高野町石道の起点、慈尊院のすぐ上手に、さほど大きくない池がある。
もう、ずい分と昔の話。この地に、おしょぶという裁縫の上手な娘がいた。ある日、おしょぶは近くの勝利寺へ参ろうと池のそばを通ったところ、向う岸に錦の帯が落ちていた。その美しさに眼を奪われたおしょぶは、夢中で走り寄ろうとして池に落ちてしまった。
一説には、おしょぶと池にすむ蛇との恋物語ともいうが、そこには、水辺で遊ぶこどもたちへの諭しがあったのだろう。そしていまも針供養の日には、裁縫を習う娘さんたちが、池へ使い古した針を投げて、技の上達を願っている。
慈尊院は、高野山を開いた空海が、その母のために建てた寺だといい、池の上の勝利寺には、小堀遠州が手がけた遠州流の庭や、朱の山門なども残されている。
(メモ:南海高野線九度山駅から2キロ。慈尊院から高野山奥の院までの24キロにわたる参道には、一町(109メートル)ごとに、計220基の町石が建つ。)
現在のおしょぶ池
- 九度山町史によれば、この物語は次のように紹介されている。
慈尊院の勝利寺の下にある池を、おしょぶ池という。
むかしおしょぶという裁縫の上手な娘が、勝利寺へお参りしようと、池の堤を歩いてくると、向う岸ににしきの帯がキラキラ光っている。
それが水にうつって美しい。
その美しさに魅せられたおしょぶは、むちゅうに走りよろうとして池に落ち、そのまま沈んでしまったという。
その後、村人は池の堤に小さな木の鳥居をたててその霊を慰め、裁縫が上手であったというおしょぶにあやかるため、後々まで針供養をしていた。
- 「紀ノ川の民話<伊都編> きのくに民話叢書2(和歌山県民話の会 1982)」には、おしょぶ池に伝わる民話として次の二つの話が収載されている。
おしょぶ池(1)
勝利寺ヘ上がるところに、灌漑用の古池がありますんやが、いつの頃からか、この池に蛇(じゃ)が住みついて、日暮れ近くには通る人もまれやったそうな。
その頃、百姓をやって弥助一家が住んでいたんやが、娘の「おしょぶ」は器量よしで、村の若者たちにも騒がれ、小町娘といわれていたんや。
おまけに至って利発者で、信心深い女子(おなご)やった。針仕事は、村一番の上手という評判で、衣物の衣類や、嫁入りの衣裳まで縫いあげるほどの腕前やったそうや。
勝利寺の観音さんは、えらく霊験あらたかで、なんでも願いごとは聞き届けて下さるといわれ、娘も信心を怠らなかったんじゃが・・・。官省符祭も近づいたし、娘のおしょぶは、平素から縫っているあんなきれいな帯を、一度は自分もしめてみたいと思っていたんやな。
ある日の夕暮れ時、勝利寺さんにお詣りしようと池の側を通ったんやが、何気なく池の方を見ると、これはどうや、錦の帯が一すじ、色も鮮やかに浮いていたんや。
無我夢中で、おしょぶは裾(すそ)を少しまくって、一足、池に足をふみ入れ、その錦の帯をつかもうとした時、わあっと池の水が盛り上り、錦の帯は大蛇に変り、おしょぶを池底深く引きこんでしまったんや。
親や近所の人らが必死に探し回ったところ、池の上におしょぶの死体が浮いてたので、家に連れ帰り涙ながらに野辺の送りをすましたんやそうな。それから「おしょぶ池」と呼ばれるようになったんやが、池の瀬戸に弁財大の小さなお社があり、池の堤の中央に鳥居が建てられていたんやが、近郷近在の娘さんの間に、針仕事の上達を祈願するには、池中に縫針を投げ入れ、おしょぶの霊に供養して冥福を析る風習は長いこと続けられてきたわなぁ。
そやけど、明冶の末か大正の始めころからだんだんにミンンが普及してきて、そんな風習もなくなってしもたわ。
(話者・中居房太郎(九度山町) 記録・荊木)
おしょぶ池(2)
慈尊院の勝利寺の下に青ずんだ池があって、おしょぶ池ていうんですわ。
おしょぶ池の名前が何故ついたか言いますと、おしょぶという女の子が、毎朝そこを通ってお裁縫ならいに行った。
で、そも子がまあかねて胸の中で「きれいな帯が欲しいなあ。」と思って歩いていたら、ある朝その池の上にきれいな帯がこう浮いてた。
「ああ、きれいな帯が浮いてる。」
それをはいって飛び込んでそのまま。その、それが蛇というか大蛇の化けたんやって、その家族が泣きながら、そこの池の淵に行って、「まあ、一遍顔みたい」ちゅうたら、その娘をくわえてにゅっと首をあげたちゅうです。
(話者・海堀ひさえ(九度山町) 記録・谷口)
- 本文にある勝利寺は、空海による高野山開創(弘仁7年 816)よりも早い時期に成立していたとされ、近隣にある慈尊院(じそんいん)や丹生官省符神社(にう かんしょうふ じんじゃ)よりも古い歴史を有するとされる。伝承によれば、高野山開創の前年に42歳(数え年)となった空海が、この寺に厄除け祈願のために十一面観音を奉納したとされており、以後、同寺は厄除観音として多くの信仰を集めることとなった。また、この寺は、天皇や上皇の遺髪を高野山へ納める使者の宿舎としても利用されており、嘉応元年(1169年)に後白河上皇が高野山を参詣した際にここで宿泊したことをきっかけに建築された「御幸門」という施設も残されている。
勝利寺 | 旅の事ならTIC WAKAYAMAゆたか旅案内所へ | 各種旅行手配 - 本来、勝利寺の「勝利」とは、勝負ごとの勝ち負けではなく、十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経という密教の経典に示された、十一面観音がもたらす下記の10種類の現世での利益(これを「十種勝利」と呼ぶ)を表すものである。しかしながら、近年ではスポーツ競技などでの勝利を祈願して訪れる参拝者も多いという。
離諸疾病(病気にかからない)
一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない)
一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
水不能溺(溺死しない)
火不能燒(焼死しない)
不非命中夭(不慮の事故で死なない)
十一面観音 - Wikipedia
- 勝利寺と同じ敷地内には「紙遊苑」という施設があり、紙漉き体験などができる。かつて、九度山町では弘法大師(空海)がこの地に製法を伝えたとの伝承を有する「高野紙(こうやがみ、古沢紙とも)」という和紙が生産されていた。この紙は公文書や経典などに使用される非常に高品質なもので、その製法は門外不出とされ、「高野十郷」と呼ばれる十か所の村(現在の九度山町笠木、上古沢、中古沢、下古沢、椎出、河根、東郷、及び高野町西郷、西細川、東細川)のみで生産されてきたものである。
高野紙 - Wikipedia
- 慈尊院(じそんいん)は、九度山町慈尊院地区にある高野山真言宗の寺院。高野山開創の際(弘仁7年 816)、空海は、高野山参詣の登山口であり紀の川に面したこの地に伽藍を創建し、高野山の庶務を司る政所(寺務所)を置くとともに、宿舎及び冬期避寒修行の場として慈氏寺(慈氏とは弥勒仏のこと)を建立した。これが現在の慈尊院の始まりとされる。
- 讃岐国多度郡(現・香川県善通寺市)に住んでいた空海の母・玉依御前(たまよりごぜん)は、高野山を一目見ようとこの地までやって来たが、当時の高野山は7里四方が女人禁制となっていたため山上には登れず、麓の政所に滞在した。空海は、母の存命中には月に九度も母に会うため参詣道(高野町石道)を下ってきた(正確に九度というわけではなく、それほど頻繁に、との意であったとされる)と伝えられることから、以後、この地が「九度山」と呼ばれるようになったとされる。
- 空海の母は承和2年(835年)2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒仏の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒仏像と母公の霊を祀ったという。弥勒仏の別名を「慈尊」とも呼ぶことから、この政所は慈尊院と呼ばれるようになった。
- 後に、空海の母が入滅(死去)して本尊の弥勒菩薩に化身したという信仰が盛んになったことから、慈尊院は女性のための高野参りの寺(女人高野)として多くの参詣者を集めるようになった。女性の乳房をかたどった絵馬を奉納して、子宝、安産、育児、授乳等を祈願する風習は同寺特有のものである。
慈尊院 - Wikipedia
- 慈尊院は、高野山への参詣道(高野町石道 こうや ちょういし みち)の出発点とされる。慈尊院の南にある石段の途中に「180町石」があり、ここから高野山壇上伽藍まで1町(約109メートル)ごとに石造の道標が建立されている(慈尊院から上る場合は、町石は180から1へ減算されていく)。
世界遺産 高野山町石道(ちょういしみち)
- 慈尊院から町石道の石段を上った上にあるのが丹生官省符神社で、本文にあるおしょぶ池のすぐ下にある。官省符とは、太政官と民部省がそれぞれ発行した符(公文書)のことで、一般的にはこうした公文書により管理権を明確にされた荘園(官省符荘)を指す。丹生官省符神社は、高野山の地主神である丹生都比売大神とその子である高野御子大神(狩場明神)を祀る神社であり、高野山領として正式に認められた荘園の総氏神であることから、この名が付けられたものである。
ご案内|世界遺産登録 丹生官省符神社公式ページ
- おしょぶ池の前には、現在九度山町物産加工センターが設けられている。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。