生石高原の麓から

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市江地蔵 ~日置川町(現白浜町)市江~

  いまから数百年の昔。大阪淀屋の千石船が江戸へ向かっていた。ところが紀伊半島を回るころ、急に空模様が変わり、高波が出て、船は木の葉のように揺れた。

 

 船乗りたちは、逆巻く海にイカを降し、必死で波と闘った。一夜明けてイカリを掲げると、その先に石の地蔵さんがかかっていた。やがて市江の港で船を修理し、船出しようと帆を上げたのだが、追い風が吹かない。仕方なく船で寝起きをくり返していたところ、ある夜、不思議な光彩に包まれた仏さまが現われ「願いおく。姿をここにおきの国。誓いもかたい石の御仏」と告げた。

 

 そこで、船乗りたちは、海が見える市江の岡に地蔵さんを安置したところ、急に風が吹き、船は帆をはらませたという。

 (メモ:国鉄紀勢線日置駅から約15キロ。明光バスの市江バス停から徒歩で約20分。国道42号線から約500メートル谷間を下った左手の丘陵にある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

港から市江地蔵尊を望む

 

  • 市江(いちえ)は、現在の白浜町日置(旧日置川町市江)にある漁港。江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「日置浦」の項には次のような記述があり、かつてこの地域は材木の集積地として繁栄していたとされる。

日置浦 小名 志原(シハラ) 笠甫(カサボ) 市江(イチエ)
(略)
富田荘朝来帰(アサラキ)村の南2里28町にあり
村居 坤(筆者注:ひつじさる 西南)に向いて海に浜し
安宅川の海口にして 
海上 南は礫(ツブテガ)浦を周参見荘の堺とし
北は小名箕輪を富田荘朝来帰村の堺とし
南北総て3里半を日置浦という
村の南17,8町許(筆者注:ばかり)にして海上に突出したるを安宅崎という
其南1里許に突出したるを小石が鼻という
村の乾(筆者注:いぬい 北西)2里許にして突出したるを市江崎という
材木の廻船数艘 諸国に通いて繁栄の浦なり
故に人家も数百並列して町をなし小名も多し
(以下略)
※筆者注:読みやすさを考慮して漢字、かなづかいを適宜現代のものにあらためた。

 

  • 本文の物語は、「ひきがわのむかしばなし日置川町同推教員連絡協議会発行 1983)」に「市江の地蔵さん」という題名で収載されている。なお、ここでは地蔵は金色に光っていたとされるが、実際の市江地蔵は石造である。

市江の地蔵さん    市江地区
 市江のお地蔵さんは、市江の里の海辺から何段も何段もの石段をのぼりつめた、市江で一番高い所にあります。このお地蔵さんに、きょうもお参りする人が何人も石段をのぼっていきます。
 石段をのぼりつめた所は小さい庭になっており、まわりにしげる木々にかこまれて、大きな石の碑とそてつの大木、それに石でできた手洗いの水ばちが庭をうずめるように位置しています。
 うす暗い本堂に入ると、上がりがまちが高くなっているざしきには、大きな鈴や絵馬などにかこまれた形で、部屋のずっと奥の方にお地蔵さんの入っている小さい家がかざられています。
 このお地蔵さんについてはこんな話があります。
     × × × × × ×
 いまからもう二百年あまり前、日本はそのころ「江戸時代」といってさむらいが一番えらばっている世の中でした。もちろん、鉄道などなく道もきちんと開けていなかったため、交通の中心は、帆船(はんせん)といって風の力で走る船にたよっていました。
 この日も、大坂(阪)から江戸(今の東京)に向かう大きな船が帆にいっぱい風をはらんで、静かな海をすべるように進んでいました。天気はよく、船の乗組員たちは口ぶえでも吹きそうに上きげんで、船べりに集まって楽しそうに話し合ったりそれぞれの仕事をしたりしていました。
 ところが、船がちょうど市江の沖にさしかかった時です。いままで鏡のように静かだった海に急に波が立ちはじめ、晴れていた空には見る見るうちにまっ黒な雲がわきあがって、大つぶの雨がまるでひっくり返したようにいきおいよく降ってきました。
 風は音を立てて鳴り、大きく荒れくるう波は船を木の葉のようにきりきりまいさせ、高い所に持ち上げては何メートルも低い所に落とします。
 船員たちは大あわてにあわて、船を岸の方に向けようとしますがもうどうにもなりません。もみくちゃにされながら、吹きつのるあらしの中でどうにかこうにか帆を下ろし、何本も何本ものイカリを海に投げこんで船をその場所に止めておくことにしました。しかし、あらしはイカリごと船をずるずる、ずるずるとひきずってなおも荒れくるいます。
もうだめか。
と、船員たちがかくごを決め、目をつむった時です。
 ふしぎなことに、あんなに吹き荒れていた風がぴたりとやみ、大ゆれにゆれていた船もその動きを止めました。まるでうそのように波が静かになり、雲の間に青空さえ見えてきました。
それ、いまのうちに港に逃げこもう。
船長が大声でどなり、船員たちはあわててイカリを上げはじめました。
 一本二本とイカリが上げられ、やがて四本目のイカリを上げにかかった時です。船員の一人がイカリの先に何かひっかかっているものを見つけました。それは、イカリにぶらさがるようなかっこうできらきらと光っています。船員たちがいそいで引き上げて見ると、それは小さい金色のお地蔵さんでした。
 きのうからの大あらしがうそのように止んだのは、きっとこのお地蔵さんがあらしを静めてくださったからにちがいないと、船長をはじめ船員たちはそこにお地蔵さんをきちんと置き、みんなでお礼の言葉をのべながらおがみました。
 それから何日かして、いたんだ船の修理も終え、いよいよ市江の港を出港する日がやってきました。
 ところが、イカリを上げ帆をいっぱいに広げましたが、どうしたことか何日たっても風が少しも吹きません。しかたがないので船員たちは、じりじりしながら船で寝起きをして風が吹くのを待っていました。
 そんなある夜のことです。船長がふしぎな夢を見ました。金色に光る仏さまが現れて、
お願いがあります。どうか私を船からおろして、この村に置いてもらえるよう村の人にたのんで下さい。そうすれば、私はお礼に沖行く人たちの身の安全をお守りしましょう。
そう言ってフッと姿を消してしまわれたのです。
 目がさめた船長はすぐに船員たちを集めました。そして、このことを船員たちにも話し、さっそくお地蔵さんを市江の海辺にある高い丘の上におまつりしました。
 やがて、船は帆にいっぱい風をはらんですべるように市江の沖合に出ました。
 丘の上にまつられたお地蔵さんは、この時から航海の守り神として、また、漁をする人たちの神さまとして、市江の人々だけでなく遠く和歌山や大阪の方からもお参りに来るほど、人々に親しまれています。

 

  • 和歌山民話の会編「きのくに民話叢書6 大辺路 日置川・すさみの民話(和歌山民話の会 1990)」には、この市江地蔵にまつわる次のような7通りの伝承が収載されている。これによれば、市江地蔵は海難守護の御利益にくわえ、神籤(みくじ)がよくあたるということで評判だったようである。

市江地蔵(1)
 もう千年位前になるのではないでしょうか。松くい虫にやられたマツの年輪をたんねんに読んだら397、8まで読んで分からなくなりましたが、寺伝には、ここにあがって400年向こうで(サワイさんの屋敷)幾星霜と書いていますね。この下のサワイさんという家の屋敷がここの地蔵さんの屋敷だってね。そこへお祀りしてあったのですが何かこう波の具合で危険だということでこの地に上げて来たのでしょうね。そういうところから見たら余程古いですね。
 このお地蔵様は、航海の守り神として、また大漁の神として親しまれています。一体は海底より錨にかかってきましてね。誠に世にまたとない霊尊でございますよ。両脇には、二体のお地蔵様が安置されていましてね。これは、平家の落人がかついできましたお地蔵にて良縁、安産の神として有名ですよ。
    [話者・吉田清視(日置川・市江) 記録・小路

 

市江地蔵(2)
 まあ、この市江地蔵さんは、お産でも何でも霊感あらたかな地蔵さんで、皆よそからお参りにようくるわ。おみくじを引いて和尚さんが判断してくれる。おみくじもよう合うさかね。
    [話者・上田富枝(日置川・市江) 記録・小路

 

市江地蔵(3)
 わしらも沖に漁業に出てよう。もう夜分6時頃に出てね。イカとりに出てね。ほいて、えび網という網やってんのよらよう。朝の4時頃あげに行かんならんのやけどね。あんまりそのようさんイカつれてね。そのまあ、来んのおそなったんや。どこへ行ったんかと言うと印南へ夜さも行ってね。そいで、おそなってね。家の者が帰りがおそいので心配してそいでまあ、このお地蔵さんでね。みくじ引いてもうてんね。おみくじ引いてもうたら、「まあ、心配するこたあないわ」と言うてね。ぼつぼつ来るさかと言うてね。そんな具合だったよ。よう合うたのですよ
    [話者・愛須佐六(日置川・市江) 記録・小路

 

市江地蔵(4)
 和尚さんがよう当てるし、さがし物もよう当たる。盗まれたったら「盗まれたる」 家の中にあったら「まあっ一ぺん探せ、じきに出てくる。外に出てないから」と言う。地蔵さんもありがたいけど、おっ(和尚)さんの判断もえらいんじゃで。
    [話者・上田コイト(日置川・市江) 記録・小路

 

市江地蔵(5)
 この絵馬にあるように文久元年(筆者注:1861)のころ、漁師木村政吉が日置沖で突風に合い遭難した。そして八丈島に流れついたのですな。家族が心配してこの市江のお地蔵様にお参りした。すると、ここの住職さんが「これは、助かってある」と言って、秘法のお神籤(みくじ)のうらないでちゃんと見て当てた。「それはね、3年せんことにゃ、もう帰ってこん
 ちょうど3年目にお遍路になってね、帰ってきた。政吉のいうには、大嵐になって、転覆した時、雲間に市江のお地蔵様が現われ、「我にすがって、がんばっておりなさい」といって、お地蔵さんが、お守りを放って来て下さった。
 その他、大阪の大黒屋さん、回船問屋の平兵衛さんとか大阪の大文字屋重兵衛さんとかね。豪商ですね。その方らが、昔、昔に参っていますな。航海安全のためにね。こちらの紀州で名高い、紀ノ国屋文左衛門らでもやっぱり御信仰なさったと思いますよ。
    [話者・吉田清視(日置川・市江) 記録・小路

 

市江の地蔵(6)
 市江の地蔵さんは海から上がって来たらしい。前の住職田辺市三栖出身)があそこへまつったので、漁神さんとして、田辺の江川や南部付近、市江、朝来帰(あさらぎ)の人々がよくおまいりする。また、商売繁昌の神さんともいう。
    [話者・上野観一(日置川・笠甫) 記録・吉川

 

市江地蔵(7)
 ずっと昔から、沖の地蔵さんとかなんとかいうて、帆船の錨の爪へかかってきたと言う話を聞いた。そうしてここへ祀った。また、焼火(たくび)地蔵尊とも言うてね。私ら、子供の時分にはね、この3月24日に出店まで出たんでよ、出店。その時分には、あのここらでは、神、仏をにぎやかに祀ったもんや。とにかくね。ここの地蔵さんは、海難地蔵さんていうんか知らんけど、漁師など沖へ行った時に、困った時によ。千枚札とか言う細かいこんなお地蔵さんの、その、ぽんぽんと赤い判でおした小さい紙(幅3センチ、縦1~1.5センチ)流し地蔵さんと言うものを授けてもらって錨が下にかかって、はずれん時には、こういうやつを流したり、ほいて魚が釣針をくわえて、とれんかとれるかというような時に、そういうお札を海に流したら、ふしぎとその魚が、船に綱もきれんと入るという妙もあった。
    [話者・上田与三郎(日置川・市江) 記録・小路

 

  • この市江地蔵に関する信仰について、旧日置川町が編纂した「日置川町誌」では次のように解説されている。

[海の民の信仰と市江地蔵]
 市江の集落を見下ろす高台に、海民の信仰を集めてきた市江地蔵焼火(たくひ)地蔵が祀られている。この地蔵には二種類の伝承が存在している。最初に紹介する縁起は、現在、市江において伝承されているものである。

 

何百年も前、大坂から江戸に向かっていた千石船市江崎の沖にさしかかったとき、嵐に巻き込まれた。船乗りたちは、船が流されないよう、いくつもの錨を投げ入れ、海の神に祈っていると、嵐はおさまった。錨を上げてみると、一つの錨に石の地蔵さんがひっかかって上がった。船員たちは、助かったのはこの地蔵さんのおかげだとして、大切に祀った。船は近くの市江の港に入り、修理と風待ちをした。やがて出航するころになり、船長の夢に地蔵が現れ紀州の船の航海を守るので、ここに下ろしてほしいと語った。そこで、地蔵を市江の海辺の高いところに祀ったところ、航海の神大漁の神として、市江だけでなく、周辺の人々の信仰をも集めるようになった。

 

 もうひとつは、明治35年(1902)の『紀伊教育』108号に掲載されたものである。

 

今ヨリ五百年前沢井太郎兵衛ナルモノ穴ノ海ト云浜ニテ石地蔵網ニカゝル隠岐ノ国焼火地蔵ノ分身ナリトテ太郎兵衛屋敷内ニテ奉祠ス、元禄度田野井天徳寺主連蜂和尚四十一才ノ時当村小字上野山ニ草庵ヲ結ビ彼ノ地蔵ヲ安置シテ本尊トセリト云、

 

 現在知られているのは前者の縁起であり、後者についてはその伝承を確認することはできなかった。しかし、沢井家は地蔵屋敷と呼ばれていたといい、現在地に移る以前には、地蔵は沢井家に祀られていたという伝承は残っている。
 市江の地蔵は、昭和になってからは、①航海の守り神、②大漁の神、などとして信仰を集めていた。①に関しては、地蔵に奉納された明治から昭和にかけての廻船絵馬(帆船が多い)がその様相を示している。なかには、海上で遭難しそうになったとき、市江の地蔵が現れて助かったという状況を描いた海難絵馬も残されている。絵馬の奉納者を見ると、大半は日置の船であるが、なかには大阪の船も見られ、信仰圏の大きさがうかがえる。①の信仰は、日置の機帆船が衰退してからはなくなっており、現在では②の信仰内容が中心となっている。市江や日置の漁民のみならず、田辺方面からも参詣がある。漁のないときに行うシオマツリのとき、地蔵さんからもらってきた「流し地蔵」のお札を海に流す。また、エビ網のときにも最初にお札を流す。先述の二つの伝承は、このような信仰内容ともかかわっていると思われる。つまり、廻船民の信仰の根拠となっているのは前者の伝承であるが、地元漁民の信仰を体現しているのは後者の伝承であったと思われる。固有名詞を省いた廻船民の縁起は生き残ったが、現実の信仰内容としては、漁民の信仰が残ったということになる。

 

 和歌山県にも、海から上がった神仏の伝承は多く見られるが(大原満1983)、市江の地蔵の場合、廻船民の信仰と漁民の信仰を同時に集めていたところに特徴がある。とくに、焼火地蔵と呼ばれていることは、隠岐の焼火権現との関係をうかがわせる。市江地蔵の御詠歌に、「ねがいおく すがたをここに おきの国 ちかひもかたき 石の御仏」というものがあるが、近くでは白浜町綱不知でも、隠岐からもたらされた地蔵を祀ったという伝承がある。隠岐の焼火権現とは、平安時代から知られた海上交通の守護神であるが、江戸時代に北前船が発達したことにともなって、その信仰が広まった。市江の場合は、岬であり、大正時代に灯台ができる以前には、ブジマの鼻で目印の火を焚いていたという。市江はこのような海上交通の要衝であったため、海からの目印として、江戸時代に大坂・江戸間の廻船が発達したことにともなって、信仰を集めるようになったのであろう。

 

  • 上記の「日置川町誌」の記述によれば、市江地蔵隠岐の焼火権現との関連が指摘されている。「焼火(たくひ)権現」とは、島根県隠岐西ノ島町にある焼火神社に祀られる地蔵尊を指すもので、航海安全の守護神として全国から信仰を集めた。平成31年(2019)に和歌山県立博物館が制作した小冊子「先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝えるⅤ -命と文化遺産とを守るために- 【日高町白浜町(発行:和歌山県立博物館施設活性化事業実行委員会)」では、災害の一種として海難事故を取り上げ、これを防ぐための庶民の信仰として「焼火地蔵信仰」を取り上げており、市江地蔵尊について詳しく紹介している。これによれば、市江地蔵尊にはヤッコカンザシという海の生物の巣跡が見られることから、一定の期間海中に沈んでいたものであることは間違いないという。
    焼火神社 - Wikipedia

焼火(たくひ)地蔵信仰の広がり

市江地蔵尊(いちえ じぞうそん) 市江区蔵
  所在地 白浜町日置
  造像時期 江戸時代
  材質 石造
  サイズ 総高44・5㎝
 市江地蔵尊は,現在でも県内各地や大阪から参拝者があり,村落の中心的存在として大切にまつられています。
 数百年前に,嵐の海上で船乗りたちが神に祈ると,波が穏やかになりました。今のうちに市江崎に寄港しようと急いで錨〈いかり〉を上げると,そこにお地蔵様がぶら下がるように引っかかっていた,とされています。
 堂内には明治22年(1889)銘の「海上安全 焼火地蔵尊鋳像」と記された半鐘がつるされているほか,この伝承に基づいた明治~大正時代の船絵馬が飾られています。

 

浄土院地蔵(じょうどいん じぞう) 浄土院蔵
  所在地 日高町小浦
  造像時期 江戸時代
  材 質 石造
  サイズ 総高48・5㎝
 浄土院地蔵は,錫杖〈しゃくじょう〉や頭光の繊細な彫りが特徴です。「屋根の下にまつってはいけない」という言伝えがあり,本堂横に安置されています。
 伝承によれば,数百年前に岸和田の漁師漁の網にかかったお像を引き揚げてお寺に奉じました。すると,住職の夢の中でお地蔵様が「焼火権現」と名乗ったとされています。
 この漁師かは不明ですが,浄土院には岸和田の漁師に奉納された弘法大師の「のぼり」が残されており,大阪南部出身の漁師から信仰を集めていたお寺であることがわかります。

 

 地震津波,洪水などとともに,海辺で暮らす人々にとって最も身近で恐ろしい災害のひとつが,海上での嵐による船の浸水・転覆・漂流などといった海難でした。だからこそ,漁業や交易が盛んな浦々では,海上での安全を祈る信仰が広がっていきました。
 和歌山県沿岸部には,こうした海難除けの石地蔵が多くまつられています。その中でも特徴的なのは,日高町小浦の浄土院地蔵白浜町日置・市江区の市江地蔵尊などの,「焼火権現焼火地蔵)」を由来とする石地蔵です。
 焼火権現は島根県隠岐にある焼火神社主祭神で,山陰地方を中心に海難除けの神として船乗りたちから信仰を集めました。江戸時代には日本全国で海上交通が発達し,廻船の航路のひとつに隠岐島が含まれたことにより,日本海側のみならず太平洋側の三陸海岸に至るまで,日本中の海岸線へその信仰が広まりました。今回取り上げた両地蔵も,こうした廻船の船乗りと漁師たちを中心に信仰されたものと考えられます。
 浄土院と市江の両地蔵のほかにも,白浜町綱不知〈つなしらず〉地蔵松の木地蔵などに焼火権現を由来とする伝承が残っています。特に松の木地蔵にはかつて鳥居があり,お参りの際に柏手を打っていたと言われ,権現(神)として信仰されていたことがわかります。
 焼火権現とは,隠岐島の沖合で火の玉が浮かび上がり,山上の大岩に飛び入ったことを縁起とする火の神です。神社が島の沖合からよく見える高い山の上にあり,航海の道しるべとなったといいます。隠岐の焼火権現と和歌山県沿岸部の焼火権現とは,海中から現れたという伝承と,像が海沿いの目印となる場所にまつられていることが共通しています。
 興味深いのは,市江地蔵尊にはこうした伝承の通りに,実際に海に沈んでいた明らかな証拠があることです。お像の表面に,海面近くの岩場に住むヤッコカンザシという海の生き物の巣跡が見られます。つまり,このお像は長い間,潮の満ち引きの中で水中に沈んだり海面から顔を出したりを繰り返すような場所にあったのです。「嵐の海」かはわかりませんが,実際に人の手によって引き揚げられ,今の場所にまつられたという経緯が窺えます。
 浄土院地蔵や市江地蔵尊を始めとするこれらの石地蔵は,このように遠く離れた隠岐の焼火神社からやってきたという伝承によって,篤く信仰されました。海難という災害を退け,海上の安全を願う人々の祈りを集めたことが想像されます。現在まで続くこうした信仰から,海辺の人々にとって海難がいかに差し迫った災害であったかを窺うことができるでしょう。
災害小冊子

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。