「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
7回にわたってNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の登場人物のうち、紀州・和歌山と関わりのある人物を順次紹介しています。今回は源義経と武蔵坊弁慶、そして藤原秀衡についてです。
源義経
義経の経歴については紹介不要と思われますので省略します。
別項「鈴木屋敷」で紹介したように、義経がまだ牛若丸と名乗っていた頃、熊野往還の際には必ず藤白神社(海南市)の神官であった鈴木氏の屋敷に滞在したと伝えられており、かつてこの地には「義経弓立の松」という古木があったそうです。
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また、鈴木屋敷の当主であった鈴木三郎重家は弟の亀井六郎重清とともに幼少の頃から義経と親しくしており、義経最期の戦となった衣川の戦いでは武蔵坊弁慶らとともに藤原泰衡の軍勢と戦い、遂に兄弟ともに自害して果てたといいます。
このとき、泰衡の軍勢が約500騎であったのに対し、義経に従っていたのは弁慶、重家、重清らわずか十数騎に過ぎなかったと伝えられています。
武蔵坊弁慶
義経の従者として誰一人知らぬ者はないほどの人物ですが、実は同時代の資料にはあまり記述がなく、現在伝えられている人物像は後に制作された軍記物などによって成立したと考えられています。
弁慶の出生地や経歴については諸説あるようですが、一般的には熊野別当・湛増の子で田辺に生まれたとされています。弁慶に関する伝承は県内に数多く存在しますので、その詳細については別項「武蔵坊弁慶」を参照ください。
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藤原秀衡
中尊寺金色堂で知られる壮麗な平泉文化を開いた奥州藤原氏の三代目。
作中では京から奥州に移った義経を庇護して温かく見守り、頼朝が挙兵するとこれに合流しようとする義経を快く送り出します。
後に頼朝から追われることとなった義経を匿いますが、秀衡の死後、父の遺言(義経を主君として仕え、頼朝に対抗せよ)を反故にした嫡男・泰衡によって義経は衣川館で討たれてしまいます。
東北地方では、平安時代末期から熊野信仰が広がったと言われており多数の熊野神社がこの地に勧請されました。ことに秀衡は信仰が篤かったと伝えられており、名取熊野三社(宮城県名取市に存在する熊野神社(熊野新宮社)・熊野本宮社・熊野那智神社の総称)と密接な関係を有していました。
こうしたことからか、和歌山県内各地には「秀衡桜」や「乳岩伝説」など、秀衡が熊野参詣のためにこの地を訪れたとする伝承(実際に秀衡が熊野の地を訪れたという記録はない)が数多く残されています。
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次回は源行家と文覚について紹介します。