生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

俗語「薩摩守をきめこむ」の語源・平忠度(新宮市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回まで、7回にわたりNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人」の登場人物と和歌山県との関わりについて紹介してきました。
 今回は、ドラマには登場しなかったものの同作の前半で重要な役割を担った平氏一族に関わる人物で、熊野の出身とされている平忠度(たいらの ただのり)を紹介します。

 新宮市熊野川町宮井の国道168号※1沿いに「薩摩守 平忠度 生誕の地」と書かれた看板が設置されています。
※1 この区間は国道169号との重複区間のためgoogleマップでは「国道169号」と表示されるが、地元では一般的に国道168号と認識されている。


 平忠度は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛を父に持ち、母は藤原為忠(ふじわらの ためただ 貴族・歌人の娘(異説あり)と伝えられる人物で、平清盛異母弟(清盛の母は不明ながら白河法皇に仕えた女房であったとされる)にあたります。


 忠度熊野地方で生まれ育ったとされており、源平合戦で活躍した武人として知られるほか、優れた歌人としても高く評価される人物で、その作品は勅撰和歌集に合計11首が撰ばれています。

ja.wikipedia.org


 一ノ谷の戦い忠度が討たれたときには敵も味方も関わりなく大変に惜しまれたという立派な人物なのですが、残念なことにその名が現在までも広く知られている大きな理由のひとつが、その名である「ただのり(忠度)」の語呂にあわせた「タダ乗り(無賃乗車)」という駄洒落(だじゃれ)を語源とする「薩摩守(さつまのかみ)」という俗語でありました。

 

 この俗語については後段で解説することとして、まずは忠度という人物について解説していきましょう。

 

 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「宮井村」の項には次のような記述があります。

薩摩守忠度誕生所
小名音河にて生れ 此地にて成長せしといい伝う
音河に昔 橋爪という旧家あり
其家にて誕生すという
本宮社家竹ノ坊に伝わる古き連判の人名に河合兵衛入道宗円というあり
土人是即橋爪氏の事ならんという
或説には新宮のあたりに忠度の旧蹟ありといえり

忠度朝臣 父は忠盛卿 母は詳ならず
此地に縁ある事は平家物語 薩摩守最期の條 に
熊野そだち 大力の早わざにておわしければ云云
と見ゆ
東鑑(筆者注:「吾妻鏡」のこと)別当(筆者注:熊野別当 熊野三山の指導者を指す)湛快の女を娶りし事見えたり
其文詳に新宮部別当の條に見えり

是等に因るに 
忠盛卿 熊野別当の女などに通いて忠度を産み
母家にて養育させしか
成長の後 湛快の女を妻として此地に在りしに
兄 清盛朝政を執り
一門盛なる時に及びて都に移り住みしなるべし
年齢は別に考うべき事なし

国立国会図書館デジタルコレクション 「紀伊続風土記」

 また、上記の看板が掲出されている場所の近くには看板と同じく「薩摩守 平忠度 生誕の地」と刻まれた石碑が建立されており、その背面に次のような解説文が記されています。

こゝ音川の地は薩摩守平忠度生誕の地であると伝えられる
鳥羽上皇に仕え、上皇の熊野御幸のお供をし、又上皇が建立された三十三間堂の建設にも関わったという平忠盛
鳥羽上皇の御所に仕えていた熊野別当湛快の娘 浜の女房(女官)といわれ、忠盛と結ばれたのち熊野に帰り、音川橋爪氏の館で忠度を生んだと伝えられるのがこの場所である
忠度は十八才迄熊野で過ごし 熊野参詣に来た兄の清盛に伴われ京都に上ったと伝えられる。
    平成十年三月  熊野川町建

 さらに石碑の横に建立された石造の解説板には次のように刻まれています。

 薩摩守平忠度は文武両道に優れた武将であったと言われるが、平家物語から忠度に関連する記述を抜粋してみると 「鱸(すずき)」の章に 浜の女房(女官)の歌として
雲井より ただもりきたる 月なれば
     おぼろげにては いはじとそ思う」とある

 

「忠度都落」の章によると 平氏一門と共に都落した彼は淀の川尻から京に引き返し 歌道の師・藤原俊成の門を叩いて遺詠を渡した後京を去っていった
その歌「さゞ浪や 志賀の都は 荒れにしを
        昔ながらの 山桜かな」は、後に千載集に「故郷花」という題で詠み人知らずとして入れられている

 

薩摩守最後」の章によると 薩摩守は「熊野そだち早業の大力にておはしければ」とあるが 寿永三年二月七日 一の谷の合戦に利なく敗走する平氏の中で忠度武蔵国の住人岡部六弥太と組み合って六弥太を組み伏せ その首を掻こうとした時 背後に殺到した六弥太の郎党が 忠度の右腕を切り落とした もはやこれまでと「そこのき候らへ 十念唱へん」と組み敷いていた六弥太を投げ飛ばし どっかとすわり十念(筆者注:「南無阿弥陀仏」と十遍唱えること)を唱へ従容として最後をとげたが、彼の箙(筆者注:えびら 矢を入れる武具)に次の一首が結ばれていたと言う
行き暮れて 木のしたかげを 宿とせば
     花やこよいの あるじならまし
相須の甲明神社に若宮として平忠度をお祀りしている
  平成十年三月   熊野川教育委員会

 

 上記引用文に、平家物語 鱸」の章に「浜の女房」が登場するとあるのは次のようなエピソードであり、ここでは明確に浜の女房という人物が忠度の母であると記されています。

 忠盛また仙洞に最愛の女房をもつて、通はれけるが、ある時、その女房の局に、つまに月出したる扇を忘れて出でられたりければ、かたへの女房たち
これは、いづくりの月影ぞや、出所おぼつかなし
なんど、笑ひあはれければ、かの女房
   雲井より ただもりきたる 月なれば
          おぼろけにては いはじとぞ思ふ
と詠みたりければ、いとどあさからずぞ思はれける。 薩摩守忠度の母これなり。似るを友とかやの風情に、忠盛もすいたりければ、かの女房も優なりけり。
平家物語 - 巻第一・鱸 『その子どもは…』 (原文・現代語訳)
※上記リンク先に現代語訳あり

 

 同じく「忠度都落」の章において一旦都落ちした忠度が京に戻って藤原俊成に遺詠を渡したというエピソードは、次のように描かれています。

薩摩守馬より下り、自ら高らかに宣ひけるは、
別の子細候はず。三位殿に申すべき事あつて、忠度が帰り参って候ふ。門を開かずとも、この際まで立ち寄らせ給へ
と宣へば、俊成卿
さる事あるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ
とて、門を開けて対面あり。事の体何となうあはれなり。薩摩守宣ひけるは、
「 (略) 君、既に都を出でさせ給ひぬ。一門の運命早尽き候ひぬ。撰集(筆者注:勅撰和歌集のための撰歌のこと)のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に一首なりとも、御恩を蒙らうと存じて候ひしに、やがて世の乱出で来て、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の歎きと存ずる候ふ。世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらむ。これに候ふ巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙って、草の陰にても嬉しと存じ候はば、遠き御守でこそ候はんずれ
とて、日頃詠み置かれたる歌共の中に、秀歌とおぼしきを百余首、書き集められたる巻物を、今はとてうつ立たれける時、これを取つて持たれたりしが、鎧の引合より取り出でて、俊成卿に奉る。
三位(筆者注:俊成のこと)これを開けて見て、
かかる忘れ形見を給はり置き候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑あるべからず。さても唯今の御渡こそ、情もすぐれて深う、あはれも殊に思ひ知られて、感涙抑へがたう候へ
と宣へば、薩摩守喜んで、
今は西海の波の底に沈まば沈め、山野に屍を晒さば晒せ、憂き世に思ひ置く事候はず。さらば暇申して
とて、馬にうち乗り、甲の緒を締め、西を指いてぞ歩ませ給ふ。 (略)
 その後世静まつて、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありし有様、言ひ置きし言の葉、今更思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘(筆者注:勅命による勘当)の人なれば、名字をば顕はされず、故郷の花といふ題にて、詠まれたりける歌一首ぞ、読人知らずと入れられける。

 

  さざなみや 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな

 

その身朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、恨めしかりし事どもなり。
平家物語 - 巻第七・忠度都落 『薩摩守忠度は…』 (原文・現代語訳)
※上記リンク先に現代語訳あり

 

 さらに薩摩守最後」の章では、忠度の最期について次のように記しており、一旦は寄せ手の一員であると誤魔化そうとしたものの、身分の高い武人の嗜みであった「お歯黒」が災いして平氏方の大将軍と見破られたと伝えています。

 薩摩守忠度は、一の谷西の手の大将軍にておはしけるが、紺地の錦の直垂に黒糸威の鎧着て、黒き馬の太うたくましきに、沃懸地の鞍置いて乗り給へり。その勢、百騎ばかりが中に打ち囲まれて、いと騒がず、控へ控へ落ち給ふを、猪俣党に岡部の六野太忠純大将軍と目をかけ、鞭鎧を合はせて追つ付き奉り、
仰いかなる人でましまし候ふぞ。名乗らせ給へ
と申しければ、
これは御方(筆者注:「味方」であると偽ったもの)
とて、ふり仰ぎ給へる内甲より見入れたれば、鉄漿(筆者注:かね 「お歯黒」のこと。中世には貴族や上層の武士の男子にも用いられていた)黒なり。
あつぱれ御方には鉄漿付けたる人はないものを。平家の君達でおはするにこそ
と思ひ、押し並べてむずと組む。これを見て、百騎ばかりある兵ども、国々の駆武者なれば一騎も落ち合はず、我先にとぞ落ち行きける。
薩摩守
憎い奴かな。御方ぞと言はば言はせよかし
とて、熊野育ち大力の早業にておはしければ、やがて刀を抜き、六野を馬の上で二刀、落ち着く所で一刀、三刀までぞ突かれける。二刀は鎧の上なれば通らず、一刀は内甲へ突き入れられたれども、薄手なれば死なざりけるを、取つて抑へて首をかかんとし給ふところに、六野太が童遅ればせに馳せ来つて、打刀を抜き、薩摩守の右の腕を、肘の元よりふつと斬り落す。今はかうとや思はれけん、
しばしのけ、十念唱へん
とて、六野を掴うで、弓丈ばかり投げのけられたり。その後、西に向かひ、高声に十念唱へ、
明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨
と宣ひもはてねば、六野後ろより寄つて、薩摩守の首を打つ。よい大将軍討つたりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるに、箙に結び付けられたる文を解いて見れば、旅宿花といふ題にて、一首の歌をぞ詠まれたる。
  行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし
                        忠度
と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知りてんげれ。太刀の先に貫き、高くさし上げ、大音声をあげて、
この日来、平家の御方に聞こえさせ給ひつる薩摩守殿をば、岡部の六野太忠純が討ち奉つたるぞや
と名乗りければ、敵も御方もこれを聞いて、
あないとほし、武芸にも歌道にも達者にておはしつる人を。あつたら大将軍を
とて、涙を流し、袖を濡らさぬはなかりけり
平家物語 - 巻第九・忠度最期 『薩摩守忠度は…』 (原文・現代語訳)
※リンク先に現代語訳あり

 

 また、上記「紀伊風土記」の記述の中に「東鑑に別当湛快の女を娶りし事見えたり」とあることについて、原文では次のように記されています。

(原文)
元暦二年 二月 小十九日
(略)
其後熊野山領參河國竹谷蒲形兩庄事。有其沙汰。
當庄根本者。開發領主散位俊成奉寄彼山之間。
別當湛快令領掌之。讓附女子
女子始爲行快僧都之妻。後嫁薩摩守平忠度朝臣
忠度一谷被誅戮之後。爲没官領武衛令拝領給之地也。
吾妻鏡4巻元暦2年2月

 

(現代文)
元暦2年(1185)2月小19日
(略)
その後、熊野山領である三河国竹谷蒲郡市竹谷町蒲形蒲郡市御幸町の両荘園の事について沙汰があった。

当荘の根本は、この地を開発した領主である三位の俊成(忠度の歌道の師であった藤原俊成を指す)が熊野山に寄付したことによる。
熊野別当の湛快がこれを領有し、掌握していたが、後にこれを自分の娘に譲った。
このは、はじめは行快僧都(後に湛快の後任として第19代熊野別当となる 湛快から見れば「甥の子」にあたる)の妻となったが、後に前の薩摩守、忠度朝臣に嫁いだ。
忠度一ノ谷において誅された後、この土地は朝廷に没収された武衛源頼朝のこと)が治めることとなった。
※現代文は 吾妻鏡4巻元暦2年2月 を参考に筆者が作成した。

 

 

 このように、文武両道に大変優れた人物として語り伝えられている忠度ですが、冒頭で紹介したようにその名の読みが「ただのり」であることから、後に「タダ乗り(無賃乗車)」の俗語として用いられるようになったのは非常に気の毒なことです。

 

 さて、「忠度」と「タダ乗り」をかけた洒落言葉で有名な作品として、狂言の「薩摩守(さつまのかみ)※2」という演目があります。そのストーリーは概ね次のようなものです。
※2 平忠度薩摩国司としての官職を得ていたため「薩摩守」とも呼ばれた。

 貧乏で世間知らずな旅の僧が茶屋で休憩して茶を飲んだのだが、茶屋の主人が茶代を請求したところ銭を全くもっていないことがわかり主人は大弱り。
 話を聞くと住吉の天王寺に参るというのだが、そこへ行くにはこの先の「神崎の渡し」で船に乗る必要があり、それには船賃が必要であった。
 気の毒に思った主人は、茶代を受け取らなかったばかりか船賃をタダにできるよう次のような計略を授けた。
 
 神崎の船頭は大変秀句(洒落)が好きなので、良い秀句を披露すれば船賃がタダになるはず。そこで、船頭に「船賃は?」と問われれば、「平家の公達(きんだち)薩摩守」と答えれば良い。船頭が「その心は?」と聞き返したところで「タダ乗り(忠度)」と答えれば、きっと船頭は面白がって船賃をタダにしてくれるだろう

 

 これを聞いた旅の僧は喜んで早速そのとおり実行しようと船に乗った。

 「船賃は?」と問われて「平家の公達、薩摩守」と答えたところまでは良かったのだが、「その心は?」と聞き返された時にすっかり返事の言葉を忘れてしまい、困った末に「のり」の言葉からの連想でようやく絞り出した答えが「青海苔あおのりの引き干し」。
 それでは意味が通じない船頭が怒り出し、が「面目ござらん」と謝罪したところで幕となる。

※このストーリーは右記のサイトを参考に筆者が再構成した。薩摩守 / 柏崎 - 塾長の鑑賞記録

 

 現代でも人気演目とされているこの演目は、現存最古の狂言台本天正6 年(1578)の日付あり)とされる「天正狂言」に掲載されている「青海苔あおのり※3」という作品が原型になっていることから、少なくとも戦国時代には既に「忠度 → タダ乗り」という洒落言葉が用いられていたということは間違いないようです。
※3 「青海苔」では「旅の修行者」が「天橋立にある切戸の文殊智恩寺」へ参る際の出来事としており、修行者は一旦「青海苔」と言い間違えたものの、後に正しく「忠度」と答えたので船頭とは和解して幕引きとなるなど、細部に違いがある。狂言版「薩摩守」平忠度 - 戦国時代を追いかけて日本の歴史つまみ食い紀行

 

 最近では「無賃乗車」の意味で「薩摩守」という言葉を使う人はずいぶん少なくなったと思われますが(自動改札機の普及で無賃乗車自体が減ったのかもしれませんが)、1年ほど前の文化庁広報紙「ぶんかる」でもこの言葉が紹介されており、まだ「死語」になってしまったというわけでもないようです。
言葉遊びの楽しさ - 文化庁広報誌 ぶんかる


 一時期は、熊野川(当時)新宮市(平成17年(2005)に熊野川町と合併)などで「無賃乗車を大っぴらに推奨するわけにはいかないが、「ちょっとしたラッキー」のご利益の地として「忠度生誕の地」をアピールすることはできないか」というような話をする人たちもいたのですが、まあ、「タダ乗りの聖地」を役所や観光協会が公然とPRするわけにはいかないですからね。どうやらこの動きは立ち消えになってしまったと思われます。