「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
今回は、いよいよ終盤にさしかかった2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」から、この番組に登場する人物のうち紀州・和歌山と関わりのある人物を紹介したいと思います。
「鎌倉殿の13人」はその題名のとおり鎌倉を主な舞台とした物語であり、いわゆる「東国(とうごく 関東地方)」を拠点とする武士集団を主役として描いたものであるため和歌山とは縁遠い話のように思えますが、実は意外なほどに和歌山とかかわりのある人物が多数登場しています。
ここでは、その中から主要登場人物と言える人々を順次紹介していきたいと思います。
主人公・北条義時の姉で源頼朝の正室。作中では三代将軍・実朝の死後、九条家から四代将軍として迎えられた幼い三寅(藤原頼経)の後見として「尼将軍」を名乗ります。
国宝の多宝塔があることで知られる高野山の金剛三昧院は、政子が夫・頼朝の菩提を弔うために建暦元年(1211)に「禅定院」として創建したものです。
後に、承久元年(1219)公暁の襲撃により落命した実朝の遺骨を納め、名称を現在の「金剛三昧院」に改めました。
また、政子は熊野への信仰も篤く、承元2年(1208)と建保6年(1218)の二度にわたり熊野詣を行っています。
このうち、二度目の熊野詣の際には、天野の丹生都比売神社において高野山に入っていた頼朝の子・貞暁(じょうぎょう 母は大倉御所に出仕する侍女とされる)と会い、実朝の後継者(実朝はまだ存命であったが、健康状態が不安視されていた)として将軍になる気はないかと尋ねたと伝えられます。伝承によれば、貞暁はそのような気持ちは一切無いと誓い、その証拠として短刀で自分の片目を突いて潰した※1といいます(将軍になろうとする野心があれば命を奪われる懸念があったとされる)。
※1 原典未確認であるが、このエピソードは真言宗高僧の伝記をまとめた「伝燈広録」という書物にあるとのこと。
三浦義村
作中では北条義時の幼なじみで盟友であるが、藤原定家が「明月記」で「八難六奇の謀略、不可思議の者か」と評したように、権謀術数を張り巡らせる油断ならない人物として描かれています。
明月記 嘉禄元年(1225)11月19日条
実雅卿旧妻近日入洛、可嫁通時朝臣云々、義村為知行庄之地頭、年来不被訴、心操為上郎由成感、有此婚姻之儀云々、竊案、義村八難六奇之謀略、不可思議者歟、若依思孫王儲王用外舅歟
※筆者による大意(意訳):一条実雅の旧妻(筆者注:北条義時の娘)が近日上洛し、唐橋通時に嫁ぐという。通時の所領の地頭職が三浦義村であったが、しばらく上納が滞りがちであったので、義村は通時より上位の立場にあるとの意識をもって、この婚姻のまとめ役となったようだ。うがった見方をすれば、義村は「八難六奇之謀略、不可思議之者」であるから、将来もし通時に女子が生まれたら孫王(交野宮 惟明親王の子)に嫁がせて儲王(もうけのきみ 皇太子)の外舅となることを考えているのかもしれない。
藤原定家 著『明月記』第2,国書刊行会,1911. 国立国会図書館デジタルコレクション
義時死後の執権の座をめぐっても義村は伊賀氏の変で暗躍したようですが、機先を制した政子の動きにより大事には至らず、これ以後は北条氏を支える唯一の有力御家人として三代執権・北条泰時に仕えました。
伊賀氏の変とは - コトバンク
ところが、三浦義村、北条泰時の死後に発生した宝治合戦(ほうじかっせん)により義村の直系にあたる三浦氏は全滅してしまいます。このとき、三浦家の家督は傍流にあたる佐原氏の盛時(父は三浦義村の従兄弟にあたる佐原盛連、母は三浦義村の娘・矢部禅尼(「鎌倉殿の13人では「初」)が継承しますが、この相模三浦氏も戦国時代に伊勢宗瑞(後の北条早雲)により滅ぼされて滅亡します。
三浦一族のエピソード - 神奈川県ホームページ
ここからが和歌山との関係に繋がるのですが、相模三浦氏が滅亡した後に三浦氏の系譜を受け継いだのが安房の正木氏であるとされています(諸説あり)。
正木氏とは - コトバンク
正木氏は戦国大名の安房里見氏に仕えた重臣であり、その係累である正木頼忠の娘・万(まん 後に「お万の方」とも呼ばれる)は徳川家康の側室となりました。この女性こそが、紀州徳川家の祖・徳川頼宣、水戸徳川家の祖・徳川頼房の母となる人物で後に養珠院(ようじゅいん)と呼ばれるようになりました。和歌山には海禅院多宝塔をはじめ養珠院ゆかりの場所が各地にあります。
海禅院の多宝塔 | 和歌山市の文化財
また、養珠院の兄・三浦為春(みうら ためはる)は甥にあたる徳川頼宣が初代紀州藩主となった際にこれに随行し、三浦長門守として以後代々紀州藩の家老職を務めることとなりました。
和歌山市内にある岡公園の茶室・夜雨荘(やうそう)は、三浦長門守の下屋敷跡に保存されていた江戸時代後期(幕末頃)の武家茶室です。
岡公園茶室|施設利用について|史跡和歌山城