山内には、不動尊にまつわる話が多い。中でもよく知られているのが「地蔵不動」「鮑(あわび)不動」「波切不動」などだろう。
「かほちそう、からだふとう」(顔小そう、体太う)との注文書を受け取った石工さん。「顔地蔵、体不動」と読んでつくったのが、奥の院の地蔵不動とか。
空海が唐へ渡るとき、その船が大嵐にあい、船底に穴があいて沈没寸前。そのとき、穴をふさいだのが、この鮑。中にお不動さんの姿があったという。
空海が開いて以来、長く女人禁制の聖地、修業の場だった高野山。だから山内には、空海の法力、仏の慈悲を伝える話にこと欠かない。「高野の不動」には、そんな背景がある。でもいまは、そんなことを気にもかけず、気楽に訪れる男女で山はにぎわう。
これらの物語について、高野山教報社が昭和56年(1981)に出版した「高野山昔ばなし」には次のように記載されている。
高野の不動の話
高野山には、不動尊にまつわる話もたくさん伝えられています。その話の中のいくつかを紹介することにしましょう。
◎地蔵不動
高野山奥の院には、地蔵不動と呼ばれる不動尊があります。この不動尊は、不思議なことに顔は地蔵の顔で、体は不動の像なのです。
なぜこのような像ができたのかというと、もともと地蔵尊像をつくるための注文の書状に、仮名書きで「かほちそう からだふとう」(顔小(ちい)そう 体太(ふと)う) と書いてあるのを、石工が「顔地蔵 体不動」と読み違えたので、こんな変った像が出来てしまったと伝えられているそうです。
◎鮑(あわび)不動
そのむかし、お大師さまが唐の国へ行かれる途中のことです。ある日のこと、海がはげしく荒れ、船は木の葉のように波間に漂いました。なお、運悪く船底に穴が開いて、船は今にも沈みそうになってしまいました。そのときです。お大師さまは、静かに目を閉じ、 経文を唱えられました。
すると、どうでしょ う。不思議なことに船底から潮の流れ込むのが止まったのです。そ して、無事に唐に着くことが出来ました。
唐に着いたお大師さまが船底を調べてみる と、なんと、大きな鮑(あわび)が船底をふさいでいるではありませんか。
その鮑を手に取ってみると、中に不動尊の姿が見えたそうです。きっと、お大師さまの心がお不動さまに通じて船を守ってくれたのですね。
ところで、その大切な鮑は、何人もの人の手を経たあとで、高野山の西院谷に入ったと語り伝えられているのです。それにしても不思識な話があったものですね。
◎波切不動
波切不動は、お大師さまがご自分で作られた不動尊ですが、波切不動とは、また変った名前がついた不動尊ですね。その名前の由来について、次のような話があります。
お大師さまが唐からお帰りになるときのことです。はげしい嵐が襲ってきました。強い風と叩きつけるような大波に、船は横倒しになりそうになりました。そのとき、光を放ち、剣をふるって、打ち寄せる荒波を切り、船を暴風雨から守ったのが、この不動尊だったそうです。それ以来、この不動尊は、波を切った不動、波切不動と呼ばれ、その後、元寇の時などにも活躍したといわれています。
◎不動谷川
お大師さまが高野山を開こうとして、ふもとまで来られたときのことです。
この山に古くから住んでいた大蛇が、お大師さまを山に入れまいと襲ってきました。
それを見た不動尊は腰の剣を抜き、大蛇めがけて切りつけました。不動尊は白毫(筆者注:びゃくごう 仏の眉間の中央にあって光明を放つという右巻きの白い毛のこと)から強い光を放って、大蛇の目をくらましたそうです。これにはさすがの大蛇もたまりません。
とうとう、古沢川の底なし淵に落ち込んでしまったということです。
それにしても、お大師さまには強い味方があったものですね。古沢川のことを不動谷川と呼ぶのは、このときからだそうです。
- 不動尊とは不動明王の尊称である。
- 明王(みょうおう)とは、密教における最高仏である大日如来の命を受けて、仏教に未だ帰依しない民衆を帰依させようとする役割を担った仏を指す。明王は一般的に忿怒の形相で火焔を背負い、髪は怒りによって逆立ち、武器類を手に持った姿で表現されることが多い。このうち特に重要な役割を担う5名の明王(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)をあわせて五大明王と呼ぶが、不動明王はその中心に位置付けられている。
- 不動明王の起源はヒンドゥー教のシバ神で、仏教においてこれを大日如来の使者として取り入れたものとされる。大日如来は、教導すべき対象である衆生の性質に合わせて三種の姿を取るとする考え方(三輪身 さんりんしん)があり、本来の姿を自性輪身(じしょうりんしん)、正しい法を護るために見せる菩薩の姿を正法輪身(しょうぼうりんしん)、導き難い相手に対して見せる怒りの姿を教令輪身(きょうりょうりんしん)と呼ぶ。不動明王は大日如来の教令輪身であり、仏法に敵対する者や教えを聞こうとしない衆生に対して、力ずくで屈服させてまでも教え導き、救済する役割を担っている。
- 一般的に、不動明王の姿は忿怒相(ふんぬそう 激しい怒りの表情)で、右手に剣、左手に羂索(けんさく/けんじゃく)を持ち、火焰を背負った姿で表される。このうち忿怒の形相は威力をもってしてでも全ての衆生を救うという強い決意を示したもので、右手の剣は「降魔の利剣(ごうまのりけん)」と呼ばれて、魔を断ち、人間の煩悩(貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三毒)や因縁を断ち切るものとされている。また左手に持つ羂索は、もともとは鳥獣を捕らえる罠の意であるが、不動明王が持つ場合には、縄状のもので、悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を縛り吊り上げてでも正道に導くために用いるとされる。光背の火焔は迦樓羅炎(かるらえん)と言い、不動明王が自らを火焔そのものにすることによってあらゆる煩悩を焼き尽くす(火生三昧 かしょうざんまい)姿を表している。
- 我が国に不動明王の図像をもたらしたのは空海であるとされており、また真言密教において「一切諸仏諸尊の根本仏」として最高位にある大日如来の化身であることから、高野山において不動明王は特に重要な位置づけがなされている。本文にあるように高野山において不動尊にまつわる話が多いのはこうした由縁によるものである。
- 地蔵不動尊は、一の橋から奥の院に入ってすぐ、金剛界町石道(大塔から奥の院まで一町(約109メートル)ごとに設けられた石碑)の第19町石の近くにある。確かに現物は、顔は忿怒相ではなくお地蔵さんのように柔和であるが、手には不動明王の象徴である剣と羂索を持っている。
奥の院19町石 地蔵不動
- 先に述べたように、不動尊は「明王」であるのに対して地蔵尊は「菩薩」である。一般的に菩薩とは仏になるための修行を行っている者を指す言葉であるが、地蔵菩薩は、既に悟りを得ているにもかかわらず、あえて仏にならず仏の代わりに衆生を救済する役割を担うとされる。仏教では、釈迦が入滅した後、弥勒菩薩が出現するまで56億7000万年の永きにわたって現世に仏が不在となってしまうと考えられており、その間、全ての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六道)に現れて衆生を救うのが地蔵菩薩である。
- 上のような不動明王、地蔵菩薩それぞれの由来を考えると、この両者はいずれも庶民を救済するという点では最高位にある仏(菩薩は正式には仏ではないが)と考えられることから、あえて地蔵・不動両者の特徴を持つ像が作られたと考えても不思議ではない。像のつくりは決して巧緻なものとは言えないことから、こうした素朴な信仰に基づいて作られたものかもしれない。
- 鮑不動については江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊続風土記」の「高野山之部」中「西院谷堂社院家 増長院」の項に次のような記述がある。しかしながら、現在増長院は存続していないようなので現状は不明である。
鮑不動尊
本堂に安置す。
上に云如く(筆者注:同院本尊不動明王の解説において、弘法大師入唐の際、海上が大荒れとなったことを指す)、逆浪のとき鱐魚(しゃちほこ)舳の底を穿ち怒潮激入して舶巳に沈みなんとす、大師復黙し給ふに漏潮忽ちやみ、終に彼地に達す時に其穿所を捜り見るに、鮑貝大さ七寸許なるかその穿つ所に蓋す。
とりて是をみるに其肉爆然して、自ら脱出して貝中に不動の尊容を現すること鎮めるか如し。
大使大納言賀能(筆者注:空海が乗船した遣唐使船の大使を務めた藤原葛野麻呂(ふじわらの かどのまろ)のこと)受て家宝とす。
其後筑紫の大内家に伝う。
彼家滅亡の時、家臣早月氏に譲れり。
延宝元年臘月(筆者注:12月のこと)、早月氏自済なるもの本院の主快融と好みあり。是故に永く寄託して子孫の繁茂を祈る。寄附状今に存す。
例歳六月二十八日、結縁のため開扉して法楽を営み諸人群詣す。
紀伊續風土記 : 高野山之部 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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- 本文にある波切不動とは、高野山南院の本尊である不動明王立像(浪切不動明王)のことを指す。上記の引用文にあるとおり、空海が唐からの帰国の際、嵐で海が荒れて船が沈みそうになった時に師・恵果から譲り受けた霊木に不動明王を自ら刻んで船首に掲げたところ、波を切り開き、船の窮地を救ったと伝えられる。また、その後、平将門の乱や元寇などの国家的な危機にあっては、各地へ移動されて国家鎮護の霊験を示したとも伝えられる。
【高野山真言宗別格本山浪切不動尊別当】南院 - これについて、和歌山大学の海津一朗教授は「秘仏・高野山南院「浪切不動明王」考-弘安の蒙古襲来と志賀島- (和歌山大学教育学部紀要 第68集 第1巻 人文科学(2018))」において次のように述べている。
浪切不動(大聖波切不動明王)は、現在高野山別院(別格本山)南院の本尊として安置される。唐にわたった空海が、師匠の恵果より与えられた栴檀の霊木を用いて自ら刻んだ守り本尊(空海自作)という。「浪切」の名の由来は、空海帰国時の航路が大荒れになったのを天を鎮めて守り抜いた霊験に基づく。秘仏として普段は公開されておらず、年に一度四季の祈禱のうち夏季祈りの時に(旧暦五月一日夜半~二日)、南院を出て覚皇彎(がくこうがたわ)の道を通って御社(檀上伽藍の丹生高野明神)拝殿の山王院に安置されて祈禱に用いられた。この時、御社に向けた正面には、南院所蔵の御本地供曼荼羅(胎蔵界大日・金剛界大日・弁財天・千手観音・ウーン種子)掛軸がかかげられている(内海照隆南院住職の御教示)。
現在国の重要文化財に指定されており、「唐代」という通常もちいない時代鑑定になっているのも「秘仏」の特性を重視したものであろう。だが何よりもこの尊像を著名にしたのは、その来歴である。空海を守った霊験により、日本の国家的な危機に際して、鎮護国家の尊像として活躍した。とりわけ、神戦の考え方が広まった中世社会においては、国土を外敵から守る神として大きな役割を担った。もとは高野山に伝わっていたわけではない。
空海の帰国後は、宮中の真言院、ついで神護寺・醍醐寺等に安置されて数々の祈願に供されたが、承平・天慶の乱が起こると朝敵・新皇将門の覆滅のために名古屋熱田社に動座して調伏祈禱が試みられた。熱田社は三種の神器のうち草薙の剣をもつ宮であり、浪切不動はその利剣をもって最高の調伏を行ったのである。
その後、高野山の拝殿山王院に祀られて丹生明神と一体の尊神と崇められたが、当時山王院を管理したのが東大寺南院より入山した真興(南院初代)であった。中興開山維範は優秀な学僧であり、このときに浪切不動を南院に遷して本尊とした。南院は現在地ではなく、南院の名の通り、本寺の南側、現在の霊宝館駐車場の辺にあった。
弘安の蒙古襲来がおこるや、南院院主の賢隆に率いられて今度は最前線の博多に出兵した。志賀島にて、高野山僧による五壇護摩の祈禱、異国降伏祈禱が行われて蒙古は神風に沈んだ。この時の霊験によって、帰山した南院賢隆の名声はたかまり、ほどなく高野検校に就任した。このような事績は『高野春秋』や南院聖教にまとめられており、近世半ばには流布していたと思われる。
その後も、「世界大戦」など国家存亡の危機に際して、浪切不動による降魔調伏の儀礼が行われた。
秘仏・高野山南院「浪切不動明王」考 : 弘安の蒙古襲来と志賀島 - 和歌山大学学術リポジトリ
- 上記引用文中にある世界大戦時の降魔調伏の儀について、国立国会図書館が運営する「レファレンス協同データベース」に次のような記述があり、日露戦争の際に行われた敵国降伏の祈祷の際に浪切不動が迎えられたとの記録があるとされている。
質問
日清・日露戦争及び第二次世界大戦中に、高野山で加持祈祷(怨敵調伏含む)が行われていたことがわかる資料はないか。軍が関与したという記述があると良い。回答
『高野山史 新版』(宮坂宥勝・佐藤任/著 心交社 1984)には、「日清・日露両戦争と高野山」(p.200-204)、「ファシズムと戦争の時代」(p.221-242)の記述があり、軍隊布教や軍隊慰藉など、高野山と軍の関わりがわかる。
加持祈祷に関しては、日清戦争では、「高野山では戦争がはじまるや、直ちに敵国降伏の祈祷をおこない、お守りや秘訣をもって軍隊を訪問した。」(p.201)、日露戦争では、「高野山では1904(明治37)年2月10日戦宣が布告されるや、早くも同日より南院の波切不動明王を伽藍山王院に迎えて、敵国降伏の大祈祷を修し(後略)」(p.202)との記載がある。
(以下略)日清・日露戦争及び第二次世界大戦中に、高野山で加持祈祷(怨敵調伏含む)が行われていたことがわかる資料... | レファレンス協同データベース
- 像ではなく絵画であるが、高野山明王院には通称「赤不動」が伝えられている。これは、正式には「絹本着色不動明王二童子像」といい、国の重要文化財に指定されている。後醍醐天皇が守り本尊として吉野に逃れる際にも所持したとされ、京都・青蓮院の「青不動」、滋賀・園城寺の「黄不動」とともに「日本三不動」と称される。
赤不動とは - コトバンク
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。