生石高原の麓から

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物狂い岩 ~橋本市学文路~

  「お大師さん(空海が、高野山を開かれたころや。ここに高師(たかし)四郎いう道士がおったんや。その道士さん、変くつでな、みんな物狂い道士いうたんや。でもそのうち、梅の木を育てたり、村の人に学問教えるようになって……。それで死んだとき、お大師さんが、そこの石に腰掛けて、ねんごろに弔うたんや」~。

 

  土地の老人が、親切に教えてくれた。

 

 その石は、道から少し入った、一段高い一角にあった。長さ1メートル、高さ30センチばかり。「お大師さんの腰掛け岩」ともいうそれは、地中に根を張った巨岩の先端だともいう。


 道士は、謡にいう「高野物狂」「禿(かむろ)物狂」。だが土地の人たちは、梅と学問にちなんで「香室」「学文路」と呼ぶようになったとか。

 

 後世まつられた地蔵さん「かむろ地蔵」は、こどもの守り本尊、学問の地蔵さんに。毎月21日の「お大師さん」の日や、入試のシーズンには学生たちでにぎわいをみせる。

 

(メモ:南海高野線学文路駅から徒歩5分。車では橋本市神野々の国道24号線から南へ2キロ、「かむろ大師」は、すぐ隣り。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

 

  • 高師四郎(たかしの しろう)は、「高野物狂(こうや ものぐるい)」という謡曲(ようきょく 能の台本に相当するもの)の主人公。常陸国(現在の茨城県あたり)平松家の家臣とされる。
  • 「高野物狂」は、世阿弥作(曲舞(くせまい)と呼ばれる部分は息子の観世元雅作)の謡曲で、「四番目物(よんばんめ もの)」及び「男物狂物(おとこ ものぐるい もの)」の区分に属する。
  • 能の上演にあたっては、「一番目物・脇能」「二番目物・修羅能」「三番目物・鬘(かずら)能」「四番目物・雑能」「五番目物・切能(きりのう)」の順に五つの演目を上演するのが正式とされる。一番目はよどみなく爽やかに、二番目物はきびきびと勇壮に、三番目物は優美にしっとりと、四番目物は変化を尽くして面白く、五番目物は手強く足取り速く、という特徴があり、特に「四番目物」はバリエーションが豊富で、主人公も狂女・武士・怨霊など広範囲にわたっている。(世界大百科事典第2版 株式会社平凡社 「能」の項より)
  • 能において物狂(ものぐるい)とは、主人公が子や配偶者と別れるなどの強い精神的ショックを受けて、一時的に興奮状態に陥って歌舞・物まね芸を演じることを指す。女性主人公が夫や子を恋い慕って狂乱する状況を描く作品が多く、右肩脱いだ下着姿で右手に狂い笹を持って登場することが多い。「隅田川」「班女(はんじょ)」「三井寺」などが代表的な作品で、これを「女物狂物」と呼ぶ。これに対して男性主人公が物狂状態になる作品が「男物狂物」で、「高野物狂」のほか「蘆刈(あしかり) 」「弱法師 (よろぼし) 」などがこの区分に該当する。
  • 「高野物狂」のあらすじは次のとおり。

常陸国茨城県)の人、高師四朗は主君の遺言に従い主君の子、春満(しゅんみつ)を預かり養育している。
主君の命日、四朗は主君の墓前に焼香に行く。
四朗に家人が文を届ける。
文は春満から四朗に宛てたものだった。
春満はこの暁、文を残し出奔したという。

文には
「この世に生まれるという難しい生を受け、有難い仏の教えに会うことができました。
人の世は無常、今出家しなければ悔いを後々まで残すでしょう。
一人が出家すれば七代前の先祖まで成仏できると云います。
先祖のため、父母のため出家します。
誠の父母のように慕っていながら、子細を相談せず別れることはこの上なく辛いことです」

一首の歌が添えてあった。
墨衣、思い立てどもさすが世を、出づる名残の袖ぞ濡れける

三世の契りを結んだ主従です。
どうして供を命じなかったのかと四朗は主君、春満の後を追います。
儒教に裏打ちされた中世の人達の人生観、親子、主従の重きが語られる。物語の序曲だ。

四朗は当てもなく主君を求めて旅立つ。
折しも雁が列をなして飛んでいく。
四朗は中国の故事を思い出す。
漢の蘇武が雁の翼に文をつけて故郷に送った。

これも忠誠の心からだった。
私も主君春満の文を忠誠の印としよう。
四朗の心は高揚して狂いの舞「カケリ」を舞う。
「カケリ」は戦闘や狂気を表す舞。

四朗は故郷、常陸を旅立ち、遥々の旅を経て高野山に辿り着く。
高野山への道は山深く故郷の筑波に似て懐かしく、主君への思いは募ったのだった。
高野山に辿り着き、耳を澄ますと読経の声、鐘、鈴の音が心に沁み渡って狂気も覚める心持だった。四朗は開山、弘法大師所縁の三鈷の松の陰で休む。
この場面を「道行」といい、旅の様子を描いたもので見どころの一つだ。

高野山の僧春満を伴って現れる。
僧は四朗を見咎め物狂いはこの山には入ることは出来ない、帰れという。
四朗は反論する。
帰れとは寺にあるまじき云い様だ。
殊にここは大師が入定、入り定まったところだ。
出よとは納得出来ないと反論する。

僧と四朗は仏教教理について論議する。
僧は四朗の仏道への帰依の深さに感服する。
この禅問答の様な問答は、次に続く「クセ」で語られる深々とした霊山、高野山の佇まい、四朗の深い求道の姿につながる。
「クセ」は“狂い”を離れ、極めて静かに舞い、人の心に静かに滲み入る。一番の見どころだ。

クセを舞い終えた四朗は、仏徳礼賛の舞「男舞」を舞う。
四朗の舞は狂乱となって行くがやがて高野山の霊気が四朗の狂気を覚ます。
狂気から覚めた四朗は、四朗をじっと見つめる春満に気が付く。
二人は名乗り合い共に仏道の道に入る。


金剛流潤星会のWebサイトより引用 
潤星会 - 能曲目の解説 | 高野物狂

  • かむろ地蔵の前に掲げられた説明版には、当地と高師四郎との関わりについて次のような解説が書かれている。

弘法大師高野山を開かれた時代の「かむろ」は、梅の名所として名高く「香室(かむろ)」と書きました。

この香室の里に、自らを物狂道士と称する高徳の士が隠棲しておりました。この方が謡曲高野物狂」の主人公高師道士で、その善行美徳は遠くまで感化を及ぼしていました。

殊に学問の道の教導に力を尽くされたために、この地方では字の読めない者が一人も居なかったという事で、当時としては誠に珍らしいことでした。こうしたことから「香室」を「学文路」と書くようになったのです。

弘法大師も深く道士をめでて居られましたので、道士がこの地で大往生を遂げられた時、その死を憐れみ給い菩提の為読経されたのです。

その時、弘法大師が腰かけられた石がこの垣内正面に安置せる石で、その後これを「お大師さんの腰かけ石」と呼んであがめ祀るようになり、更に後世、お地蔵さん三基が次々と寄進され、或は垣内の改修なども行われ現在のかむろ地蔵となりました。

このためこの地蔵尊は、子供達の守獲のお地歳さんであるとともに、特に「学問のお地蔵さん」として信仰されています。

  • 本文の標題となっている「物狂い岩」は一般的には「物狂石」と呼ばれ、上記にある「お大師さんの腰かけ石」と同じものを指す。
  • かむろ地蔵の隣には、現在「かむろ大師 尽誠堂」がある。「かむろ大師」は、この地で誕生した尊海(そんかい)上人(1892 - 1981)が明治43年(1910)に同地に小堂を設け弘法大師を勧請して開創したことにはじまる。当初は8畳ほどの小堂であったが、徐々に手狭になったため昭和9年(1934)に「(旧)本堂」を建立。参詣者の増加と旧本堂の老朽化に伴い、昭和63年(1988)に南東約400メートルの山上に新本堂が建立された。「かむろ大師 尽誠堂」は、旧本堂を改装して菩提所としたもので、かむろ大師開創100年を祈念して平成22年(2010)に落慶法要が行われた。(かむろ大師 Webサイトより)
  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」には、学文路村の名前について次のような記載があり、かつては「禿」の字が使われていたことから男色に関わるのではないかとの考察を行っている。本来、「禿」とは頭に髪がないことを言い、転じて現在の「おかっぱ」の髪形をした子供、特に幼女を指すが、江戸時代になると遊郭に住む遊女見習の幼女を「禿」と呼んだ。さらにここから男色専門の茶屋で働く少年達も禿の姿であり、「禿」「男禿(おとこかぶろ)」などと呼ばれることもあったとされる。紀伊風土記の記述はこうした風俗を踏まえて書かれたものであろう。ちなみに、「平家物語」には、髪を禿の姿にした14~15歳の子供を京の市中に放ち、平家のことを悪く言う者があれば六波羅へ密告するなどの密偵行為をさせていたとの記述があるが、これらの童形の者もまた「禿、禿童(かぶろ、かむろ)」と呼ばれている。

應永の文書(高野山蔵)に官省符禿村とあり 
其頃は高野の領にして官省符(筆者注:平安~戦国期の荘園名)の内に入りしならん 
村名は禿の義にして少童の事か
高野山の麓なれば古はこの地に男色を鬻(ひさ)ぐものありしならん

  • 本文にある「梅の木」については、当地に「杖の梅」の伝承がある。前述の「紀伊風土記」には、「空海讃州より杖に突き来りしを 此の地に挿しに 生ひ出たりといふ 古木は枯れて今は小き梅を植ゑたり 梅の縁に因りて側に天神の小祠あり」との記載があり、空海が讃岐から杖として使ってきた梅の枝を挿したものと伝わる。ここは現在も「杖梅天神」として祀られている。
  • 学文路地区には、天治元年(1124)創建と伝えられる学文路天満宮がある。同社は伊都地方唯一の天満宮であるため、毎年多くの学生やその保護者が学業成就、受験合格などを願って参拝することで知られている。こうした人気に着目した南海電気鉄道では、毎年受験シーズンになると最寄りの「学文路駅」の記念入場券セットを「受験のお守り」として販売する。これは「学文路駅の入場券」が「学問(文)の路に入る」という読み方ができることにあやかったもので、学文路天満宮による御祈祷を受けている。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。