「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
これまで7回にわたってNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の登場人物のうち、紀州・和歌山と関わりのある人物を紹介してきました。最終回となる今回は曽我兄弟と安達盛長についてです。
「日本三大仇討ち(曾我兄弟の仇討ち・鍵屋の辻の決闘・元禄赤穂事件)」のひとつに数えられる「曽我兄弟の仇討」の当事者です。
領地をめぐる争いにより工藤祐経に父・河津祐泰を討たれて遺児となった十郎と五郎の兄弟(十郎が兄、五郎が弟)は、後に母の再婚により曽我性を名乗り、父の仇討ちの機会を待っていました。
源頼朝が富士の裾野で巻狩(軍事演習を兼ねた大規模な狩猟)を実施し、これに工藤祐経も参加することを知った曽我兄弟は、巻狩のために設けられた工藤の宿舎に押し入り、ついに親の仇を討ち取ったのです。
曽我兄弟の仇討ち | 静岡県富士市
これがいわゆる「曽我兄弟の仇討」の中心となる物語なのですが、「吾妻鏡」には工藤を討ち取った後、弟の五郎は次に頼朝めがけて走り寄り、頼朝はこれを迎え討とうと刀を取ったという記述があります。
子剋(ねのこく)。
故伊藤次郎祐親法師が孫子の曾我十郎祐成、同じく五郎時致、富士野の神野の御旅舘に推参致し、工藤左衛門尉祐經を殺戮す。
(中略)
此の上、祐成兄弟 父の敵を討つ之由 高声に発す。
(中略)
十郎祐成は、新田四郎忠常に合い討たれおわんぬ。
五郎は、御前(筆者注:将軍のこと)を差し奔(はし)り参る。
将軍 御剣を取り、之に向わせしめ給わんと欲す。
しかるに 左近将監能直(よしなお) 之を抑え留め奉る。此の間に小舎人童(ことねり わらわ)五郎丸、曾我五郎を搦め得る。
よって大見小平次に召預けらるる。
その後静謐す。
(以下略)※読みやすさを考慮して漢字、かなづかい等を適宜現代のものにあらためた。
上記引用文のとおり結果的には戦闘になる前に五郎は取り押さえられたのですが、このとき五郎は工藤のみならず頼朝までも討とうとしていたのかどうか、これが今も歴史の謎として残されています。
作中では、本当は頼朝に対する御家人の不満を背景とした曽我兄弟による頼朝暗殺計画であったが、たまたま頼朝の代わりに寝所に居た工藤が討たれたことから、暗殺計画の存在を闇に葬るために「これは謀反を装った仇討ちであり、曽我兄弟の行動は美談として後世に語り継ごう」と頼朝らが謀ったものとして描かれました。
それが事実であったかはともかく、これ以後、「曽我兄弟の仇討」は確かに美談として人々に知られるようになり、後に能や浄瑠璃・歌舞伎などの分野で盛んに「曽我物」と呼ばれる一連の作品が制作されました。特に歌舞伎では正月の定番演目となり、様々なサイドストーリーが作られていずれも人気を博しました。アナウンサーなどが滑舌の練習に用いることで知られる「外郎売り(ういろううり)」という長いセリフも、「寿曽我対面(ことぶき そがのたいめん)」という歌舞伎の曽我物の一場面に登場するものです。
紀の川市に伝わる伝承によれば、兄・曽我十郎の妾(十郎は仇討ちを志していたため妻としなかったが、実質的には妻であったとされる)であった虎御前(とらごぜん 歌舞伎では「大磯の虎」として知られる)は、兄弟の死後にその霊を弔うために熊野権現へ詣ろうとしたが、権現寺(現在の紀の川市池田新)にたどり着いたところで息を引き取り、ここに墓がつくられたとされています。
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安達盛長
源頼朝が伊豆に配流された時から側近として仕えていた人物で、作中では北条家の仏事の帰りに盛長の引く馬に乗っていた頼朝が突然落馬し、まもなく息を引き取ってしまいました。
頼朝の死後は剃髪して出家しますが、番組のタイトルでもある「13人の合議制」のメンバーに加わり政にも参画しました。
盛長の出自は明確ではありませんが、「尊卑分脈」という資料によれば藤原氏につながる小野田三郎兼広の子で、「藤九郎」とも呼ばれていたようです。
白浜町にはその名も「盛長神社(もりながじんじゃ)」という神社があり、その主祭神は安達藤九郎盛長であるとされています。和歌山県神社庁のWebサイトでは、同社の由来について次のように書かれており、創建にあたっては安達盛長からの神託があったと伝えられているようです。
社伝によると、往昔うつろ船に乗せられた遺骸が漂着し、これを里人が丁重に葬り、毎日お湯を供えていたある日、神託があり「我は右大将頼朝の重臣藤九郎盛長の霊なり、神として敬えば疫の悩みは守るべし」という。
厄病流行で苦しんでいた里人は社祠を造り、崇敬したところ霊験あらたかであったという。
和歌山県神社庁-盛長神社 もりながじんじゃ-
ちなみに、同社には配祀神(主祭神とともに祀る神)として、同じく「13人の合議制」のメンバーである大江広元も祀られていますが、その経緯については定かではありません。(「鎌倉殿の13人」では頼朝の最側近であった安達盛長と文官トップであった大江広元とは良いコンビであったように思えますが、史実がどうであったのかは不明です)
ちなみに、この神社の由来については上記のように安達盛長による神託があったという説の他に、「髑髏を祀る(ドクロ→藤九郎となった)」、「漂着した箱舟から現れた老人を祀る」、「仲哀天皇の行宮である徳勒津宮(トコロツノミヤ)に由来する(トコロツ→藤九郎となった)」という説もあるようですが、その詳細については別項「藤九郎神社」にまとめていますのでこちらもご覧ください。
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以上、7回にわたって掲載しました「『鎌倉殿の13人』と和歌山」はこれをもって完結です。