生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

「鎌倉殿の13人」と和歌山(2) 畠山重忠・和田義盛

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回からNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人」の登場人物のうち、紀州・和歌山と関わりのある人物を順次紹介しています。今回は畠山重忠和田義盛についてです。

 

 

畠山重忠中川大志
NHK大河ドラマガイド「鎌倉殿の13人 前編」NHK出版

畠山重忠

 武勇の誉れ高く、清廉潔白な人柄で「東武士の鑑」と称された畠山重忠。作中では中川大志演じる眉目秀麗な美男子として描かれていますが、「源平盛衰記」では義経とともに平家を攻めた鵯越(ひよどりごえ)の戦いで、馬に怪我をさせてはいけないと馬を背負って急坂を駆け下ったほどの怪力の持ち主であったと伝えています。

畠山は赤威の冑に、護田鳥毛の矢負、三日月と云栗毛馬の、太逞に乗たりけり。
此馬鞭打に、三日の月程なる月影の有ければ名を得たり。
壇の上にて馬より下り、差のぞいて申けるは、ここは大事の悪所、馬転して悪かるべし、親にかゝる時子に懸折と云事あり、今日は馬を労らんとて、手綱腹帯より合せて、七寸に余て大に太き馬を十文字に引からげて、鎧の上に掻負て、椎の木のすたち一本ねぢ切杖につき(筆者注:手綱や腹帯を撚り合わせた綱を、馬の標準的な大きさ(肩の高さ4尺)より7寸も大きな馬に十文字にからめて、鎧の上に背負い、椎の木を捩じ切って杖にして)、岩の迫をしづしづとこそ下けれ。
東八箇国に大力とは云けれ共、只今かゝる振舞、人倫には非ず、誠に鬼神の所為とぞ上下舌を振ける。

バージニア大学・ピッツバーグ大学東アジア図書館 日本語テキストイニシアチブ

 

 そんな重忠は作中でも描かれた「畠山重忠の乱」において北条時政の策謀により滅ぼされるのですが、重忠の所領は重忠の妻に引き継ぐことが許され、その妻は後に足利義純に再嫁して義純が畠山氏の名跡を継いだことから、畠山氏の系譜は後世に残されることとなりました。一般的に畠山重忠までの畠山氏を「平姓畠山氏坂東八平氏の一つである秩父氏に属する)」と呼ぶのに対し、畠山義純以降の畠山氏を「源姓畠山氏(足利氏は源義家の子孫にあたる)」と呼んで区別することが多いようです。
畠山氏 - Wikipedia


 後に室町幕府が誕生すると、畠山氏越中や河内などとともに紀伊の守護に任じられ、これ以後和歌山との関係が深くなっていきます。
 Wikipediaによれば畠山氏が継続的に紀伊国守護に任ぜられていたのは応永6年(1399)に就任した畠山基国から天文19年(1550)に就任した畠山高政までの15代(重複あり)であるとされています。

ja.wikipedia.org


 畠山氏は、当初は大野城海南市を拠点としていましたが、後に現在の広川町に移り、広城を築きました。広川町内にある養源寺は、畠山政長が築いた居館「畠山御殿」の跡であるとされており、これ以後広の町は大きく発展することになりました。

oishikogennofumotokara.hatenablog.com


 このように紀伊国守護として和歌山県の歴史に名を残す畠山氏ですが、当時の紀伊国湯川(湯河)玉置氏雑賀衆など多くの在地勢力が覇を競っている状況にあり、畠山氏の守護としての実権は実はそれほど大きいものではなかったとも伝えられています。


 こうした群雄割拠の体制はやがて豊臣秀吉紀州征伐により一掃されることとなり、これに続く紀州徳川家の成立により畠山氏を含む在地勢力はその力を失ってしまいます。しかしながら、旧野上町(現在の紀美野町が発行した「野上町誌」によれば畠山氏の後裔である畠山政慶高野山を経て志賀野庄松瀬村(現在の紀美野町松瀬)に移り住み、その子・義唯柳沢家の養子となってその系譜を繋いだとされています。

畠山・柳沢氏系図
(志賀野荘釜滝村(野上町釜滝)「金剛寺過去帳」)
 野上町誌 上巻

 

 

和田義盛横田栄司
NHK大河ドラマガイド「鎌倉殿の13人 前編」NHK出版

和田義盛
 三浦義村の従兄弟にあたる人物で、武勇に優れ鎌倉幕府では侍所別当(軍事・警察組織の長)の重職を担いました。
 作中でも描かれたように、義盛泉親衡の乱をきっかけに北条氏に反旗を翻しますが、頼みとしていた三浦義村北条方に寝返ったためこれに破れ、和田氏は滅亡します。


 しかし、この際、義盛の三男・朝比奈義秀安房へ逃れた後に消息不明になったと伝えられており、高麗へ渡ったとも、宮城県黒川郡大和町に伝わる「朝比奈三郎伝説」の主人公であるとも言われますが、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」では太地における捕鯨の祖として知られる和田忠兵衛頼元朝比奈義秀の末裔であるとの家伝があることを記しています。

旧家
       太地角右衛門
       同 金右衛門
       和田孫才次
家伝にいう
朝比奈義秀の後にて
義秀 和田合戦の後漂泊してこの地に蟄居し
代々当村に住す その家系に代々の名を挙げたれども覚束なし
東四郎頼仲 和田蔵人 又 頼村 長盛 盛頼等の名
古き文書等に見ゆ その祖先なるべし
豊太閤征韓の役に 
和田勘之丞頼国という者
堀内安房に従いて朝鮮に討死すという
その弟を忠兵衛頼之という
頼之の孫 忠兵衛頼元という者
慶長間 鯨漁を始めて富家となる
これ金右衛門の家祖なり
頼元の後 別れて八家となる
然して金右衛門を嫡家とす
総右衛門頼治という者
延宝の間 鯨網を始め
大に家を起し 一家の棟梁となる
これ角右衛門の家祖なり
又 與六頼隆という者あり
これ孫才次の家なり
国立国会図書館デジタルコレクション 紀伊続風土記 第3輯
※読みやすさを考慮して漢字、かなづかい等を適宜現代のものにあらためた

 

 朝比奈義秀は、母が巴御前であるとの説もあり、また怪力の持ち主で将軍・頼家から腕前を見せよと言われた際に海中へ潜り、3匹の鮫を両手に抱えたまま浮かび上がってきたなど、様々な逸話を有する人物です。

次いで海上に船を粧い盃酒を献ず
而して朝夷名三郎義秀(筆者注:朝比奈義秀のこと)、水練の聞こえ有り
此の次を以て其の芸を顕すべしの由、御命有り
義秀 辞し申すにあたわず
則ち船より下り、海上に浮ぶ
往還数丁
結句(筆者注:あげくに)波底に入り、暫く見えず
諸人あやしみ成す之所、
生鮫三喉(筆者注:こん 大きな魚を数える単位)を提げ、
御船の前に浮上す。
満座感ぜずはなし。
吾妻鏡入門第十六巻B九月

※読みやすさを考慮して漢字、かなづかい等を適宜現代のものにあらためた。

 鮫を素手で捕まえた朝比奈義秀の子孫が、太地に移って鯨を捉える漁法を開発したというのは、それはそれで非常に興味深い話と言えましょう。

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 次回は源義経武蔵坊弁慶藤原秀衡について紹介します。