生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

日本最古級の主婦日記「小梅日記」の作者・川合小梅(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、江戸時代末期から明治時代にかけて和歌山城下で武家の妻として暮らした女性で、現存する「主婦の日記」としては最古級のものと言われる通称「小梅日記」の作者である川合小梅(かわい こうめ)を紹介します。

和歌山市ラジオ広報番組「ゲンキ和歌山市」 2012年10月30日放送分より
https://genki-wakayamashi.seesaa.net/article/299557454.html 

 川合小梅は、文化元年(1804)に紀州藩川合鼎、妻辰子の間に生まれた女性で、16歳の時に祖父の養子となった梅本修(川合梅所 後に紀州藩校の学習館の督学(学長)となる)と結婚。明治4年(1871)に夫が亡くなってからは川合家の事実上の当主として家計を切り盛りし、息子を教師に育て上げた後、明治22年(1889)に86歳で亡くなっています。
 小梅は、16歳で結婚して以降、約70年間にわたって日記を書き続けていました。その膨大な日記を自宅の土蔵から発見した曾孫の志賀裕春(しが やすはる)氏は、東京大学史料編纂所(当時)村田静子氏の助力を得てこれを読みこなし、昭和49年(1974)から昭和51年(1976)にかけて「小梅日記平凡社 東洋文庫)」全3巻を出版しました。これにより、幕末から明治時代にかけての主婦の日常生活がつぶさに紹介されることとなったのです。
川合小梅 - Wikipedia


 また、志賀氏は発見された日記の原本のうち、嘉永2年(1849)から明治16年(1883)までを記した14冊を和歌山県立図書館に寄贈しています。これにより、一般の人々もこれら原本に触れる機会が得られることとなりました。

貴重書|和歌山県立図書館(本館)

 さらに、平成20年(2008)には、志賀氏の長女・雑村悦子氏が日記とは別の写本(小梅筆)28冊を和歌山県立文書館に寄託しており、これも随時閲覧や複写等が可能になっているようです。

わかやま新報:小梅の子孫が雑記や写本を文書館に[和歌山]

 川合小梅の生涯について和歌山県が管理するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」では次のように紹介しています。

教養人・画人 川合小梅(かわいこうめ)
1804年(文化元年)~1889年(明治22年
和歌山市 生まれ

 

幕末・明治の社会変革を日記に綴った女性
 父は紀州藩校「学習館」助教を勤める学者であったが、小梅が5歳の時に、この世を去る。そのため、祖父から漢学を、国学者本居大平※1の弟子で歌人であった母から和歌を学び、野呂介石の門人野際白雪に絵画を学んで育つ。
 文政2年、祖父が紀州藩梅本五兵衛の子のを婿養子として迎えたことから、と夫婦となる。夫のは10歳年上の26歳であり、川合家を継いで儒学者となって梅所と号し、後に、学習館の校長となる。結婚した16歳の年から70年間、小梅は日記を書き続ける
 天保4年、30歳で息子(岩一郎)を出産。主婦業の合間に、教養人として、絵を描き、歌を詠んで生活を楽しむ。
 日記には、家族のこと、彗星をみたことなど、生活者の視点で毎日の出来事を書き記す。また、酒を好み、酒にまつわる失態も書き残している。5歳の岩一郎に酒を呑ませて引き付けを起こさせてしまい、12日間も看病をしたことや、夫の同僚とともに紀ノ川へ花見に出かけ、酒を呑みすぎて家に帰り、夫に介抱されたりしたことなどである。
 日記からは、夫婦仲が良かったこともうかがえる。明治4年(1871)初夏、最愛の夫は、小梅が生けた蓮の花にみとられながら亡くなるが、小梅は70歳を越えても健在で、手習いを教えたり、絵を描いたりしながら家事をこなし、新しい西洋の学問にも興味を持つようになる。
 江戸時代から明治時代にわたり、日記に社会の動きと自分史を書き綴り、明治22年に亡くなる。墓は和歌山市吹上の妙宣寺にある。16歳~86歳までの70年間に及ぶ小梅の日記は、私たちが当時の生活様式を知るための貴重な資料となっている。
※1 「古事記伝」をまとめた本居宣長の養子で、本居家の家督宣長の研究の系譜を受け継いだ人物 吹上寺・本居大平の墓 参照

川合 小梅 | 和歌山県文化情報アーカイブ

 

 上記引用文の末尾にあるとおり、今日では、小梅の日記は当時の人々の日常生活を知ることのできる貴重な資料と位置づけられています。
 例えば、和歌山県の広報紙「県民の友 昭和55年(1980)1月号」では、「県史編さんだより」の項で当時の正月の様子を次のように紹介しています。

 ここに紀州藩下級藩士の女房川合小梅が記した二冊の日記がある。一冊は天保8年(1837年)のもので、表紙ともで58枚、他の一冊は弘化5年(1848年)、56枚の小冊子である。
 小梅の夫、川合梅所は、紀州藩の学校「学習館」の学長をつとめた人物である。小梅は漢学、和歌、文人画をこなすインテリ女性で、藩校学長の妻として藩の教育を側面から助けていた。また、夫の同僚や弟子たちとの交際も広かった。
 この日記は、武家の女性が書いたものだけに、庶民の目とは少しちがった見方で書かれている。しかし、現在の私たちの生活と似ている点もないではない。正月の記述のところを抜き出してみよう。
 天保8年の日記には、「丁酉(ひのととり)正月元日 晴天、高橋三郎右衛門筆弐本、酒券一まい持参」とあり、弘化5年には、「元日 快晴又風有、主人宿にて休、田中善之助小嶋伝右衛門の子弟を同道す。其内(そのうち)又九右衛門殿くる。弟はかへる。両人二階みる。初め此(この)楼上(ろうじょう)にて酒出す。大かた酒たけなはに及ふ頃、喜多村半右衛門くる。また二階へ上り、共に一盃出し、九衛門殿善之助と先へかへる。半右衛門火ともし、五ツ前かへる」とある。
 元日には、やはり弟子たちが年始のあいさつに訪れている。小梅の家庭はもともと酒が好きで、酒を飲む機会も多かったが、元日早々訪れた人たちと酒宴を開き、夜五ツ時(8時)前まで飲み続けたことが記されている。元日をすぎても、小梅の家は年始の訪問客が多いが、小梅はよく酒を出してもてなしている。酒で少し顔を赤らめた人々が、小梅の家から出て正月の城下町を歩いていく姿が目に浮かぶ。
 小梅日記の記述は、きわめて簡潔に書かれているが、さすが女性による描写だけあって、日常生活のほのぼのとした一面を私たちに知らせてくれている。

 

メモ
 「小梅日記」は嘉永2年(1849)からの8年分と、明治9年(1876)からの7年分は、すでに「東洋文庫」に収録されているが、ここに載せたものは未発表の2年分で、いわば「小梅日記、幻の前半」といえる。藤田貞一郎県史編さん委員(同志社大学教授)が、海南市黒江の片山家で発見したもので、このほど解読を終え、今春出版予定の和歌山県史「近世史料」(筆者注:昭和55年(1980)2月に発刊された「和歌山県史 近世史料2」を指す)収載する。

広報紙 | 和歌山県

 

 また、厳密には「日記」ではありませんが、小梅が残した「雑記」と呼ばれる多数の書付もあります。和歌山県立文書館が発行する「和歌山県立文書館だより 第26号(平成21年11月30日発行)」によれば、この中には嘉永7年(1854)11月に発生した大地震(この前後に我が国では大地震が頻発しており、総称して「安政の大地震」と呼ばれることが多い)※2に関する記述もあり、地震を体験した当事者の記録(おそらく当時の日記から明治10年(1877)に書き写したもの)として非常に貴重だとされています。
※2 安政の大地震 - Wikipedia

見つかった幻の記録
 紀州藩校学習館督学(とくがく 学長)川合梅所の妻で『小梅日記(以下『日記』という)の著者として知られている川合小梅は『日記』のほかに多数の『雑記』を残していたことはあまり知られていないのではないでしょうか。現在、私たちが目にできる『日記』は天保8年(1837)から明治18年(1885)までの約50年間の内の16年分(『和歌山県史史料編二』及び『東洋文庫』256・268・284)のものですが、昭和14年11月に県立図書館で展覧された際の『日記』は、天保13・弘化4・嘉永2・4・5・6・安政4・7・万延元・文久3・慶応2年のものでした。『東洋文庫』に収載された嘉永2・4・6年だけが重複していますが、前掲のものと併せてみると26年分が残存していたことになります。それらの中にも嘉永7年(1854、11月27日「安政」と改元の『日記』は含まれていません。
 ところで、『雑記』は元治2年春・夏・明治10・14・15・17年に筆写したものが各1冊、写年未詳のものが4冊で計11あります。
 それらの中に明治10年(1877)に筆写したことになっている『雑記入交(いれまぜ)』と題された1冊があります。その冒頭に次に掲げる、一文があるのを発見しました。

 

「生きたる心地せず」
嘉永7寅11月4日五ツ過ぎ
地震おおいにゆり候に付
はだしにて裏へ逃げ出ず。
急に西の屋根くずれ 瓦落ちる。
誠におそろしくあきれいたる
時およそ煙草5、6ぷくの間也。
雄輔 万二郎等外山の帰りかけ
道二丁歩行の間のよし。
屋形町にて女ら走り出で
互いに手を取り合い
こけぬ用心せしとの事。
おおいに恐れおりたるに、
翌5日七ツ過ぎ
地震久しくゆる。
庭へ馳せ出で候処、
昨日より激しく 立居る事ならず。
木を取り付け居る内
二階の瓦落る音に驚く内、
ひさし屋根崩るる。
大砲の如き音 7、8声響く。
何共分からず。
はじめは雷鳴と思い、
空は真黒にしてすさまじく
天地の大変と生きたる心地なし。
ただ神仏の御名を唱え恐れいるうち
ようやく止む。
この度は昨日■十そう倍、
暮六ツ過ぎ 又ゆり
四ツ 比4日の朝ぐらい。
近所の家崩れ倒るる音に心も消ゆる如く。
庭にて一夜を明かす。
夕飯未だこしらえざれば、
此処へこんろ 土瓶 持来るに、
ただ入る事 恐ろしく早々取て来る。
皆一か処へ寄集うて
ふとんの上に寄かかり寝る間なく明けけり。
朝迄に5、6度。
6日朝人々来り話を聞くに
昨夕 日方 黒江 辺へ津波上り、
屋根迄つかり、波に引かれ行き候。
大いなる石橋流れ、
或いは箪笥の引出しへ魚類入りたりと言う。
雷鳴か地鳴りと聞きたる7、8声は
波の音にてありしとの事。

伝法橋杭へ大いなる船ども
こみ合い割れ、筏の上へ舟打ち上がる。
24、5艘も込み入り もみ合うと聞く。
又 三部下(さんぶした)という川原へ
2、300石位の舟 川原にすわり之れあり。
どうして来りしや知らず。
大勢して動かすに なかなか動かず。
人力のおよぶ所にあらず。
舵も折れ おおいに破損したるよし也。
畑は裂けて 内より床土はみ出でたるよし。

川近辺の人は舟の内へ逃げ入り候処、
かの津波にて 又舟に居り難く、
又上り、しかし老人子供は思うようにえ動かず。
泣く声かしましく、
又老人と子を見失いしとて、
あわて探す者も有り。
しかし是らは幸いに助かりし由 様々なるべし。
※筆者注:小梅が記した文章は、読みやすさを考慮して適宜現代の表記に改めた。原文は下記「文書館だより」のリンク先を参照されたい。

 

嘉永7年の日記はあった
 実はこの年の11月4日から6日まで駿河遠江伊豆相模を中心にする東海と、土佐を中心とする南海地震津波がほぼ同時に発生しています。いわゆる「安政の大地震」と呼ばれる地震群の一つです。
 この地震の震度はM8・4と推定されていますから、小梅が震え上がって家の中に入ることすら恐ろしくなった、という気持ちはよく頷けます。
(中略)
 小梅によるこの記録は、その地震群の中でも非常に多くの記録が残されている「安政東南海地震(『新収日本地震資料』第五巻別巻五による呼称)の記録ですが、他のもののほとんどが半ば公的な記録であったり、後からの懐旧談であるのに対して、これはまさに、ほぼ同時に記されたものであり、その規模の大きさや小梅自身の心理の動きまでをなまなましく伝えており、本当に臨場感にあふれた記録であり、非常に貴重なものと言えます東海の大地震も余震が続いたことがさまざまな史料に見られますが、南海の地震も『田辺町大帳』外によって、すさまじい余震があったことが手に取るように分かる記録が残されています。
(以下略)

文書館だより

 

 和歌山市の和菓子店「総本家駿河」は室町時代に創業し、煉羊羹発祥の店として知られる創業550周年超の老舗※3ですが、小梅もこの店を利用していたようで、日記には駿河屋で饅頭を購入した旨の記述もあります。これを記念して、駿河では平成20年(2008)に高級落雁を「小梅日記」と名付けて販売していました。

平成20年には、作品を元に最高級の落雁が誕生。川合小梅(1804-1889)
 川合小梅は、江戸後期から明治時代に紀州で活躍した画家。著作物としては16歳からおよそ70年に渡って書き続けた日記『小梅日記』が有名です。幕末から明治にかけて書かれた小梅の日記には、当時の生活や動乱が描かれており、明治維新後の士族の暮らしぶりを知るための貴重な史料となっています。
 駿河のエピソードが出てくるのは、1859年8月23日の箇所。「朝するがやに饅頭、数二百取りにやる」と記載されています。この縁から、平成20年には讃岐産の和三盆のみを使用した最高級の落雁小梅日記』が発売されました。
先人たちに愛された駿河屋の和菓子 | 総本家駿河屋 公式ファンボード

※3 経営難に伴う架空増資事件を契機として平成26年(2014)に経営破綻したが、同社の資産を取得した企業が新会社「株式会社総本家駿河屋」を設立して営業の再開に至った。駿河屋 - Wikipedia

 

 上記引用文において小梅は「画家」として紹介されていますが、その作品のひとつ「観梅円窓美人図(かんばい えんそう びじんず)」は和歌山市立博物館に収蔵されており、これを紹介しているWebサイト「文化遺産オンライン」では次のように解説されています。

川合小梅(1805~1889)は紀州の女性画家。長期にわたって書き記した日記『小梅日記』の筆者としても著名。画家としての小梅は、野呂介石の門人・野際白雪に絵の手ほどきを受け、花鳥画美人画を得意とした。本図は、満開に咲き誇る白梅を円窓から眺める女性が描かれている。早春の色香漂う画面が構築され、小梅の画家としての力量がいかんなく発揮されている優品。

bunka.nii.ac.jp

 


 この他にも、小梅日記の膨大な記述を分析することで、幕末から明治にかけての激動の時代に人々がどんな暮らしをしていたのかを研究しようとする取り組みが様々な分野で行われています。
 ネットで入手できる資料の範囲では、例えば次のような研究が行われているようです。


 日本家政学会第49回大会のポスターセッションで五島淑子氏が発表した「『小梅日記』からみた幕末から明治にかけての食生活」では、当時の食事の内容を詳細に分析しており、寿司(まぜめし、なれずし)や餅、菓子などが比較的多く食されていたことなどが報告されています。

「小梅日記」からみた幕末から明治にかけての食生活
○五島淑子(山口大)
[目的] 
江戸時代から明治にかけての食生活を明らかにする方法に。生産量の記録、料理本、日記などの資料による方法があるが、本研究では「小梅日記」を基礎資料として。幕末から明治にかけての食料リストを作成し、季節性・時代差についての分析を行った。
[方法]
資料として用いたのは「小梅日記東洋文庫全3巻(平凡社)である。「小梅日記」は、和歌山県に住んでいた川合小梅(文化元〔1804〕年から明治22〔1989〕〕の日記で。その記録は嘉永2年から明治18年までである明治元年から8年および17年はない)
記載の充実している14年間の日記をもとに食料リストの作成し、当時の食品およびその特徴を明らかにした。さらに頻度20回以上の食品をリストアップし、月別の比較から食品の季節性、年ごとの比較から江戸時代と明治時代の比較検討を行った。
[結果]
穀類の中でが最も多く出現し、ついでムギソバであった。穀類の料理には。すしめし赤飯などがあり、すしにはまぜずしなれずしなどがあった。の種類は多く、祝いの餅祭りの餅柏餅よもぎなどがある。また菓子も、饅頭羊かん煎餅など種類が多かった。豆類は、アズキソラマメダイズのほか、ダイズの加工品豆腐味噌が記録されていた。魚貝類は、タイカツオボラチヌアジアユなど多くの種類が記録されており、肉類ではトリクジラ牛肉などが記録されていた。月別の頻度から、すし、魚類、野菜類、果実類に季節性が顕著に認められた。さらに年別の比較を行った結果を報告する。
日本家政学会 アーカイブ 食物 2Aa-5

 

 また、櫻井美代子氏は「幕末から明治期における主婦の日記にみる食生活(「日本家政学会第55回大会研究発表要旨集」日本家政学会 2003)」において次のような報告を行っており、和歌山江戸・東京という2つの地域において贈答品として用いられる品目を比較した結果、和歌山では「魚券」「酒券」(いずれも現代の「商品券」に該当するもの)や「牛肉」が用いられていたことが特徴的であったとしています。

【目的】
近世・近代の家庭における食生活の実態を知るため、主婦の日記を資料としてそこに記載されている食品・食物を調査・検討行うことでその時代の食生活の一端を考察してきた。今回は地域の異なる二つの日記を比較することで、その食生活の特徴の違いを検討することを目的とする。
【方法】
小梅日記』を中心にし、これとほぼ同時期に書かれた江戸近郊の日記である『大場美佐の日記』を比較することで地域的特徴などの違いを検討した。
【結果】
小梅日記』・『大場美佐の日記』には日常の細々とした事柄が記載され、その中でも共に贈答品が多く登場し、食品・食物の割合は約80%であった。
小梅日記』では魚介・海藻類が最も多く、その内容はかつおいなちぬさばあじ伊勢海老など多種類の記載があり、野菜・果物類では竹の子松たけ西瓜郁李仏手柑利夫人橘などがみられ、穀類ではすし餅類などで、嗜好品では酒券菓子などの記載がみられた。
一方『大場美佐の日記』では魚介・海藻類 かつぶしが多く、野菜・果物類では里芋竹の子さつま芋真桑瓜などで、穀類ではそばそば粉赤飯すしうどんうどん粉餅類などがみられ、嗜好品にごり酒菓子は多く用いられていた。
どちらの日記も穀類魚介・海藻類野菜・果物嗜好品類が多く記載されており、その中で江戸近郊の大場家ではみられなかった魚券・酒券が紀州川合家では使用されていた。また記載はすくない獣鳥肉類の中で大場家では記載がなかった牛肉は、川合家では寒中見舞いなどの贈答品として使用されていた
幕末から明治期における主婦の日記にみる食生活 | CiNii Research

 

 さらに、花木宏直氏は「近世後期~明治前期における柑橘品種と需要 和歌山市街及び周辺地域を事例に(「地理空間 第3巻2号」 地理空間学会 2010)」において次のように報告しており、「小梅日記」と「日知録和歌山市橋丁の質商「森屋」の9代目妻・沼野峯による日記。現存するものは1791年と1825年の2冊で、小梅日記より数十年前の市民生活を覗うことができる。)」を比較して、この時期に柑橘の品種や日常生活での用いられ方などが変化していったことを示しています。

3.「小梅日記」にみる柑橘需要
 表3(筆者注:本稿では引用を省略した)は,「小梅日記」より柑橘関係の記事をまとめたものである。まず,登場する品種に注目すると,「みかん(小蜜柑),「りふじん橘」・「(梨,利)夫人橘(李夫人橘),「雲州(温州),「かうじ(柑子),「(柚),「柚柑」,「」,「うちむらさき(内紫,文旦の一種),「かぶす(臭橙),「ぶしゅかん(仏手柑),「」の11種類がみられた。つまり,「日知録」に比べ,今日の代表的な品種である温州が登場したことをはじめ,品種数の増加がみられた
(中略)
 さらに,1859(安政6)年12月8日付には
庭の仏手柑二,りふじん橘七,うんしう六,〆十五送る」,
1876(明治9)年2月1日付には
八つ頃出口田中隠居来る,仏手柑くれと言,上らせ,庭をもみせ,如此,中々実はならざるよし申,併,りふじん橘上に三つ在しを隠居見付,どふぞほしと言故,かぶす二つそへ,五つしんぜる」,

1880(明治13)年11月6日付には
うらのかぶす,いも元へ壱円にうる
と記されている。つまり,小梅の邸宅の庭には,仏手柑と「李夫人橘」,臭橙が植栽され,これらの果実の販売がみられた。
 次に,利用に注目すると,1853(嘉永6)年10月27日付には
夏目こんいんに付,仏手かん二つ送る」,
1877(明治10)年1月12日付には
昨夕方,青山へ行,(中略),又は男児出生の祝かたがた,一尾魚とりふじん橘を持て,小梅,おしげつれて行」,
(中略)
と,婚姻や出産,見舞,改名,出立,帰郷等,人生の節目の贈答品に利用された。また,1864年12月13日付には
野呂より寒見廻,牛肉,酒券一,仏手かん三遣わす
と記されている。すなわち,柑橘は手土産や贈答品として,重要な役割を果たした
(中略)
 とりわけ興味深い記事として,1881年11月7日付には,
此夜盗人庭へ来る,足跡,和田にてりふじん橘取,くひながら(食いながら)歩行とみへ,かは(皮)ら庭に落有,小川のわさびおろしとられる
と記されている。盗人が「李夫人橘」を食べ捨てた理由に注目すると,そもそもわさびおろしを盗んだことから,金物目当ての犯行であったと考えられる。つまり,盗人は柑橘を意図的に狙って食べたのではなく,不意に目の前にあった「李夫人橘」を手にとって食べたと推察される。この点を踏まえると,明治前期には柑橘が日常的な嗜好品としての意味づけを増していたことの一端を示していると指摘できる。ただし,明治前期には今日みられる柑橘の大量流通には至っていなかったことを勘案すると,柑橘が盗人にとって憧憬の対象でもあった側面も考慮する必要がある。
 つまり,近世後期から明治前期には,主力品種である小蜜柑や,橙等の大型で皮の厚い品種が中心で,生食だけでない加工利用がみられた。一方,近世後期以降は,「李夫人橘」や「雲州」等の今日の温州に相当する品種をはじめ,柑橘品種の増加がみられた。また,柑橘の購入や販売の機会が増えるとともに,子どもの菓子代わりをはじめ,日常的な嗜好品としての比重の増加がみられた
(以下略)

近世後期~明治前期における柑橘品種と需要

 

 国際日本文化研究センター(日本文化を総合的に研究することを目的として設立された機関(大学共同利用機関) 略称:日文研のWebサイトによると、同センターのサイモン・パートナー外国人研究員デューク大学教授)が令和2年(2020)に所内関係者限定で実施したイブニングセミナー「Class and Gender in an Age of Revolution: The Life of a Samurai Housewife before and after the Meiji Restoration(変革期における階級とジェンダー――明治維新前後の武家女性の暮らし)」において小梅日記をテーマとして取り上げたとの記事が掲載されています。このレクチャーでは、小梅の興味の対象が多岐にわたっており、日記の内容は身近な出来事から科学的な自然現象、大衆文芸、政治の動きなど非常に幅広いことが他の女性の日記と異なる点だと指摘されたようです。ちなみに、このレクチャーの中では、川合家の毎年の支出のうち2割近くを酒代が占めていたという驚きのエピソードも披露されたとのことです。

 社会全体が大きな節目を迎えた幕末から明治期の女性の生活を探るうえで、今回紹介されたのは、和歌山城下、紀州藩校の学者の家に生まれ、のちに紀州藩士を婿養子に迎えた川合小梅(1804-1889)の日記です。歌人であった母から和歌を学び、文人画もよくする教養人だった小梅は、結婚した16歳から70年間、主婦業の傍ら日々の様子を淡々と綴りました。ひとりの生活者の視点からみた日記として、希少で極めて貴重な史料といわれます。
 パートナー研究員は、膨大な記録の中から特に、1837年以降の記述に焦点を当て、当時の武家生活様式に着目していきました。家計を切り盛りし、家事や母親業をこなし、雇い人や徒弟の世話、四季の行事から社交に至るまで、関心は尽きないと言います。藩士で婿入りしたのちに家を継いで儒学者となった夫との暮らしぶりは決して裕福とは言えず、しかも一日のほとんどを家内で過ごす中で、節約のために保存食を常備したり、綿糸を紡ぎ、織物に精を出したり。しかしその一方で、武家のならいとしての他所との贈答は欠かさなかったとか。御用達だった質屋の一軒「伊勢屋」に出向くことを“伊勢参り”と呼んでいたなどというのは微笑ましい話でした。
 さらにユニークだったのが、毎年の支出の2割近くを酒代が占めていたという驚きのエピソード。例えば、酒米の生産量が制限されていた1837年当時、一家は近隣の村から酒を大量に買い上げて、半分を自宅用に、残り半分を知人に贈るという行為をたびたび繰り返しています。酔っ払いの逸話も数しれず。そんな一家の生活も明治維新後には激変し、70代を迎えた小梅は若い頃よりも苦労の連続で、家計を支えるために、絵を教え、和紙の小物なども制作していたそうです。
 小梅日記の大きな特徴は、その内容が多岐にわたっていたことだと、パートナー研究員は総括しました。天気来客の話あり、慶弔あり。かと思えば、科学的な自然現象大衆文芸にも関心が深い。西南の役暗殺事件など政治の動きに触れた記事が多いのも、他の女性の日記と異なる点だと指摘します。幕末から明治にかけて女性の教育方針にも変化が見られる中、教養があり文化的・専門的な能力を生かして家庭を支えた、稀有な女性の生き様に触れたひとときでした。
(文・白石恵理 総合情報発信室 助教
[Evening Seminarリポート] 19世紀 武家の女性の“おもしろき”日々 (2020年7月2日)|トピックス|国際日本文化研究センター(日文研)|日本文化に関する国際的・学際的な総合研究所

 

 小梅は現在のJR和歌山駅近くに所在する聖天宮宝輪寺(境内に「えべっさん」で賑わう東の宮恵美須神社※4があることで知られる)歓喜天を生涯にわたって篤く信仰したとされており、同寺の境内には雑賀紀光※5の書による「小梅筆塚」が建立されています。
※4 東の宮恵美須神社 和歌山市 えべっさん
※5 海南市出身の画家、平成5年(1993)82歳にて没 雑賀紀光 作家紹介 | 画廊ビュッフェファイヴ



 現在、和歌山市では「小梅日記を楽しむ会」という団体が設立されており、小梅日記の研究及び日記を通して和歌山の活性化に寄与することを目的として活動を続けられています。その一環として平成24年には絵本「小梅さんの日記」(冒頭の画像参照)を出版したほか、随時例会や各種イベントが行われています。
 近年はコロナ禍でなかなか十分な活動ができなかったようですが、同会のWebサイトによればこの3月3日には「雛祭り」が行われる予定となっているようです(現時点では予約で満席)
ようこそ! - 小梅日記を楽しむ会


 
 上記のWebサイトによれば、驚くべきことに日産自動車代表取締役副会長を努め、かつて「カルロス・ゴーンの右腕」と呼ばれたこともある志賀俊之※6小梅から6代目の子孫にあたる人物であることが紹介されていました。同サイトには平成27年(2015)に志賀氏が講演のため和歌山市を訪れた際に同会会員と懇談した旨が掲載されており、次のようなエピソードが紹介されています。
※6 志賀俊之 - Wikipedia

 ご講演に先立ち、当会会員との懇談の場を設けていただきました。お祖父さまの志賀裕春さんがお蔵で日記を見つけ、自室でその読解に没頭されているお姿をよく覚えておられること、日記で面白いところが出てくると、俊之さんをはじめお孫さん達を呼んで話して聞かせてくれたなど、ご家族ならではの思い出話を伺いました。和歌山城の西側にあった志賀家が2kmほど南に移っていたために、戦禍を被らずに日記が残ることになったのでは、というお話に、東洋文庫小梅日記』の誕生の幸運をあらためて実感しました。会員一同、気さくな志賀俊之さんに魅せられた幸せなひと時でした。

koumesan1804.jimdofree.com

 

 さまざまな分野に幅広く関心をもち、あらゆる出来事を几帳面に記録に残した小梅のDNAが、危機に瀕した日産自動車を外国人リーダーとともに劇的に再生させた※7志賀氏の手腕に繋がっていたのだと考えれば、それは非常に興味深い話であるといえるでしょう。
※7 カルロス・ゴーンが罪に問われたのはあくまでも日産の再生を果たした後の巨額の報酬に関するものであり、日産を再生させた手腕そのものは高く評価されている。自動車業界にも激震 ゴーン流再生術は高い評価(1/2ページ) - 産経ニュース