生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

日本初のサッカー指導書を編纂・中村覚之助(那智勝浦町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、明治時代に日本初のサッカー指導書となる「アッソシエーション・フットボール」を編纂するとともに、同じく日本初のサッカーチームとされる「東京高等師範学校ア式蹴球部」の創部に関わるなど、日本サッカーの黎明期に大きな役割を果たした那智勝浦町出身の中村覚之助(なかむら かくのすけ)を紹介します。
 日本サッカー界の統括団体である公益財団法人日本サッカー協会JFAはその前身である大日本蹴球協會の時代から「三本足のカラス」をシンボルマークとして用いていますが、このマークは熊野の神の使いである「八咫烏(やたがらす)」を図案化したものとも言われており、これが選ばれた経緯には覚之助が熊野地方の出身であったことが大きく影響していると考えられています。

 那智勝浦町にあるJR紀勢本線きのくに線那智駅に「日本サッカーの始祖 中村覚之助 顕彰碑」という石碑が建立されています。この碑は平成23年(2011)に覚之助没後百年を記念して地元有志により建立されたもので、その傍の石板には次のような説明文が刻まれています。

日本サッカーの始祖中村覚之助明治11年(1878)5月 この地浜ノ宮で生まれた。同35年東京高等師範学校(現筑波大学在学中に「アソシエーションフットボール」を翻訳し、日本初のサッカー指導書を発刊蹴球部を創設し日本最初の近代サッカーの試合を行った。氏はサッカーの普及発展の礎を築く活躍をしたが、志半ばの明治39年、29歳の若さで急逝した。日本サッカー協会の旗章「三本足の八咫烏」は熊野出身の氏に因んで選定したと伝えられている。和歌山文化協会は平成14年、第53回先覚文化功労者として顕彰した。
ここにその功績を記し、浜ノ宮及び熊野人の誇りとして末永く後世に伝えるものである。
令和3年9月10日
那智勝浦町名誉町民として顕彰。
※筆者注:「令和3年9月10日 那智勝浦町名誉町民として顕彰。」の文言は、石碑建立後に追記されたものと思われる。

 

 覚之助について、和歌山県が管理するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」では次のように解説しています。

サッカー紹介者 中村覚之助(なかむらかくのすけ)
1878年明治11年)~1906年明治39年
那智勝浦町生まれ

 

日本サッカーの普及に貢献

 明治32年和歌山師範学校(現:和歌山大学教育学部を卒業。宇久井尋常高等小学校(現:宇久井小学校)で教師となるが、わずか1年で退職し、明治33年、東京高等師範学校(現:筑波大学に入学。4年の時、「アッソシェーションフットボール」を編さんして、ア式蹴球(しゅうきゅう)を創設する。これが日本で最初のア式フットボール(現在のサッカー)のチームであると言われている。

 東京の大塚にあった雑木雑草に埋められていた新運動場の予定地を、部員たちと整地に努め、蹴球のフィールドに棕櫚縄を張り、さらにゴールを建て練習を開始。明治37年、横浜で外国人クラブに出向き、日本で最初の対外試合を行う。この状況が全国に新聞で詳しく報道され、全国の中学校から蹴球指導の依頼が殺到。部員は各地の学校へ指導に出かけたと言われている。明治37年東京高等師範学校を卒業。翌38年、清国山東済南師範学校へ国から派遣されるが、明治39年、帰国途中の船中で発病し、29歳の若さで急逝。サッカーを日本に紹介、その普及に大きく貢献した。

 なお、日本サッカー協会の旗章に描かれる鳥は、熊野三山に祀られる霊鳥「八咫烏(やたがらす)」と同じである。その「八咫烏」は、神武天皇が東征の時、熊野に迂回し、「八咫烏」の先導で大和に入り建国したという神話に登場する。また、平安時代蹴鞠(けまり)の名人と言われた藤原成通が技の奉納に訪れたとも云われ、熊野は古くからの蹴球との深い関わりがある。また、日本サッカー協会のシンボルマークは、日奈子実三(筆者注:ひなご じつぞう 1892 - 1945)※1氏のデザインによるものであるが、その図案の発案者は、東京高等師範学校内野台嶺(筆者注:うちの たいれい 1884 - 1953)※2氏を中心とする人たちであり、内野台嶺氏は覚之助の後輩にあたる。

中村 覚之助 | 和歌山県文化情報アーカイブ

※1 日名子実三 - Wikipedia
※2 内野台嶺 | 日本サッカーアーカイブ

 

 日本蹴球協会現在の日本サッカー協会が昭和49年(1974)に発行した「日本サッカーのあゆみ講談社)」によれば、我が国へはじめてサッカーが紹介されたのは明治6年(1873)のことであったとされ※3、その際の様子を次のように記しています。
※3 Wikipediaでは「日本へのサッカーの伝来は、1872年に神戸市の外国人居留地で行われた試合が最初という説と1866年横浜市山手でイギリス軍が行った試合が初という説がある。(中略) 1873年東京市京橋区築地の海軍兵学寮において、イギリス海軍中佐アーチボルド・ルシアス・ダグラスを団長とする、イギリス海軍軍事顧問団が紹介したのを最初とする説もあるがはっきりしない。(以下略)」とあり、複数の説が存在するようである。日本のサッカー - Wikipedia

サッカーが日本へ
 日本へこのゲームがはじめて紹介されたのは,日本の海軍をイギリス流に切り替え,イギリス軍艦の乗組員を東京=築地の海軍兵学に招聘したときである。1873(明治6)年9月,ダグラス少佐のほかに33人の将兵が着任し,訓練の余暇に自分たちも楽しみ,日本人にも教えたのがいちばん最初である。
 ダグラス少佐たちのプレーを見た日本の指導者たちは,これをすぐに,「異人さんの蹴鞠(けまり)だ」と受け取った。日本には,中大兄皇子藤原鎌足が大和の法興寺の庭で蹴鞠あそびをしたという公式な記録があり,それから後も,上流社会の人にだけ許された優雅な遊びとして,いつの時代にも大衆のあこがれの的であったため,言葉の上では英語式なら「フートボール」漢字なら「蹴鞠」と書いていたのである。1902(明治35)年の日英同盟,1904~05(明治37~38)年の日露戦争というのは世界的にも大変な事件だったが,そのころ,野球・庭球と同じように「蹴鞠」を「蹴球」と書くように変わった。東洋の漢字を使っている国では,はじめからフットボールを「足球」と訳しているが,日本では千数百年前から大陸の文化を採り入れて独自の文化をつくりあげ,また,古いもの,良い伝統を大切に守ってきたことを,私たちの愛好する現代スポーツの名前の上でもはっきりと残しているのである。
 「アソシエーション・フットボール」とも「ア式蹴球」ともいったが,「サッカー」という呼び方は大正時代もやや進んでから現われ「蹴(け)る」という漢字が制限されることになった戦後に,多く使われるようになった。外国人には「サッカー」では通ぜず,「ソッカー(sɔ'kə)」であるが※4,それはさておき,サッカーでないと通用しない国はオーストラリア,カナダ,USAの3ヵ国だけで,全世界的にみると,他の国々はみな単に「フットボール」という。
(以下略)
日本サッカーのあゆみ - 国立国会図書館デジタルコレクション(利用者登録により閲覧可)

※4 アメリカ式英語では「サッカー(sάkɚ)」と発音する。ちなみに慶應義塾のサッカークラブの正式名称は「慶應義塾体育会ソッカー部」である。ソッカー部について - 慶應義塾体育会ソッカー部

 

 その後、我が国におけるサッカー競技の普及は、学校における体育(当時は「体操」と呼ばれた)指導の一環として始められたようです。その中心となったのが「日本最初の体操教師」と呼ばれる坪井玄道(つぼい げんどう)※5でした。
 坪井文部省アメリカから招いた体育担当教師ジョージ・アダムス・リーランドの通訳を担当したことをきっかけに体操教育の重要性を認識し、明治11年(1878)に創設された「体操伝習所(後に東京高等師範学校体操専修科)」の教師となりました。その際に坪井らはフットボール(当時日本に伝えられた「フットボール」は、まだ現在のサッカーとラグビーとが明確に分化されていない状態であったと考えられている)をカリキュラムに取り入れることとし、体操教師を目指す学生らにその指導方法を伝授したようです。
 この頃の状況について上記「日本サッカーのあゆみ」では次のように記していますが、この時点ではまだ競技としてのフットボールではなく、ボールを使った遊戯的なものとして学校教育に取り入れられていた模様です。
※5 坪井玄道 - Wikipedia

 1885(明治18)年3月までには、この伝習所を卒業した者が3府37県へ教師として赴任しているので,統一した考え方の体操はこのころすでに全国的にひろがり,フットボールも正規のゲームではなく「対列フットボール」とか「円陣フットボール」といった簡単化した遊戯的なものとしてひろまり,たいていの学校には教材用としてボールの一つや二つは備えられるようになった。

 その後、東京高等師範校では学内にサッカー部ア式蹴球部が設立され、外国人を相手に対外試合を行うまでに至るのですが、その経緯についても「日本サッカーのあゆみ」から関係部分を引用しておきます。

外国人との最初の試合
 1902(明治35)年の4月には,「高等師範学校」を「東京高等師範学校」と改称した。これは西に「広島高等師範学校」ができたためで、この両校が東西力を合わせて活躍する出発点となった。同年6月に坪井玄道が欧米視察の旅から帰り、9月に寄宿舎の一部がお茶の水から大塚へ移り、10月にはその広い運動場で大運動会をやり、その劈頭にモデルゲームを披露した。
(中略)
 坪井玄道が欧米を回っている間は,サッカーに対して知識をもった中心人物がいなかったので,ただ漫然とボールを蹴り合うといった幼稚な状態であった。1902(明治35)年春,ウィスコンシン大学に遊学していた坂上という人が帰国中だからというので,指導を受けたところ,そのフットボールはサッカーではなく,アメリカンフットボールであったという道草もあった。坪井の帰朝後は、新たに持ち帰った書物が提供され,本でわからないところは親しく説明を聞き,お茶の水の校庭では適当な運動場がないため毎日放課後4kmの道を大塚まで歩いて猛練習を重ね,秋季大運動会では6人1組のゲームを2回も公演するまでになった。この熱心さが結晶して1903(明治36)年10月4日,東京高等師範学校フットボール編の指導書(執筆した中心人物は中村覚之助だったといわれている)アッソシエーション・フットボール』の発刊となり,さらに12月初旬には横浜外人団に試合の申し入れをするまで進展した。
(以下略)

 

 また、東京高等師範学校東京文理科大学昭和4年(1929)に東京高等師範学校専攻科を改組して発足)昭和6年(1931)に発行した記念誌「創立六十年」には、「第七章 大塚学友会」の項で「蹴球」について次のように記されており、覚之助が編纂した指導書がサッカーの普及に大きく寄与したと伝えています。

 蹴球は当時我が国に組織的のものなく、単に球を高く あるいは遠く蹴って快とするに過ぎざる有様であったが、三十五年秋・本校生徒によって始めてこれが正式に行われた。その年の春頃、生徒中に米国から新に帰朝した坂上某氏につきラグビーを習う者があったが、いくばくもなく留学より帰朝せられた坪井教授アソシェーション式を紹介せられ、我が国人には寧ろラグビー式よりも適当であるとし、同教授指導の下に同年秋季運動会において、始めて正式の蹴球を公開した。当時の「校友会誌」にこれが創始の苦心を述べた中に

 

坪井教授の懇篤周到なる指導と部員の燃ゆるが如き熱心により、今やしきりに西洋諸国の著作雑誌を研究し、之を我国民の気質体格に斟酌し、我国に最も適当なる一式を案出せんと努めつつあれば、吾人は早晩斯技発達の快報を耳にするの日あらん。

 

とあり、我が国蹴球の現時の普及発達にはその輸入創始以来、本会の貢献著しきものあるを認めなければならぬ。当時生徒にして斯技の創始に功のあったのは中村覚之助元久五郎森迫武千葉精一等であったが、中にも中村は「アソシエーション・フットボール」なる小冊子を編し、その普及に寄与するところがあつた

創立六十年 - 国立国会図書館デジタルコレクション(利用者登録により閲覧可)

 

 覚之助が編纂したサッカー指導書の内容について、榎本雅之氏は「サッカー専門書にみる日本サッカー草創期の技術と戦術 -東京高等師範学校蹴球部によって出版されたサッカー専門書の検討-(「滋賀大学経済学部WorkingPaperSeriesNo.294(滋賀大学経済学部 2020)」において次のように紹介しています。

4.国内初のサッカー専門書『アッソシエーション・フットボール
 日本におけるサッカー普及の起点となった東京高師フットボールは、1903(明治36)年、国内初のサッカー専門書『アッソシエーション・フットボール』を出版した。著者は中村覚之助東京高師の教授でフットボール部の部長だった坪井玄道が序文を寄せている。そこには「此の遊戯が今日我が國に於て一も行はれざるは大ひに余の遺憾とする所其の不振の原因固より多々あらんも要するに其の方法を解する能はざるが爲めなるべく其方法を解せざるは之れ我が國に於て未だ適當なる邦文の書なきに歸因すべきか(序文2頁)」と、当時、日本でサッカーが普及していないことを述べ、その理由として、適切なサッカーを紹介する書物がないことを指摘している。出版の目的は、各地の中学校、師範学校からフットボールの競技方法を知りたいという需要が増加したためであった。内容は、著者の経験と欧米の書物を比較参考にして書かれた。そこには競技規則や必要な用具に関する説明がある。また、戦術に関しては、1-2-3-5システムの各ポジションの役割を説明しており、その中で技術に関する言及がある。
 サッカーの特質について、「集散、離合、攻撃、防守の種々複雑なる場合多くあり。(略)人数甚だ多く「ゲーム」中に起り得る出来事、甚だ複雑なれば、大に其の組全體の一致共同、常に、有機的行爲に出づるの必要なるや、固より論無し(43頁)」とし、サッカーが複雑であることやゲームの中でチームが共同する必要性を指摘している。
(以下略)

Working Paper Series | ワーキングペーパー | 経済経営研究所(ebrisk)


 上記のように我が国のサッカー普及にあたり覚之助が果たした功績は非常に大きいものと考えられていますが、近年まで覚之助の名前はそれほど多くの人々に知られていた訳ではなかったようです。こうした状況について、サッカージャーナリストの牛木素吉郎氏は平成21年(2009)に那智勝浦町で開催された「日本サッカー史シンポジウム『中村覚之助と日本サッカーの夜明け』(主催:筑波大学蹴球部同窓会茗友サッカークラブ、日本サッカー史研究会 後援:(財)日本サッカー協会ほか)」において次のように語っています。

 まず中村覚之助という人についてです。調べれば、しらべるほど、この方は日本のサッカーにおいて一番重要な役割を果たした人だということをだんだん私は感じるようになって来ました。
 日本サッカー協会日本サッカー殿堂というものがあって、日本のサッカーで功労のあった人のレリーフを作って掲額しています。そこに中村覚之助を入れるべきであるという運動をやりたいのです。
(中略)
中村覚之介の功績
 そうすると次は、本当は中村覚之助さんだと、私は思っているのですが、東京では案外、知られていない。日本サッカー協会の役員の中でも知られていない
(中略)
 なぜ、中村覚之助が偉大かというと、まず一つには日本でサッカーを本格的に体系的に紹介したのが中村覚之助だからです。私はそう思っています。坪井玄道さんは、日本に本格的なサッカーを紹介しました。でもそれは英国のサッカーの本を持ち帰ったということなのです。また、それを坪井さんに指示してやらせたのは、当時、東京高等師範学校の校長で、柔道の講道館を始めた嘉納治五郎さんです。この人たちは偉い人で有名な人ですが、サッカーの日本への導入を実際にやったのは中村覚之助だった。まず偉い人を入れるというのは世の中順番で仕方がないのですが、次には実際にやった人を入れるべきではないか。それは中村覚之助だというように私は考えるのです。
 中村覚之助は、サッカーを全面的に、本格的に、系統的に日本に紹介しました。
(中略)
 1870年代以降に入って来たもので、いろいろな文献に残っているのを見ると、サッカーに近いフットボールはあります。それから体育の教科書などにも教材としてフットボールが載っています。それらはみなフットボールあるいはフートボールと書いてあって、サッカーともラグビーとも蹴球とも書いてありません。
 それでは、協会ルール(筆者注:、1863年に設立された「フットボール協会(The Football Association 日本語では「イングランドサッカー協会」と呼称されることが多い)」により定められた世界最初のサッカー統一ルール)によるフットボールつまりサッカーが、いつ、誰によって日本に入って来たのでしょうか? サッカー競技の全体像が本格的に日本に紹介されたのは、中村覚之助が翻訳、編集して、高等師範学校から出した『アッソシエーション・フットボール』が最初です。これは坪井玄道さんの持って帰った英語の本を、中村覚之助が翻訳して編集して書いた本です。だから、中村覚之助を、サッカーを日本に本格的に紹介した最初の人物としていいと思います。中村覚之助が作った本がこれなのです(聴衆に見せる※6)。これは原本ではなく復刻版です。『アッソシエーション・フットボール』と書いてありますから、これはサッカーであることは疑いの余地はまったくない。そして、最初に坪井玄道さんの序文とともに、この本では中村覚之助さんが小石川において明治36年秋に書いたという序文が載っています。このフットボール(サッカー)は若者の教育のために良いということが最初の方に書いてあります。こういう本を作ったのだから間違いなく中村覚之助さんが中心人物である。だから、中村覚之助さんをサッカー殿堂に入れるべきであるというのが私の意見なのです。
(以下略)
月例サロン報告書 – NPO サロン2002(2009年3月例会)

※6 アッソシエーション フットボール(復刻版)

日本サッカーミュージアム 特別企画展示「サッカー本の歴史展」

 


 このように、日本サッカー普及にあたって覚之助が残した功績については近年になって注目を集めようになってきたわけですが、これと関連して冒頭の記念碑の碑文にもあるように「日本サッカー協会の旗章『三本足の八咫烏』は熊野出身の氏に因んで選定した」とのエピソードが紹介されるようになってきました。
 ところがこれは公式に承認された見解ではないようで、JFA公式サイトの「サッカーQ&A」のコーナーでは、JFAのシンボルマークである三本足のカラス八咫烏がモチーフであることは認めつつも本来は「中国の古典にある三足烏」であると説明されています。

Q.日本サッカー協会JFA)のマークの意味は?
 JFAのシンボルマークとなっている「三本足の烏」は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日ノ神=太陽を図案化したものです。旗の黄色は公正を、青は青春を表し、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会JFAの公正の気宇を表現しています。
 1931(昭和6)年6月の大日本蹴球協会の理事会で旗章(シンボルマーク)の採用を決定し、翌1932年の全国代議員会で彫刻家の日名子実三に図案化を依頼したものです。発案は、JFAの理事であり、漢文学者だった内野台嶺とも言われています。
 中国の三足烏の説話は早くから朝鮮半島北部にあった高句麗に伝わり、その後、東アジア各地にも広まっていきました。日本にもこの思想が伝わったため、次第に八咫烏と混同され、八咫烏は三本足として描かれるようになりました。
 日本では神武天皇東征の際に八咫烏が道案内をしたという神話もあることから日名子八咫烏をモチーフに描いたものではありますが、八咫烏は三本足ではありません※7。また三足烏というのがもともと中国の説話にあることから、JFAとしては、シンボルマークの由来が単に神武東征神話に登場する八咫烏であるだけでなく、淮南子(筆者注:えなんじ/わいなんし)※8』などの記述などから中国由来のシンボルでもあるとしています。
ドキュメント|JFA|日本サッカー協会

※7 「八咫烏」の初出となる古事記及び日本書紀には八咫烏が三本足であるとの記述はないが、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」には既に「陽烏 歴天記云日中有三足烏赤色〈今案文選謂之陽烏日夲紀謂之頭八咫烏也田氏私記云夜太加良湏〉 陽烏 歴天記に云はく、日の中に三足の烏有りて赤色なりといふ。〈今案ふるに文選に之れを陽烏と謂ひ、日本紀に之れを頭八咫烏なりと謂ひ、田氏私記に夜太加良須(やたがらす)と云ふ〉 十巻本和名類聚抄 翻刻と訓読」との記述があることから遅くともこの時代には「八咫烏=三本足」という認識が生まれていたと考えられる。また、「雑賀衆」で知られる鈴木一族の家紋や熊野三山の神紋(烏紋)には三本足の烏が用いられており、これを一般的に「八咫烏」と呼んでいることから、一概に「八咫烏は三本足ではない」と断定するのは不適当であろう。八咫烏 - Wikipedia

※8 前漢武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179 - 紀元前122)が編纂させた思想書淮南子 - Wikipedia

 

 この説明については、日本サッカー協会が平成8年(1996)に発行した「財団法人日本サッカー協会75年史 : ありがとう。そして未来へ」に掲載されたものに準拠しているようで、国立国会図書館が事務局をつとめる「レファレンス協同データベース」によると同書に次のような記述があるとのことです。

回答
財団法人日本サッカー協会のシンボルマークが八咫烏
デザイン:日奈子実三氏
1931(昭和6)年6月3日の理事会で採用。
以下、『財団法人日本サッカー協会75年史』p.37から引用。

 

 3本足の烏は、日の神(太陽)のシンボルと言われ、中国の古典『淮南子』の「精神訓」や『芸文類聚五経正義』には次のように書かれている。
日中有 烏淮南子)(太陽の中には烏がいる)
日中有三足烏芸文類聚五経正義)(太陽の中には3本足の烏がいる)
 また、日本でも神武天皇東征のとき八咫烏(やたがらす)天皇の道案内をしたという伝説もあって、烏は親しまれてきた。
 こうした日中の故事から、ボールを押さえた烏は、日本のサッカーを統括指導するものと考えられた。
 旗の色の黄(烏の背景)は公正を、縁の青は青春を表している。全体としては、はつらつとした青春の意気に包まれた、日本サッカー界の公正の気構えを表している。

レファレンス協同データベース

 

 上記引用文でも「こうした日中の故事から」と記載されており、「75年史」でも中国の故事及び神武東征伝の両方にちなんだものとは認めつつも、まず第一義的には中国の故事にちなんだものと解説されている点は同様といえるでしょう。

 

 これに対し、特定非営利活動法人サロン2002日本サッカー協会の後援を得て令和3年(2021)に開催したシンポジウム「JFA100周年記念事業 2021年の総括と展望 -TOKYO 2020、WEリーグ、そしてコロナ後へ」の報告書によれば、「現役最年長スポーツジャーナリスト」と言われる賀川浩(かがわ ひろし 1924年生 シンポジウム開催時は96歳)※9の発言として当時のサッカー関係者には当然のようにこの三本足のカラスは八咫烏であると認識されていたことが記されています。
※9 元サッカー選手で、長期にわたりサッカージャーナリストとして活躍した功績により2010年第7回日本サッカー殿堂入りを果たした 掲額者|日本サッカー殿堂|JFA|日本サッカー協会

JFA のシンボルマークをめぐって
中塚※10:ちょっとこの話にも触れておきたいと思います。三本足のカラスJFA のシンボルマークです。書き物として残っている資料は、機関誌『蹴球』第2号(1933年2月発行)に掲載された、「協會旗を日名子氏案に定む」というものしか見当たりません。その当時、内野台嶺さんを中心にこの図案が定められ、当時のスポーツ芸術の第一人者でもあった日名子実三がデザインしたとされています。賀川さん、このシンボルマークができた当時の思い出などがありましたらお願いします。
賀川:関西にいた者にとっては、協会がこういうものを作ったというのをね、けったいなマークやな、おもしろいマークやなと。色が黄色と黒ではっきりしましたので、見やすくて、頭に入りやすかったと思いますね。三本足というところがおもしろくてね、誰か偉い人が、二本より三本の方がうまくできるやろうと考えたのだろうと(笑)、話題になってたんですよ。
中塚八咫烏という認識はおありでしたか。
賀川それはもちろん神武天皇の東征の時に、熊野に上がって、そこから山の東側に出て、山を越えて奈良に入っていくわけですね。そこがサッカーの歴史として面白いところだなと。とにかく西の方から船に乗ってやってきて、ぐるりと紀州を回って、上へあがって奈良、大阪へ入ったと。三本足のカラスもそういう歴史を背景にしていると思いますね。
※10 中塚義実氏(NPO法人サロン2002理事長/筑波大学附属高校)

JFA100周年記念事業2021年の総括と展望 -TOKYO 2020、WEリーグ、そしてコロナ後へ – NPO サロン2002

 

 上記の各資料によれば、JFAのシンボルマークは、公式記録としては日名子実三氏がデザインしたということのみが伝えられており、その由来についてはJFAの理事であった内野台嶺氏が漢文学者であったことから、内野氏が中国の古典などを参考にして三本足のカラスをモチーフとして提案したものであろうと考えられているわけです。
 しかしながら、上記シンポジウム報告書の賀川氏の発言に見られるように、シンボルマークが制定された昭和8年(1933)という時期は明治維新から第二次世界大戦終結まで続く「皇国史観※11」の全盛期とも言える頃であり、その中核的エピソードである「神武東征伝」に登場する八咫烏の存在は国民の誰もが知る物語であったことから、この当時「三本足のカラス」と言えば当然のように八咫烏が想起されるものであったと言えるでしょう。逆に考えれば、八咫烏はあまりにも当時の帝国主義軍国主義と密接に関連しすぎていたことから、第二次大戦後に一気に「軍国主義忌避」の機運が高まると、JFAが意図的に八咫烏との関係性を薄めようとしてあえて中国の古典を第一の根拠に求めることとしたのかもしれません
※11 日本の歴史が万世一系天皇を中心として展開されてきたとする歴史観で、古事記日本書紀記紀の神話を歴史的事実とみなすもの。記紀ではイワレビコ古事記では神倭伊波礼毘古命(カム ヤマト イワレビコノ ミコト)、日本書紀では神日本磐余彦天皇(カン ヤマト イワレビコノ スメラミコト))八咫烏の道案内によって熊野から大和にたどり着き、そこで初代・神武天皇として即位したと伝える。

 

 以上のように、JFAのシンボルマークと八咫烏とは非常に深い関係があったことは明らかなのですが、このモチーフの選定にあたっては熊野地方出身の覚之助が大きな影響を与えていたであろうことは多くの関係者・研究者が指摘するところとなっています。このことについて、明治学院大学キリスト教研究所協力研究員(当時)洪伊杓氏は「シンボルから再発見する日韓の歴史と宗教(3) 三足烏の東征、八咫烏の西征(「キリスト教文化 2017年秋号」かんよう出版 2017)」において次のように記しています。

 東京高等師範学校中村(筆者注:中村覚之助)の存在は、日本サッカーの歴史そのものとも言うことができる程だ。その後、広く普及されたサッカーは、多くのチームが創設され、東京高等師範サッカー部出身が中心になって1921年(大正10)に「日本サッカー協会(現、協会の前身)を設立するまでに至る。そのリーダーの一人が中村を尊敬していたサッカー部の後輩であり、中国古典および漢文学者だった内野台嶺(1884-1953)教授だった。1906年中村が急逝すると、内野は至極悲しみ、中村は部員たちから「我が部の護神」と尊敬を受けたという。

 

故中村覚之助を想ふ。
「7月9日我が蹴球部創設者中村覚之助君の訃音に接せり。君は37年3月本科博物科を卒業し清国山東済南師範学校に教鞭を執られしが、病を得、夏期休暇を利用して故国に帰り療養せんとし、6月28日神戸に着したりしが、7月3日病俄かに革まり同夜、突然不帰の客となられたり。吾が部は君の過去に於ける功労を思いて、実に悼惜に堪えざるなり。吾が部の名において出版せられし「アッソシェーション.フットボール」は実に君が自ら筆を執られしものなり。当時我が国に於てフットボールの知識を有するものなく、依る可き書も稀なりしを、奮然此の挙に出でられし熱心思う可し。璽来瞬時も我が部を念頭より去らず或いは多大の金員を贈り、其の他種々の方法を以て、選手を指導し奨励せられ、常に我が部の為にのみ謀られたりしが、比の度はからずも其の訃音に接しぬ。然れども吾等は信ず、君の霊は永久に我が部の護神となりて指導せられるべきを。我が部は君が生前の功労を追想し其の遠逝を痛惜し茲に恭々しく弔意を表す。」
( 「故中村覚之助を想ふ」、『交友会誌』第11号、 東京高等師範学校、明治39年。 )

 

 このように日本サッカー協会の設立の歴史は、中村の後輩たちが彼の精神を継承しようと労力した結果でもあった。協会設立10年後である1931年6月、日本が満州を侵略したその時、日本サッカー協会ではシンボルの制定について議論された。中国の古典と漢字を専攻し、『中等教科習字臨本』(1922)、『孟子新釋』(1929)、『四書新釋中庸』(1935)などの著書も発表した内野は、尊敬した先輩中村の故郷とともに八咫烏を思い出した。彼の提案によって、一足はサッカーボールを持ち残りの二足で立っている八咫烏が、日本サッカー協会のシンボルとして定められ、今日まで続いている。国家間の代表対抗試合があるたびに、すべての日本選手のユニホームにこの八咫烏が描かれている。神武天皇の弓の上に止まっていた八咫烏※12が、弓が目標に向かって強く射られるように、選手たちのボールもうまくゴールまで導いてくれることを願い発案されたのだろう。
 中村の故郷である和歌山県那智勝浦町浜ノ宮にある実家の数百メートル前には、神話の八咫烏と関係深い「熊野三所大神社※13」が建っている。熊野三山とも呼ばれるここは、それぞれの主祭神として本宮の家都御子神新宮の熊野速玉神那智熊野夫須美神の三神がある。これらの各神社は、今も八咫烏を祭神としてシンボルにしている。 まさに、このような場で中村家は長年神社の氏子を務め、中村は幼い時からその姿を見て育ち、遊び場のようにしていた。おそらく中村は、東京高等師範学校の後輩たちにそのような故郷の話をしながら八咫烏の存在についても語ったのではないだろうか。さらに、中国の古典と漢字を研究する学者だった内野はその内容を専門的に把握していったのではないだろうか。
 内野日本サッカー協会の象徴を八咫烏とすることを提案した理由を、中村や彼の故郷のためだと明確には述べていない。しかし、前述した中村への追悼文の中で「吾等は信ず、君の霊は永久に我が部の護神となりて指導せられるべきを」と書いたことを見ると、内野教授中村三足烏の存在をオーバーラップさせ、八咫烏が日本サッカーはもちろん、日本帝国の守護神として永遠に存在してくれることを望む気持ちでこの象徴を提案した可能性があると考えられる。

三足烏の東征、八咫烏の西征(PDFファイルへの直接リンク)

※12 日本書紀には「後の神武天皇(文中では「彦火火出見(ひこほほでみ)」)が苦境に陥った時、金色の鵄(とび)がやってきて天皇の弓の上にとまり、その体から光を放った。これにより敵の軍勢は目がくらんだので神武軍が勝利することができた。」との記述がある。この鳥は鵄とされてはいるものの、しばしば八咫烏と同一視されており、八咫烏には勝利を導く霊力があると考えられるようになった。
参考画像 金鵄 - Wikipedia

※13 熊野三所大神社 - Wikipedia

 

 明確に公式な記録が残されてはいないものの、現在、JFA八咫烏を神の使いと位置づけている熊野三山を崇敬していることは事実で、主要な国際大会の前には協会幹部らが勝利を祈願して熊野に参拝することが恒例となっています。
 2022年に開催されたワールドカップ(W杯)カタール大会の前には、JFA田嶋幸三会長、技術委員長の反町康治氏、元日本代表主将で理事の宮本恒靖氏が熊野速玉大社新宮市に参拝しました。

www.agara.co.jp

 もしかすると、世界中で話題を呼んだ「三笘の1mm※14」は熊野の神々の御加護によるものだったのかもしれませんね。
※14 三笘薫の“1mmアシスト”がカタールW杯を象徴する1枚に…米メディアが選出「今後も困惑させられ続ける」 | ゲキサカ


 このように、中村覚之助は「日本初のサッカー指導書を編纂したこと」及び「現在も使用されるJFAのシンボルマークの選定に大きな影響を与えたこと」により日本サッカー界に多大な貢献をした人物であるということができるでしょう。上記で紹介した引用した那智勝浦町でのシンポジウムにおいて演壇に立った牛木氏は「中村覚之助さんをサッカー殿堂に入れるべきである」と主張していましたが、残念ながら現時点ではまだ殿堂入りを果たすことができていません。
 このことについて下記の個人ブログでは、上記で参考資料として用いた「日本サッカーのあゆみ」において覚之助の功績があまり大きく取り上げられていないことが原因のひとつなのではないかとの私見が述べられています。

中村覚之助が殿堂入りできない日本サッカー界
 ところが、これだけの功労者が、2019年7月時点で日本サッカー殿堂に掲額されていないのである。牛木素吉郎氏のように、この人を日本サッカー殿堂に入れようという声は、これまでにもあった。
 しかし、なぜ、中村覚之助は無視されるのか?
 前述のラグビー史研究家・秋山陽一さんも指摘しているところであるが、日本サッカー協会および日本サッカー界の歴史観は、1974年に出たJFAの50年史『日本サッカーのあゆみ』に示された歴史観を乗り越えていないところがある。
 『日本サッカーのあゆみ』では、中村覚之助の功績はあまり大きく取り上げられていない。前掲JFAの「沿革・歴史」のページでも、日本サッカー殿堂の掲額者にしても、古い人の顕彰については『日本サッカーのあゆみ』に依拠している印象がある
 中村覚之助が歴史上、公的な評価を受けていないのは、どうも、こうした事情があるのではないか。
(以下略)

gazinsai.blog.jp

 

 私も、いずれは中村覚之助の功績が正当に評価されるようになり、晴れて日本サッカー殿堂に掲額される日を心待ちにしたいと思います。

掲額者一覧|日本サッカー殿堂|JFA|日本サッカー協会