生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

「高野の木食」ではなく「木食の高野」と存ずべし・木食応其(橋本市・高野町ほか)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、安土桃山時代の僧で、豊臣秀吉紀州征伐の際に秀吉と交渉して高野山への攻撃を阻止し、その交渉姿勢に感銘を受けた秀吉から「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべし」と称された人物として知られる木食応其(もくじき おうご 應其・応其上人とも呼ばれる)を紹介します。

 橋本市の中心部、橋本駅JR西日本南海電鉄と国道24号にはさまれた場所に応其寺(おうごじ 應其寺とも)という寺院があります。
 この寺院はかつて木食応其が住んでいた草庵に由来するものと伝えられており、境内には木食応其像とともに次のような解説文を刻んだ石碑が建立されています。

 

應其上人略伝
應其上人は、天文6年(1537年)近江国蒲生郡に生まれた。俗姓は佐々木といい、主家の大和国高取城主の越智家が没落したため、紀伊国伊都郡相賀荘に移り住むこととなった。
天正元年(1573年)上人が37歳のとき志を立てて高野山に登り、寶性院政について薙髪し名を日齋房良順のちに應其と改めた。上人は身に草衣をまとい木の実や野菜を食べながら、13年間ひたすら仏道の修行を重ねた。木食應其上人と言われる所以である。天正13年、天下統一を目ざしていた豊臣秀吉が、根来寺を攻略した余勢をかって高野山攻撃を企てたとき、上人高野山を代表して秀吉の陣をたずね一山の無事を願い和睦を申し入れた。秀吉上人の誠意を認めその懇請をうけいれたため、高野山は戦火から免れることができたのである。
これ以後、上人秀吉の信望を一身にあつめ、その支援を得て大塔金堂などの造営修復を行ったため、高野山中興の祖として尊崇されている。上人の寺社造築の事業は全国九十余か村に及んでおり、地方開発のため池を築き堤を造るなどの仕事にもたずさわっている。
上人はまた興山上人といわれている。
秀吉の死後、上人高野山を去り生国の近江国甲賀郡に隠退し、俗塵をはなれ自然を愛し余生をすごした。
慶長13年(1608年)10月1日飯道寺で73歳の生涯を閉じた。飯道山には墓碑が現存している。

 

應其上人と橋本
應其上人は、天正13年(1585年)近隣の里人をあつめ古佐田村の荒地を開き、家を建て町を造り高野往還の宿所とした。翌々年、上人はここに草庵を建てて住み、紀ノ川に長さ130間(約235メートル)の橋をかけ交通の便をはかった。橋本の地名はここから起こったのであり、この草庵は現在中興山普門院應其寺となっている。
上人はまた豊臣秀吉からこの地に27石5斗5升の永代免許を与えられ、塩市売買の免許をゆるされ、恵比寿神を勧請し、或は処々に池を築き堤を造り、救世済民に力を尽くした。隅田の岩倉池にある五輪塔や、清水南馬場の平谷池にある板碑には上人の名が刻まれている。町民はその徳に感じ上人の像を寄進してまつっている。
このようにして近世橋本町の基礎が確立したのである。應其上人380年忌を記念して、この地に供養塔を建立し、橋本開基の上人の遺徳を讃えるものである。
   昭和62年11月9日(旧暦10月1日)  建之

 

 また、和歌山県が発行する広報紙「県民の友 昭和41年11月号」には「ふるさとの話 木食上人」として応其に関する様々なエピソードが紹介されているので、古い資料ですがこれも参考として紹介します。

木食上人
 天正元年(1573)3月、佐々木深覚が37才のとき高野山にのぼり、宝性院政遍(せいへん)について髪をそり出家して月斎房良順と名乗った。(後に応其(おうご)と改める) いつも身に草の衣を着て、木の実ばかりを食っていて、13年間山の中で苦行したので木食(もくじき)上人とも呼ばれた。
 天正13年3月24日根来寺を焼き討ちした豊臣秀吉は、その兵を高野山にさし向けた。驚き恐れた高野山では、客僧木食上人南院宥全(ゆうぜん)遍照尊院快言の二人の代表僧をつけて秀吉の陣営になっている粉河へつかわした。上人秀吉に面会して、高野山ではこれから武器を捨て、仏事勤行と学問のことに専念することを誓って、高野山を攻めないようにお願いした。上人の誠意に感じた秀吉は、兵をおさめて高野攻めをやめ、寺領として三千石を認めた。
 上人覚え書きには、秀吉から「高野の木食と思うてはならぬ。木食の高野と考えるよう、僧たちに申し聞かせよとの再三お言いつけがあった」と記していて、高野山を救うた木食上人高野山の実権を握るようになった
 上人を信頼するようになった秀吉は、高野山に力を入れるようになり、母君のために、上人に命じて金堂を再興させ、奥の院を造営させた。上人興山寺に学校をつくり、若い僧たちの育成に力を入れるなど高野山に尽くすことが多かったので、中興の師として興山上人の号を賜わった。その時の唐子織の袈裟(けさ)は、今も橋本応其寺に寺宝として保存されているそうである。
 文禄元年(1592)秀吉母君のぼだいのため青巌寺を建立した。これが今の金剛峰寺である。文禄3年青巌寺母君追福のため登山した秀吉は、布施として大塔、金堂をはじめ25か所の造営や修理をした。またいろいろの催しをしたが、歌舞音曲は山の禁制であるからと上人の止めるのをきかず、能楽を催したところ、にわかに疾風が吹き雷が鳴り、山がくだけさけそうになった。さすがの秀吉も驚いて馬に乗って一人で山を駆けおり、今は大寺と呼ぶ橋本市護国寺までのがれた。大寺には秀吉駒つなぎの松と呼ばれた切り株が今ものこっている。これ以後より秀吉はますます上人を敬い重んじたという。
 上人はまた橋本市の生みの親でもある。天正15年ごろの橋本は荒れはてた地であった。ここに236メートルの橋をかけて高野参けい道を開き、この地に草庵中興山普門院応其寺を建てて自ら住み、今の和歌山市三葛の塩を舟で運んできて塩市を開かせたので、しだいににぎやかな町になってこんにちの橋本市繁栄のもとをつくった。当時の橋本まつりに、雑賀踊り船鉾(ほこ)山車(だし)が出たのは三葛との関係が深かったからで、その祭りに三葛の人々が加わっていた。
 また上人殖産のことに心を用い、各所に池を掘り堤防を築いている。隅田の岩倉池、応其の引の池、学文路の平谷などがそれである。秀吉が死に家康の世になると、故郷近江の国甲賀郡飯道寺に帰り、慶長13年(1608)72歳で入寂した。
(栗栖安一)

広報紙 | 和歌山県

 

 「木食(もくじき 木喰とも)」とは、仏教や修験道の修行として「木喰戒(もくじきかい 火を用いて調理した食物をとらず、木の実や果実のみを食べることで身を清めること 「穀断ち(こくだち)」とも)※1」を修めた人物を指す言葉です。
※1 穀断ち - Wikipedia

 原則としては「木食戒」を修めた修行者であれば誰でも「木食」と呼ばれることになり、実際に「木食」を冠して称される僧侶は何人もいるのですが、その中でも最も良く知られた人物がここで紹介する応其であるため、単に「木食」とのみある場合にはほぼ木食応其上人のことを指すと考えても概ね間違いではないと言えるほどであるとされます。
木喰(もくじき)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 

 これほど応其が高く評価されているのは、なんといっても豊臣秀吉との直談判により高野山を戦火から守ったという功績によるものであると考えられます。歴史作家の片山洋一氏は、「歴史街道 2022年11月号PHP研究所)」において当時の状況を次のように記しており、ここでは、応其秀吉によってもたらされた危機を外圧としてうまく利用し、贅沢に慣れて弛緩していた高野山の僧(主に学侶(がくりょ 学問や祈祷に専念する僧)と行人(ぎょうにん 管理運営や雑事に従事する僧)に区分される)の意識改革を図ったとしています。

なぜ高野山は焼き討ちを逃れた? 秀吉を絶句させた“僧侶が説いた天下人の在りよう”
(略)
高野山をめぐる争い
 奇妙な僧侶がここ数年、高野山で起居している。
 名を応其と言い、五穀断ちの行を成し遂げたことから木食上人と敬われる人物であった。
 木食行は過酷な修行であったが、応其は五穀どころか十穀を断ち、ついには木の芽など限られた食材から塩分を取る極意を得て、塩まで断っている。
 普通の者が木食行をすれば餓死するか、衰弱するものだが、近江・佐々木氏出身の元来屈強な武士であったためか、木食行を続けている今も壮健であり続けていた。
 その応其高野山の評定に呼ばれたのは、天正13年(1585)4月のことであった。
羽柴の陣所へ行けばいいのだな
 座に着くなり、応其は要件の趣を口にしたため、高野山の僧たちは驚いた。
 だが応其にとっては何でもないことであった。なぜなら彼は佐々木氏の縁から都と関係があり、かつ連歌の作法書『無言抄』を著すほど歌学にも造詣が深く、要人たちと交流があったからである。
 その要人たちから常に天下の趨勢を聞かされていたために、高野山に何が起きているかなどすぐに理解できたのだ。
 この頃、天下を収めつつあった羽柴秀吉は、亡き主君・織田信長のころから対立していた紀州に10万の大軍を差し向けていた。
(略)
客僧にすぎぬこの応其を呼んだのは、秀吉との仲立ちを望んでのことだろう?
 不承不承ながら学侶行人たちがうなずくと、応其はある物を要求した。それは高野山開基の時に著された『御朱印縁起』という記録であった。
学侶は贅をせずに学問に励む。行人は乱暴狼藉をやめて、大師の示された行で身を清める。その条件で話すが、よろしいな?
 この案に両派は難色を示したが、「ならばすべてを失うか」と、応其が脅したために従うしかなかった。

 

秀吉の心を動かした巧みな話術
 陽がかたむきはじめていたが、応其は構うことなく、秀吉の陣所へ急いだ。到着したころは夜更けであったが、同じ近江出身で交流のあった石田三成を介して、秀吉との面会にこぎつけた。
無条件受諾、一山他事なき由
 会うなり、応其がそう言ったために、秀吉は面を喰らった。
ずいぶんと神妙なことだ。ならば条件を申そう。まずは武具を捨てるべし。謀反人をかくまわず、大師の遺戒の如く、学問に励み、勤行をもっぱらにすべし
 さらに秀吉は拡大した所領を手放すように申し付けた。高野山の俗物どもにとって許容できない条件であったが、応其は意に介さず、二つ返事で承諾した。
僧は徒手空拳、贅を産む所領など不要。されど、すべて差し出すわけには参らぬ
木食上人も食い扶持がほしいか
さにあらず。大師の御供奉を考えてのことだ。大師の御身に何かあっては御遺戒も何もあったものではない
弘法大師の食い扶持をよこせ、か
 応其の風変りな交渉を秀吉は面白がった。だが紀州攻めで活躍した武将たちへの恩賞を思うと、高野山の権勢を支える広大な所領をそのままにするわけにはいかなかった。
ご懸念は無用。大師ご創建のころを記した『御朱印縁起』がござる。ここに記された所領を安堵していただければ、それで充分
なるほどのう。だが、良いのか。学侶や行人どもから恨まれるぞ
密教とは贅を忌み、殺生を禁じ、自然と一体になって天下静謐を祈るもの。高野の俗物どもは骨髄を知ろうとせずに、皮肉をむさぼらんとする破戒者。災い転じて福となす、あるべき僧の姿に戻るよき機会なり
 つまり応其は、驕り高ぶる僧侶どもの堕落を、秀吉という外圧で荒療治しようと目論んでいたのであった。
この秀吉を道具にするとは面白き食わせ者よ。その食わせ者の上人にお聞きしたい。高野のお山は天下静謐を祈ると申されたが、秀吉もまたそれを強く望む。その志を遂げるために何か知恵を授けてはもらえぬか
賢人は千賢に一愚あり、愚者は千愚に一賢ありと申す。吾の言葉を愚者のものとして聞かれよ。天下人とは世から戦をのぞく者のこと。武具を持つと人は欲にかられて他者を襲い、襲われし者は守らんがために武具を手にする。ゆえに争いが争いを生み、長き戦乱の世が続いてきた。天下人は人々から武器を取り上げ、勝手に戦をする者を打擲しなければならない。静謐の極意は、一天下の惣無事にて候
 この瞬間、秀吉の脳裏に天下静謐の方策が思い浮かんだ。すべての者の戦を禁ずる惣無事令と、高野山に要求したように武士以外の者から武具を奪う刀狩令であった。
 ---この坊主を、高野山に留めおくはもったいない。
 人材好きの秀吉は大名にしてやるから仕えよと申し出たが、応其は一笑に付した。応其の志はあくまで悟りを開くことにあり、そのために、あるべき高野山を切り盛りすることだけが、彼の望みであった。
ならば、この後は上人が高野のお山を采配されよ。高野の応其ではなく、応其の高野だと心得るべし
 応其高野山を自分のものだと考えたくはなかったが、己の手で空海高野山を再興できることは願ってもないことであった。
 この後、応其高野山を積極的に改革し、九州討伐の和睦交渉など、秀吉の天下統一を側面から助けていった。

news.yahoo.co.jp

※このテキストはYAHOO!ニュースに掲載された抜粋記事を引用したものです

 

 上記の描写はあくまでも史実を踏まえたフィクションであり、現実の交渉がこのようであったかどうかは不明ですが、少なくともこの交渉の後応其秀吉から絶大な信任を受けることとなり、その権威と援助を背景として高野山の復興と改革に力を尽くしたことは間違いないようです。


 それでは、その応其とはどのような人物であったのか。
 ここではいくつかの資料をもとに少し詳しく解説していきたいと思います。

 

 応其高野山入山までの経歴については、和多昭夫氏が「木食応其考(前)(「密教文化 1961巻55 号」密教研究会 1961)※2」において詳細に論じているところですが、これを踏まえて、石川真弘氏は「無言抄の著者応其について(「連歌俳諧研究 1962巻 24 号」俳文学会 1962)」で次のように述べており、それまでの通説に加えて石川氏自身の研究成果を紹介しています。
※2 木食応其考(前

 応其の家系及び高野入山以前の行動を明らかにする資料は、従来何一つ知られていない。そのため彼の四十歳頃迄の伝記についてはさまざまな推定が行われている。俳諧大辞典密教大辞典辻善之助氏の研究にならったらしく、次のように説明している 。

 

近江の人。藤原氏。初名、日斎。字(筆者注:あざな この場合は僧が出家した後に名乗った名、法字)順良木食上人。天文6年(1537)生、慶長13年(1608)10月1日没、72。初め近江の佐々木氏に、のち大和の越智氏に仕えたが、天正の初めに出家して、高野山に入り、寺社の修造を勧進すること81回、豊臣秀吉が高野を攻めようとした時、事を処し一山を守り、秀吉の信頼を得、大仏殿造営(筆者注:いわゆる「京の大仏」を指す。詳細は後述。)を監し、興山寺を創建した。後、江州飯道寺に隠栖。

 

 此処に記しているところは今日ではほぼ通説となっているが、私の机上に集められた応其に関する資料を整理してみると、この応其伝は可成り修正されねばならないように思う。
 先ずから検討して行くことにしよう。応其は初め「日斎」と号したと言われるが、これを確め得る資料はなく、真偽の程は明らかでない。また「字、順良。」と記しているが、 (略) 順良とは朝意のことであった。朝意木食朝意と称したところから順良応其と誤ったのであろう。
 正しい応其については (略) 深覚と称した。
(略)
 以上述べて来たところを一応纒てみると、応其は25 6歳の頃京都誓願寺に於て剃髪し楚仙と号した時宗系の聖であった。かくして先に触れた如く、佐々木氏に仕えた後大和高取城越智氏を頼ったとの説は年代の上から否定されるのである。 (略) 応其の剃髪は永禄11年頃か、それ以前のことであったように思われ、佐々木氏に仕えたのは確かであろうが、越智氏へ逃れたと見るのは誤りであろう
(略)
 したがって応其高野登山天正4、5年の頃でなかったかと思われるのである。奥院木食堂に於ける応其木食僧としての修行がどのくらいの期間に亘ったかは明らかでないが、天正10年頃は既に興山寺結衆を形成していたと考えられるからそれは3、4年位であったと思われる。その後応其天正13年秀吉の命を受けて根来へ馳せ根来寺破滅因縁)、また秀吉の高野攻めに当ってその陣中に下り、高野山を戦火から救って以来一躍高野山の重人として注目を集めるが、その後の伝については辻氏の「木食上人※3」に詳しい。
(以下略)
無言抄の著者応其について
※3 「日本文化史 別録第3巻」(辻善之助著 春秋社 1970)

 

 上述のとおり応其は生粋の高野山の僧ではなく、「客僧(客として他寺に身を寄せている僧)」という立場で高野山に住していた人物だったのですが、それが何故秀吉の高野攻めという重大事にあって高野山からの使者という重責を担うに至ったのか、ということについて和多昭夫氏は「木食応其考(承)(「密教文化 1962巻61号」密教研究会 1962)」において次のように記しており、通説として語られるように石田三成秀吉と旧知の仲であったということよりもむしろ、連歌を通じた里村紹巴(さとむら じょうは 戦国時代の連歌師で、多くの有力武将と交流があった)※4との関係がより重要だったのではないかと述べています。
※4 里村紹巴(さとむら・じょうは)とは? - コトバンク

 天正13年(1585)4月7日、根来雑賀粉河を焼払つた余勢を駈つて、豊臣秀吉は三ケ条からなる案文をつきつけて高野山の降服を要求して来たと伝えられているが、この降服の条件である三ケ条については明らかでない。根来寺の滅亡が僧兵という武力によつて支えられて来た中世的寺院の終末を象徴する事件であつた事は、当時の宣教使さえもが喝破している。応其がこの時期に教団の運命を担うべき人物として登場して来るという事は、彼の寺院制度史上における変革期の象徴的人物としての役割、意義を考える事なくしてその人物論を企てる事は無意味となるであろう。資料による限り応其の名が表面に現れるのは13年4月である。


 秀吉の要求に対して高野山から使僧が派遣された。即ち、応其南院宥全遍照尊院快言の三名であつた。この時高野山使僧に示された秀吉の要求は七ケ条から成る左の如きものであつた。
(略)
 この趣旨は、①大師の御手印縁起を一応認めた上、押領地あれば没収する事②寺僧行人以下武具鉄砲の所持を禁止し、夫々学文、仏事勤行に専念すべき事③秀吉に対する叛逆人を寺中に隠す事の禁止という三項目に要約出来る。恐らく、最初に秀吉高野山に示した「三ケ条」なるものも右の三項目に当るものであると考えられる。
(略)
 秀吉に対する請文の提出は4月16日に行われた。この時使者となつたのは前検校法印良運法眼空雅応其の三人であつた。高野春秋は、検校山外不出の寺法に従つて前検校良運学侶を代表し、法眼空雅修験道一﨟(筆者注:いちろう 最長老のこと)として行人を代表し、それに応其が加つたものであると述べている。

 

 応其が三人の中に選ばれた事につき、高野説物語には「其比、近江侍の道心木食にて有けるが、いにしへは世にある武士の由にて、心けなげなる利発者、殊に石田治部少輔(筆者注:秀吉の重臣であった石田三成のこと)懇意なれば、かゝる山の難儀なる時節一働仕へきとおもひ」自発的に秀吉への使者を申し出たが「しからは貴僧参られて事の次第を窺給はるへし、かくては軽々敷道心者にてはいかゝ有へけれバ、しハらく興山寺に移給ふて、興山寺の住僧木食と号して願申候へと頼けれは、兎も角もとて木食は則興山寺へ移りける」と述べ「此時、いにしへの因とて、石田治郎少輔なと取持ける故、一入首尾能相済けるとや」と述べている。
 しかし、根来寺の記録によれば、これより先、秀吉の根来攻に当つて、その使として応其が遣わされた事があるらしい※5。その理由として、秀吉と応其が旧知の間柄であるとする一説があるが、高野説物語の様に石田三成との間柄を云々する説もあつて何れとも決定し難い。
(略)
 この当時興山寺は未だなく、又、石田三成は、数多い応其史料の中高野説物語以外にそれを物語るものがない事もそれが疑わしいものである事を示している。秀吉説に関しても交友関係を立証し得る決定的な史料は存在しない。寧ろ、政治家との直接の交渉よりも、やはり考えなければならないのは連歌上の交友関係であろう。天正14年7月28日の応其覚書(筆者注:後述の「木食応其覚書」を指す)にも見られる如く、紹巴を中心とする連歌のグループ秀吉応其の媒をしたと私は考える。この間接的な連歌上の交友関係が、一度両者相会するや、お互に非凡な人柄を見抜いて深い交りを結ぶに至り、それが後に旧知の直接関係と考えられる様に変化した為、種々の伝説が付会されたものであろう。
  この様な秀吉応其の間柄は、4月以来急速に進展し、6月に秀吉悲母逆修(筆者注:秀吉の母である大政所(おおまんどころ 本名は「なか」と伝えられる)のために、生前にあらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行なうことを指す 「逆修」の対義語が「追善」)の為、金堂再興を企て、金堂本願として応其を任命すると共に、学侶方に関する内外法度の管理者としての資格を与えた。これは応其が寺院運営制度に対する権限行使の端初として重要な意味をもつものである。応其興山上人を号する様になつたのもこの頃からで、その称号においても彼の高野山での地位というものがはつきりと現われて来るのである。
木食応其考 (承)

※5 これについて、和歌山県立博物館が発行した「『没後400年 木食応其 -秀吉から高野山を救った僧-』 特別展図録(2008)」には次のような記述がある。
天下統一をめざす秀吉は天正13年(1585)3月、紀州に出兵した。 (略) これに対して「根来破滅因縁(ねごろはめついんねん)」では、3月上旬に秀吉の使者として応其が根来寺を訪れ、和睦を斡旋したのに対して、行人方のなかには斡旋案に反対し、夜中に応其の宿所を鉄砲で襲った者がいたため、応其は急いで京都に向かった、と記されている。後者によれば、秀吉の紀州攻めの時、応其はすでに秀吉の使者となり得る立場にあったことになる。

 

 上記引用文にあるように、応其秀吉との直談判により高野山の安全を約束させたのは天正13年(1585)4月のことでしたが、秀吉はよほど応其のことを気に入ったのか、そのわずか2か月後には悲母逆修という大義名分のもとに高野山金堂(当時は火災により焼失していた)を再興するために多額の資金援助を決定します。
 表題にある「『高野の木食』ではなく『木食の高野』と存ずべし(「高野山に客僧として滞在している木食応其」と軽んじてはならない。「木食応其がいたからこそ高野山が存続できた」と肝に銘ずるべきである。)」という言葉は、この金堂再興支援への礼のために応其らが大阪城秀吉のもとへ出向いた際、秀吉から高野山の衆僧に向けて語られたとされる言葉です。
 この時の状況について、「『没後400年 木食応其 -秀吉から高野山を救った僧-』 特別展図録和歌山県立博物館 2008)」では、その典拠となっている「木食応其覚書」の図版とともに次のように解説されています。

木食応其覚書

翻刻
太閤様御雜談之趣木食記録之一札
  御座敷御人数之事
       拙僧木食 昌叱
 上様
        聖護院殿 紹巴   末座ニ御金剛峯寺
                 衆徒両人  使節
                   次ノ間ニ諸大名

御諚之意趣者、高野山之儀二世之御願所ニ、永代被召置上者、寺領等勿論不可有相違、所詮衆僧加法之行儀可爲肝要、後代ニ雖爲弱武士、其寺於令異見者、猶可相随、自然其砌、對武士少成共存分たてを仕候者、重而強武士出来候時、必可加退治、然者数珠のつかまてを取候事、山も安全にして佛法相続し瑞相也、
又次ニ木食一人ニ対し高野を立おかせられ候間、高野の木食と不可存、木食の高野と可存旨、各衆僧ニ可申聞之由、両度おしかへし被成御諚候、先以愚老辱奉存、誠日を経ても感涙難押致帰山、御言葉を其まゝ、一字ももらさす一帋(紙)ニ志るしたてまつる、一代教主之御説法も此外ニハあるへからす、ありかたく覚え侍りける、
      天正十四(1586)年七月廿八日
                  木食興山上人
                       應其(花押)
(上記翻刻は「橋本市史」による)

 

木食応其覚書  一巻のうち一通
     (続宝簡集巻五十一のうち)
紙本墨書
縦37.7 横53.8
桃山時代 天正14年(1586)
金剛峯寺蔵(高野町) 国宝

 本書は、天正14年7月に大坂城で行われた秀吉謁見の様子を応其が記したものである。前年である天正13年6月13日、秀吉は現米1万石と大和国宇智郡および紀伊国伊都郡・那賀郡内の地(物成 ものなり 3000石)を、金堂修造料として寄進した。応其は金堂の造営奉行を務め、8月ごろに工事が始まり、天正15年9月7日に落慶供養が、豊臣秀長(1540~91)の出席のもとで行われている(『高野春秋』・『多聞院日記』四)
 造営の最中であった天正14年7月21日に、応其金堂造営の謝礼として、学侶方2人とともに大坂城に登城している(『高野春秋』)。登城後、秀吉の謁見があり、座敷には上様(秀吉)に次いで、応其聖護院道澄(「聖護院殿」、1544~1608)が座り、連歌師である昌叱(しょうしつ 1539~1603)紹巴(じょうは 1524または25~1602)、末座に高野山の僧2人が座し、次ノ間に諸大名が控えていた。そのなかで、秀吉応其について、「高野の木食と存ずべからず、木食か(が)高野と存ずべし」と衆僧に述べたという。その真偽は定かではないが、降伏後の高野山を舵取りするようになった応其が、天下人である秀吉の後ろ楯を必要としたことを物語るものといえよう。
《『高野山文書』之三に収録》  (前田)

 

 この後、応其秀吉の後ろ盾を得て高野山の復興に取り組み、山上だけで合計25棟もの堂宇を再興したと伝えられています。また、橋本、高野口、かつらぎなど各地でため池の築造灌漑施設の整備などの事業にも取り組んでおり、建築と土木の両面において卓越した能力を発揮した人物であったことがわかります。
応其上人ゆかりの地

 西山孝樹氏は「紀の川上・中流域における古代末期から近世中期までの灌漑水利の変遷に関する研究(「土木学会論文集D3(土木計画学) 70巻5号」公益社団法人土木学会 2014)」において、江戸時代に徳川吉宗井沢弥惣兵衛を江戸に呼び寄せたことから始まるとされる徳川幕府紀州流」河川技術は、応其によるため池築造・灌漑施設整備と、これに伴う大規模な田地開発の系譜を引き継いだものではないかとの見解を示しています。
紀の川上・中流域における古代末期から近世中期までの灌漑水利の変遷に関する研究

 

 このように優れた土木建築技術者・実務家として辣腕をふるった応其の才能はおおいに秀吉の気に入るところとなったようで、秀吉は、焼失した東大寺大仏松永久秀三好三人衆の間で行われた市街戦により大仏殿と仏頭が失われた)に代わるものとして計画された「京の大仏※6」造立の責任者として応其を任命しています。残念なことにこの大仏は開眼法要前に発生した慶長伏見地震(1596)により大破するのですが、その後も秀吉善光寺(長野県)の本尊である善光寺如来(当時は甲斐善光寺に移されていた)を大仏の代わりに本尊として迎えるよう応其に命じており※7秀吉応其に対する信頼は大変堅固なものであったようです。
※6 この大仏を安置するために創建された寺院は現在「方広寺京都市東山区)」と呼ばれているが、この名称は江戸時代以降に用いられるようになったもので、創建当時は単に「大仏」あるいは「大仏殿」と呼ばれていたとされる。京の大仏 - Wikipedia なお、秀吉の死後、豊臣秀頼によって大仏の再建が図られたが、その開眼供養のために鋳造された梵鐘がいわゆる「鐘銘事件(しょうめいじけん 梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」という銘文があったことから、徳川家康を安んじ、豊臣の繁栄を願うものであるとして開眼供養の中止が命じられた これをきっかけとして大阪冬の陣が発生し、やがて豊臣氏の滅亡へとつながっていく)」を引き起こすこととなった。鐘銘事件(しょうめいじけん)とは? 意味や使い方 - コトバンク

※7 木食応其の尽力により善光寺如来が本尊として大仏殿に安置されたものの、秀吉が慶長3年(1598)に病に臥した際に、これは善光寺如来の祟りではないかという風説善光寺如来甲斐善光寺へ移した武田信玄織田信長に滅ぼされ、その如来を岐阜善光寺に移した信長はその直後に本能寺の変で討たれたため、善光寺如来を移動させた者は滅びると噂されたもの)が民衆の間で広まったため、この如来像は急遽信濃国善光寺へ戻されることになった。しかし、像が大仏殿を発った翌日の同年8月18日に秀吉はこの世を去った。方広寺 | 地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業

 

 
 こうして豊臣秀吉の権勢を背景に高野山の復興と改革、及び全国各地の寺社の勧進・造営などに八面六臂の活躍を果たした木食応其ですが、あまりにも秀吉との関係が近かったことから慶長3年(1598)に秀吉が没した後は急速に権勢を失い、晩年は出身地の近江国に戻り、飯道寺(はんどうじ 滋賀県甲賀市に隠棲して余生を過ごしたと伝えられています。

www.handousan.com