生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

江戸幕府を揺るがした「天一坊事件」の主役・天一坊改行(田辺市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、江戸時代、8代将軍徳川吉宗の治世に吉宗のご落胤(らくいん 私生児)と自称して世間を騒がせ、浪人らを集めて金品を詐取した罪により捕えられ処刑された天一坊改行(てんいちぼう かいぎょう 資料によって名前は異なるが、本稿では原則として「天一坊」と記述する)という人物を紹介します。通説では天一紀州田辺出身の修験者(山伏)とされていますが、現在に伝わる話は講談や歌舞伎などで脚色されたものが多く、その真相は不詳のようです。

令和4年 四月大歌舞伎「天一坊大岡政談」

「四月大歌舞伎」開幕 - ステージナタリー

 歌舞伎の演目の一つに「天一坊大岡政談(てんいちぼう おおおかせいだん)」というものがあります。
 この作品は、将軍・吉宗の落胤を自称した主人公・天一とそれを影で操る山内伊賀亮(やまうち いがのすけ)に対抗し、名奉行・大岡越前守忠相(おおおか えちぜんのかみ ただすけ)がその企みを暴き出して処刑する、という筋立てになっています。これについて、公益社団法人東京都不動産鑑定士協会の会報誌「かんてい・Tokyo 第100号(2022年7月発行)」において、服部毅氏が「歌舞伎・文楽とその所縁の地(11) 天一坊大岡政談」と題してあらすじを紹介されていますのでこれを引用します。

(略)
 舞台は紀州平野村※1お三(さん)という婆さん宅から始まります。小坊主の法澤(ほうたく)が訪れ、お酒を酌み交わしながらお三と話をしているとお三から、娘は徳川吉宗公の御落胤を産んだが母子ともに亡くなったという身の上話を聞かされ、その事実を記した墨付と短刀を見せてもらいます。

 それまでお三の良い話し相手だった法澤は悪事を思いつき表情を変え、
お婆さん、この話は誰にも話したことがないんだね?
と念を押したあと、殺鼠剤を混入したお酒を飲ませてお三を殺します。
 法澤はお墨付と短刀を持ち逃げし、ここから悪の道一直線です。お墨付と短刀を後ろ盾に、法澤落胤になりすますことを企てて仲間を集めます。途中九条関白家の元家臣であった山内伊賀亮も仲間に引き入れ、さらに仏門修行をしていた天一を殺害します。
 法澤は殺害した天一の名を借りて江戸へ乗り込み、
八代将軍吉宗の御落胤 天一
として吉宗との謁見を申し入れます。
 ここで大岡越前守忠相の出番です。吉宗より詮議の命を受けた大岡は、落胤というのは虚偽だと思い慎重に詮議を行うもお墨付と短刀を証拠に真実を主張する天一一行に反証を挙げられません。ここでの大岡山内伊賀亮とのやりとりは「網代問答」という本作品一番の見所ですが、詳細は割愛します。
 一度は御落胤と認めざるを得ない状況で、大岡は窮地に立ちます。ここで大岡は病気と偽り1週間の時間をもらい、天一(法澤)の出身地である紀州和歌山に家来(吉田三五郎)を行かせて調査を行います。1週間という限られた時間でしかも往復で早馬でも4日はかかろうという時代、大岡はずっと家来を信じて宅内のダ枳尼眞天(だきに しんてん)※2に拝みながら待ちます。
 いよいよ期限となり、戻ってこないと感じた大岡は切腹を覚悟しますが、寸前のところで家来が証拠と証人を連れて戻ってきます。最後は、その証拠と証人を天一坊の前に出して嘘を暴き、天一坊が御用となって幕となります。
(以下略)
公益社団法人 東京都不動産鑑定士協会


※1 平野村は現在の田辺市中芳養にある地名。明治12年(1879)に小野村・西野々村・田尻村・林村とともに合併して中芳養村となり、後に牟婁町を経て田辺市となった。国立国会図書館デジタルコレクション-紀伊続風土記 平野村 

※2 豊川稲荷(とよかわ いなり)として知られる妙厳寺(みょうごんじ 愛知県豊川市の鎮守・吒枳尼眞天(だきにしんてん)のこと。これは一般に「荼枳尼天(だきにてん)」として知られるもので、もともとはヒンドゥー教から仏教に導入されたと考えられている神(天)であるが、後に白狐にまたがる女性の姿で表されるようになり、狐とのつながりから稲荷信仰と結びついた(稲荷信仰は神仏が習合した信仰であり神社・寺院のどちらでも祀られるが、寺院で祀られる場合は荼枳尼天を祀る事が多い)。近世になると、憑き物落としや病気平癒、開運出世の福徳神として広く信仰されるようになるが、中でも豊川稲荷徳川家康の庇護を受けたことから江戸時代になると広く大衆の信仰を集めるようになり、大岡越前守もこれを信仰したとされる。文中に「宅内のダ枳尼眞天」とあるのは、越前守が豊川稲荷から吒枳尼眞天を勧請して自邸で祀ったものを指し、これが後に豊川稲荷東京別院(東京都港区元赤坂)となった。豊川稲荷東京別院 - Wikipedia

 

 この演目は、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎作者・河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)の作によるものですが、そのベースとなったのが講談師・初代神田伯山(かんだ はくざん)※3が得意としていた講談天一」です。「神田派」と呼ばれる流派の祖である初代伯山は、町奉行大岡越前の活躍を描いた創作物語「大岡政談※4」をもとにした講談で人気を博し、なかでも「天一」を得意としました。その人気は、当時の川柳に「伯山は天一坊で蔵をたて」と詠まれたほどであったと伝えられます。
神田伯山(初代)(かんだ・はくざん)とは? - コトバンク

※3 近年、気鋭の若手講談師としてメディアにしばしば登場する当代の神田伯山は6代目にあたる。六代目 神田伯山 オフィシャルサイト - 講談師 / かんだ はくざん

※4 名奉行として名高かった大岡越前守を主人公にした江戸時代の実録体小説であるが、その内容は国内外の各種説話などをもとにしたものとされ、実際の大岡越前守とは無関係である。人情味あふれた裁きで知られる「大岡裁き」はこの「大岡政談」に描かれたものであり、その多くが創作、または他者による裁きであったとされる。大岡政談(おおおかせいだん)とは?  - コトバンク

 

 また、年配の人にはTBS系列で放送された「ナショナル劇場(「水戸黄門」の放送枠)」の人気作「大岡越前(主演:加藤剛」という番組※5の第1部のクライマックスで2話にわたって「天一坊事件」が取り上げられたことをご記憶の方もいるでしょう。

ameblo.jp

※5 1970年から1999年にかけて合計15部・全402話、及び2006年に2時間スペシャルが放映されており、この枠としては水戸黄門に続いて放映回数の多い番組であった。大岡越前 (テレビドラマ) - Wikipedia

 

 

 このように、物語としての「天一」はさまざまな形で繰り返し語られているのですが、冒頭でも記したようにその実像はあまりはっきりとはしていないようです。
 これについて、山内昌之氏は、明治時代に紀州徳川家の命により編纂された「南紀徳川史(当時の紀州徳川家当主・徳川茂承により明治21年(1888)に編纂が開始され、明治34年(1901)に完成した)」や享保年間に記された「月堂見聞集(げつどう けんもんしゅう 本島知辰(月堂)が元禄十年(1697)から享保十九年(1734)までの間に巷間で見聞きした事を記した記録集)」及び「享保通鑑(きょうほう つうがん 主に享保元年(1716)から享保17年(1732)までの間に幕府から出された法令や裁判記録などまとめた書 小宮山昌世著)」などの記述を踏まえ、「将軍の世紀 第27回 享保改革と天一坊と庶民(「文藝春秋 2020年3月号」文藝春秋 2020)」において次のように記しています。

(略)
 八代将軍・吉宗の治世も半ばを迎えた頃、深川改行なる山伏がいた。日々酒に狂うあまり、紀州生まれの母よしの手元にあった、「半之助」なる貴人の書付をいつも曰くありげに自慢した。母は日頃から口癖のように「吉」の字大切にと諭したというのだ。吉宗の幼名は「新之助」であり、「吉」の字を大事にという教えは、改行徳川の本姓(筆者注:ほんせい 氏(同族血縁集団)を示す氏族名を指し、徳川家の場合は「清和源氏」を本姓とした)を冒して天下一に通じる源氏坊天一を名乗ると座興で済まなくなる。酒乱酒狂の天一が、高貴な由緒自慢をあたり構わず語ると、師匠の堯仙院(深川万年町)も空恐ろしくなり寺社奉行に届ける他なかった。貴種の落胤伝説は、今も昔も庶民の喜ぶ話題である。吉宗を清廉と勝手に思い込んでいた庶民は、やがて河竹黙阿弥の『天一坊大岡政談』や実録の『天一坊実記』を通して、将軍も並の男だと勝手に人間味を喝采したのだ。
 吉宗の御落胤事件の主要史料は『南紀徳川史(第一冊巻之八)の「享保十四年酉四月廿五日御沙汰書」と京都人・本島知辰の『月堂見聞集(げつどう けんもんしゅう)』の記事である。前者によると届を受けたのは寺社奉行であり、天一吉宗の御胤(みたね)であれば落度は許されない。「酒狂の儀」として他に預けよ堯仙院に命じ堯仙院は身柄を孫弟子の南品川・常楽院に押し付けた。そこでも天一紀州生まれを誇示し、性懲りなく「吉の字大切」を繰り返し、将軍家の「御扶持」頂戴の時に行列を固める牢人を集めた。酒に酔うと「かれこれ悪口を申し騒ぎ候」だけでなく、「吉の字大切」を始めるものだから、もはや幕府としても放置できない。享保14年(1729)4月25日に死罪獄門※6の沙汰が下った。改行の名乗りは、『月堂見聞集(巻二十一)によれば、私が参照した『近世風俗見聞集』所収本では「世良田松平源氏坊天知天一(筆者注:徳川家康三河国松平氏の出身であり、松平氏の祖は清和源氏新田氏から分かれた世良田氏であるとされている)」とあるが、辻達也氏の依拠した異本では「徳川源氏坊天一吉種」と大胆にも徳川姓吉宗の偏諱(筆者注:へんき 貴人の名前の一字を賜って用いること ここでは「吉」の字のことを指す)が使われている。家康の祖父・清康世良田次郎三郎と称したこともあった。
 『南紀徳川史』によれば天一公儀(筆者注:こうぎ ここでは「将軍家」のことを指す)の「筋目(筆者注:すじめ 家柄)と僭称し、享保12年(1727)8月3日に江戸城吹上で将軍に独礼の格で御目見をし、盃を頂戴した法螺を吹く。それから常楽院の預りまで、五百俵三十人扶持を宛がわれたというのも虚言である。
(略)
 こうして、獄門1人、遠島4人、家財取上げ所払2人、江戸払13人、過料5貫文1人、戸〆(とじめ 戸に釘を打ち外出禁止)70日1人、名主役取上1人、御構無し1人、そして密告した牢人1人に銀5枚の褒美が下されて事件は終わった(「享保十四年酉四月廿五日沙汰書」。『月堂見聞集』巻二十一。『享保通鑑』巻十六)

活動実績(2020) – 山内昌之 公式ホームページ

※6 斬首により死刑とした後、刎ねた首を獄門台に載せて晒しものにする公開処刑の刑罰。「晒し首」ともいう。

 

 上記引用文にあるように、この事件の大元となる一次資料と考えられているのが「享保十四年酉四月廿五日御沙汰書」という記録で、これは「南紀徳川史 第一冊 巻之八」に収載されています。以下は、このうち「源氏坊天一 こと 山伏・改行」に関する部分の引用ですが、これによれば天一の母・よしは田辺出身で紀州徳川家に仕えていた者であり、天一自身も田辺で生まれた後、母とともに江戸へ移ったとされています。

享保十四年酉四月廿五日御沙汰書
深川万年町山伏堯仙院 弟子 南品川御伝馬役次郎左衛門地借 常楽院方に罷在候
     源氏坊天一 事
       山伏 改行
               酉三十一歲
死罪之上 於品川獄門

出所者 紀州田辺之者に候処
紀州御家中にて候哉
母致懐胎候時 金子少々貰 右田辺にて出生候
父は不存 
四歲の節 母は一所に江戸へ罷越
母方叔父 橋場総泉寺末 出山寺之住持 徳隠世話にて
浅草御蔵前 半兵衛と申町人と一所に成 父分に致候処
改行十四歳之節 母相果 直に徳隠弟子に成
半兵衛儀は其節 回国に罷出 生死之訳不存候
叔父徳隠儀も三年以前致病死
一家親類一人も無御座 
改行 母名は よし と申 子細有之名の由
母 常々申聞候を 
吉之字を大切に致し用候様にと申置候
故 奴吉とも名乗申候
且又由緒書之由にて巻物一巻 並
臍之緒包紙之上書
元禄十二卯六月七日出生 半之助と有
之歴々の手跡之由 母申伝候得共
由緒書は幼少故 叔父徳隠へ預置候処
九年以前類焼之節 焼失致何にても無御座候
由緒書之内 源氏と申す儀有之候よしにて
源氏坊 又は 天一 と伯父徳隠 名付申候
右伯父 相果候節 申聞候は
由緒の儀 聢と不申聞候得共
酉正月より三月迄の内 御尋之方も可有之候
江戸を立去不申罷在候様にと申置 相果候
其後 伝手を以 山伏堯仙院弟子に罷成候
幼少より酒を好 給過候得者
乱心の様に成 高声にて右の由緒 
結構に理不盡を申に付
堯仙院 難差置 寺社奉行へ召連 罷出候
酒狂之儀候得者
外へ片付置候様に申渡候
故 堯仙院孫弟子 品川宿常楽院方へ遺し
酒狂にても急度申付も無之段は
扨は由緒有之結構故之儀と存罷在候

一 堯仙院方に罷在候
相弟子勧学院へ 常々筋目宜申聞せ
公儀より御扶持も可取候間
其節の為 浪人壹両人知人に成度旨賴候へ者
本多源左衛門と申浪人へ
去年七月末 逢申候
其後南部権大夫 矢嶋主計
源左衛門引合 何も家来分に仕候
右三人之者 引付にて当二月廿九日迄
段々浪人共相集候
当三月朔日 夫々之役儀等申渡候由御座候
 並 伯父 共に相果 書物等も無之
何にても証拠無御座候へ共
紀州生れ 吉之字大切に可存旨申候儀も偽にて
無之浪人集り候儀は
右三人之者 追付吉事有
新家出来之旨 宜く取沙汰有之間
改行事にて可有之など申候故
右吉之字の儀等 存合浪人参次 弟家来分に仕候
※読みやすさを考慮して行を改めたほか、漢字を現代のものに改め、カタカナ表記をひらがな表記とした

 

 上記「将軍の世紀 第27回 享保改革と天一坊と庶民」からの引用文の最期には「密告した牢人1人に銀5枚の褒美が下され」たとありますが、「御沙汰書」によると、この浪人は「犯罪を密告した」というのではなく、どうやら「天一坊の言うことが疑わしかったため品川を所管していた役人・伊奈半左衛門関東郡代に事実関係を問い合わせた」つもりであったようです。ともかくこれがきっかけとなって天一坊事件が役人の知るところになったことから、この浪人・本多儀左衛門は褒美を手にすることができたのですが、その反面、一度は期待したであろう仕官の夢が実はホラ話に過ぎなかったことが判明したということでもあり、本人にとっては残念な結果であったのかもしれません。

橘町小兵衛店十次郎方に居候
  浪人  本多 儀左衛門
             酉四十六歲
改行儀 訴出候と申にては無之候得共
半左衛門方へ承合候処 此一件相知候付
為御褒美銀五枚被下之

伊奈半左衛門方へ罷越 申聞候は
品川宿 山伏常楽院方に
天一と申者 公儀へ筋目有
之近々新家に相立候
浪人共大勢奉公願に罷越
夫々の役儀も出来候由
儀左衛門も罷越候処 疑敷被存候
手寄之方 承合候へ共 様子難知候
品川は半左衛門支配所に候間内意承合致旨申罷越候
依之 名主 並 常楽院地主 次郎左衛門呼寄致
吟味候処 浪人集り候儀 無粉旨申候
※読みやすさを考慮して行を改めたほか、漢字を現代のものに改め、カタカナ表記をひらがな表記とした。

 

 ところで、この「御沙汰書」が収載されている「南紀徳川史」は明治時代に編纂された書籍であり、天一坊事件と同時代に記された書物ではありません。もちろん上記の「御沙汰書」は紀州藩に残された正式な書類であり、そういう意味では「一次資料」として扱って良いものだと考えられるわけですが、先述のようにこの事件に関してはさまざまな創作物を踏まえて虚実入り交じった物語が大量に流布されていたことから、南紀徳川史」の編纂者も事実関係は非常に気になったのでしょう。「御沙汰書」に続けて次のような追記が施されており、「実際を証するに足るべし」と結論づけています。
 しかしながら、ここでは「改行は若狭の人」と記述されており、上記「御沙汰書」とは異なる部分も見受けられます。現在、天一について調べようとすると、その出身地について「田辺生まれ」とする説と「若狭の人」とする説の両方が見受けられるのですが、これはおそらく「南紀徳川史」を原典とするか、追記にある「徳川十五代史※7」を原典とするかの違いによるものなのでしょう。
※7 歴史家・内藤耻叟の著作による歴史書で、明治25年(1892)から明治26年(1893)にかけて出版された。その内容は概ね「徳川実紀(江戸時代後期に編纂された江戸幕府の公式史書。正式名称は「御実紀」。)を踏まえたものであるとされる。

一 按に 徳川十五代史 享保十四年四月の條にも左の如く記載あり 以て実際を証するに足るべし

四月廿一日修験者改行を誅す
改行は若狭の人
幼くして父を失い 
は嘗て紀州の邸に給仕せしかば因縁して姦を搆え
もと筋目宜しき者にて
吉の字を大切に可存旨 叔父ノ遺言アリト称し
近き程には大名にもなり重く取立てられんと詐り
愚民を欺き 金銭を騙り取り
無頼の浪人をかたらい 
家老 用人 番頭 近習頭等の名目を唱えしにより
代官 伊達伊奈半左衛門宅に招き 之を補え
大目付 鈴木利雄 勘定奉行 稲生正武等に命じて
之を糺間するに
自から 源氏坊吉種 と名乗りしは誣言(筆者注:ぶげん 偽り)なる由
首伏しければ
品川に於て獄門に行われ
之を宿したる山伏 常楽坊は遠島せらる
其他の浪人は皆 江戸払いになる
是 世にいう所 天一 也

 

一 追て毎日新聞7061号を閲するに天一坊実録と題し所 刑の申渡書は幕府の日記に左の如く見えたりと記せり

四月廿一日於所定所申渡之覚
        天一坊改行 酉三十一才
偽之儀共申立浪人共を集め 公儀を憚らず不届に付死罪の上獄門に行う者也
        常楽院
改行申旨に任せ浪人共集め候儀 其分に仕改行宿を仕所之役人へも不届重々不届に付遠島申付るもの也
    右之外同類共への申渡文あれども くだくだしければ略すと云々
※読みやすさを考慮して行を改めたほか、漢字を現代のものに改め、カタカナ表記をひらがな表記とした。

 

 

 事件としては以上のような経過で関係者が処罰されて終わったのですが、一介の庶民が将軍のご落胤を騙ったとされるこの事件は多くの人々の注目を集めたのでしょう。その後、これを題材とした実録小説(実際にあった事実・事件をもとにして、これに巷説、風説などをまじえて書かれたフィクション)講談歌舞伎などが数多く作られ、広く上演されることとなりました。そして、その課程においてストーリーもエンターテインメント性を高めるために徐々に改変されていったようです。
 これについて、小二田誠二氏は「実録体小説の生成 -天一坊一件を題材として-(「近世文藝 48巻」日本近世文学会 1988)」においてその物語の成立課程を詳細に検討していますので、その一部を引用します。

(略)
一 実録以前
 天一に関する客観的、根本的な資料としては、「柳営日次記」等をはじめとし、諸書に引かれる所の申渡書、それに「諸留書」にある御沙汰書がある。後者は、天一以下の供述を記した物で、彼の素姓や江戸での行跡が窺える。これに、「枯木集」等の聞書きにある、召捕りから処刑までの経緯を加えると、全体の概要が浮かんでくる。後の「有徳院殿御実紀」も、この範囲の情報によって記されている。これらと同時に、事件当時、一味が浪人に対して示したと考えられる役付の書付があり、「月堂見聞集」「枯木集」以下、諸書に見えている。事件の全体を確認するために、「御実紀」を左に示す。

---此ほど改行といへる修験者。束髪して源氏坊義種と名のり。いつはりて 当家の御一族なれば。近きほどには。大名にもなし下さるゝよしいひ。無頼の處士をあまたかたらひ。愚民を眩惑し。金銭をはたりとるものあり伊奈半左衛門忠達が所治の地にすめる處士。忠達が縁属等にかたりしかば。速に彼ものをとらへ。庁に出し上裁に及びしに。この義種若狭国の産なりしが。幼なくして父に別れ。母は紀邸につかへしものなりしにより。因縁してかゝるたくみごとなせしにまぎれなかりしかば。梟首せられ。彼につき従ひしものども。それぞれに御とがめ蒙る。忠達がもとに訴へたる處士は褒銀をたまふ。(日記、年録、享保通鑑)
享保14年4月21日の条)

(略)

 この他、早い時期の記述としては、三田村鳶魚等によって紹介された「夕日物語」や、内山美樹子氏の示された、享保18年の浄瑠璃鎌倉比事青砥銭」が知られている。
 「夕日物語」は猿猴庵高力種信の祖父種昌の雑記で、元文初年に、思い出すままに記された物と考えられる。鳶魚は「これが当時の風説であろう。俗説の『天一坊実記』と大分接近したものである。」とし、内山氏は、「『鎌倉比事青砥銭』はこれを」作りかえた物とする。
 しかし疑問も残る。「夕日物語」の成立、流布については、国会図書館蔵本の、種信の跋文に記されているが、これによれば、元文二年の序文は偽筆で、題名も元々は無かった由である。しかも若干の加筆があると言う。更に、本書の記事が年代順に並べられていないという事は、当該記事に記された「享保15戌年」という記述の信憑性に疑問を持たせる。
 何より問題なのは、その内容である。前に見た雑記とは明らかに異なる性格を持っている。

将軍吉宗公紀州ニ被成御座候内御鷹野ニ折々御出被成候節御立寄被成候山伏御座候女持居候所・・・・・

と、吉宗に手を付ける所から説き起こし、以下、証拠に天一(あまくに)の刀を下賜した事、母子共に死んだ事、山伏の強力が江戸へ出て徳川天一と名乗った事などが記された後、伊奈半左衛門の登場となる。半左衛門は吟味を始めるが、吉宗にも覚えがある事、紀州の庄屋を呼寄せて偽物である事を確認する事など、それまで見られなかった逸話が入り込んでいる。

(略)

二 「拾遺遠見録」
 天一が実録で扱われる最も早い例は、「拾遺遠見録」の中の一部分で、既に大岡裁きになっている。以下に梗概を示す。

 吉宗鷹狩で立寄る道具屋の娘が懐妊、刀と根付を与えられ、出産するが間も無く死ぬ。娘の母は近所の山伏真行院にその子を養育させるが、二歳で死に、老母も死ぬ。真行院は死に臨んで、実子英存に二品を託す。英存高野山で修業するが、二品の由来を聞いた同僚の所化に唆かされ、落胤天一を名乗り、立派な姿で東下、江戸に至る。一味は加納遠江※8を介して寺領を望むが、大岡越前がこれを疑い、紀州高野山を調査し、偽を確認、悪僧の一人成円を見切り逮捕して白状させ、一味を処刑する。

 本作は原始的実録とされる。それは、成立が明和頃で、講釈師正木残光が関ると考えられる事などによる。

(略)

三 「大岡仁政録」の諸本
 その後、天一坊事件がひとまとまりの説話として見えるのは「大岡仁政録(または「大岡政要実録」)の中で、題名から分る様に、所謂大岡政談物の一本である。本書は、内田氏の指摘にもある様に、大岡町奉行就任から天一坊事件解決による加増、出世まで、短、中編を、年代順に配列した物で、「隠秘録」や「大岡忠相比事」等の先行する大岡裁きの一応の到達点と言える物である。
 この「大岡仁政録」は、実際よく読まれた様で、現存写本も多く、大きな異同の少ない、安定した一群を作る。このため従来細かな比較は為されていないので、ここでやや詳しく検討してみる。以下梗概を記す。

 八代将軍吉宗紀州徳川光貞の三男で、故あって家老加納将監に養育された※8が、18歳の頃、養父江戸詰に同道、江戸で腰元沢野に手付き、金子、書付、刀を与えた。沢野は親元で男子を生むが、母子共に死去、沢野の母お三によって葬られる。その後吉宗将軍となった。お三が後に、近所の山伏感応院の弟子宝沢にこの事を語った所、宝沢は悪心を起こし、計画を練った。
 宝沢は雪の日、お三に酒を飲ませ殺し、証拠の二品を奪い、更に師匠も毒殺し、修業と称して旅立ち、殺されたと見せかけて姿を消す。
 宝沢五郎八と名を変えて熊本で働き、二十歳の盆前、主家の金を横領して出奔した。
 その後、備後国赤川大膳と出会う。彼は、水戸家の家老藤井紋太夫の悴で、道中で切り取り、殺人などを業とする悪人であった。二人は、大膳の従弟で山伏の乗楽院を引き込み、手下を集めて大坂、京へ乗り出し、役人を信用させ、資金と人を集めた。
 それより一味は仰々しい仕立てで東下、途中酒井雅楽を下座させるなどして江戸に至り、資金集め等をはじめる。
 天一に関する吟味を命じられた大岡は家来の平井平次郎を二度紀州へ遣すなどして証拠、証人を揃え、事件を解決する。

 梗概だけを記すと簡単になるが、実際にはそれぞれの場面で細かな逸話があり、そうした個々の場面のおもしろさが、本編の興味の中心とも言える。

(略)

五 「天一坊実記」
 幕末から明治初年にかけて、神田伯山の初世、二世が天一を得意とし、黙阿弥の芝居の種となった。大岡裁きから独立した「天一坊実記」は、彼等の手を経たと考えられる。この筋の写本は、現在、天理図書館の「大岡政誉談」しか確認できないが、明治期以後刊行された実録、絵本、講談本の多くは、同群に属する。これも、まず梗概を記す。

 八代将軍吉宗紀州徳川光貞の三男で、故あって家老加納将監に養育され、幼名を徳太郎と言ったが、自分の由緒を知ると不行跡が続いた。これを山田奉行大岡忠相が裁いた事から、後に吉宗が将軍になると、町奉行として採用されることになった。
 徳太郎は、加納家の腰元沢の井に手をつけ、金子、書付、刀を与えた。沢野は親元で男子を生むが、母子共に死去、沢の井の母お三によって葬られる。その後吉宗は将軍となった。お三が、後に、近所の山伏感応院の弟子宝沢(原田兵助の子玉之助)にこの事を語った所、宝沢は悪心を起こし、計画を練った。
 宝沢は雪の日、お三に酒を飲ませ殺し、証拠の二品を奪い、更に師匠も毒殺し、修業と称して旅立ち、殺されたと見せかけて姿を消す。
 宝沢は道中鵞湖散人と出会いなどして熊本へ至り、吉兵衛と名乗って働き、享保10年の暮れに、主家の船で江戸へ向うが難船し、伊予国に上陸する。
 宝沢はここで赤川大膳と出会う。彼は、水戸家の家老藤井紋太夫の悴で、道中で切り取り、殺人などを業とする悪人で、今は山賊の頭であった。大膳は兄弟分の藤井左京と共に宝沢に従い、大膳の伯父で山伏の常楽院を引き込む。常楽院の友人で、元は公家に仕えていた山内伊賀亮は、宝沢天一の正体を見抜くが、これも一味し、各地から用金や家来を集め、大坂、京へ乗り出し、人を信用させ更に資金を集めた。
 それより一味は仰々しい仕立てで東下、途中酒井雅楽を下座させるなどして江戸に至り、資金集め等をはじめる。
 老中松平伊豆守をはじめとする役人は、山内の対応で信用するが、大岡はこれを疑い、再吟味を願い出、伊豆守の恨みを買い閉門となる。これは水戸綱条の助力で赦されるが、山内との問答網代問答)で敗れる。大岡は病気と称して調査を始め、用人を紀州に送る。紀州調査の二人の用人は、大岡が諦めて切腹に及ぼうとした、正にその時に帰り、成果を告げる大岡は、まず伊豆守に事の次第を説明し、伊豆守の手柄にする様に告げ、将軍へ報告させる。
 これによって一味召捕りとなるが、前夜に燈火の異変から露顕を悟った山内は自室に火をかけ自害し、死骸は発見されなかった。以下、一味の者はそれぞれ処刑された。

 一見して「大岡仁政録」所収を母胎とした事が窺えるが、その詳しい異同等については、内田氏が述べているので省くとして、注目しなければならないのは、登場人物と小さな逸話の急増である。
(略)
 「大岡仁政録」から、人物や逸話の増加等によって長編化、独立したのが「天一坊実記」であるが、それだけでは片付かない問題がある。抽象的な表現になるが、“読み応え”に格段の差があるのである。単なる成長というより、成熟と言うべき変質ぶりである。
(以下略)

実録体小説の生成

※8  「南紀徳川史」によると、当時の風習に従って吉宗は誕生してすぐに扇ノ芝に捨てられ、刺田比古神社の宮司岡本周防守が拾い親となって家臣の加納家に預けられ、そこで5歳まで育てられたという。物語に登場する「加納遠江守」「加納将監」は、吉宗を養育した加納政直をモデルにした人物と考えられる。
吉宗遺産 ③扇ノ芝と刺田比古神社 | ニュース和歌山

加納政直 - Wikipedia

 

 このように、「天一坊事件」とは、いわゆる「実録小説」として江戸時代中期から明治時代にかけて大いに人気を博した物語です。あくまでもフィクションではありますが、その根底には上記引用文の冒頭で紹介されたように改行という修験者が落胤と偽って無頼の輩を集めたことにより処分されたという事実があったことは間違いないため、あたかもその物語の全てが事実であるかのように認識されてきたと思われます。

 

 時の将軍のご落胤を騙った罪人が紀州の出身であると言われても決して名誉なことではありませんが、一個人の虚言が幕府を揺るがす大事件へと発展したという物語は時代を超えて人々の心を動かすもののようで、スピンオフとも言うべき作品が数多く作られています。
天一坊改行#天一坊が登場する作品 - Wikipedia

 その中には映画「エノケン天一東宝 1950)※9」のように天一を善人に置き換えてハッピーエンドとした物語もあり、ある意味で天一は庶民の夢であり、「お上」に対して溜飲を下げるようなヒーロー的存在であると認識されていたのかもしれません。
※9 「エノケン」とは喜劇役者・榎本健一の愛称。昭和初期から第二次世界大戦後にかけて映画で絶大な人気を博し、「日本の喜劇王」と呼ばれた。
エノケンの天一坊 : 作品情報 - 映画.com

エノケン天一坊」ポスター

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