生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

03復刻&解説「紀州 民話の旅」-01和歌山市

春子稲荷 ~和歌山市紀三井寺~

見あぐれば 桜しまうて 紀三井寺 貞享5年(1688)。高野山から和歌浦、そして紀三井寺へと足を急がせた芭蕉。だが、はやる心をよそに、紀三井寺の桜は、もう散り急いでいた。芭蕉の眼を見張らせ、落胆させたほど、紀三井寺の花の季節は早かった。

鷹ノ巣 ~和歌山市雑賀崎~

くねくねと曲がる石段を下りると、もうそこまで波が打ち寄せていた。青っぽい岩が、春の陽光に映え、透明な水底の岩は、一段と青味をおびてみえる。 おっかな足どりで、鉄板敷きの狭い橋を渡りきったところに、ぽっかりと、岩が大きな口をあけていた。

秋葉の大蛇 ~和歌山市和歌浦東~

国道42号線を高松から少し南へ行ったところに、秋葉山がある。そのすぐ南側、羅漢寺裏手の秋葉大権現への参道途中に、小さな祠がある。 「秋葉の大蛇」をまつるという。

汗かき阿弥陀 ~和歌山市松ケ丘~

かつて瑞林寺の本尊、阿弥陀如来像が泥棒よけにご利益があると、多くの参詣者たちでにぎわったという。

高松の投げ頭布 ~和歌山市東高松~

いまの国道42号線が、みごとな松並木の道だった江戸時代。近くにすむ牝狐が通行人に赤い頭布を投げては、茶店に誘い込むという、いたずらを繰り返したそうな。人々は警戒をするのだが、本物の茶店の女が、やはり頭布を投げるので見分けがつかない。

原見坂の美女 ~和歌山市鷹匠町~

平家物語の「耳なし芳一」に似た話が、このあたりに残されている。 紀州藩も浅野時代というから、16世紀末。 その藩士に渋谷文治郎という若侍がいた。ある年の夏、文治郎は「仙の前」という娘の亡霊に魅入られてしまったという。

父母状物語 ~和歌山市片岡町~

「父母に孝行に 法度を守り 謙(ヘりくだ)り 奢(おご)らずして…」 和歌山城に近い岡公園の東側、太田萬造さん宅の前に据えられた、高さ1.5メートル、幅3メートルばかりの大きな石碑に、こう刻られている。世にいう「父母状之碑」。紀州徳川家初代藩主、頼…

薬王寺の牛 ~和歌山市薬勝寺~

天平というから、いまから約1250年も昔のこと。ある日、この村の薬王寺の門前に、一頭のたくましい牡牛が現われた。

光恩寺の七不思議

(「紀州 民話の旅」番外編) 前項、前々項では「夜泣き石」、「名号と秤石」の伝承を紹介したが、和歌山市が昭和59年(1984)に発行した「和歌山市の民話(資料集・下)」には、これらの物語に「境内の松」、「鳴かずの蛙」、「片目の蛇」、「作兵衛鬼面の…

夜泣き石 ~和歌山市下三毛~

これも「小倉七不思議」のひとつ。 信誉が光恩寺を建てたとき、すぐ西の大橋村の神社にあった石をひとつ持ってきた。ところがその夜から、神社に残されたもうひとつの石が、すすり泣きをはじめた。そして信誉の夢に現われた女が「わたしは光恩寺へ行った石の…

名号と秤石 ~和歌山市大垣内~

大垣内の光恩寺は、浄土宗名僧の一人とされる信誉の開山。天正15年(1587)4月のことといい、いまも信誉直筆の「南無阿弥陀仏」の名号が残る。タテ1.9メートル、ヨコ55センチ。

和佐大八郎 ~和歌山市称宣~

弓のチャンピオン和佐大八郎は、昔の和佐村の出身。24歳のとき、京都・三十三間堂の「通し矢」で、一昼夜に8133本を記録、一躍日本一の弓の名手になったという。貞享3年(1686)4月のことだった。

太田城物語 ~和歌山市北太田~

来迎寺の境内は、すぐそばの通りの騒音が、まるでウソのような静けさだった。その広くもない境内に、高さ3メートル、幅1.2メートルほどの大きな碑があった。表に「太田城趾碑」。

淡嶋さん ~和歌山市加太~

春。加太の海辺は、静かだった。やがて潮干狩り、海水浴と、日増しに娠うであろう波打ち際には、気の早いこどもたちが、そこここに見えるだけ。打ち寄せる波も小さい海は、まだ半分眠りの中にあった。

白髪餅 ~和歌山市直川~

「直川観音」ともいう本恵寺は、大宝(8世紀初頭)のころ、役小角(えんのおづぬ = 役行者)が開いた古刹という。のち、桓武天皇(782~805年在位)の勅願寺になったといい、向拝は珍しい紫宸殿づくり。

白鳥の関 ~和歌山市湯屋谷~

わが背子が 跡ふみもとめ追ひゆかば 紀の関守は い留めなむかも 岩出町との境界あたり。雄の山峠に向かって爪先上りになる舗装路のわきに、木の標識板がポツンと立っていた。神亀元年(724)10月、聖武天皇の玉津島行幸の供に旅立った夫を追う妻の、情熟を詠…