「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
前回は1988年に廃止された紀三井寺競馬の話題を取り上げましたが、今回は、その競馬場の跡地に移転した和歌山県立医科大学(和医大)の話を紹介します。
少し長くなるので、まずは和医大が創設された頃のお話を紹介することとして、次回で紀三井寺への移転の話を紹介したいと思います。

「和歌山県立医科大学四十年の歩(和歌山県立医科大学 1988)」より
和歌山県立医科大学は、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)に開設された和歌山県立医学専門学校(和医専)※1が発展改組されてできた大学です。※2
※1 「医学専門学校」は、明治時代から昭和時代の学制改革まで存在した医師養成学校の一種。旧制医学専門学校 - Wikipedia
※2 和歌山県では明治15年(1882)に医師免許制度に基づく医師養成機関として県立医学校を開設したが、この施設は後に日本赤十字社へ譲渡されて現在の日本赤十字社和歌山医療センターのルーツとなっている。
明治7年県官民相議して医学校兼小病院を七番丁に創設せしが、翌年にいたり、各府県おのおの地方税支弁の病院を設置することとなりしを以て、同年12月これを拡張して県立とし、和歌山県病院と称し、傍ら医学生を教授養成せり。後同15年に及びて県立和歌山医学校(甲種)起り、病院は一時その附属となりし事あり、同20年医学校廃せられ再び県立病院として独立経営せられしが、明治 38年3月日本赤十字社和歌山支部はその建物及備品を譲り受けて和歌山支部病院を起し、間もなく同43年5月小松原通四丁目に院舎を新築移転して今日に及べり。
和歌山市編『和歌山史要』,和歌山市,昭14.
和歌山史要 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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和歌山県立医学専門学校の開設については、和歌山県が出版した「和歌山県政史 第2巻 (大正編・昭和編 1) 1971」で次のように解説されており、当初は和歌山市美園町にあった和歌山市立高等女学校を校舎として使用し、附属病院は和歌山市立市民病院(和歌山市九番丁)を引き継ぐとともに、和歌山市七番丁にあった百貨店・高島屋の店舗を使用することとしたことがわかります。
県立医学専門学校
昭和19年12月、官公立医学専門学校設立に関する意見書を県会議長千田登から内務、文部、厚生各大臣に提出したのが、県立医学専門学校設立運動の発端である。翌年4月には和歌山市会議長高垣善一からも設立意見書が文部厚生両大臣と知事に提出された。同月設立期成会が結成され、その常任顧問会で校舎として和歌山市立高等女学校を、附属病院として市民病院と高島屋和歌山支店をそれぞれあてることを決めた。
翌20年1月、県は関係官庁への事務折衝を開始するとともに臨時県会を召集し、設立資金募集に着手した。臨時議会には臨時費253万円、経常費45万8900円を上程し、臨時費は全額寄付金によることにして可決、小林千秋知事から文部大臣にあてて和歌山県立医学専門学校設置認可申請書を提出、2月8日に認可された。
昭和20年2月に公布した和歌山県立医学専門学校学則(県令)によると、専門学校令により国家有用の医師を練成することを目的とし、修業年限は4ヵ年、入学定員は120人で、研究生を置くことができる。授業は教授と修練とし、学科目は道義、人文、理数、外国語、教練、体練、基礎医学は解剖、生理、病理、薬理、臨床医学は内科総論・外科総論、診療各論は内科、外科、産婦人科、眼科、小児科、精神科、皮膚泌尿器科、耳鼻咽喉科、厚生医学は国民衛生、国民体力、法医、医事法制、軍陣医学、臨床および厚生医学実習で、授業時数は第1学年1,267時間、第2学年1,267時間、第3学年1,239時間、第4学年1,234時間であった。
入学資格は、(1)中学校卒業者、(2)修業年限5年の中学校の第4学年修了または文部大臣がこれと同等以上の学力があると認めた者、(3)専門学校入学者検定規定の指定を受けた者で、本校または他の専門学校卒業(これと同等以上の学力ある者を含む)で、医学に関する特殊事項につきさらに研究しようとする者は、選考のうえ研究生として入学させることができる。研究生の在学期間は2年以内で、年額120円の研究料を納めなければならない。本科生の授業料は年額250円で、二期に分納することとした。
こうして県立医学専門学校は和歌山市美園町五丁目に設置されることになったのである。
(以下略)
和医専が校舎として用いた和歌山市立高等女学校は現在のハローワーク和歌山(和歌山市美園町)の場所にあったもので、現在その跡地には「和歌山市立和歌山高等女学校跡」の碑が建立されています。
また、附属病院として使用された建物の一つが和歌山市民病院であったと記されていますが、この施設については前出の「和歌山史要」に次のような記述があります。
市立市民病院は昭和6年2月の創設にして、もと八番丁八番地にあり、市立診療院と称し、主として中産以下市民の軽費診療、貧困者の無料診療に従事せしが、同9年2月九番丁一番地に院舎を新築移転するや、利用者逐日増加せるを以て、同11年9月市会の決議を経、さらに院舎を拡張、設備を整頓し、内科、外科、産婦人科、眼科、小児科、耳鼻咽喉科の各部門に分ちて病室27、病床52を設け、同12年6月10日よりこれを市立市民病院と改称したり。
和歌山市 編『和歌山史要』,和歌山市,昭14.
和歌山史要 - 国立国会図書館デジタルコレクション
附属病院として用いられたもう一つの建物は和歌山市七番丁にあった高島屋和歌山出張店(資料により「和歌山支店」「和歌山分店」「和歌山出張店」などと表記が異なるが、ここでは高島屋の資料に基づき「和歌山出張店」と表記する)でした。高島屋が1982年に発行した「高島屋150年史」によれば、和歌山出張店は昭和6年(1931)に開店していますが、最初に建築された建物の一部が昭和11年(1936)に火災により焼失したため、同年新・新館が建築されました。和医専附属病院として用いられ、県立医科大学となってからも平成11年(1999)に紀三井寺へ移転するまで和歌山県立医科大学附属病院として用いられたのはこの新・新館です。
和歌山出張店を開店(昭和6年・1931)
和歌山市は大阪・難波から60km余の、近畿地方では京阪神3市につぐ大都市であったが、昭和6年9月、この和歌山市の中心部に近い七番丁1番地に木造一部2階建て・延べ約200坪(660㎡)の和歌山出張店を開設した。
店舗は小型ながら、和歌山県では初めての百貨店ということで人気を呼び、開店3年後の9年11月には、和歌山土地建物が北隣に新築した鉄筋コンクリート造り3階建て・延べ約240坪(790㎡) を全館借用して拡張、従業員も当初の70名から100名に増員した。
和歌山店の火災と新館開店(昭和11年・1936)
昭和11年1月28日午前5時、和歌山市七番丁の和歌山出張店は事務室ストーブの過熱により出火し、木造旧館と新館内部を焼失した。 このため、新館は応急修理をして2月1日から営業を再開するとともに、全焼した旧館跡には鉄筋コンクリート3階建ての新々館を増築することになった。
こうして11年11月、増築新装開店した和歌山出張店は、延べ980坪(3,240㎡)の小型店舗ながら、食堂や屋上プレイランドをも併設した百貨店として親しまれた。

写真 大阪高島屋本部 編『大阪高島屋四十年史』,大阪高島屋本部,昭12.
昭和63年(1988)に和歌山県立医科大学が出版した「和歌山県立医科大学四十年の歩」には同学の開設に伴う施設の使用について次のような記述があり、市立和歌山高等女学校と和歌山市民病院は和歌山市から無償提供されたものであり、高島屋和歌山出張所は和歌山県が高島屋から買収したものであることがわかります。また、附属病院としてのメインは高島屋であり、市民病院は分院と位置づけられていたようです。
12月3日官公立医学専門学校設立に関する意見書が和歌山県議会議長千田登より内務、文部、厚生各大臣あてに提出され、続いて12月9日同様の趣旨の意見書が和歌山市議会議長高垣善一より文部、厚生両大臣および県知事あてに提出された。また、12月4日結成された和歌山県立医学専門学校設立期成会は、12月26日の常任顧問会において、校舎として和歌山市立高等女学校を当て、附属医院として市民病院の寄贈を受けること、ならびに高島屋和歌山分店を買収することを内定した。
和歌山市は、県に呼応して東和歌山駅前(筆者注:現在のJR和歌山駅前)の美園町(現在の美園商店街内)にある市立和歌山高等女学校(山本校長)を新設医専の校舎に当て、現在の和歌山市役所の場所にあった和歌山市民病院(筆者注:現在の地番に基づけば市民病院があった九番丁1番地は市役所の北隣のブロックにあたる)を医専の附属医院の一部として無償提供することに踏み切った。同時に、市立高等女学校の生徒は県立和歌山高等女学校の別館に収容することに対する承諾を父兄から取付けた。県と市との間に交された昭和20年2月22日の覚書(資料1・・・筆者注:本稿では省略)にもあるように、県は市から市立高等女学校の校舎を永久に借用するのではなく、事情が好転すれば医専校舎は別に新築して、返還することになっていた。とはいえ、和歌山市の医専設立に払う犠牲は極めて大きかった。
(中略)
これに対して県当局は、医専設立期成会常任顧問会の内定通り医専設立寄付金270万円の徴収と一ノ橋公園前の株式会社高島屋百貨店(現在も附属病院の一部として使用している)を60万円で買収することに踏切った。しかし、これらは県内外の財閥ならびに高島屋デパートの大株主である和中金助、前田辰之助らの協力を得なければ不可能なことであった。県は買収した百貨店を附属医院本院とすべく模様替えを行い、分院になる市民病院の60床と合せて、医専附属医院はとりあえず220床にすることを決定し、鋭意努力を払っていた。
(以下略)
和歌山県立医科大学40年史編纂委員会編「和歌山県立医科大学四十年の歩」和歌山県立医科大学 1988
このようにして着々と準備が整えられ、ついに第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)7月1日、無事に開校の日を迎えた医専でしたが、その直後に悲劇が和歌山を襲いました。
このように幾多の人の努力で昭和20年2月8日医専設立が認可され、3月23日古武は校長に就任、4月1日学則が制定された(資料6 筆者注:本稿では省略)。第1回入学試験も無事終り、4月25日160名の合格者が発表され、7月1日開校式が挙行された。終戦間際の苛酷な国内情勢の中、 和歌山県立医科大学の前身である医学専門学校はようやくスタートしたのであったが、喜びも束の間、大混乱の中に突入していった。
Ⅲ.空襲炎上
昭和20年7月9日夜遅くB29米軍機100機が堺市上空に飛来し、続いて和歌山市上空に現れた。堺市を攻めたのは一種の偽装で、軍需工場のあった和歌山市襲撃が目的であったともいわれており、約3時間半に及ぶ爆撃によって旧市街地の約8割は灰燼に帰し、死者はその夜だけで1,200名を越し、行方不明者は約200名を数えた。本学にあっては、元の和歌山市民病院である附属医院分院の病棟便所に最初の一撃を受け、木造モルタルの建物はみるみる猛火に包まれた。
(中略)
空襲もようやく終り東の空も白みかけたころ、院長代理であった荒瀬は、近くに住む幸塚彦二、南條輝巳男の両教授を誘い附属病院へ赴いた。しかし、途中小松原通りの和歌山赤十字病院やその界隈は未だ燃えており、熱風や龍巻のため進路を妨げられ、止むなく引き返したほどであった。
翌日高島屋分店跡を罹災患者の応急救護所にあて、美園町の医専校舎で診療を継続した。市内唯一の診療施設となった附属病院本院には被災患者が殺到したのは当然のことであったが、院内は病室はもとより玄関から廊下に至るまで患者が溢れ、足の踏み場もないほどであった。
(中略)
空襲の後美園町の基礎学舎の空き教室には雨露を凌ぐため家を失った市民が入り込んできた。親類縁者に引き取られた人は短時日のうちに立ち去ったが、身寄りのないものは教室に居坐った。避難民に支給されるものは毛布と三度の握飯だけで、栄養失調に陥ることは必然であり、校内で死んでいくものもあった。
(以下略)
和歌山県立医科大学40年史編纂委員会編「和歌山県立医科大学四十年の歩」和歌山県立医科大学 1988
医専のみならず和歌山市全域に甚大な被害を及ぼした和歌山大空襲から1か月あまり後の8月15日に日本は終戦の日を迎えました。
戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領体制のもとで学制改革が進められ、戦前の学制に基づく医学専門学校にも改革の波が押し寄せることとなりました。もともと旧制医学専門学校は、医師の養成のみならず医学に関する研究や教育も行なうことを目的としていた旧制大学医学部・旧制医科大学とは異なり、臨床医の即時養成を主な目的とした機関であると位置づけられていました。しかし、学制改革により医学教育が大学に一元化されることになったため、従来の医学専門学校は、GHQの審査に基づきそのまま存続して大学(当初は旧制大学)への移行をめざすものと、医学教育の看板を下ろして旧制高等学校などに転換するものに分けられることとなりました。
和歌山医専は、空襲により元市民病院の施設が全壊し、元高島屋は米兵の宿舎として使用されていたことから附属病院が無いということが大学移行へのネックになると考えられていたようですが、結果的にはGHQの審査により大学(この時点では旧制大学)への移行が無事に認められることとなりました。前述の「和歌山県立医科大学四十年の歩」にはこの時期の状況が次のように記されています。
また、有本父兄会会長は京都へ赴き、京都大学医学部教授正路倫之助、京都府立医科大学学長勝義孝、京都府立大学附属女子医専教務課長らから直接情報を入手した。それによると、正路の視察結果では奈良医専より和歌山医専の方が設備が整っているということで評価は良い。ただ、和歌山医専の難点は附属医院が焼け、これに代わるものがないことであるが、この件は和歌山県当局の責任において建築中の進駐軍兵舎が完成し、現在元高島屋百貨店の建物を占拠している米兵が(筆者注:昭和21年)6月中にそこへ移動し、在学生が1年生のみであるから、本年中、遅くとも明春に附属医院が復興できればよい。すでに臨床方面の教授にはこと欠かない和歌山医専のことであるから、医専として存続することは有望であろうということであった。
(中略)
このように学の内外を挙げて心を痛め、精魂を尽してその打開に努めてきた医専存廃問題は、解決に向って明るい見通しが見えてきた。そして、4月30日午後3時36分和歌山郵便局が、東京新橋郵便局から上京中の古武校長によって発信された至急電報を受信したことにより、この問題は事実上終結した。
「40メイ ボシュウミトメラル イソギテツヅキセヨ コタケ」
5月1日午後3時ごろ帰校した別井事務長の談によれば、和歌山医専は来春には大学として発足が認められることがほぼ決定したということである。したがって、医専存廃問題は、結果的には大学に昇格するためのスプリング・ボードとなったのである。文部省は、和歌山医専は男女共学が望ましく、来夏は大学として予科の設置が願わしいなど、はなはだ意欲的にその意向を示したという。
5月5日医専存続認可の公電が入った。翌日古武校長はその旨全校に正式に通知するとともに、関係各位に感謝の意を表した。
なお、この時存続が決った医学校とその募集人員は以下の通りである。
米子医専 40人、 山梨医専 30人、 広島医専 30人、
奈良医専 40人、 北海道女子医専 40人、 秋田女子医専 40人、
福島医専 40人、 岐阜女子医専 40人、
京都府立医大併設女子部 40人
同年8月1日文部省の提示した条件に則って、戦災により炎上した旧附属医院の代りとして、和歌山市七番丁の高島屋和歌山分店跡に附属医院を開院し、11月30日附属医院第1病棟(木造2階建)の建設が着工された。(以下略)
こうして戦後も存続することとなった和歌山医学専門学校は、上記引用文にあるとおり昭和23年(1948)4月には旧制医科大学(予科3年+大学4年)となり、昭和30年(1955)に現在につながる6年制の新制医科大学となりました。
その後、昭和38年(1963)には大学本部を美園町から九番丁へ移転させたことにより本部と附属病院との一体化が図られましたが、同時期に和歌山市弘西に「紀伊分校」を新設して進学課程(1・2年生の一般教育課程)の教育を受け持たせることとなったため、大学全体としては依然として施設が分かれたままの状態が続くこととなりました。また、昭和30年(1955)にはかつらぎ町にある和歌山県指導厚生農業協同組合連合会紀北病院を買収して附属病院紀北分院としており、この点でも大学としての一体性という意味では難しい問題を抱えることとなっています。こうしたことが後に「統合移転」という大きなうねりとなっていくのですが、これについてはまた項を改めて紹介したいと思います。
和歌山県立医科大学の変遷について、「和歌山県政史 第3巻(昭和編 第2)」では次のように紹介しています。
県立医科大学
昭和20年2月、和歌山県立医学専門学校の設置が認可され、大阪大学名誉教授医学博士古武弥四郎が学長に補せられ、7月1日開校式が行なわれた。
22年7月医科大学予科が開講され、23年4月県立医科大学(筆者注:旧制医科大学)が開校、24年8月附属医院が附属病院と名称が変更された。(中略)26年3月医学専門学校と予科が廃止になった。27年2月新制度の和歌山県立医科大学設置が認可され、4月に第一回入学式が行なわれた。(中略)30年1月和歌山県指導厚生農業協同組合連合会紀北病院を買収して、大学附属病院紀北分院とした。(中略)
35年3月大学院設置が認可され、3月学長古武弥四郎が退職、後任に岩鶴竜三が命ぜられた。5月附属病院診療本館が完成、12月興紀相互銀行の旧館を買収して医局とした。(中略)
38年4月大学本部と基礎学部の和歌山市九番丁に位置変更することが認可され、9月基礎医学教室の全館が完成した。39年1月学生定員を60人に増加(筆者注:それまでの定員は40人)のことが承認された。(中略)
40年4月市原学長が再任され、4月進学課程の紀伊分校校舎が落成したので移転した。
(中略)<校舎>
大学本部、基礎学教室は鉄筋コンクリート地下一階地上四階、192室、延面積6,586平方メートル、講堂は同建物の二階の一部、4室、延面積387平方メートル、図書館は同建物の一階の一部 5室 延面積611平方メートルである。紀伊分校は鉄筋コンクリート地上三階建、52室 延面積2,348平方メートル、その他食堂やクラブハウスがある。<附属病院>
診療本館は鉄筋コンクリート地下一階地上四階、136室、延面積4,264平方メートル、第一病棟鉄筋コンクリート地上四階建、114室139病床、第二病棟鉄筋コンクリート地下一階地上四階建、118室176病床、第三病棟鉄筋コンクリート地下一階地上四階建、139室157病床、第五病棟鉄筋コンクリート地下一階地上六階建、174室269病床、第六病棟鉄筋コンクリート地下一階地上四階建、42室62病床、医局鉄筋コンクリート地上三階一部木造二階建 延面積645平方メートル、他に給食室、看護婦寄宿舎、教員保養所などがある。
和歌山県政史編さん委員会 編『和歌山県政史』第3巻 (昭和編 第2),和歌山県,1968.
和歌山県政史 第3巻 (昭和編 第2) - 国立国会図書館デジタルコレクション
以上のような経過を経て、和歌山県立医科大学は和歌山城にほど近い「公園前」と呼ばれる場所で本格的な教育・研究・医療に取り組むこととなりました。とはいえ、敷地の狭さにより発展性が阻害されていることや、学部の1、2年生が市街地から遠く離れた紀伊分校での大学生活を強いられていることなどに関し、大学関係者の心のうちには様々な思いが燻っていたことは否めません。
医科大学を再編整備し、より高度な医療と教育・研究環境を整えるべきという声は徐々に高まっていき、昭和50年代後半以降、大きなうねりを生み出すことになります。この際、「国立移管」と「統合移転」という二つのキーワードが重要な意味を持ってくるのですが、これについては項をあらためて紹介したいと思います。