生石高原の麓から

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畑峰の六地蔵さん ~印南町樮川~

 「コン二ャクをお供えしたら、どんな病気でもたちまちすっかりよくなってしまう」。そんな重宝なお地蔵さんが「畑峰の六地蔵」。いや「コン二ャク地蔵さん」の名で親しまれ、町外の人たちにまで知れわたっているお地蔵さんだ。

 

 その昔、小栗判官照手姫の引く車に乗って熊野へ詣でた、という話があるが、このお地蔵さんの名は、その小粟判官に由来するという。


 病いの身を気づかいながら、この地を通った二人。日も暮れかかって、近くの農家に一夜の宿を頼んだが断わられた。そこでやむなく、六地蔵の御堂で一泊、持ち合せたコン二ャクを供えて、一心に病気全快のお析りをした。その夜、判官の夢枕に地蔵さんが現われ「本宮の湯の峰の湯につかって、しんぼう強く治療をすれば、必らず全快するであろう」というありがたいお告げ。そのご託宣通り、さしもの判官の病気も全快したという。

 

(メモ:印南町切目の国道42号線から切目川沿いに県道へ。バスなら古井停留所から徒歩10分。上流へ崎の原と続く。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

こんにゃく地蔵 参道入口付近

 

  • 前項でも紹介した印南町作成のパンフレット「紀州日高路 印南 ふるさとお詣りコース」には「こんにゃく地蔵さん」の項があり、次のような説明文が付けられているが、「江戸時代初期から祀られている」との文言があるものの、その由緒については特に触れられていない。

 印南町樮川(ほくそがわ)畑峰地蔵は別名コンニャク地蔵として知られている。江戸時代初期頃から祀られている。祭日は12月20日と旧歴の12月20日の2回ある。当日はコンニャクを御本尊にお供えし自宅に持ち帰ってこれを食べる。これによって祈願成就、除厄開運の御利益大と言われる。祭日当日には町外からの参詣者も多い。祭壇の奥にお座りになるお地蔵様は、赤や白い布のよだれ掛けが重ね重ねて掛けられ、頭までかぶさっていて信仰の厚さの証である。

 

  • また、印南町が編纂した「印南町」にも「こんにゃく地蔵」の項があるが、ここでも「この地蔵は約370年前(町史の刊行時期(1990)から逆算すると元和6年(1620)頃か)から祀られているといわれる」とあるのみで、由緒等についての記載はない。

こんにゃく地蔵(樮川畑本)
 畑峯地蔵というより「こんにゃく地蔵」として知られ、果ての二十日の12月20日の会式には郡外の人々の参詣も多い。会式の当日、こんにゃくをお供えし、それを自宅に持ち帰って食べると、祈願成就、除厄開運の御利益大であるといわれる。
 伝えによると、この地蔵は約370年前から祀られているといわれる。

 

  • 中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」には、「こんにゃく地蔵」という題名で地元紙の記事が紹介されているが、ここでは由緒として「落武者の冥福を祈るため」あるいは「処刑場の跡地に建てられた祠」という伝承が紹介されており、小粟判官や照手姫は登場しない

こんにゃく地蔵
 樮川の畑峯峠にこんにゃく地蔵がある。畑峯地蔵とも呼ばれている。
 この地蔵の祭は毎年旧暦の12月20日に行われ、里人は果ての二十日の御祭と言っている。こんにゃくを地蔵に供え、これを持ち帰って食べるとどんな病気でも全快する。特にぜんそくに御利益があると言われる。
 昔、熊野街道の道端で、戦に破れた落武者が自害したが、里人がその武者の冥福を祈るために祀ったのが起こりだとも、また、この地が紀州藩の罪人の処刑場で、毎年12月20日に刑の執行がなされたが、その処刑場が取り払われた跡へ小堂を建てたともいう。
 刑場跡の地蔵はよくこんにゃく地蔵と呼ばれる。有田郡内にも二カ所ある。昔、こんにゃくで糊を造ったが、処刑された首がつながるようにという意味からこんにゃく玉を供えて祀ったんじゃないかという土地の故老の話である。
    昭・51 日高新報

 

 

  • 現在のところ、こんにゃく地蔵にまつわる小栗判官の伝承は確認できていないが、ここから南西に約6キロメートルほど離れた場所にある東光寺印南町印南)には良く知られた小栗判官の伝承が残されている。上述の「日高地方の民話」には、「東光寺霊験記」という題名でこの伝承が収載されているので、参考に紹介する。ここでは、小栗判官が同寺の薬師堂に21日間籠もって祈願したところ薬師如来から湯の峰で百か日間浴せよとのお告げを受けたとされており、本文の話と良く似ていることから、東光寺の伝承がこんにゃく地蔵の由緒と混同して伝えられたことがあったのかもしれない。

東光寺霊験記

 後花園天皇(筆者注:在位 1428 - 1464)の永享(筆者注:1429 - 1441)のはじめごろだという。ある年の11月、寒い夕ぐれ時印南の薬王山東光寺の参道を箱車をついて上っていく旅の女があった。「熊野詣での旅の者、病人を連れて困っておりますれば・・・・・」と一夜の宿を請うと、住職は蒲団もないがと断って泊めてくれた。ところが箱車の主は風邪をひいてしまい、発(た)てないので正月過ぎまで泊らなければならなくなってしまった。
 箱車の男の名は小栗判官助重、女は照手姫といった。判官は元常盤(ときわ)の国、小栗城主で馬術の名人、智勇兼備の武士であったが、反逆の企ありと、ざん訴されたため、時の鎌倉管領足利持氏の怒りをかい、兵をさし向けられて防戦したが、そのかいなく落城。判官は主従わずか11人で商人に変装して城をのがれ、三河の国の身寄へ急ぐ途中、藤沢で夜になった。
 一夜の宿を横山太郎の家にたのんだ。横山を盗賊とは知らなかった。横山はよい獲物とばかり白拍子を呼んでもてなし、最後に毒酒を盛った
 その夜の白拍子の中に照手という歌姫がいた。この女は父を佐武則道といい、元、相模の国太田城で、子がないところを観音様に祈願して生まれた子だったが、父母に早く死別し、故あって横山に養われていた。照手は一目で判官が好きになったのである。しかし横山の策謀を知って判官に告げた時はもう遅かった。10人の郎党たちは血を吐いて悶死し、判官も五体はしびれ、舌はもつれ、人事不省になってしまった。横山はしてやったりと11人の衣服・持物をはぎ、手下に命じて死骸を上野ヶ原に捨てた。
 照手は邸を抜け出して上野ヶ原に走り、判官の体を引きずって藤沢寺遊行上人にすがった。幸い判官は体力があったのか、毒酒をあまり呑まなかったのか、息を吹き返した。しかし猛毒に犯された顔かたちはふた目と見られないものとなり、足はしびれて立つことができなかった。照手は途方に暮れたが、ふと寺で会った旅の老僧に、
この病は常の事では治るまい。これより男を箱車に乗せ、熊野詣でをして唯一心に神仏に祈れ
ということであった。照手は決心して実行に移し、ようやく印南荘にたどり着いたのである。
 この寺は名付寺とも言われ、里人に子供が生まれると本尊様に名を授けてもらえば一生健康で過ごせるとて、病弱な大人も名を授りに来た。正月8日の初会式にはそういう人々の御礼参りで賑わった。住職も薬草に精しく、びわの葉が万病に効くと言い、その葉を入れた風呂を焚いてくれた。しかし、毒に犯された体はなかなか回復しなかった。
 薬師初会式の夜、判官は薬師如来の温かな手に触れて病気が治った夢を見た。判官は住職に話し、住職のすすめもあって、21日間の誓願を立て、薬師堂に籠り、小用の外は一歩も外へ出なかった。そして照手が集めて持って来る小石に一石一字の薬師経の文字を書き如来に捧げた。そして遂に結願が来た。その夜、ふと眠った夢に薬師如来が現れ、
御身たちに熊野詣でをすすめたが、よくぞここまで来た。二人の信心に応えて教えよう。これより熊野に参り、湯峰の湯に百ヶ日浴すれば必ず業病は治る。疑うことなかれ」というお告げがあった。
 二人は数日後旅立った。里人もわけを聞いて名残り惜しみ、坂本の坂まで見送った。以来この坂を「残りおい坂」と言い、判官の通った道を小栗街道と言う。
   田辺市芳養町 小谷緑草 大・2
東光寺伝説 | 東光寺

 

◇健康・長寿祈願の参拝多く
 説教節浄瑠璃で有名な小栗判官。熊野詣でによって病からよみがえったとされることから、熊野古道沿いには小栗伝説が数多く残る。小栗判官が49日間(100日ともいう)湯治(とうじ)したという湯の峰温泉・つぼ湯をはじめ、小栗判官を中興の祖とする上富田町救馬渓(すくまだに)観音(一昨年5月29日付掲載)、そして、今回訪れた東光寺も、判官と薬師如来の霊験記から長寿祈願の寺として知られている。
 境内に入ると、「小栗判官霊験の地」の看板が。正面に観音堂、左手に本堂、右手のやや高台になったところに薬師如来を祭る薬師堂が建つ。周囲はすっぽりと山で囲まれ、寒風が吹き抜ける度に木々がサワサワと騒ぎ出す。ついそこまで紀勢線の線路に沿った道だったのに、深山のような雰囲気。なるほど、霊験記が生まれる条件はそろっていますね。
 「うちの小栗伝説は口伝でして、郷土史家が掘り起こして注目を集めるようになったそうです。皆さんに知られるようになったのも、そんなに昔からではないんです」と、嶋田隆道住職。東光寺に伝わる小栗伝説とはこうだ。

 

 --応永29(1422)年、常陸の国・小栗城足利持氏に敗れた小栗満重(判官)は、落ち延びる途中で毒をもられ、足腰がまひしてしまう。照手姫に助けられた判官が、熊野三山に向かう途中で東光寺にたどりつき、薬師如来に21日の願をかけた
 まひも次第に薄れた満願の日、夢に薬師如来が現れ「全快するには湯の峰温泉で湯治せよ」とお告げがあった。判官と照手姫は薬師様にお礼を述べて、湯の峰温泉へと旅立ち、ついに全快、小栗家も再興した--

 

 「ほら、これが」とご住職が見せてくれたのが、地元出身の日本画家、湯川松堂(1868~1955)が寄進した小栗判官と照手姫の図。箱車に乗った判官を照手姫が引いて旅をする姿を描いている。
 箱車を引いた旅ですか。救馬渓観音の伝承では、判官は馬でやってきて、その馬が急病になったのを観音様が治した。それで馬を救った救馬渓観音と寺の名前になった、と聞きました。
 「うちより海沿いにある神社では、判官は波に乗って海からやってきたことになっています。うちは平地ですから箱車、救馬渓観音は山の中にありますから馬じゃないとリアリティーがありません。みな、自分のところの条件に合わせた言い伝えになっているのが面白いですね
 なるほど、説話とか伝承の生い立ちを考えさせる興味深い話ですね。東光寺という名の寺は県内にいくつかありますが、湯の峰温泉には「薬王山東光寺」と、山号までまったく同名の寺があります
 「伝承では、判官がうちと同じ名の寺院を湯の峰温泉に建てたことになっていますが、向こうの創建は平安時代とも言われ、こちらより古いんです(笑)。湯の峰東光寺は天台宗、うちは西山浄土宗。本末関係でもないのに、山号も同じ寺が近くにあるのは謎ですが・・・・・

 ご住職の案内で境内へ。東光寺では古来、ビワの葉を使った施療が行われ、近年まで庫裏の風呂でビワの葉湯に入っていく参拝者も多かったとか。「薬効があるというだけでは面白くないので、小栗判官も入ったビワの葉湯というように話が作られ、広まっていったのかも知れません」とご住職。それもまた、ロマンです。ゆかりの場所でなければ、話も作れませんからね。

 

 さて、薬師様。鎌倉時代の作という薬師如来像は近年、金色の彩色をし直しているため、小栗判官の時代をしのぶよすがはない。東光寺では、病弱な子供などが薬師如来の子になれば健康に育つとされ、住職に新しい名前通称名をつけてもらう風習が残るそうだ。

 「最近では、そういう方もだんだん減ってきましたが、おかげさまで健康・長寿祈願の寺として知られるようになり、檀家(だんか)以外の方もちょくちょくお参りに来られます
<文と写真、編集委員池谷洋二

 

  • 地名の樮川(ほくそがわ)難読地名として知られる、Wikipediaにはその由来として「昔この土地に山火事ありて燃え広がりしも、大木の西にて消火せしにより、木の西の火と書き『ほくそ』と読まて樮川と称す」という言い伝えによるものと記載されているが、その典拠は不明である。また、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「下樮川村」の項では「ほくそ」は「火草」の意であるとしている。(「樮」の字は、続風土記では「栖」の下に「灬(火へん れっか/れんが)」を書く)

村名 保久曽は火草なり 樮は説文に 樮 積柴燎之也 とあり 因りて火草の義に用ふ
※筆者注:「説文解字(せつもんかいじ)」のこと。中国の後漢で永元12年(100)に成立したとされる最古の部首別漢字字典。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。