生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

紀州藩と坂本龍馬(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前項では勝海舟(かつ かいしゅう)がたびたび和歌山を訪問していたという話を紹介しましたが、今回は海舟の門下生であった坂本龍馬(さかもと りょうま)が和歌山の海舟のもとを訪れていたという話を紹介します。この時期、龍馬海舟紀州藩を巻き込んだ「日本最後の仇討ち」に関わっていたとされており、また、龍馬は幕末の紀州藩に大きな影響を与えた事件の中心人物となったのですが、これらについてもあわせて紹介したいと思います。

坂本龍馬 出典:Wikimedia Commons

 坂本龍馬(さかもと りょうま 1836 - 1867)は、明治維新に大きな役割を果たした志士(しし 国家、社会のため自分の身を犠牲にして力を尽くそうとする者)として良く知られる人物です。その生涯について高知市のWebサイトでは次のように紹介されています。

 土佐が生んだ幕末の英雄,坂本龍馬天保6(1835)年11月15日,郷士(筆者注:ごうし 武士の身分を有する農民や町人、在郷武士)の二男として高知城下の本丁筋(現在の高知市上町)で生まれました。幼少の頃は,泣き虫とからかわれましたが,剣術修行に励み次第に成長していきます。
 文久元(1861)年,土佐の親友・武市瑞山(半平太)が結成した「土佐勤王党」に加盟しましたが,急進的な攘夷論に同意できずに土佐を脱藩。その後,近代国家誕生を目指して奔走し,「亀山社中※1」の設立や「薩長同盟」の斡旋,「大政奉還」の推進,「船中八策※2」の提唱など,歴史的偉業を成し遂げました。しかし,慶応3(1867)年11月15日,京都近江屋で土佐の盟友・中岡慎太郎とともに襲撃され,明治維新を見届けることなく闘死しました。33歳の若さでした。
 幕末の動乱の中,大胆な発想力と行動力で時代を切り開いた龍馬の生き様は,現在でも多くの人の心をとらえています。
坂本龍馬 - 高知市公式ホームページ
※1 「日本初の商社」とも呼ばれる貿易会社であり、政治結社としての性格も有していた。後に土佐藩の附属機関となり「海援隊」と改称される。亀山社中・海援隊 | 坂本龍馬人物伝
※2 龍馬が起草したとされる新国家体制の基本方針で、長崎から兵庫へ向かう船の上で後藤象二郎に示したものとされるためこの名がある。しかし、近年では「船中八策」の存在そのものに否定的な見解が多くなってきている。船中八策#研究 - Wikipedia

 

 歴史上の人物の中でも群を抜いて絶大な人気を誇る坂本龍馬ですが、現在巷間に伝わる龍馬の人物像は作家・司馬遼太郎氏の小説「竜馬がゆく」によって形成されたものが多いようです。高知県立博物館のWebサイトにある「龍馬FAQ」というコーナーには次のような問答が掲載されており、司馬氏自身は、小説に描いたのは「僕のリョーマ(竜馬)」であり実在の人物である「龍馬」とは異なる、という趣旨の発言を行っていたと記されています。

坂本龍馬の名前の表記が「龍馬」と「竜馬」とあるのはなぜですか。

 当館では、龍馬自身が「竜」の字を用いたことは一度もないので、「竜馬」という表記は絶対にしないようにしています。しかし、新字体として制定されているのは「」ではなく「」の方なので、教科書や新聞などでは、「」の字を使うことがあると思います。当館はこだわって「龍馬」と表記していますが、歴史上の人物すべてを旧字で表記することは不可能ですので、他の人物の場合は新字体で表記することもあります。
 「竜馬」が一般的になったのは、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の影響だと思います。司馬氏は「小説の中では僕のリョウマを動かすのだから竜馬にした」と語っておられたそうで、実在した龍馬架空の竜馬を漢字によって区別したそうです。
龍馬について 一覧|高知県立坂本龍馬記念館

 

 上記で紹介した高知市のWebサイトにあるように龍馬はいったん過激な尊王攘夷思想を掲げる「土佐勤王党」に参加しますが、やがて武市瑞山との考え方の相違から独自の道を歩むことなり、文久2年(1862)3月に土佐藩を脱藩しました。その後の行動の詳細は不明ですが、この年の12月には幕政改革を進めていた幕府政事総裁職松平春嶽(まつだいら しゅんがく 前福井藩主 慶永(よしなが)とも)※3と出会っており、春嶽から勝海舟を紹介されたことが後の龍馬の人生に大きな影響を与えることになります※4
※3 松平慶永|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
※4 一説には、春嶽の紹介状を携えて最初に海舟のもとを訪れたとき龍馬は返答次第で海舟の命を奪うことも考えていたとされるが、真偽のほどは不明。坂本龍馬-歴史上の実力者 - 刀剣ワールド

 

 龍馬海舟という人物に非常に感服したようで、ただちに海舟の弟子となりました。上記※4のリンク先記事にあるように、文久3年(1863)3月20日付けで姉・乙女にあてて送った手紙には「今にてハ 日本第一の人物 勝憐太郎殿 という人に でし(弟子)になり、日々兼而思付所をせいと いたしおり申候※5(カッコ内は筆者による)」とあり、海舟を「日本第一の人物」と評しています。
※5 坂本龍馬の手紙/文久3年3月20日付坂本乙女宛 - Wikisource

 

 

 さて、そんな龍馬が和歌山を訪れたのは上記の手紙を書いた翌月、文久3年(1863)4月のことでした。
 龍馬は、幕府の要職にあった大久保忠寛(おおくぼ ただひろ 一翁(いちおう)とも 当時は大政奉還などを献策したことにより謹慎を命じられていた)から京にいるはずの春嶽あての書簡を預かり、これを届けるために江戸から大坂へと船でやってきました。ところが、そこで春嶽が福井へ帰ってしまっていたことを知らされた龍馬は、すぐに福井には向かわず、和歌山に出張中であった師・海舟のもとを訪れました。この前後の状況について、個人ブログ「歴史ブログ「幕末のメンター 勝海舟の生涯に学ぶ」(開設者:lintaroo氏)」では次のように記されています。

【龍馬、大久保忠寛に学ぶ】
 3月末から4月にかけては和歌山に出張します。紀州藩から海岸防備のアドバイスを求める依頼があったからです。その出張先のの許に坂本龍馬が現れます。
 この時、龍馬はすでにの周旋のおかげで土佐藩から脱藩の罪が許されており(2月25日)、翌月6日には藩命により安岡金馬らと共に航海術修行を命じられています。こうして今や師となったの指示を受けて色々な立場の人物に会いに出かけています。文字通り席を温める暇もなく西へ東へと駆け廻る日々でしたが、この頃は龍馬にとっては充実感に溢れる日々であったでしょう。

 紀州まで追いかける前、江戸にいた龍馬は4月2日、前年秋に追放処分を受け第一線を退いた大久保忠寛を訪ねています。龍馬忠寛に会うのは、恐らくこの時が初めてです。この日、龍馬沢村惣之丞ら四人と一緒に大久保邸に向かいました。忠寛に京の情勢を知らせるために龍馬らを向かわせたたのでしょう。
(中略)

【勝の片腕として行動する龍馬】
 龍馬大久保忠寛から松平春嶽宛ての手紙を託されました。この時点ですでに春嶽は国許の福井に帰ってしまっていましたが、事情を知らない忠寛はまだ京にいると考えていたのでしょう。
 翌4月3日、龍馬順動丸に乗り、上方に向かいます。大坂に着き、が和歌山に出張していることを知ると龍馬はその足での宿泊先となる福島屋を訪ねました。そこで一つのエピソードが生まれました。龍馬は当時としては大男であったのですが、そのためか宿の風呂桶を踏み抜いたという言い伝えが残されています。
 旅宿でと出会い、師弟間でどのような会話が行われたのかはわかりませんが、その後龍馬は師と共に大坂に戻ると、福井に向けて出立します(同月16日)が書いた越前藩士村田氏寿(うじひさ)宛の手紙と忠寛から預かった春嶽宛ての手紙を届けるためでした。
海舟ブログ 第110話 理想-挙国一致の海軍建設 その7 | 歴史ブログ 「幕末のメンター 勝海舟の生涯に学ぶ」

 

 こうした龍馬の動向は海舟の日記にも記載されているようですが、筆者は原典未確認のため、この旨が記載されている個人ブログ「紀行歴史遊学(開設者:玉山氏)」から該当部分を引用します。

 そのような中、(筆者注:文久3年(1863)4月)10日付けの『海舟日記』に、当時は無名、今や国民的スターとなった人物が登場する。

 

藩人一両輩来たる
伝法の館にて、久野氏に友島炮台并海軍の事を談す
坂本龍馬大坂より来る

 

 龍馬は、一翁から託された手紙を、京都に滞在している春嶽に届けようとしていた。4月3日に江戸から順動丸という幕府保有の蒸気船に乗り、9日に大坂に着いた。師匠である海舟のもとに立ち寄ったのが10日である。国事についてさまざまに語り合ったことだろう。役目を終えた海舟は13日に和歌山を離れた。同日付けの『海舟日記』である。

 

夕刻、小船にて紀の川より大坂江出帆、同夜内海を乗る

 

そして16日、『海舟日記』にもう一度龍馬が登場する。

 

龍馬越前江出立、村田江一封を遣す

 

京都にいると思っていた春嶽はすでに帰国していた。そこで、龍馬は越前に向かったのである。
海舟と龍馬が語るこの国のかたち - 紀行歴史遊学

 


 上記「幕末のメンター 勝海舟の生涯に学ぶ」では龍馬海舟が和歌山でどのような会話が行われたのかは不明としていますが、実はこのとき、和歌山では二人が深く関わっていた「仇討ち(あだうち)※6」の話が進んでいました。
※6 「敵討(かたきうち)」とも。主君や直接の尊属(父・母・兄など)を殺害した者に対して私刑として復讐を行った日本の制度。江戸時代には殺人事件の加害者に対して公権力に代わって処罰を行うものとして制度化されており、適切な手続きを経ていれば仇討ちによる殺人は処罰の対象とならなかった。敵討 - Wikipedia

 

 「日本最後の仇討ち(「日本最後」とされる仇討ち事件は他にもある。詳細は後記※7参照。)」とも呼ばれるこの事案について、「高知市龍馬の生まれたまち記念館」の「学芸員エッセイ」という項では次のように紹介されています。

龍馬・海舟・廣井磐之助
(略)
 磐之助(いわのすけ)は、天保11(1840)年、小高坂村(現・高知市大膳町〈だいぜんちょう〉)に生まれました。幼名は「熊太郎」と言います。幕末動乱に政治的な意味では関わっていませんが、「仇討ち」で有名な人物です。しかも、この仇討ちの過程で龍馬勝海舟とも接点を持っていました。
 安政2(1855)年10月、土佐藩の軽格(身分の低い武士)であった磐之助の父が、藩士棚橋三郎によって殺害されるという事件が起きました。棚橋は、酒に酔って磐之助の父にからみ、海に突き落として溺死させてしまったのです。この事件により、棚橋藩外追放の罰を受けましたが、現在とは違って「喧嘩両成敗」の時代。被害者であるはずの廣井家も、家名断絶の処分が下されてしまいました。
 父を殺した犯人への仇討ちを決意した磐之助は、その後居合を学び、棚橋探しの旅に出ます。しかし、その際に関所破りの罪を問われて捕えられ、以後3年にわたって謹慎の身となりました。文久3(1863)年、今度は槍術修業の名目で出国し、伊予、讃岐、播磨、摂津などの諸国を訪ねまわるのですが、なかなか棚橋は見つかりません。しかし、大坂に滞在中の龍馬と会ったことで、その後の展望が開けることとなります。
 龍馬はこの頃、幕臣軍艦奉行勝海舟の門下となって操船術等を学んでいました。事情を聞いた勝は、その立場を生かして「仇討ち免状」を書き、各所に情報網を敷きます。これが実って、棚橋紀州(現・和歌山県に潜伏していたことが判明すると、紀州藩に依頼して、その身柄を同藩から追放するように仕向けました。そして、磐之助は、紀州と和泉(現・大阪府の国境で棚橋を待ち構え、決闘の末、ついに本懐を遂げたのです。父を殺されてから、足掛け9年の長い旅が終わった瞬間でした。この決闘が行われた場所(現・大阪府阪南市には、それを示す石碑も建っています。
学芸員エッセイ その30「龍馬・海舟・廣井磐之助」 | 龍馬の生まれたまち記念館

 

 この仇討ちについて、田中光(たなか みつあき 1843 - 1939 土佐勤王党に参加した後、明治以降は陸軍少将や警視総監などの要職を務めた)が中心となって編纂した「維新土佐勤王史(編:瑞山会 出版:富山房 1912)」には次のように記されており、龍馬が描いたシナリオに基づき、海舟がその人脈を生かして準備万端を整えたものであるとしています。

(略)
(筆者注:磐之助の)いと憐れなる身の上に、坂本も深く動かし「龍馬きっと請合い申す」と、に紹介して之を門生の中に加え、更により若干の旅費と左の一紙とを与え、仇を見当るとも心速るべからず、必ず其の筋に訴えて処分を請うべしと戒めぬ。

 

拙者門人 廣井磐之助と申す者、父の仇有之候に付、右見当り次第打果させ候間、万事御法のとおり御差配下さるべく候 以上※7

 

 また大阪西町奉行 松平大隅の門弟なれば、町奉行の手にて其の者の所在を探知し、之をの許に報ずるや、之と同時に磐之助もまた帰り来りて坂本に告る所あり。此は最初坂本が敵の在り家を突き止めたらば、先づ来りて我に告げよと云いしが為なり。
 当時 紀藩(筆者注:紀州藩のこと)は朝命を奉じて、砲を加田(筆者注:加太のこと)に築く土工あり。しかして彼の三郎(筆者注:磐之助の仇・棚橋三郎のこと)は、零落して黒鍬組(筆者注:くろくわぐみ 土木工事を行う技術・労務職集団)に入り、江戸の松兵衛と変名して、役夫の中にまじり立ち働き居たり。
 坂本に説き、紀藩をして三郎を捕え、之を国境の外に放逐せしめん※8と。即ちの塾頭 佐藤與之助田中庄蔵、及び千屋寅之助新宮次郎をして、往きて之を紀藩に講わしむ。
 また坂本の注意により、三郎に與えて勝負を決せしむべき一刀をも準備し、仇にも士人たるの体面を保たしむる事にし、即ち此の年七月二日※9を以て、磐之助は尋常に名乗りかけ、三郎と立合い、首尾よく之を斬り倒し、其の首を揚げし後、自訴して出でたるは、即ち文久の三年六月朔日の事にして、是れ坂本伝中に在る唯一の復讐談なり。
(以下略)
※筆者注:読みやすさを考慮して漢字・かなづかい等を適宜現代のものにあらためた

維新土佐勤王史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(国立国会デジタルコレクションの閲覧には無料の利用者登録が必要。以下同様。)

※7 この書面の末尾には「軍艦奉行 勝麟太郎(判) 各国役人中」との記載があり、公文書としての体裁を有している。本件が「日本最後の仇討ち」と呼ばれることがあるのは、この海舟の書面を「公的な仇討免許状」とみなして、これをもって「公式な許可を得て行った仇討ちとしては日本最後のもの」と位置づけられているからである。なお、「日本最後の仇討ち」と称される事案は他にもあり、これらについては別項「最後の仇討ち ~九度山町河根~」において詳述しているのでこちらを参照されたい。
※8 仇討ちが公式に禁止されたのは明治6年の「敵討禁止令(かたきうちきんしれい)」によるが、幕末には既にこれが忌避されていたようで幕府が公的な仇討免許状を新規に交付することはなく、御三家のひとつである紀州藩もこの方針に基づいて領内での仇討ちを認めることはなかった。このため、の一存で一書をしたためてこれを免許状とし、紀州藩に働きかけて棚橋を領内から追放して大阪町奉行(西町奉行と東町奉行が1か月ごとに交代する月番制であったが、上述のとおり当時の西町奉行は勝の門弟であった)が管轄する和泉国へ移送したうえで仇討ちを実行することとしたものである。
※9 現在、一般的には仇討ちが行われたのは6月2日のことであったとされているが、これは磐之助の自記とされる「復讐録」の記述によるものと思われる。同書は「土佐國群書類従 第6巻(傳記部) (編:吉村春峰編 出版:高知県立図書館 利用案内│オーテピア高知図書館│オーテピア)」に収録されているが、筆者は未確認。また、6月3日付けの「海舟日記」には次のように「一昨日」のことと記されており、これに従えば6月1日、即ち上記引用文にある六月朔日(朔日は1日のこと)」の出来事とも読める。「廣井岩之助復讐、一昨日、和泉山中村にて本意を遂げたる趣 佐藤 千屋より聞く。且、此事によつて、紀州家の事を執りし者え、礼状並粗品を送り、其労を謝す。廣井生は、堺奉行え訴出たり。同所奉行へ、糺濟の上引渡とらせべき旨、頼遣す。解難録・建言書類 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 この仇討が行われたのは、現在も和歌山県大阪府との県境となっている「境橋(さかいばし)」のたもとであったと伝えられており、上記「学芸員エッセイ」にも記されているように同地にはその旨を記した石碑が建立されています。

 

 

 さて、坂本龍馬はもうひとつ紀州藩との間で大きな事件の当事者となっています。それが、日本初の海難審判事故と言われる「いろは丸事件」です。

 

 これは、龍馬率いる商社・海援隊伊予大洲藩から借り受けた蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海で紀州藩の大型蒸気船「明光丸」と衝突した事故がきっかけとなったものですが、この事故の責任の所在と賠償のあり方を巡って龍馬紀州藩を相手に卓越した交渉術を発揮しました。日本銀行高知支店のWebサイトではこの事件の概要について次のように記しており、結果的に紀州藩は7万両(同支店によれば、これは現在の貨幣価値に換算すると約164億円)という巨額の賠償金を支払うことになったとされます。

 “いろは丸”は龍馬などの口利きにより、1866年、伊予大洲藩がオランダ商人ボードウィンから42千両で購入した160tの蒸気船です※10。「いろは丸」という名称は龍馬命名です。1867年4月19日(龍馬33歳)海援隊は15日につき500両という契約で船を借り、龍馬以下、主な海援隊士が乗り組み、諸藩に売るための商品を積み、長崎を出港して大阪方面を目指しました。
※10 近年の調査では、イギリスで建造された「アビゾ号」を薩摩藩が購入し「安行丸」と名付けて運航していたが、この船を後に大洲藩ポルトガル人商人ロウレイロを通じて譲り受け、「いろは丸(以呂波丸)」に改名したとされる。この際大洲藩長崎奉行所への届け出を怠っていたため、後日書類を偽装してボードウィンから購入したものとして届け出を行ったと考えられている。いろは丸 #年譜- Wikipedia

 

 長崎を出港したいろは丸は、馬関海峡(筆者注:関門海峡の別名)を経て瀬戸内海に入り、讃岐国箱ノ岬と六島との間を東の方向に航行していましたが、23日の午後11時頃、瀬戸内海を逆方向に航行中の明光丸紀州和歌山藩1864年にイギリス商人グラバーから購入した887tの大型蒸気船)と衝突しました。“いろは丸”はもともと重量が明光丸の6分の1しかありません。明光丸が一旦、後退した後、操作を誤って再度、衝突したこともあって船は大破、乗組員全員が明光丸に乗り移った後、備中・宇治島沖に積み荷と共に沈みました。
 龍馬ほか乗組員は鞆ノ津(現広島県福山市に上陸し、その後は紀州和歌山藩、五十五万石を相手に賠償交渉を行いましたが、鞆ノ津では決着が付かず、舞台は長崎に移りました。海援隊龍馬ほか幹部が対応、当時の国際法である「万国公法」を準用しつつ、航海日誌や海路図などから双方の責任について議論を交わしました。当初は海援隊紀州藩との談判でしたが途中から土佐藩の幹部(参政)後藤象二郎が加わり、土佐藩紀州藩という藩同士の事件となりました。その後、薩摩藩五代才助のサポートもあり、後藤象二郎紀州藩勘定奉行茂田一次郎との6月の会談で、83,526両という巨額の賠償金の支払いに茂田が同意しました(再交渉ののち減額されて70,000両)
坂本龍馬とおかね(いろは丸賠償金83,526両)|日本銀行高知支店

 

 賠償金の交渉にあたり、龍馬らは万国公法※11に則り事故の責任は全て紀州藩明光丸にあり、いろは丸の船体及び積荷の重火器や金塊などの全額を紀州藩が賠償すべきと強硬に主張し、結果的に全面的勝利を得たのですが、近年の潜水調査では大量に積み込まれていたとされる重火器や金塊などの類は全く発見されておらず、こうした主張は龍馬の「はったり」であったと認められるようになってきました。
【関西歴史事件簿】坂本龍馬・いろは丸事件(中) 崩れる龍馬のイメージ…国際法タテに1万両要求した〝銭ゲバ〟ぶり、紀州藩の無知につけこむ(1/3ページ) - 産経ニュース
※11 「万国公法(ばんこく こうほう)」とは、第一義的には国際法学者ヘンリー・ホイートンによる国際法の解説書Elements of International Law」の漢語訳書の題名を指し、転じてこの書で解説されている国際法の概念(主として自然法に基づく紛争の解決手法)を意味するものとなった。日本では原書より前に漢訳書が紹介され、勝海舟坂本龍馬もこれを読んでいたとされる。龍馬紀州藩との交渉の際に「世界の公法をもって決談致すべし(「南紀徳川史 第4冊」南紀徳川史刊行会編 1931)南紀徳川史 第4冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション」等と述べたと伝えられており、これが万国公法の概念を紛争の解決手法として取り上げた我が国最初期の事例であると言われる由縁である。しかしながら、「万国公法」とは前述のようにあくまでも概念を示すものであり具体的な条文が定められているものではなく、また後述のように最終的には武力を背景にした強引な決着が図られていることから、本件交渉が「万国公法に基づいて決着した」とするには無理があると言わざるを得ない。

 

 こうした状況について、京都先端科学大学人文学部佐々木智帆氏は「坂本龍馬といろは丸事件-交渉過程の復元と分析-(「人文学部学生論文集」京都先端科学大学 2020年度)」において次のように記しており、結果的には理屈ではなく海援隊側の強引な交渉姿勢が紀州藩を押し切ったものであると結論づけています。

(略)
 両者の交渉過程を比較した結果、当時の審判は具体的な規則に則り行われておらず、両者の重役のみの示談となり、結果的に紀州藩が賠償金を支払うことで決着がついていた。本来であれば規則上、紀州藩側に勝算があるはずだが、同規則に倣った高柳の指摘により、海援隊自分達が不利であることを認識し、争点から公法を取り下げると、藩同士の戦争を仄めかした脅迫に転換し、紀州藩重役の茂田一次郎を萎縮させることで事件を強引に解決しようとしていた。その結果、茂田の温厚な姿勢や独断及び、海援隊側の世論操作※12も相まったことが海援隊を勝利へと導いたのだろう。また、両者の交渉過程を比較していくと、紀州藩史料には、海援隊史料では不記載の記述が多く見られることが分かり、海援隊側が自分たちにとって、都合の悪い記述を省き印象操作を図ろうとしていたことが考えられる。

 近年では、先行研究によって、海援隊側の非が明らかになりつつあるが、一般的な観点から見ると、坂本龍馬が関与する海援隊側に注目が集まりやすいため、紀州藩史料より海援隊史料が重視される傾向があり、間違った情報が広まっている。いろは丸事件を観光振興に取り入れている鞆の浦においては、第二章既述の通り真偽が不明である福禅寺を交渉地としており、観光名所のいろは丸展示館においても、海援隊史料を重視し紀州藩に過失があったとする解説がされている。そのため、観光と歴史研究が両立しておらず、間違った歴史が定説となっている可能性も高いため、いろは丸事件及び、歴史研究において、一部の史料のみを鵜呑みにすることは、間違った情報を受け取りやすいため、相手側や第三者などの史料と共に比較し分析することが大切である。
(以下略)
2020年度 :: 人間文化学会

※12 龍馬は「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」という俗謡(「よさこい節」の替え歌とも)を作り、交渉場所であった長崎で流行らせた。この歌は丸山遊郭の遊女たちの間から次第に長崎の庶民にも広まったようで、紀州藩に全責任を負わせようと画策していた龍馬の世論操作の一環であったとされる。龍馬は大ウソつきだった?激昂したふりして裏で入れ知恵、交渉有利に進める「名役者」ぶり | ビジネスジャーナル

 

 このようにして紀州藩から巨額の賠償金を巻き上げた龍馬ですが、7万両の賠償金が紀州藩から土佐藩に支払われたわずか8日後に暗殺事件が起こり、龍馬は33歳でその生涯を閉じました
 この暗殺事件の真相は現在も不明のままであり、その黒幕として土佐藩薩摩藩紀州藩幕府説など様々な説が流布されています。これに対して、龍馬を失った海援隊の中では多額の賠償金を支払わされて体面を失った紀州藩の仕業に違いないとの意見が持ち上がり、一部の隊員がその首謀者と目されていた紀州藩士・三浦休太郎を襲うという事件天満屋事件※13を起こします。
※13 天満屋事件 - Wikipedia


 この襲撃事件の首謀者が後に「カミソリ大臣」と呼ばれ明治政府で不平等条約改正に尽力したことで知られる陸奥宗光(むつ むねみつ 1844 - 1897 当時の名前は「陽之助」)※14であったのですが、彼もまた紀州藩士の息子で和歌山生まれの人物であり、ここでも龍馬と和歌山との因縁は非常に深いものがあると見ることができます。
※14 陸奥 宗光 | 和歌山県文化情報アーカイブ

 

 ところで、紀州藩が支払った7万両という多額の賠償金龍馬の死により宙に浮くこととなってしまったのですが、その後、この賠償金がどこへ行ったのかは明らかになっていません
 しかし、龍馬とともに紀州藩との交渉に大きな役割を果たした後藤象二郎(ごとう しょうじろう 1838 - 1897)※15が龍馬亡き後の海援隊を「土佐商会」に改め、後にこれが岩崎弥太郎(いわさき やたろう 1835 - 1885)※16のもとで「九十九(つくも)商会」、「三菱商会」へと発展し、「日本四大財閥(三井、住友、三菱、安田)」の一角をなす三菱財閥へと発展していったことを考えると、もしかすると現在の三菱グループの礎を築いたのは紀州藩からの多額の賠償金だったのではないか、との妄想も膨らむというものです。
教科書に書いていない歴史の裏側 (2011年10月31日) - エキサイトニュース
※15 土佐出身の藩士・政治家。幕末には大政奉還の建白に参加し、維新後は竹馬の友であった板垣退助とともに自由民権運動を進めた。土佐の人物伝 ~後藤象二郎~
※16 土佐の地下浪人(じげろうにん 土佐藩独特の身分で、武士としての格式はあるものの家禄はなく、事実上農民と同様の生活を送る者)の子として生まれる。後藤象二郎に見出されて藩の商務組織であった土佐商会の主任に抜擢された後、海援隊経理も担当。九十九商会三菱商会などを経て三菱財閥(現:三菱グループを創設した。土佐の人物伝 ~岩崎弥太郎~

 

 坂本龍馬にまんまとしてやられて多額の賠償金を支払う羽目になってしまった紀州藩ですが、その賠償金が回りまわって世界に冠たる三菱グループを生み出す基盤になったのだとしたら、それはそれで我が国の経済発展に多少なりとも寄与できたのということを誇るべきなのかもしれません。