学研究 50巻4号」日本教育学会 1983)」において次のように紹介しています。

 1915(大正4)年,新宮伊佐田に,自身の設計になる洋風建築を地元の大工を指導して落成させた(現在の西村記念館).それはスイス・シャレーのスタイルに郷里北山村の民家の様式を採り合わせた簡朴な木造洋館で,洗面所には湯と水の配管があり,冬は温風が各室に行きわたる設備など,近代的な創意工夫が随処にほどこされた.家具調度類の多くも西村がデザインし,子供たちには2段ベッドが与えられた.電気洗濯機などはメール・オーダーでアメリカから取り寄せた。西村家に一時寄寓していた一少女は,その純洋風の朝食,タピオカ,大きなパン焼竈のある台所,広い地下室の洗濯場,取り寄せられたアメリカのカタログどおり夫人の手でつくられてゆく子供服など,すべてに瞠目する毎日だったと回想する.家庭教師として招かれた若い女性は,ミッション・スクール特有の西洋的ハイカラさと都会的な服装や言葉づかいで家庭に新鮮さを加え,子供たちにオルガン,歌,英語を教えた.
 新居ができてからは,午後のお茶の時分には,応接間は町の知識階級の人々で賑いだ沖野岩三郎牧師佐藤春夫※3兄弟などの知識青年,医者,宣教師ら,地元の文芸愛好の士が,一般町民からは孤立がちの西村家のサロンに出入りした.客は夫人の手作りの洋食やケーキでもてなされた.陶芸を始めた西村は,1916年,英国から帰朝したばかりの陶芸家・富本憲吉を自宅の窯場に招き製作を共にした.富本を通じてバーナード・リーチ※4との交遊もうまれる.同年には,他に,童話作家巌谷小波や彫刻家の安田竜門※5が迎えられた.与謝野寛との交遊も始まり,彼は西村を,堺利彦有島武郎賀川豊彦を含む数十名の知識人に紹介する会合を東京で催した.こうしたつながりが後の学院創立の基となる.
(以下略)
西村伊作と文化学院-日露戦争後における脱国家意識の生長と大正期自由教育-

※3 新宮市生まれの詩人・作家。「望郷五月歌」「田園の憂鬱」などの作品で知られ、昭和35年(1960)文化勲章を受章。佐藤春夫 - Wikipedia

※4 イギリス人陶芸家。幼少時に日本で育ち、その後もたびたび来日して日本の芸術家と交流した。「民藝運動(「民衆的工藝」の略語で、日常づかいの雑器に美を見出そうとする運動)」に関わり「日本民藝館」の設立に協力した。大英帝国勲章(1963)、国際交流基金賞(1974)などを受章。バーナード・リーチ - Wikipedia

※5 正しくは「保田龍門」。別項「保田龍門レリーフ・丹生都比売命(県庁本館)」「保田龍門レリーフ・高倉下命(県庁本館)」参照。


 上記のように、新宮の伊作邸は多数の文化人が訪れて自由に意見交換を行う、さながら「文化人サロン」のような存在となっていきました。
 やがて伊作は東京にも新宮と同じようなサロンを作り上げようと、神田駿河台で土地を購入します。当初はここにホテルを建築し、文化人の社交場として用いるとともに、講演会やコンサートの会場を提供しようと考えたのです。ところが、この当時、伊作の長女アヤが高等女学校へ進学する年齢になっていたにもかかわらず周囲には伊作の納得するような学校が存在しなかったことから、与謝野晶子らの助言を受けて、この土地で伊作の理想とする教育を実現できる学校を作り上げようという計画が急速に浮上してきました。
 影山昇氏は「西村伊作与謝野晶子 : 大正自由教育と文化学院(「成城文藝 171号」成城大学文芸学部 2000)」において、当時の状況を次のように記しています。

(略)
 ここには新宮町と同様,東京にも文化人サロンを再現しようという伊作の意気込みがうかがえる。
 ところが同年の夏,与謝野寛・晶子夫妻が長野県沓掛にある千ヶ滝の別荘に西村伊作河崎なつ,その他の友人を招き,芸術合宿ともいうべき一週間の共同生活を送った折に、伊作の購入した土地の使用目的が大きく転換する契機となる。
 すなわち、この長野での合宿生活中に与謝野晶子伊作の長女アヤが大正10年(1921)4月から高等女学校に進学する年齢となっていたことを踏まえ,女子中等教育の現況が行き詰まっており,アヤにふさわしい女学校が東京には見当たらないということで,「西村さん,アヤちゃんのはいる,学校をつくったらどうです」と助言し、与謝野寛も「西村君そうしたまえ,こんないい娘さんを立派に成長させることは愉快な立派な事業だよ」と,晶子の考えに賛成して伊作を励まし、伊作の心はここで大きく動くことになる。
 それというのも伊作は,与謝野夫妻の勧め以前にすでに娘の将来の教育のこともあって新学校設立のことで思案していたからで,伊作自身の当時の日本の女子中等教育観は以下のようなものであった。西村伊作『我に益あり』)

 

 日本の教育者たちは日本が国を開いて外国と交通するようになった明治の初年ごろ,外国から習ったことを,既に外国ではそんなことをしなくなってからも、いつまでもその古い教育法を続けた。そればかりでなく,日本の国家主義的な思想を学生につぎ込んだ。学校の門をはいるとか出るときは,門のところで校舎に向かっておじぎをする。(中略)生徒に聞いてみたら,学校に天皇陛下の写真があるからそれにおじぎをするのだという人もあり、学校の建物へおじぎをするのだと言う生徒もいた。私は幼いときから親から偶像礼拝をいけないと言われたものだから,物質に礼拝することをいやなことだと思った。小学校はもっと自由であったから,小学校へは子供を入れたけれども,そういう女学校に自分の子供を入れるということは私はいやであった。そういう学校に入れるといろいろと束縛をされ,自由を制限されるものであるからかえって女の子の根性が悪くなって陰ひなたがあったり、偽りの行動をするようになる。それは私の子供の教育のためにいやなことだと思った。

 

 されば伊作は「自分の子供のために学校を作ったらいいと思」い,与謝野夫妻の助言も考慮し,「東京で買った土地でホテルをしようと思ったけれども,ホテルの代りに少数の学生の来る学校を作ったらいい」と考えるにいたったのである。(『自伝』)
(中略)
 より具体的な文化学院の教育方針については,創立者西村伊作の「文化学院設立趣意書(この一文は文化学院創立の際の「文化学院案内」巻頭のために執筆されたもの)により鮮明となる。
(中略)

 

 文化学院は生徒の各の個性が受け入れるものを十分に与へることをして,而もそれを強ひることをせず,また画一的に人を作り上げようとせず,各々其の天分を十分に伸ばさしめ、不得手なものを無理に要求しません。また機械的な試験を課せず,競争的に成績を挙げさせようとして身体と精神とを損することのないやうに勉めようとします。快活に,健実に,根底ある真正の知識を貯へ,生命に繋がる技能を練達せしめる積りです。
文化学院はただその生徒のみをよく教育することに止まらず,一般教育界の模範となり,参考とならん事を期します。正しい教育の真理を発見し,最善の教育の方法を工夫して,しかも徒らに贅沢に流れず,其の設備も無益の装飾を廃して実用に即する美を求め,生徒をしてみづから純にして静かな豊麗の趣致を愛する心を有たしめようと考へます。

 

 伊作の願う教育は、あくまでも画一的で他から強制される教育を排除し,子ども一人ひとりの創造能力を,本人の長所と希望とに従って,個別的かつ主体的で自由に能力を発揮させようとするところにあったのである。
成城大学リポジトリ

 

 こうして創立された文化学院は、先述したように国の定める中学校令や高等女学校令に基づいていなかったため「各種学校」と位置づけられており、通常の学校に適用される補助制度の恩恵を得られなかったことから、伊作自身が西村家から受け継いだ個人資産を主な財源として運営されました。

 最初に建築された校舎伊作自身が設計した英国のコテージ風の建物でしたが、残念なことに創立のわずか2年後の大正12年(1923)に発生した関東大震災で全焼してしまいました。現在長野県軽井沢町にある「ルヴァン美術館」は、断片的な資料から当時の文化学院の建物と庭園を再現してつくられたものです。
軽井沢ルヴァン美術館|ルヴァン美術館とは

 

 文化学院で生徒の指導にあたった教師陣は、当時の一流の学者・芸術家ら綺羅星のごとく揃えられました。Wikipediaによれば次のような人々が教壇に立ったようです。

 その後、中学部の幼い生徒たちにも、当時の一流の学者、芸術家たちが親しく教え、職業的な教師によらない高踏的な人間教育がなされた。
 石井柏亭が率いる二科会山下新太郎有島生馬正宗得三郎中川紀元らや、水彩の赤城泰舒棟方志功ノエル・ヌエットらが美術面を、また文学部長に、与謝野鉄幹晶子夫妻や、菊池寛川端康成佐藤春夫などをはじめ、有島武郎茅野蕭々戸川秋骨竹友藻風エドワード・ガントレット等の作家・文学者が文学方面を担当し、後には奥野新太郎堀口大学北原白秋芥川龍之介遠藤周作高浜虚子萩原朔太郎等がつづいて加わる。
 音楽面では主に、山田耕筰エドワード・ガントレット伊達愛萩野綾子浅野千鶴子ハンカ・ペッオード等がそれぞれ毎週幾クラスかを受け持った。他にも、横光利一小林秀雄等が創作と文芸評論を担当、三宅周太郎北村喜八伊籐筰朔が演劇と文学方面に多彩な力強さを発揮した。
文化学院 - Wikipedia

 

 また、文化学院では日本ではじめて「男女共学」を実現したことも特筆されます。これについて前述の「西村伊作与謝野晶子 : 大正自由教育と文化学院」では次のように記されています。

(略)
 事実,創立3年目(大正12年度)を迎えた中学部の新1年生からはわずか4名ではあったが,男子生徒が文化学院に入学している。
 共学が始まった当時の模様を,文化学院史編纂室編『愛と叛逆-文化学院の五十年一』で伊作の長女・石田アヤは以下のように伝えている。

 

創立三年目にはいよいよ中学部に男生徒が入学して共学が始まった。三十何人かのクラスに四人だけの男子だったが,不思議なほど自然に大勢のきょうだいのように親しく仲よく,学業や日常のクラス活動に全く何の支障もなかった。
久ちゃん,光っちゃん,辰っちゃん,篠田君などとすぐ呼び名もきまって,幼稚園の子供たちのように日本庭園の石や木立ちの間を縫って走りまわりながら,鬼ごっこなどをして男女の中学一年生たちはこれまでにない活発さであった。男生徒は数は少なかったが矢張り男だけにエネルギー発散の度が大きく,女生徒に圧迫されて小さくなっているなどというより,彼女らにチヤホヤされたり,わざとからかわれたりして自意識も強くなったのか常に面白く楽しい存在だった。(中略)この頃は日本中で小学校以上の共学の学校というのは官立の上野の音楽学校だけで,これは混声合唱などのために,どうしても男女学生が一緒に授業を受けなければならない事があったが,風紀をみださぬようにといろいろ厳しい規則があったということである。このころから昭和のはじめにかけて,男女共学論などが教育界でも戦かわれるようになった

成城大学リポジトリ

 

 こうして伊作が理想とする自由な教育の場としての文化学院は発展を遂げていくのですが、第二次世界大戦が近づくにつれ、こうした教育に国から厳しい目が向けられるようになってきます。その一端には、伊作天皇批判や戦争反対など「非国家的な言論」を展開したこともあると考えられますが、遂に昭和18年(1943)、文化学院は強制閉鎖を命じられることになります。
 こうした経緯について、任其愉氏は「戦前文化学院における教育実践と生活 : 『文化学院新聞』と『月刊文化学院』から見る(「東京大学大学院教育学研究科紀要 38巻」東京大学大学院教育学研究科 2011)」において次のように記しています。

 国家統制が一層強くなりつつあった状況の中で,西村は,昭和15年の「月刊文化学院」10号に「数字と偶像」という文を掲載し,天皇神聖化を軽妙に批判した。この文は当局の警戒心を引き起こし,文部省から,内務省,検閲課へまわされ,結果として削除を命じられた西村自身は相変わらず,精神講座の時間で「国家に押しつぶされずに個人の考えを持って」とか、「戦争なんて馬鹿らしい,勝者も敗者も物質的に得するわけでもなく,人の命を失って損するばかりだ」など「非国家的な」言論を止めようとしなかった。
 昭和18(1943)年4月12日,入学の日に,伊作は特高課の刑事によって連行され,不敬罪ならびに言論出版集会結社等臨時取締法第18条(時局に関し人心を惑乱すべき事項を流布したる者は一年以下の懲役若しくは禁固に処す)違反の疑いで拘束された。ついで,昭和18年9月1日,学院も強制閉鎖となった東京都長官名で,「私立学校令第十条ニ依リ昭和十八年八月末日限リ文化学院ノ閉鎖ヲ命ズ」という命令が代読され,理由として「教育方針がわが国是に合わないこと,しかしそれに就ては深く説明できないことを遺憾とする」とだけが発表された。9月1日,文化学院は強制閉鎖となり,9月4日閉鎖式が行われた。学院の建物は軍部に接収されることになった。文化学院と当時に閉鎖命令を受けたのは向島高等女学校があった。しかし,この学校は「経営不良」が理由であり,教育方針の問題ではなかったようである。したがって,文化学院は戦前日本において教育方針の理由で強制的に閉鎖された唯一の学校となった。私学としては,戦時下のこととはいえ,全く異例の措置であった。なぜなら、個人の自由精神を育つ文化学院の徹底した自由主義教育は,人々の精神世界を徹底的に支配しようとした絶対主義体制とは氷炭相容れないものだった文化学院はその22年間続けていた自由教育の幕を閉じた。

東京大学学術機関ライブラリ

 

 第二次世界大戦が終わると軍に接収されていた文化学院の建物が返還され、文化学院は無事に教育を再開することができました
 伊作は昭和38年(1963)に亡くなりますが、長女の西村(石田)アヤ、長男の西村久二、三男の西村八知らが校長や理事長の座を受け継ぎ、昭和47年(1972)には専修学校の認可も受けて、一時期は専門門課程(2年制)に2学科7コース、高等課程(3年制)に1学科3コースを擁する大規模校へと発展しました。
 しかしながら、その後は徐々に経営環境が厳しくなっていたようで、平成26年(2014)には高等課程の募集を停止し、平成29年(2017)度をもって閉校学校法人文化学院学校法人了徳寺学園※6と統合されることとなりました。
文化学院閉校のお知らせ | スポーツ健康医療専門学校

※6 令和3年(2021)8月30日付けでエイジェックグループ(人材総合プロデュース業を主体とする株式会社エイジェックを中核とする企業グループ)に入ったため、令和4年(2022)4月1日付で学校法人エイジェック学園に名称変更した。

 

 Wikipediaには「文化学院の人物一覧」という項目が設けられており、文化学院で教育に携わった人物文化学院で学んだ人物がおおぜい挙げられています。これらの人々の実績をひとつひとつ紹介することはとても現実的ではないのですが、このうちから卒業生の中で比較的一般的な知名度の高い方々を何人か抜粋して紹介したいと思います。

 伊作の「居間式住宅」への情熱がなければ日本の住宅が真に家族のものとなる次期が大幅に遅れていたかもしれないと考えると、その果たした意義の大きさに驚嘆を禁じえません。また、伊作が理想とした自由な教育の場が存在しなければ、上記に掲げたような人々の才能が野に埋もれていたのかもしれないと考えると、それはきっと我が国の大きな損失であったと言えるのでしょう。
 「旧西村家住宅」は新宮市にある小さな洋館ですが、それが我が国の歴史に与えた影響は非常に大きいものであったと考えると、その見え方も大きく異なってくるのです。