生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しています

春子稲荷 ~和歌山市紀三井寺~

 見あぐれば 桜しまうて 紀三井寺

 貞享5年(1688)。高野山から和歌浦、そして紀三井寺へと足を急がせた芭蕉。だが、はやる心をよそに、紀三井寺の桜は、もう散り急いでいた。芭蕉の眼を見張らせ、落胆させたほど、紀三井寺の花の季節は早かった。

 

  関西の春は、紀三井寺から~。人々は、いまもそういう。その花どころ紀三井寺の広い境内では、すでに桜花が舞っていた。
 230段にも及ぶ長い石段を、息を切らせながら登る途中も、ようやく境内へたどりついたときも、老桜が、若桜が、まるで散り急ぐかのように、ヒラヒラと、数知れない花びらを落として……。

 

 紫煙が絶えることのない本堂前の泉水の、すぐわきの石段を登ると、ま新しい、小さな祠があった。すぐ前に「正一位 春子稲荷大明神」の赤いノボリが二本。多宝塔と三社権現に狭まれた稲荷社は、昭和57年の初午の日に開眼法要をしたばかり。
 木の香がさわやかな祠の、銅板ぶきの屋根にも、白い花びらが散り敷いていた。


 「寺の一大危難を救ったとして、一宇のお堂を建てまつったのがはじまりです。戦後、弁財天のかたわらへ移されたんですが、高くて不便なところで、お堂の手入れも行き届かないもんで、あそこに移したわけです」
 案内を乞うと、気がるに足を運んでくれた初老の僧。境内の茶店で、名物の甘酒を飲みながら、親切に説明してくれた。

 

 それによると、この「春子稲荷」は、天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めの際、白狐に身を変えて紀三井寺を兵火から守った、春子という娘~牝狐をまつるという。
 この年4月のはじめ。ウンカのような秀吉の大軍は、根来寺(那賀郡岩出町)を焼き払い、太田城を水攻めにしたかと思う間もなく、どっと紀三井寺のあたりへ押し寄せてきた。

 「この寺も、ついに焼かれるか」
 寺を預かる法橋徳順は、僧兵を率いて奮戦するわが子、太夫の無事を析りながら、静かに経を唱えはじめた。だが、その間にも血にまみれ、深手を負った僧兵たちが、続々と引き揚げてくる。やがて、平太夫も抱きかかえられるようにして運び込まれた。
 そのとき、人目もはばからず、大声をあげて泣き伏した女がいた。観音堂に仕える春子だった。


 春子が観音堂にこもったのは、平太夫が息を引き取ったとき。それから、どれぐらいたったのだろうか。それまで間こえていた春子の、読経の声が途絶えたかと思うと、突然、一匹の白狐が堂から飛び出し、まだ、ときの声の続く戦場へ走り去った。
 二日後、秀吉軍の攻撃はピタリとやんだ。いぶかしがる僧兵たちの間で、間もなくこんな噂が立ちはじめた。
 「どこかの娘が、敵の大将のところへ飛びこんで、どうか寺を焼かないで~と嘆願したそうな。そのけなげな姿に、秀長が感激、紀三井寺を討つこと、まかりならぬという触れを出したとか…」

 

 噂の通り、秀吉軍の陣中のあちこちに「寺への放火狼籍まかりならぬ。違背する者は厳罰に処する」
 という立て札が立てられていた。
 村人たちは抱き含いながら、戦いの終結を喜んだ。いかつい僧兵たちの顔は、どれも涙で光っていた。

 

 そのだれも、秀吉に直訴した娘が一体だれなのか、知らなかった。しかしみんな、いつとはなしに、その娘こそ、堂から飛び出した白狐だったのでは~、いや、春子だったのでは~と思い込むようになった……。

 

 祠の背後の名草山の古い石段を登りきったところに弁天堂があった。その左手を回ったあたりの、小さな台座は、遷座するまでの春子稲荷の跡だった。養銭箱からこぼれたのだろうか、青いサビを浮かせた十円硬貨が、そこここに落ちていた。

 

 その台座から望む和歌の浦の光景は、まさに一幅の絵だった。春子が身を賭して戦場に赴いたのは、こんな日ではなかったのだろうか……。
 見下ろす山の斜面も、境内も一面、白い桜花にいろどられていた。

 

(メモ:西国第二番札所の紀三井寺「紀三井山護国院金剛宝寺」は、救世観音宗の総本山。本尊の十一面観音像をはじめ、千手観音像、帝釈天像、鐘楼、多宝塔などの重要文化財や、芭蕉ら有名俳歌人の句碑も多い。国鉄紀勢線紀三井寺駅から徒歩5分。国道42号線からも近い。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

f:id:oishikogen_fumoto:20200909142023j:plain

紀三井寺
  • 紀三井寺は、正式には「紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさん こんごうほうじ ごこくいん)」といい、宝亀元年(770)、為光上人によって開基された。為光上人は唐からの渡来僧で日本の諸国を行脚していたが、ある時名草山の山頂から一筋の光が発せられているのを見、そこで金色の千手観音を感得したことから、自ら彫刻した観音像を胎内仏とする金色千手観音像を草堂に安置したのが始まりであると伝えられる。
  • 寺院内には、「三井水(さんせいすい)」と呼ばれる三か所の湧水(吉祥水清浄水楊柳水)があり、これが「紀三井寺」の名の由来となっている。(滋賀県大津市にある園城寺(おんじょうじ)が「三井寺」と呼ばれていることからこれと区別するために「紀」の文字が用いられるようになったものと考えられるが、園城寺の場合は同寺に涌く霊泉が天智天武持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井(みい)の寺」と言われていたものが転じて三井寺になったと伝えられており、由来は大きく異なる。)
  • 紀三井寺へは歴代天皇の御幸も行われたが、後白河法皇が勅願所と定めてからは更に隆盛を極め、鎌倉時代には500人を越える僧侶を擁する大寺院となった。また、江戸時代には紀州徳川家歴代藩主が頻繁に来山し、「紀州祈祷大道場」として崇敬された。
  • 紀三井寺の楼門から境内へ続く231段の急な階段を「結縁坂(けちえんざか)」と言う。これは豪商として知られる紀ノ国屋文左衛門が若かりし頃の話。文左衛門が母を背負ってこの坂を登っていた時に突然草履の鼻緒が切れて困っていると、そこへ通りかかった玉津島神社宮司の娘が鼻緒をすげ替えてくれた。これが縁となって二人が結ばれたことから、この坂を「結縁坂」と呼ぶようになったのだという。
  • 松尾芭蕉紀三井寺を訪れたのは、「笈の小文(おいのこぶみ)」として知られる俳諧紀行で、貞享4年 (1687) 秋から翌年春にかけて、江戸を出発して尾張・伊賀・伊勢・大和・紀伊を経て、須磨・明石を遊覧した際のこと。紀行書「笈の小文」は芭蕉の死後に門人により編纂されたものであるが、ここには和歌山での芭蕉の句は次の二句のみを取り上げており、紀三井寺については項目と紀行文があるものの俳句は記載されていない。   

    高野山 ちゝはゝ(父母)の しきりにこひ(恋)し 雉の声  

    和歌山 春(ゆくはる)に わかの浦にて 追付たり

  • 文化9年(1812)に発行された「紀伊国名所図会」には、紀三井寺における芭蕉の句として次の二句が掲載されている。このうち、宗祇に関する句は、紀三井寺の裏坂を宗祇坂と呼ぶことから、茶店の主人に宗祇法師室町時代連歌師芭蕉の尊敬する人物であった)の由緒を聞いたことを詠んだものとされる。

    見あぐれば さくらしまふて 紀三井山
    宗祇にも めぐり逢ひけり 遅ざくら

 *****
本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。