生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

2020-01-01から1年間の記事一覧

うるしが渕 ~古座川町月野瀬~

古座川の清流が巨岩にぶつかり、深渕をなしているところがある。これを「うるしが渕」という。

大師の湯 ~古座川町月野瀬~

古座川ぞいの山峡は、神経痛や傷などに効く鉱泉が豊富。これをパイプでひいて沸かし、風呂に利用している旅館や民家が多い。別名「才の谷温泉」といい、この地方に多い弘法大師の徳をたたえる伝説がある。

少女峰 ~古座川町月野瀬~

古座川岸にあるこの山は、その優し気な名前とはうらはらに、高さ150メートルの、厳しくそそり立つ岩山。愛する人のために短かい生涯を終えた少女の、悲しい物語を秘めている。

勘九郎(かぐろ)磯 ~古座町(現:串本町)津荷~

津荷漁港から古座寄りの「津荷の鼻」を回った広い荒磯に、悲恋に散った兄妹の話が残る。

まかずの稲田 ~古座町(現串本町)古田~

弘仁元年(810)2月、この地方を訪れた弘法大師が、古田の白石新兵衛友綱方へ現われた。佛道に篤い心をもち、また大師の説法に感じた友綱は、重畳山神王寺の開基に物心両面の協力をした。

重畳山(かさねやま)の牛鬼退治 ~古座町(現串本町)神野川~

昔むかし。重畳山の奥山に「牛鬼」という怪物がいた。「われこそは」と、退治に出かける人は多かったが、だれ一人として帰って来た者はなかった。

鯛島 ~古座町目津(現串本町古座)~

目津海岸から約一キロ。海賊「藤四郎」で知られる九龍島(くろしま)の後に続くようにして鯛島が浮かんでいる。

背美の子持ち ~太地町太地~

太地の捕鯨は慶長11年(1606)に始まったといわれ、荒海での鯨との戦いは、いかにも勇壮。しかし、そのかげには多くの悲劇も生んだ。

鯨えびす ~太地町太地~

七福神で知られる恵比須さんは、海上、漁業、商業などの神として広く信仰を集めているが、この地に伝わる「えびす」は、鯨で名を売った男の話。

おこない棒 ~那智勝浦町那智山~

昔、那智山に鬼がいた。この鬼、里へ出てきては田畑を荒らし、村人たちを困らせる。 そこで村人たち、一計を案じて鬼にいった。 「もっとヒマな時に出てくればいいのに。ヒマなのは正月の元日から七日までや」

海中の井戸 ~那智勝浦町~

紀の松島で知られる勝浦湾に「モグラ水道」と呼ばれる水脈が走り、海底から真水がわきでている。全国でも珍しい海中井戸だ。 これは、文覚上人(1120~?)にまつわる、動物報恩の話。

徐福の話~新宮市徐福町~

国鉄新宮駅前から、東へ約100メートル。大きな樟が生い茂る小公園の中に、自然石の碑が建つ。碑面の字は「秦徐福之墓」。入り口には、やはり「史蹟 秦徐福墓」と刻んだ、高さ1メートルばかりの石柱。 いつも香華の絶えることのないこの墓には、はるかな昔の…

酒が足らんさけ ~新官市~

酒にまつわる話は多い。しかも、その多くは酒が故の失敗談であったり、そのしくじりが喧嘩口論に発展したというものだが、いまも新宮で語られるこの話は、いわば「酒飲みのへ埋屈」であり、そのために身近な笑い話として残ったものだろう。

美少女おいの ~新宮市新宮~

「好いた同志のうれしい首尾で 心浮島ひとめぐり」。 新宮節にもうたわれている天然記念物「浮島の森」は、いまなお神秘的な雰囲気をただよわせる。そして、その神秘さをそのまま語るような話が伝わる。

橋杭の立岩 ~串本町鬮野川(くじの川)~

古座町姫の国道わきから、約2キロを距てた大島に向かって、大小30余の岩礁が立ち並ぶ。高さ20メートルの、切りたった大岩も含めたそれは、文字通り一直線。ちょうど橋ゲタのように連なる。

お雪の墓 ~串本町大島~

大島は、太平洋戦争の頃まではむしろ、串本の町より賑わった。とくに徳川三百年の間。江戸へ通う船乗りたちのオアシスとして重宝された。

鯨のお礼~串本町有田~

有田稲村の米吉というこどもが、命を助けてやった鯨の背に乗ってアメリカヘ渡り、そこの森の神さまから巨木をもらって帰った。「以前、お米をもらったお礼です」。少年はそういって、巨木を金持ちの家へ贈った。

おおな魚~串本町和深~

おおな魚。春、菜の花の咲く頃から釣れはじめ、5月末までがシーズン。和名イシナギ。本州南岸では和深沖の「おおな地」だけで釣れるという。

権八地蔵 ~すさみ町江須ノ川~

明治の初年、すさみ町里野の東海岸にある大きな洞窟に、三人の親子が住んでいた。父親は伝次、母親はたま、男の子はたまの連れ子で権八といい、毎日、門づけに歩いた。

小山肆成(こやま しせい)~日置川町(現白浜町)久木~

久木に、わが国で初めて天然痘の予防ワクチンを開発した、小山肆成の生家跡がある。

鈴木重秋の暗渠~日置川町(現白浜町)神宮寺~

神宮寺から寺山、安居地区にかけた水田地帯に、いまも古い水路が流れている。「安居(あご)用水」とも呼ばれるそれは、安居の庄屋、鈴木七右衛門重秋の手づくりの暗渠という。

おしんの首 ~日置川町(現白浜町)安宅~

日置安宅(あたぎ)の水軍は、戦国から江戸時代にかけ、熊野全域に強い勢力を誇った。

市江地蔵 ~日置川町(現白浜町)市江~

いまから数百年の昔。大阪淀屋の千石船が江戸へ向かっていた。ところが紀伊半島を回るころ、急に空模様が変わり、高波が出て、船は木の葉のように揺れた。

名馬・興禅寺号 ~上富田町市の瀬~

紀州藩主に佛の道を説いた富山第二世良遂宗真和尚は、海蔵寺第四世住職を経て、上富田の興禅寺に隠住したが、田舎の不便な暮らしを案じた藩から「興禅寺号」という馬を贈られたという。

娘鶴 ~上富田町~

その名の通り、豊かな水田がひろがる上富田の里。だが、かつてこのあたりは、富田川のはんらんで多くの沼ができ、芦が生い茂って、たくさんの鶴が飛来したという。

三兵衛の義挙 ~上富田町朝来~

江戸時代、朝来村の農民は、厳しい年貢の取り立てに苦しめられていた。その上、その年の稲の出来具合いを調べる「毛見」(けみ)の回数が多く、そのたびに村人たちは、役人に白い飯を炊いてもてなした。

将軍山 ~大塔村(現田辺市)中の俣~

日置川町との境界にある将軍山(標高748メートル)には、日下義龍一族の屋敷跡が残っている。戦いに破れた義龍が、家臣と共にかくれ住んだという。

大塔村と大塔宮護良親王

(「紀州 民話の旅」番外編) 現在は合併により田辺市の一部となった「大塔村(おおとうむら 平成7年(2005)に田辺市・中辺路町・日高郡龍神村・東牟婁郡本宮町と合併して新・田辺市となった)」は、昭和31年(1956)に当時の三川村・富里村の一部・鮎川村…

蛇の川原 ~大塔村熊野(現田辺市面川)~~

熊野(ゆや)川をさかのぼると「蛇の川原」という、気味の悪い沢がある。

救いの太刀 ~中辺路町(現田辺市中辺路町)道湯川~

鎌倉時代、岩神峠に狂暴な山賊が出た。この辺りは、熊野権現に通じる参詣路。参拝の旅人も絶えてしまった。このため京都の六波羅探題は、「山賊を退治した者には恩賞を取らせよ」と、ふれを出した。