生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

紀州南高梅の誕生と高田貞楠・小山貞一・竹中勝太郎(みなべ町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、日本人の食生活とは切っても切れない関係にある「梅干し」の原料となる梅の品種として圧倒的なブランド力を誇る「紀州南高梅(きしゅう なんこう うめ)」誕生の経緯と、これに関わった三人のキーパーソン、高田貞楠(たかだ さだぐす)小山貞一(こやま ていいち)竹中勝太郎(たけなか かつたろう)を紹介します。

和歌山県「わかやま産品テロワール」パンフレットより
わかやま産品テロワール | 和歌山県

 紀南地方の地元紙・紀伊民報のWebサイトに掲載された2022年12月5日付けの記事によれば、2022年の和歌山県産梅の収穫量は6万4,400トンで、全国シェアの67%を占めて1965年から58年連続の全国1位であったとのことです。全国シェア2位の群馬県の生産量が3,680トンですから、和歌山県はなんとその約17.5倍の生産量ということになります。さらに驚嘆すべきはその生産効率で、和歌山県の梅の10アールあたり収穫量は1,320kgとなっていて、他の産地と比較すると2~3倍の収量を誇っているのです。

梅の収穫58年連続全国一 和歌山県がシェア67%:紀伊民報AGARA

 このように、現在では梅産地として圧倒的なトップシェアを有する和歌山県ですが、実は和歌山県がこのようなガリバー的地位を獲得したのは比較的近年のことであり、1970年代頃までは他産地とそれほど大きな差がついていたわけではありません。日本地域経済学会が発行する「地域経済学研究 34巻 (2018)」に掲載された「和歌山県への一極集中をもたらしたウメ産地形成過程と産地構造の諸特徴(石田文夫、遠州尋美著)※1」によれば、「1905年(筆者注:明治38年当時、主なウメ産地は、栽培面積の大きい順に、山口、千葉、茨木、埼玉、宮城、群馬、福岡、愛知、静岡、大分の順であり、今日の主産地とは大きく異なっている(橋本他 2005)。」とあり、なんと明治末期には和歌山県の梅の生産量は全国のトップ10にも入らないレベルであったというのです。
※1 和歌山県への一極集中をもたらしたウメ産地形成過程と産地構造の諸特徴

 

 同論文には昭和25年(1950)から平成25年(2013)の間の都道府県別梅収穫量の推移を記した一覧表も掲載されていますが、これを見ると和歌山県の収穫量が他産地を上回り始めたのは昭和35年(1960)頃のことで、その後は他産地の収穫量があまり増加していないのに対し、和歌山県だけが一本調子で収穫量を増加させており、他産地との差を拡大し続けていることが見て取れます。

 

 こうした和歌山県における梅生産の急激な拡大について、同論文では次のようにかつお梅」などの新製品の開発及び健康ブームの到来がその背景にあったものと説明しています。

②第二次拡大期と和歌山県への一極集中
 1970年代に入ると、生産過剰によってウメ需要は伸び悩み、栽培面積の拡大もストップした。再び増加に転じるのは、1980年代後半からである。1987年には、戦前のピーク時の1万7,100haを回復し、その後も梅は増殖され、さらに栽培面積を拡大していく。ここの1980年代から1990年代は第二次生産拡大期と位置付けられている。これは、先の温州ミカンからの転作も大きく影響しているが、この画期となったのは、群馬県のウメ加工業者が開発した「カリカリ梅(筆者注:未熟の小梅を使用した小粒の梅漬の一種。「土用干し」と呼ばれる工程を経ていないため「梅干」とは区別される。)」(1971年)や和歌山県の加工業者が開発した「かつお(筆者注:梅干に鰹節を加えて風味を高めたもの)」(1974年)、「味梅」(1977年)など新製品(「調味梅」と総称)の開発である。梅酒等の解禁による青梅ブームが牽引した第一次拡大期に対し、第二次生産拡大期は、健康ブームによる自然食品や健康食品への需要の増加、外食産業・中食産業の発展による梅干需要の増大が背景にあった。第二期拡大期に栽培面積の増加が大きかった県は、和歌山(2,920ha増)、群馬(320ha増)、神奈川(300ha増)、福井(253ha増)、青森(200ha増)、長野(169ha増)となっている。すなわち、この時期には、和歌山県の増加が突出し、和歌山県以外の産地の伸びは大きくない(辻他 2005、橋本他 2005、pp.53-54)。
 これ以降、日本のウメ生産は和歌山県に一極集中していく。全国的なウメの生産動向(1950~2013年)を見ると、2013年現在、収穫量では 12万3,700t(1950年対比3.1倍)にまで拡大した(表3)。因みに栽培面積で1万6,200ha(同対比1.6倍)となっている。各県ごとに見た場合、和歌山県は、同対比で収穫量は37倍、栽培面積で10倍となっている。
(以下略)

 この論文では、和歌山県の梅関連産業の特徴として、梅生産農家は収穫した梅を塩漬けにした「白干梅」という状態で一旦ストックすることによって市況を見て自ら出荷時期を選ぶ権利を確保し、これを買い上げて製品化を行う梅加工業者は有利な買い取り価格を提示できるようより高付加価値な製品の開発やブランド化、販売促進などに取り組む、という「生産農家・加工業者の双方が利益を得る分業関係」が構築されていることを強調していますが、その前提として和歌山県で栽培している梅の主力品種が「南高梅」であることが大きな影響を与えていることも同時に示しています。

(2) ウメ生産農家の経営にみる両県産地の違い
 和歌山県のウメ生産の主要作物は梅干最適品種である「南高であり、青梅として JA経由で市場に出荷するものは、6月初旬からの約2週間に平地で栽培したウメを手もぎで収穫したものである。農家が梅干加工原料向けに一次加工して、白干梅として仲買人、もしくは加工業者に販売するものは、傾斜地で栽培し完熟した生ウメを6月末から 7 月末にかけてネット収穫※2を行う。青梅出荷白干出荷の割合はおよそ 2:8 と言われる(2016年聞き取り調査による。「2013 年うめ用途別仕向実績調査」では 3:7)。白干加工は収穫と並行して行われるため、収穫労働と白干加工の双方に労働力を割く必要があるが、白干梅は後述のように価格支配力に優れるため同県のウメ生産農家の多くが一次加工を担っている。
(中略)
 他方、群馬県のウメ生産における主要品種は「白加賀」であり、ほとんどが農協を経由する青梅出荷である。表 5 に見たように、「2013 年うめ用途別仕向実績調査」では梅干・梅漬け用が47.4%を占めるが、大半がカリカリ梅に加工されるため、17.3%を占める飲料用も含め青梅出荷となる。収穫は5月~6月の1ヶ月に集中し、青梅は鮮度が重要なため、収穫直後に出荷する。また栽培地のほとんどが平地であり完熟を待たずに収穫することから手もぎせざるをえず、収穫労働の負担は大きい。
(以下略)
※2 梅の木の下にあらかじめ傾斜をもたせたネットを張っておき、完熟したウメが自然落下すると、ネットの傾斜によって自然に一か所に集まることを利用して完熟梅を効率的に収穫する方法。

紀州田辺の梅」令和3年版より
梅の歴史 – 紀州田辺うめ振興協議会

 このように、和歌山県の梅の主力品種である「南高梅」は梅干の最適品種であるとみなされていることから、「青梅(完熟前に収穫された梅で、カリカリ梅などに加工されるほか、梅酒・梅シロップ用などとして一般家庭向けにも販売される)」よりも「完熟梅(熟して赤みを帯び、柔らかくなった梅で、多くが梅干しやジャムなどに加工される)」の状態で収穫されることが多く、結果としてこれが収穫労働の軽減や、農家での白干加工による価格支配力の維持などに役立っていると考えられます。

 

 南高梅農産種苗法に基づく種苗名称登録(現在の「種苗法に基づく品種登録」にあたる)を認められたのは昭和40年(1965)のことであり、これは、上述したように和歌山県が梅の生産を急増させた時期とほぼ一致していることがわかります。まさに南高梅の「発見」こそが和歌山県の梅産業を圧倒的日本一の座に押上げた最大の立役者であったと言えるでしょう。

 

 公益社団法人農林水産・食品産業技術振興協会のWebサイトにある「日本の「農」を拓いた先人たち」という項に「村がつくった「南高(なんこう)」ウメ」という記事があります。もともとは農業共済新聞の1997年3月12日号に掲載されていた記事のようですが、ここに南高梅誕生の経緯がコンパクトに紹介されているので、以下に引用しておきます。

村がつくった「南高(なんこう)」ウメ
~農家の優良樹を選抜、品種名は調査に協力した南部高校に由来~

 春になって、梅の花に誘われたわけでもないが。自力で実梅(筆者注:みうめ 花を鑑賞するための梅の品種(花梅 はなうめ)ではなく、実を食用などにすることを主目的とする梅の品種)を作り上げた、ある村の話をしておきたい。今では日本一の梅の里和歌山県南部川(みなべがわ)と、この村(筆者注:本記事執筆当時は南部川村、現在は南部町と合併してみなべ町になった)が育成したウメの品種「南高」である。
 敗戦後の昭和25年のこと、同村に「梅優良母樹調査選定会」という珍しい会が発足した。提唱者は上南部農協(現・JA紀南)谷本勘蔵組合長。 昔からこの地方はウメの産地だが、<これからは不揃いな実生ウメ※3でなく、品質の揃った優良品種の統一生産が必要だ>と、品種づくりを呼びかけたのである。
 選定会には農協、それに地元の南部高校が参加した。早速、農家に呼びかけ自慢の樹を募ったところ、48点の出品があった。
 調査には高校の竹中勝太郎先生と生徒たちが当った。収量・品質・隔年結果性などに着目、5年間の選抜調査がつづけられた。昭和26年は14点、 27年は10点と年々しぼり、昭和30年には最終的に7点を優良系統に認定した。その一つが南高である。
 ところで南高は、同村の農家小山貞一が選定会に出品したウメだった。小山はそのウメの穂木(筆者注:ほぎ 後述する「接ぎ木」で繁殖させるために、優良な性質を持つ木の枝などを切り取って切り口を整えたもの)を同村の高田貞楠から譲り受け、梅園にまで育て上げていたのである。
 話は昭和6年にさかのぼる。兵隊から帰り、農業をまかされた小山は、ウメづくりに生涯をかけようと決意した。早速、苗木さがしからはじめたが、 親戚筋の高田が良い樹をもっていると聞き、出かけていった。そこで目をつけたのが1本の樹である。
 豊産で果実が大きく、桃のように赤く色づいていた。この樹がほしい。小山の熱心さにうたれた高田は「お前は年も若いし将来ある男や」と、 快く穂木を分けてくれたという。その木から生まれたのが、後の南高だったわけである。
 選定された7系統の中でも、南高はとくにすぐれていたのだろう。噂を聞きつけ、村のあちこちから穂木を貰いにくる人が後を絶たなかった。 請われるまま分けていたところ、今ではこの地帯一帯が南高で埋め尽くされるまでになった。
 昭和40年、南高は品種として評価され、種苗登録された。登録者は最初の発見者を称え、高田貞楠になっている。 品種名の「南高」は調査に協力した南部高校の生徒たちの労に報いたものだという。
(以下略)

農林水産・食品産業技術振興協会 読み物コーナー

※3 「実生(みしょう)」とは種子から発芽した植物のことを指す。種子によって植物を増殖させる方法(種子繁殖)は簡便である反面、交雑(他の品種の花粉を受粉することなどで遺伝情報が変化すること)等によって性質が変化してしまう可能性が避けられない。これを避けるためには「挿し木(挿し芽)」や「接ぎ木」といった「栄養繁殖」と呼ばれる方法が用いられる。栄養繁殖では原則として親木の性質を100%受け継ぐため、優良な性質を持った個体が1体しかない場合でもこれを親木(母樹)として何代にもわたって繁殖を繰り返すことで同じ性質を持った個体を大量に生み出すことができる。我が国を代表するサクラの品種であるソメイヨシノは全て栄養繁殖により増殖されたものであることが確認されており、これがいわゆる「桜前線」が成立する(=同じ条件の土地であれば各地で同時に開花する)理由であると言われている。ソメイヨシノ#繁殖 - Wikipedia

 
 南高梅がこの地で広く栽培されるようになったのは上記引用文にあるように農協が主導した「梅優良母樹調査選定会」の取り組みが大きなきっかけとなったわけですが、そこに至るまでには江戸時代から昭和中期に至るまでの長い梅栽培の歴史がありました。「ランドスケープ研究 78巻5号公益社団法人日本造園学会 2015)」に掲載された「和歌山県みなべ町における観梅の成立過程(七海絵里香、芝田忠典、大澤啓志)」に現在のみなべ町周辺地域での梅栽培の歴史がまとめられているので、少し長くなりますがここから関連部分を引用します。

(2)みなべ町の梅の栽培・観梅の変遷
(中略)
1)江戸期の梅林
 みなべ町における梅の栽培の起源は,江戸時代初期にまで溯る。すなわち,痩せた田畑に苦しむ農民の負担軽減のため,当地を治める田辺藩※4 安藤直次(1555-1635)は以前からあった「やぶ梅」に注目し,痩せ地でも育つ梅を植えさせたとされ,これがみなべ町での梅の栽培の始まりとされる※5。この「やぶ梅」は,日高郡の温暖な気候の下,庭等から逸出した梅の野生化個体群と考えられる。なお,みなべ町を含む和歌山県南部の最も古い産物記とされる紀州産物帳(1735)には,7 種類の梅が記されている。
 その後,1689年頃から埴田地区(町南端に位置)で梅干の加工が始まる。当時,埴田の梅干は江戸で人気を博し,江戸へ送られる樽には「紀州田辺産(隣接する田辺港より出荷したため)の焼き印が押されるまでにブランド化されていた。このため,埴田地区に梅が広く栽培されるとともに,埴田地区が海沿いの街道筋にあったことから,梅の花の名所として次第に知れ渡ることになる。例えば早くも18世紀初頭の紀行文に,三名部(南部)浦について「民家五六家とりまきて,みな梅なり」と記されており,梅栽培の定着が推察される。
 そして,1811年発行の紀伊国名所図会では,「埴田梅林」として「往還の左右および一村ことごとく梅林にして,花候には香気山野に満ちたり」と紹介される程,観梅の名所となっている。この名所図には海に続く平野に広がる梅林が俯瞰的に描かれており,「紀州田辺産」ブランドの梅干加工という経済力により,本来田畑であった低平地の農地の多くが梅林に転換されたことが読み取れる。
(中略)

2)明治期の梅林
 明治時代に入ると,国内各地で生糸産業が盛んになり,海沿いの平地に位置する埴田の梅林は,より経済力のある桑の木に植え替えられるようになる。
(中略)
 当時の農業の主は稲作であり,あくまで梅林は従として位置付けられ,稲作の不適地や川岸に植えられていたと考えられる。
 一方,それまでの埴田地区や谷口地区の低平地の梅の栽培に対し,1886年頃より晩稲地区で丘陵地の山林を開墾する形での梅の栽培が始められている。ただし,先の明治中期の地誌類では晩稲村の項で梅林については未だ触れられておらず,これは当初は十数アール程度の小規模なものであったためと考えられる。そして,1901年に内中源蔵(1864-1946)が一挙に4haの梅林を造成し,梅林経営を村人に広めたとされる。晩稲地区が選ばれた理由としては,先の内中源蔵が晩稲の下ノ尾地区の出身であったこと,また南部川の下流域で山が低く土質が梅の栽培に適していたためと考えられる。このように,それまで山林に覆われていた丘陵地において梅林を軸とした農業経営を着想して,当地で逸早く開墾を果たした先覚者の存在が挙げられる。
(中略)
 その後,晩稲地区に加工場が建てられ,梅の生産から梅干加工まで一貫した生産ができるようになる。これには1904年からの日露戦争で,軍需用の梅干の需要が高まった※6ことが追い風となったとされる。この晩稲地区の梅林の拡大を受けて,明治末年には「三鍋(みなべ)人会」と言う有志の会が組織され,観梅名所としての南部梅林の宣伝に努めている。
(中略)

3)大正~昭和初期の梅林
 1925 年になると先の三鍋人会の中心メンバーらにより新たに「三名部梅渓開発組合」が設立される。この組合の設立趣意書には,「この隠れたる花と実とを併せて世に出したい,換言すれば天下無双の大梅林を名勝として広く知って戴きたく,天下無双の品質と数量とを有する梅実を名産として広く認めて戴きたい。」と記されており,「名勝」すなわち優れた景色を見せる観梅に対する積極的な動きを認めることができる。また,花の名所化が梅の実の販売促進と連動している点が指摘できる。
(中略)

4)昭和中・後期の梅林
 戦中・終戦直後は食糧難の時代を迎え,梅栽培どころではなくなり,一旦は栽培量は大きく減少する。しかし,1954年に最優良品種として「高田梅」が選出されるとともに,食糧難の緩和により梅の栽培が回復し始め,1962年の酒税法改正による梅酒用青梅の需要の急増がそれを後押しした。さらに1965年に「高田梅」が「南高」として農林省に種苗登録され,以後南高梅」として高級梅干の不動の地位を確立していく。その南高梅の経済力もあり,従来の畑やみかん畑,さらに山間部の水田を埋め立てての梅林への転作が進み,1975 年頃からは西岩代,東岩代,西本庄,西垣内等での大規模な農業開発事業による梅林造成も行われてきた。そして町域全体に梅林が広がる中,南部梅林では1965 年に梅の里観梅協会が発足し,その頃から入園料を取る形での観梅に踏み切ったとされる。
(以下略)
和歌山県みなべ町における観梅の成立過程

※4 紀伊田辺藩は元和5年(1619)に徳川頼宣紀州藩主となった際、付家老となった遠江国掛川城主・安藤直次に現在の田辺市周辺にあたる3万8000石の所領が与えられたことによって成立した。代々の藩主には田辺城が与えられ、一定の範囲内で独自の藩運営が行われていたと考えられるが、公式には紀州藩支藩と位置づけられていたようで、江戸時代を通じて江戸城への単独登城が認められないなど独立した藩としての扱いはなされていなかった。明治維新後の慶応4年(1868)、明治政府によって独立藩と認められ和歌山藩から自立したが明治4年1871年)の廃藩置県で廃藩となり、田辺県を経て和歌山県編入された。紀伊田辺藩 - Wikipedia
※5 旧南部川村が平成13年(2001)に発行した「南部川村戦後五十年史 上巻」には次のような記述があり、安藤直次が梅栽培を奨励したというのはあくまでも伝承にとどまるもので、文献上明確な記録はないとされる。「元和元年(1615)紀州徳川家の家老より田辺城主となった安藤直次が、「領内に梅の栽培を奨励、梅畑には税を免除(ヤセ地、薮梅から)した」とも伝えられている。この話も定かでないが、この当時から梅がかなり栽培されるようになったのは事実である。(中略)文献に見えないが、「安藤直次が領内に梅栽培を奨励した」という話は否定もできないと思う。(中略)江戸中期以後、以上のように梅栽培農家が増加してきたが、残念なことに栽培面積や栽培農家数については全くわからない。米作中心の当時としては梅栽培は片手間で、ヤブ梅と称されるように、他の作物が植えられない地味の悪い地に植えたに過ぎなかったと考えられる。
※6 一説には、日露戦争の際に「日の丸弁当(弁当箱に白飯を詰めて中央に梅干しを一つのせた弁当)」が軍用食として用いられ、人々から「乃木大将」と呼ばれて敬愛された乃木希典(のぎ まれすけ 1849 - 1912)がこれを好んで食べたことからこの弁当が大衆に広まったとも言われる。
最高の贅沢はご飯に梅干の「日の丸弁当」⁈ │ レトロ雑貨のブログ

 

 また、みなべ町にある「梅の月向農園」が管理するWebサイト「なんでも梅学」の「みなべ町のおいたち」というページには、「南部川村うめ振興館(筆者注:現在のみなべ町うめ振興館)常設展示図録」をもとにした次のようなストーリーが掲載されています。

梅の里みなべ町のおいたち
農園のある和歌山県みなべ町は日本一の梅の里。
なんと全世帯の8割が、なんらかの形で「梅」に携っています。
今日は、その始まり~現在に至るまでの、生い立ちを見てみましょう!

 

梅のはじまり
江戸・元和5年(1619年)紀州藩主・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)のころ、南部(みなべ)の農民は、あまり米が育たない田畑と重い年貢(ねんぐ)に苦しんでいました。
これを見た南部地方を治める 田辺藩主・安藤帯刀(あんどうたてわき 筆者注:安藤直次は「帯刀」という官名を名乗っており、以後田辺の安藤家は「安藤帯刀家」と呼ばれるようになった)は、以前からあった「やぶ梅」に注目し、米の出来ないやせ地や、山の斜面に、生命力のある梅を植えさせ、年貢の軽減と、農作物の育成に努めました。
いつしか南部周辺に「やぶ梅」の栽培が広がっていきました。

 

やぶ梅「紀州田辺印」
やぶ梅」は果肉が薄く小粒でしたが農民の生活には大切な品でした。
果肉をこめかみに貼り頭痛を治したり、握り飯に入れたり、その価値は大きいものでした。
やがて梅干は、江戸で人気が出るようになります。
そこで、南部(みなべ)梅の良品なものだけを選び「紀伊田辺」の焼き印を押した樽(たる)に詰め、江戸へ送られ有名になりました。

 

紀伊名所図会」
江戸時代、南部の埴田(はねた)では、梅畑が一面に広がり「紀伊名所図会」に紹介されるほど、見事なものでした。
しかし、明治15年頃から盛んになった生糸(きいと)生産のため、梅は桑の木に植え替えられる様になります。
埴田を追われた梅は、やがて晩稲(おしね)熊岡の地で、南部梅林としてよみがえることになります。

 

「六太夫梅」
晩稲(おしね)に、太夫(ろくだゆう)という人がいました。やぶ梅改良を手がけた最初の人物です。
改良された梅は、実が大きく、紅がさして美しい色をしていました。
しかし干しあげると、種が大きく肉が薄くなるので商品にならず、日の目を見ることなく途絶えました。これが「太夫」です。
紀伊風土記」にあるように、当時、花梅は多く知られていましたが、実梅はまだ闇の中でした。

 

内本梅(南部の梅のルーツ)
太夫のような、実梅の改良に情熱をかける村人達の努力は、まだまだ続きます。
明治12年頃、内本徳松(うちもと とくまつ)は、晩稲で購入した山林に、良種の梅を見つけます。
これを母樹として繁殖させたのが「内本梅」です。
昭和11年には県の天然記念物に指定されました。

 

梅畑経営の始まり
梅干軍隊の常備食として需要が増えていきました。
晩稲(おしね)でも耕地を広げ、梅作りをする人々が登場します。明治20年頃、内本幸右ヱ門(うちもと こううえもん)が、晩稲に約15アールの土地を開墾し梅を植え、 翌年、内中為七(うちなか ためしち)もそれに続きました。(1アール=100平方メートルです)
人々の中傷にもめげず、黙々と梅を植え続け、実梅が育つ夢を見た二人でした。彼らこそ、梅畑経営の先駆者です。

 

内中源蔵(うちなか げんぞう)の事業
内中為七の長男、源蔵は紺屋(染め物屋)を営む青年実業家でした。時代を読み、梅栽培がよいと判断した源蔵は、明治34年、紺屋を廃業し、私財を投じて熊岡の扇山を買い取り4ヘクタール(400アール)の土地を開墾しました。
その開墾地に、内本徳松が発見した「内本梅」を植えつけました。また加工所を設けて梅の商品化にも着手。若き事業家の強い意志が、村の発展のきっかけとなりました。

 

南部(みなべ)梅林の基礎
内本源蔵の事業にならい、晩稲区長・高田久治郎(たかだ きゅうじろう)は、農家約200戸に区有林を20アールずつ分配し、開墾と植梅を奨励しました。村は今までの粗放(そほう)栽培から一変、管理栽培になり、梅蔵の数も増えていきました。
明治37年日露戦争の始まりと共に、軍用としての梅干の需要が急速に伸び、村中に内本源蔵に習う者が増え、晩稲・熊岡の山々に梅林が広がりました。

 

高田貞楠(たかだ さだぐす)
高田貞楠は村長の長男でした。温厚な人柄で家を守り、村を愛する日々を送っていました。
明治35年、自分の所有する約30アールの桑畑に、近所の人から購入した内中梅の実生苗(※)60本を植えました。(※実生苗(みしょうなえ)=種から発芽させ育てた苗)
その中に豊産で実が大きく、美しい紅がかかる優良種が一本あるのに気がつき、その樹を母樹として大切に育てました。
これが南高梅の母樹「高田梅」です。

 

南高梅の誕生
小山貞一(こやま ていいち)は農業経営の成功を夢見る青年でした。 昭和6年のある日、高田貞楠から門外不出の高田梅穂木60本を譲り受けました。
接木をしても半分も育たないという苦労を克服して栽培を続け、梅畑を広げていきました。
時は流れ昭和25年、村内では大勢の人々が参加した優良品種の梅捜しが始まり、小山貞一も選定委員として活躍します。
この結果「高田梅」が最優秀に選ばれ「南高梅」の名称で種苗名称登録されました。

 

「一目百万、香り十里」
早春のみなべは、日本一の梅の里にふさわしい見事な風景が見られます。
見晴らしのよい場所に立つと、はるか彼方の山々まで梅の花がおおい、甘酸っぱい香りが辺りの空気を包み込んでいます。
豊かな自然と先人達の努力が育んできたこの「みなべ」の風景は、これからも私達に、春の訪れを知らせてくれることでしょう。

梅の里みなべ町のおいたち|なんでも梅学

 

 こうした経緯を経て誕生した南高梅ですが、その種苗名称登録50周年を記念して「広報みなべ 平成27年(2015)12月号(発行:みなべ町)」に掲載された「南高梅誕生50年」という記事には、南高梅が種苗名称登録に至るまでの具体的な経過が下記のように紹介されています。

南高梅誕生の軌跡


内本梅
明治12年 実梅の改良に情熱をかけた晩稲(筆者注:おしね みなべ町の地名)内本徳松は、 山林から良種を見つけ、これを母樹として繁殖する。昭和11年、県の天然記念物に指定)

 

内中梅
明治20年 晩稲の内本幸二郎が晩稲字下の谷奥・関戸に内本梅を植栽し、翌年、内中為七も植栽する。

 

高田梅
明治35年 晩稲の高田貞楠は近所から購入した内中梅の実生苗60本を植栽し、その中に紅のかかる(筆者注:熟した果実の一部が赤く色づくことを指す)優良種を1本発見し、これを母樹とし繁殖する。

昭和6年 (筆者注:すじ みなべ町の地名)小山貞一は、高田貞楠から門外不出の高田梅の穂木60本を譲り受け、接ぎ木苗※7の育成に努力する。

昭和25年 当時の上南部農協谷本勘藏組合長の提唱で、梅の優良品種を統一するための「梅優良母樹調査選定委員会」を設立し、5年間の調査の結果、白玉梅改良内田梅薬師梅地蔵梅高田梅養青梅を選抜する。 その中でも「高田梅」は、最も風土に適した最優良品種と評価。

昭和38年 積極的に種苗名称登録を推し進めた竹中勝太郎は、地道な調査研究に携わった南部高等学校の先生や生徒に対する教育的な配慮から、南部高等学校の愛称にちなんで「南高」と命名したい旨を高田貞楠に伝え、了解を得て、申請者:高田貞楠名称「南高で出願する。

南高
昭和40年 「南高」が農産種苗法第9条の規定により種苗名称登録第184号で名称登録簿に登録される。
※7 栄養繁殖の手法のひとつで、実生で一定程度まで育った梅の木(これを「台木(だいぎ)」と呼ぶ。台木は梅以外を利用する場合もある。)の一部に切り込みを入れて、そこに維管束(いかんそく 水や栄養を運搬するための組織)がつながるように穂木を差し込んで固定した苗。台木が土壌から水や養分を吸収して効率的に穂木に送り込むことができるので、穂木が早く確実に成長する。成長した木は穂木の性質をほぼ完全に受け継ぐ。

広報みなべ|バックナンバー【#112から#219】 | みなべ町

 

 ちょうど南高梅種苗名称登録が出願されていた時期にあたる昭和38年(1963)に南部川村(当時)が発行した「上南部誌」には、梅の優良母樹選定に至る経緯がもう少し詳しく紹介されていますので、その一部を引用します。

  第一期に於ける梅栽培は面積の拡大と樹勢の伸長に重点を置いて、専ら量産本位の仕立であった。これは白干用にしたため、品質大小の区別はさして重要ではなかったので、昭和初期までは、収量を減ずるものとして整枝するのを笑った程である。従って豊凶の差がひどく、収入は一定せず、自由販売下に於ての価格安定には無策であった
(中略)
 鉄道の開通で青梅の出荷が盛んになり、大粒の改良種を栽植するようになり、剪定によって良果を生産する方向に着目し、技術は向上した。
(中略)
 其の後梅の植付は年毎に増加し、昭和9年では例年7千石のところ、この年1万2千石の収量で、1斗45銭の安値であった。昭和16年に至っては植付面積150町歩、この収量1万8,549石、村内で加工して1,112kgを産し、三分の一は軍部に供出した。
 第二次大戦後、追々食糧事情が緩和するにつれて販路が縮少されることになった。この難局を切り抜け、尚将来性のある経営に転換の必要に迫られ、一は生産品消費面の拡張に、一は一部梅園の他果樹への転換という二大目標を立て、消費面の拡張に於ては輸出振興を中心に加工法の研究改善、販売法の改善等の角度から、品質の優良、他産地より優位に立つためには、品種改良こそ第一であり、これによつて栽培面積を半減して、尚且収量を現状維持の計画をたてた。

昭和25年 委員選出、母樹選定の方法を協議。
  26年 候補母樹48系統を選出、個性調査の結果、第一次合格14系統とする。
  27年 更に10系統とする。
  28年 更に8系統にしぼる。
  29年 更に7系統として命名発表
      白玉梅薬師梅青玉梅養青梅改良内田梅地蔵梅南高梅
  30年 青玉梅を保留する。

 この梅の品種改良に当って、その功労者として忘れてならない人に南部高校教諭竹中勝大郎氏がある。同氏は南部川村の出身で早くから梅樹の研究に当り、地質風土に最も適合した品種改良と撰定に努力を傾けられた
(以下略)

上南部誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション(利用者登録により閲覧可能)

 

 また、この資料には優良品種として選抜された7種類の梅のうち青玉梅を除く6品種の特徴が表形式で紹介されています。これによると、南高梅よりも果実が大きく種も小さい養青梅(ようせいいうめ)※8という品種があったものの、肥沃な土壌が必要で、乾燥にも弱く集約管理が必要であることから、現地の環境に適し、管理も比較的楽に行える南高梅が最優良品種であると判断されたようです。
※8 養青梅は、後にニホンスモモ「笠原巴旦杏(かさはら はたんきょう)」と交配されて「露茜(つゆあかね)」という新品種を生み出した。これは、果実の重量が約70 gと非常に大きく、果肉が鮮紅色で、梅酒やウメジュースにした場合に紅色の美しい製品ができるという特徴を持っており、今後の発展が期待されている。露茜(つゆあかね) | 農研機構

 

品種名 A果実重量 B種子重量 B/A x 100 果の大きさ 熟期 耐病性
白玉梅 18.85g 2.62 14. 10% 中ノ下
改良内田梅 22.89g 2.09 9.13% 中ノ上 中ノ早
藥師梅 20.21g 3.25 16.08%
地藏梅 23.34g 2.4 10.28% 中ノ下
南高梅 28.57g 3.46 12.11% 中ノ上 中ノ晩
養青梅 31.30g 2.19 7.60%

 

品種名 樹勢 樹形 その他の特徴 適地
白玉梅 半円下垂 枝の着生粗、結果枝着生良好、枝上に小果散在 中山間向、降霜に強し
改良内田梅 枝の着生稍粗、結果枝密生、深根性、落果あり ヤセ地土浅き所、海岸地に用いらる
薬師梅 開直立 枝の生育盛、枝粗なるも結果枝の着生良好 低地壌土肥沃地向、乾燥地に不向
地蔵梅 開半円 結果枝多、枝群生、深根性、乾燥に耐、結実多 粘質壌土、平坦地、乾燥にも強い
南高梅 稍強 半円形 枝の着生組、結果枝多、収穫前落果稍多 中山地向、ヤセ地耕土浅所に向く
養青梅 半円 枝の生長力中庸、結果枝着生多、要集約管理 肥沃保水力ある壌土乾燥地に不向

 

 南高梅に関する紹介が長くなってしまいましたが、以上の事柄を人物に着目して整理すると、南高梅のおおもととなる一本の木(母樹)を発見した人物高田貞楠であり、その木を広く増殖し優良品種として育成した人物小山貞一、そしてこの地に適した最優良品種として南高梅を選抜し、国の種苗名称登録を得ることによって他産地との差別化・競争力強化に結びつけた人物竹中勝太郎であったということができます。
 そして、このとき国に登録された種苗の名称である「南高(なんこう)」は、一般的には竹中勝太郎が園芸科の教師として勤務し、その学生や他の教員が品種選抜に大きな協力を行った(5年間にわたって行われた品種選抜にあたり、栽培管理や比較試験の中心となった)学校の略称である「南高(なんこう 校)」を示すものであるとされていますが、これに加えて発見者である「部の田氏」にちなんだものでもあると言われています。

 

 このように南高梅の誕生に大きな役割を果たした三人のキーパーソンについて、先述の「なんでも梅学」というWebサイトでは次のように紹介されています。

高田 貞楠(たかだ さだぐす)
高田梅の発見者

1885(明治18)年6月17日、高田貞楠上南部村長の長男として生まれました。
明治35年、自分の所有する桑畑を梅畑にしようと考え、近所の人から内中梅の実生苗60本を購入して、約30アールの畑に植えました。
その中に、ひときわ豊かに実り、大粒で美しい紅のかかる優良種が一本あることを発見しました。
貞楠は、これを母樹として大切に育て「高田梅」の基礎をつくりました。
後に、この母樹の枝を穂木として譲り受けた小山貞一によって、高田梅は受け継がれ「南高梅」として世に知られることになりました。
現在も、この樹齢百年近い南高の母樹は、私たちにその元気な姿を見せてくれています。
高田貞楠|なんでも梅学

 

小山 貞一(こやま ていいち)
高田梅の育ての親

小山貞一は、1909(明治42)年3月8日に小山家の長男として生まれました。
農業経営の将来を梅栽培に託し、優良品種の梅を捜していた貞一は、 昭和6年高田貞楠から門外不出の高田梅の穂木60本を譲り受け、 苦労を重ね高田梅の育成に努力します。
昭和29年、優良母樹調査選定委員会の委員に選ばれた貞一は、 選定調査でも活躍し「南高梅」誕生の一翼を担います。
その後、果樹専業経営に切り替えた貞一は、仕事の単純化、機械化、技術化を3本柱とし、農園の事業化に成功。これが南部川村の梅栽培を推進させる大きな力となり、 飛躍的に発展させました。
昭和55年、貞一の梅栽培への貢献を称えて、和歌山県から農民賞が贈られました。
小山貞一|なんでも梅学


竹中 勝太郎(たけなか かつたろう)
高田梅の名づけ親

1910(明治43)年生まれの竹中勝太郎は、南部川村(現みなべ町出身で和歌山県立南部高等学校の教諭でした。
園芸科の主任教師として教鞭を執るかたわら、梅樹の研究を続けていた勝太郎は、地質風土に最も適合した梅の品種改良と選定に努力を傾けました。
教育者としての広範な見識と、研究者として蓄積された知識、そして深い郷土愛が、南部川村に適した梅の優良母樹を見つける大きな力になりました。
昭和25年「梅優良母樹選定委員会」の委員長に就任した勝太郎は、南部高校園芸科の生徒達を実習指導しながら、村内の優良な37品種を5年間にわたり粘り強く調査しました。そして最も優秀な品種を選定し、積極的に種苗名称登録を推し進め「南高」と命名
全国の梅の産地を熟知していた勝太郎は、郷土の誇る傑出した品種の名の名づけ親ともなった人間味あふれる教育者でした。
竹中勝太郎|なんでも梅学

 

 自ら農園主として優良な梅の育成に生涯にわたって尽力された高田貞楠小山貞一の遺志は現在も脈々と受け継がれており、それぞれ「紀州南高梅発祥農園 たかだ果園」「南高梅専門店 株式会社小山農園」として梅の生育や梅干しの生産に取り組まれています。

たかだ果園 | 南高梅発祥農園 | 和歌山県

南高梅干し専門店(株)小山農園

 

 また、高田貞楠が発見した南高梅(発見当時は「高田梅」)母樹は、昭和53年(1978)にみなべ農業協同組合(現在のJA紀南)に贈られて、同農協の玄関前に植えられていましたが、令和2年(2020)にたかだ果園に「里帰り」しました。このときの記念式典には小山貞一の三男・小山豊宏氏も出席して「老木であるし、生まれ育った地に里帰りし、余生を過ごすことが最良ではないかと考え、JA、高田さんと話し、里帰りに至った。南高梅はすべてこの一本から広まったもの。そのことを再確認してほしい」と語ったと報道されています。

www.agara.co.jp

 

 

 竹中勝太郎が勤務した和歌山県立南部高校園芸科は現在「食と農園科」に改組されていますが、その中に設けられている「園芸コース」では勝太郎の志を受け継いで梅栽培のスペシャリストを養成するためのカリキュラムが設けられており、販売実習を通して消費者の求める農産物を学習するなど、全国的に見てもユニークな教育が行われています。
食と農園科 | 和歌山県立南部高等学校

 実務教育出版が平成16年(2004)に発行した「農業教育資料 53号」に掲載された和歌山県立南部高等学校教諭(当時)緒方政仁氏の「目指せスペシャリスト -南部高校の取り組み-」という記事には次のような記述があり、南高梅の選抜にあたって同校が果たした役割を紹介するとともに、これ以後も同校が南高梅の課題解決に大きな役割を果たしていることがあわせて紹介されています。

 また梅の主力品種である『南高梅』は,南部高校の通称名でもあり,梅と本校との関わり合いも大変深いものがある。
 その関わり合いとは,昭和25年に,この地域で,これまでいろいろな品種の梅を栽培していたが,そのなかで,一番優秀な品種の梅を選抜しようということになった。そして,優良母樹調査選定委員会が発足し,小山貞一氏,竹中勝太郎(当時南部高校園芸科教諭)先生等が中心となり優良母樹の選抜にあたられた。この優良母樹の選抜に南部高校の農場や園芸科の生徒が積極的に参加した。昭和27年には114系統を14系統に選抜し,昭和30年に6品種に選抜した。その後,最も優秀な1品種を選抜し,品種名を「南高梅」とした。
 名前の由来は,南部高校の園芸科の生徒や農場が深くかかわったということで南部高校の通称名の「南高」と,この母樹が,南部川村の高田貞楠さんの農園のものであるということ南部川村の高田さん)で,品種名を「南高梅」とすることが決定された。そして昭和40年に「南高梅」の品種登録の認可がおりた。
 昭和40年以降,南高梅がこの地域の奨励品種となり,南高梅の栽培面積がだんだん拡大していった。しかし,栽培面積が増えるに従って,昭和50年頃より通称「うそ南」と呼ばれる株が出始めた。これは,南高梅は自家受粉はしないが品質がよく,収量が多いという系統なのだが,収穫量(受粉樹がそばにあるにもかかわらず結実しない)の少ない株が見受けられるようになった。
 このことにも本校の谷口充(果樹担当)先生が中心となり,農業科・園芸科の生徒の卒業研究(現在の課題研究)等で取り組んだ。そしてその結果,南高梅は接ぎ木で株を増やすのだが,その接ぎ木の台木に問題があるということがわかった。そのため,接ぎ木の台木に使う実生台木を選抜し,雑種強勢化した個体を選ぶことによりある程度問題が解消された。こういったことから,本校で接ぎ木をした南高梅の苗は品質的に優れているということで,予約販売をしなければならない状態となっている。
(以下略)
農業教育資料53号(2004年9月25日発行)|じっきょう資料|農業|ダウンロード|実教出版ホームページ

 


 この地域における梅栽培は、もともと「やぶ梅」と呼ばれた耕作不適地での栽培から始まったと伝えられているように様々な工夫によって代々受け継がれてきました。
 里山の斜面を利用し、周辺に紀州備長炭の原料となるウバメガシなどの薪炭林を残すことで水源の涵養や崩落防止等の機能を持たせるとともに、梅花の受粉に欠かせないニホンミツバチとの共生を図るなど、この地方特有の農文化のあり方は国際的にも高く評価され、平成27年(2015)、国連食糧農業機関(FAO)によって「みなべ・田辺の梅システム」として「世界農業遺産(GIAHS)」に認定されました。
みなべ・田辺の梅システム 世界農業遺産認定 | みなべ町

 

 令和5年(2023)4月現在、我が国で世界農業遺産に認定されているのはわずかに13か所であり、その一つに「みなべ・田辺の梅システム」が選ばれたことはおおいに誇るべきことであると思われます。
世界農業遺産とは:農林水産省