生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

長田観音(紀の川市別所)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、「厄除け」祈願の寺としてよく知られている紀の川市別所の「長田観音(ながたかんのん)」を紹介します。

 「長田観音」は正式には「如意山 厄除観音寺(にょいざん やくよけ かんのんじ)」という名称で、その名のとおり和歌山県を代表する厄除けの霊場としてよく知られており、お参りする人々の多くは親しみをこめて「長田の観音さん」と呼んでいます。
 同寺のリーフレットによれば、同寺の縁起について次のように説明されています。

長田観音 縁起
和歌山県紀の川市別所にあり、真言宗に属し、如意山厄除観音寺と言う。
旧長田庄に在した為、通称長田観音と言う。
延喜21年(西暦921年)念仏上人により開創された寺である。
本尊は如意輪観世音菩薩で、霊験高く一般に「厄除観音」又は「厄観音」と呼ばれている。
如意山厄除観音寺の寺号と
御詠歌
  いのるみは いのちながたの かんおんじ
     やくをさったの ちかいたのもし
宇多天皇が退位して仏門に入り、寛平法皇となられた時に賜ったものである。
勅願寺として堂塔が壮大で立派な伽藍をもっていたが、天正13年(1585年)豊臣秀吉の焼打ちにあい、本尊のみ難をのがれて一草堂に安置されていた。
元和8年(1622年)薩州の沙門道誉尊者が、諸国巡拝の折この草堂を見て深く歎き再興に尽力され、一堂を建立された。
寛永元年(1624年)紀州藩徳川頼宣公が厄除祈願に参拝せられ「人家に近きは仏地によろしからず」と、自ら約一粁南の現在地を選び、寛永3年に本堂を建立、順次塔其他を建立して、永世厄除祈願寺とせられた。
寺の格式も他の寺院とは特別な立場をとり、全くの祈祷寺※1とし、地名も別の所と言う意味で(ベッショ)と名づけられたのである。
現存の建物、宝物等の全ては皇室や藩主や一般の方々の、女性の19才、33才、61才、男性の25才、42才、61才の厄年の時に、その厄除祈願の為に寄進せられたもので、爾来、年々の旧初午二の午には「厄除まいり」と称し、遠近より祈願者がお参りする。
(以下略)
参考:* 長田観音|如意山厄除観音寺(にょいざんやくよけかんのんじ) --- 縁起 --- *

※1 先祖供養を主な役割とする寺院である「回向寺」に対し、利益祈願や一族繁栄などの祈願を主な役割とする寺院を「祈祷寺」と呼ぶ

引用文に登場する御詠歌を刻んだ石碑

 上記引用文では同寺は延喜21年(西暦921年)念仏上人により開創されたとされていますが、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」によると、一人の沙門※2(念仏上人のことを指すものか)粉河寺へ詣った帰りに老翁から如意輪観音の尊像を与えられたのが開創のきっかけであったと伝えています。
※2 一般的には僧侶と同義

観音寺 如意輪山蓮華院
(略)
村中北の端にあり
本尊如意輪観音霊仏にて
俗に呼びて厄除観音という
毎年二月初の午(うま)の日
遠近殊に群参して 道路数里の間
肩を摩し 袖を連るに至れり

古老相伝えていう
昔一人の沙門あり
草庵を中村※3の内に結いて
日々粉河の観音※4に詣でて
有縁の霊像を得ん事を祈る
一日帰路 老翁 薦苞コモツト※5を負えるに遭う
怪みてこれを問う
 輙(すなわ)ち薦苞をとけば
則ち如意輪観音の尊像なり
沙門 歓喜して金を与えて尊像を乞う
翁 金を受けず尊像を与えて去る
遂に其行所を知らず
沙門 持帰りて草堂の内に安す
その後奇瑞日々に新にして
遠近の道俗 香華※6をとる者群をなし
堂塔坊舎も備わりしに
天正の兵燹※7(へいせん)に罹りて焦土となり
尊像は火災を免る
元和年中 薩州の沙門 道譽 此地に来り
堂塔の廃絶を嘆き 小堂を営み
僧坊を建て 再興の志を励ます
寛文の初 南龍公※8 中村に巡遊し給い
其地 仏地に宜しからず との命ありて
それより南三町許(ばかり) 今の地を賜わり
寺を移し 水田等を寄せて
修造の功をなさしめ給う
これより再び興隆して 堂塔坊舎粗備わり
一伽藍場となれり
毎年二月上の午の日
遠近群詣するもの夥し
什物 国君より御寄附の品数種 古書数幅あり
※筆者注:読みやすさを考慮して漢字・かなづかいを適宜現代のものにあらためた(カッコ内は筆者による)
※3 旧・池田荘中村(現在の紀の川市北中・南中周辺)を指すものか
※4 別項「粉河寺」参照 粉河寺 ~粉河町(現紀の川市)粉河~ - 生石高原の麓から
※5 むしろ(筵)でくるんだ荷物のこと
※6 仏前に供える香や花のこと
※7 戦争による火災のこと
※8 和歌山藩初代藩主・徳川頼宣のこと


 一般に「(やく)」とは「わざわい」「災難」「病気」など人間の健全な生活や健康を損なう出来事をさしますが、日本ではこうした出来事が特定の年齢の頃に集中して生じると考えられることが多く、この年令(厄年)の時に神仏の加護を得て厄による困難を避けようとする信仰が定着しました。これが一般的に「厄除け(やくよけ)」あるいは「厄祓い(やくばらい)」と呼ばれる行為です。
 厄除けの思想は、もともとは陰陽道に由来するもので中国大陸から取り入れられたとも言われますが、詳細な起源等は不明のようです。これについて飯島吉晴氏は「厄年と年祝い(「古事:天理大学考古学・民俗学研究室紀要16」天理大学考古学研究室 2012)」において次のように記しています。

 厄年は、災厄や障りの多い年として忌み慎む一定の年齢をいう。厄年は、元来は陰陽道の説に基づく思想で、大陸から伝来して主に公家や武家社会でおこなわれ、近世になって民間に広まったといわれている。厄年の年齢はすべて数え年で、どの年齢が厄年にあたるのかは、時代や地域によっても違いがある。一般に、男子の7・13・25・42・61・77・88歳、女子の7・13・19・33・61・77・88歳が厄年とされているが、このほか男子では年齢の末尾に2・5・8のつく年、女子では3・7・9のつく年をすべて厄年としたり、4のつく年を厄年とするものもある。
(中略)
 さて、厄年の思想がすでに平安時代におこなわれていたことは、『源氏物語若菜(下)巻に、紫の上が37歳の重厄の年齢を迎えたとき、光源氏が「さるべき御祈祷など、常よりもとり分きて、今年はつつしみたまへ」と述べていることからもわかる。同時に若菜(上)巻には光源氏の40の賀、若菜(下)巻には朱雀院の50の賀の算賀の祝いが記されていることにも注意すべきである。また江戸後期成立の谷川士清の『倭訓栞』前編には、「四十二の厄は世継物語に見えたり、四二の音を忌む成るべし、三十三の厄は水鏡に見えたり、三三の音を忌む成るべし、今俗男子は二十五、四十二を厄とし、女子は十九、三十三を厄とす、されど盛衰記に宗盛三十三の重厄のつつしみといい、源氏物語に三十七歳を女子の厄年と見えたり」とあって、平安後期から鎌倉にかけての時期にその根拠は明らかでないが今日にも通じる重厄(大厄)の42歳や33歳が成立していたことがわかる。37歳の厄年は『拾芥抄』や南島にみられ、干支が一巡する毎に人の霊を更新する考え方に基づくものといえる。
(以下略)
天理大学 学術情報リポジトリ

 

 このように厄除けの信仰は少なくとも平安時代には公家社会に広まっていたものと考えられますが、現在においてもなお一定の広まりを見せているようで、田口祐氏は「現代の厄年の実態と変遷-大阪の神社調査から-(「國學院雑誌第116巻第11号」國學院大學 2015)において次のように述べており、同論文執筆時点(2015)ではそれ以前と比較して東京・大阪の神社に厄除け祈願に訪れる人の数が増加傾向にあることを示しています。

 都内神社9社への調査(2005年)は、現代の厄年について儀礼の執行者からの視点での実態把握を試みたものである。東京という、現代日本において中心的な役割を担う都市を対象範囲とすることで、現代日本全体の厄年の実態に関する理解につながると考えた。結果として、8社は厄年に関する件数が増えているとし、目立って増え始めた時期は20年程前(調査時)であるとした。また、厄除祈願・厄祓い参拝者の年齢・性別のうち、大厄男性42歳、女性33歳が多いとする神社が多く、そのうち女性33歳が多いのは全ての神社において共通していた。さらに女性33・37歳については一人でも来るとするなど「積極的な印象」という回答が多かった。その他の年齢は少ないという回答が共通してみられた。
(中略)
 大阪の神社における現在の厄年に関する実態把握のために、2015年7月~8月にかけて、80社の神社に電話による厄年に関するアンケートを実施した。
 アンケートではまず各神社における厄除祈願・厄祓い件数動向について聞いた。結果を整理すると、「増」「微増」は37社、「減」「微減」は11社であった。全般的な傾向として、件数は増加傾向といえる
(中略)
 いくつかの回答より、現在神社に対して全般的に「すがる存在」を求め、「守ってほしいという意識」を強く感じるという話が聞かれた。厄祓いを受けた後、顔色がよくなり、ほっとされた様子の参拝者をみかけるという話も多く聞かれた。また厄年に関する事の中でも「祓い」に強い関心が集まっているとする回答が多かった。厄年に関する「祓い」に現在の神社参拝者たちが神社に対してもつイメージがつなげられ、特に関心を集めているということがいえるだろうか。小規模な神社でも、厄年に関する祓いの部分に特に力を入れ、例えば何人も一度にではなく一人ずつ時間をかけて行う、祓いの前後に必ず話をする、といったことを実践されている神社では件数の大きな増加がみられるという。
資料検索 - 國學院大學図書館

 

 長田観音では厄除け祈願のために毎年旧暦の「初午(はつうま)」と「二の午(にのうま)」には多数の参詣者で賑わうとされていますが、この「初午」とは旧暦の2月における最初の「午」の日を指し、「二の午」とは二番目の「午」の日を指します。ちなみに令和4年(2022)の初午は3月6日、二の午は3月18日となっていました(地域によっては旧暦ではなく、新暦で催事を行うケースも多くあるようです)

 伝承によれば「初午」は稲荷神と関係の深い行事であるといわれており、Wikipediaでは伏見稲荷神社の祭神が伊奈利山へ降りた日が初午であったことに由来すると記されています。

 稲荷社の本社である伏見稲荷神社のご祭神・宇迦御霊神伊奈利山へ降りた日が和銅4年2月7日(711年2月28日)であったとされ(2月9日(3月2日)説もある[要出典])、この日が初午であったことから、全国で稲荷社を祀る。また、この日を蚕や牛・馬の祭日とする風習もある
初午 - Wikipedia

 また、インターネットデータベース「ジャパンナレッジ」に掲載されている「改訂新版 世界大百科事典平凡社)」の「初午」の項には次のような解説があり、「」にちなんでこの日に蒼前様(そうぜんさま 東北地方で多く信仰されている馬の守護神)馬頭観音に参詣する地域があることや、この日に厄払い行事を行うのは近畿地方南部などに特徴的な風習であることなどが取り上げられています。

初午(はつうま)
 2月初めの午の日、およびその日の行事をいう。全国的に稲荷信仰と結びついているが、旧暦の2月初午は農事開始のころにあたり、そのために農神の性格をもつ稲荷と結びつきやすかったのであろう。
 関東地方では稲荷講が盛んで、稲荷の祠に幟(のぼり)を立て油揚げや赤飯などを供えて祭り、参加者が飲食を共にしている。スミツカリという独特の食品を供える所もある。子どもが稲荷祠で太鼓をたたいて過ごしたり、ときには籠(こも)ったりもする。稲荷神社としては京都の伏稲荷大社や愛知の豊川稲荷が有名であるが、また各地には大小さまざまの稲荷があり、信仰を集めている。
 稲荷信仰とは別に、長野、山梨、埼玉などの養蚕地帯では、この日を養蚕祈願の日とし、蚕影様(こかげさま)オシラなどの祭りをしたり、繭玉を作って屋内外の神に供えたりしているし、東北地方や東海地方には、馬(午)にちなんで蒼前様(そうぜんさま)馬頭観音に参る所があるが、いずれも農事に関係したことである。
 近畿地方南部などでは、餅投げなど厄払いに関するいろいろな呪法が行われる。初午だけでなく二の午、三の午までする所もあり、また2月ではなく、奄美大島のように4月初午をいう所や11月初午をする所もある。
 高知県には家に水をかけるなど火防の行事をする所が多いが、初午の早い年は火事が多いという火に関する俗信は全国的である。茨城・福島県などではこの日は茶を飲まない、ふろをわかさないなどというが、これは火を扱うのを避けようとする気持ちからであろう。
[田中 宣一]
初午|世界大百科事典・日本国語大辞典|ジャパンナレッジ

 

 上記引用文によれば、「初午」行事はもともと稲荷信仰と強く結びついていたものであり、後に「午=馬」からの連想により「馬頭観音」を祀る寺院での信仰が生まれてきたものと思われます。このため長田観音も「観音」を祀る寺院であることから「午」つながりで初午行事が盛んになったのかと思いきや、長田観音の本尊はその山号にもあるように「如意輪(にょいりん)観音」であり、午と関わりのある「馬頭観音」ではないのです。
六観音とは - コトバンク

 そう考えると、長田観音の厄除け行事は「初午行事と縁の深い長田観音にお参りすれば厄除けになる」という信仰から始まったものではなく、むしろ「和歌山では初午に(どこかの寺院に)お参りすれば厄除けになるが、長田観音は特に御利益の大きい寺院なのでそれだけ多くの参詣者が集まるようになった」という流れがあったものと考えた方が腑に落ちるような気がします。

 

 ところで、初午の日には長田観音では盛大な餅まきが行われます。

長田観音公式Webサイトより
* 長田観音|如意山厄除観音寺(にょいざんやくよけかんのんじ) ---初午・二ノ午 --- *

 和歌山では、長田観音に限らず社寺での大きな行事や地域のイベントなどの際には必ずといっていいほど餅まきが行われており、「餅まきの聖地」との異名を有しているほどです。
「餅まきの聖地!」和歌山の餅まき情報』ホームページ開設!
※ 新型コロナ感染症対策のため餅まきを自粛するところが増えているため、上記リンク先で紹介されている「餅まきの聖地! 和歌山の餅まき情報」サイトは現在停止されている模様です

 中でもこの「初午」の日は県内各地で餅まきが盛大に行われており、寺社での厄除け行事の一環として行われるもののみならず、一般の家庭でも地域の人々を集めて餅まきが行われるので、この日は各家庭をまわって餅まきの「はしご」をする風景があちこちで見られます。
有田市の初午餅投げ:じいくんの気まぐれPHOTO:SSブログ


 近年は単に餅だけを撒くのではなくお菓子や日用品なども一緒に撒かれる(地域によっては地元のスーパーで「初午の餅まき用のお菓子のケース売りコーナー」ができることもあります)ので、この日は老若男女を問わず地域じゅうの人々が必死に餅(菓子/日用品)を取ろうと奮闘する姿が見られます。餅まきが終われば、それぞれに獲得した戦利品を確認しながら笑顔で語り合う姿があちこちで見られて、この地域では餅まきが一大エンターテインメントとして定着しているということが実感できるのです。