生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

ミノルタカメラの創業者・田嶋一雄と大野十番頭(海南市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 今回は、我が国輸出産業の花形として戦後復興期から現在に至るまで世界中で高い競争力を誇る日本製カメラの一角を占めたミノルタカメラ株式会社(現在のコニカミノルタ株式会社)の創業者・田嶋一雄をご紹介します。田嶋氏海南市の出身であり、その家系は後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王にまつわる故事で知られる「大野十番頭」のひとつという非常に由緒ある家柄でもありました。

田嶋一雄(日本経済新聞社私の履歴書 経済人 21」1986)

 今や「写真」撮影の主役はスマートフォンとなり、いわゆる「カメラ」は鉄道ファンや野生動物ファンなど一部の愛好家(マニア)のもの、という印象になってしまいました。
 しかし、第二次世界大戦後から高度経済成長期を経てバブル経済に至るまでの間には、カメラこそが我が国経済の急速な発展を示すシンボルであると見なされていた時期が存在しました。昭和43年(1968)に発行された雑誌「月刊経済 昭和43年10月号(月刊経済社)」には「世界に雄飛する日本のカメラ」という特集が掲載されており、この時期に日本製カメラが急速に世界中で評価を高めていたことがわかります。

 

世界に雄飛する日本のカメラ
高まる日本製カメラの声価
 “昭和元禄※1”と呼びならわされている昨今、世はまさにあげてレジャー時代である。
(中略)
 開放気分を満喫する若者、日頃の“ドブネズミルック”※2から原色に衣替えした家族連れの中年紳士、その人相、風体はさまざまだが、彼らが必らず身につけているもの、それがカメラである。
 カメラが、小なりとはいえ、“昭和元禄”の一つの象徴であり国民生活に欠かせない必需品であることに異論はあるまい。
 外国人の日本人評に曰く「眼鏡をかけ、肩にカメラをぶらさげ、手にはトランジスタ・ラジオ※3を持っている」。云い得て妙ではないか。
 ある記録を心にとどめる前にまずシャッターを押す。ことほどさように、我が民族はカメラがお好きという訳である。
 この国民性は、優秀な製品を生み出さずにはおかない。ましてや、手先の器用なことでは定評のある日本人は、精密機械の製造にはうってつけである。「カメラならドイツ製品」は、今や死語となった。
我が国を訪れる外人客の殆んどが、必ずといってよい程、カメラを買って帰国する。こうした傾向は、下手な百の宣伝にまさる“クチコミ”に乗って、いやが上にも日本製カメラの声価を、海外において高めずにはおかないのである。
(中略)
事実、輸出実績をみると、海外市場における我が国カメラの活躍ぶりは、一目瞭然である。
(中略)
 国内普及率が10世帯のうち6世帯に1台と欧米並みになってきた現在、海外市場におけるシェア拡大は、各メーカーならずとも力強い限りだ。
 西ドイツを抜いて世界第一位のカメラ輸出国、今やその地位は不動のものとなっていくようである。
 我が国カメラ産業の本格的な芽生えは戦後といっていい。キヤノン※4ミノルタ日本光学の上位3社はいずれも戦前からのメーカーではあるが、終戦前までは軍の指定工場となって不本意な活動を続けてきた。 思えば、軍需で培われた技術の優秀さをまず実証してみせてくれたのは、朝鮮動乱時の米軍であった。かくて、対米輸出の急増はもちろんのこと、世界に日本製カメラの優秀性を強烈に印象づけるに至ったのである。
 一時期乱立したメーカーも自然淘汰され、残された各社は、自社の誇りと日本製品の名誉にかけて、世界に激しい販売競争を展開する。しかし、彼らのたゆまぬ努力研鑚のある限り、世界第一位の輸出王国の地位は、微動だにしないに違いない。

月刊経済 15(10)(211) - 国立国会図書館デジタルコレクション
(国立国会デジタルコレクションの閲覧には無料の会員登録が必要。以下同様。)

※1 高度成長が続いていた1960年代中頃の日本の世相を、天下泰平で町人文化が花開いた江戸時代の元禄年間にたとえた言葉。
※2  中高年が揃えたようにネズミ色(グレー)のスーツを着て満員電車で通勤する姿を「ドブネズミ」にたとえて揶揄する表現。この雑誌が出版されていた当時ではかなり一般的な表現であった。
※3 昭和30年(1955)、東京通信工業(後のソニー)が日本初のトランジスタラジオを発売した。その後、同社が発売した「世界最小のラジオ(TR-63)」がアメリカ輸出で大成功を収めた結果、「トランジスタラジオ」は日本を代表する輸出商品の地位を確立することとなる。昭和37年(1962)に池田勇人首相(当時)が訪欧した際に、フランスのドゴール大統領(当時)が池田首相のことを「トランジスターラジオのセールスマン」と揶揄したという逸話が伝わるほどに「日本=トランジスターラジオ」というイメージが定着していたと言える。データベース日本外交史 - 「トランジスターのセールスマン」の謎
※4 同社の社名は通常「キャノン」と発音されるが、正式な社名表記は「キヤノン」である。キヤノン - Wikipedia

 この特集記事では、この後に「上位3社」とされるカメラメーカーが紹介されていますが、ここでは各社の特徴を次のように記しています。
世界最高級カメラの日本光学
総合光学機メーカーのキヤノン
大衆カメラで気を吐くミノルタ
 そして、ミノルタについては次のように紹介されています。

 昭和37年、フレンドシップ7号の船上、グレン中佐の手に“ミノルタハイマチック”がにぎられていた事実※5をご記憶の方も多かろう。青い地球と宇宙空間にきらめく星々を撮影したカメラのメーカー、ミノルタカメラ株式会社(本社、大阪市南区塩町通)。 同社の海外向けパンフレットザ・ミノルタプロフィールの序には次のように印されている。
日本カメラの良さは?
 品質優秀で格安。
 ミノルタカメラの価格は幅広く、しかもどれもデザイン、機構とも抜群。
 品質は、われらミノルタの使命!

 輸出先は、アメリカ、ヨーロッパを主力にして、オーストラリア、カナダ、中南米、香港と全世界を市場としている。国内市場との比率は6.5対3.5で、輸出の比率がはるかに優位を占めている。今後も、ますます輸出が主力になるにちがいないという予測だ。
(中略)
 ミノルタの歴史は古い。昭和3年設立というから今年で、40周年だ。戦前から一流カメラメーカーとしてとおっていた。昭和11年には、国産最初の二眼レフカメラ※6ミノルタフレックス”を生み出している実績もある。戦災で工場を焼失して、戦後の再出発は苦しかったが、日本経済の驚異の再建以上のスピードで復調。昭和21年に小型精密カメラ生産再開、豊川組立工場の稼動。昭和35年堺工場を拡張増築。昭和36年カメラの他事務用複写機の生産開始。昭和38年には、堺に技術センターを設置して、総合光学メーカーとして技術、研究両部門の強化を計った。また昭和40年には、東京都町田市に東京研究所を新設しカメラ関係の研究を開始、一方豊川には最新設備の事務機専門工場を設置した。
 だいたい以上のような経過で現在のミノルタの繁栄を築いてきている。資本自由化のさわぎ※7もどこ吹く風で、逆に欧米市場にミノルタ旋風をまきおこし続けること確実である。
※5 1950年代から60年代にかけてアメリカとソ連は熾烈な宇宙開発競争を続けていた。昭和36年(1961)のユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行はアメリカに大きなショックを与えたが、その翌年、アメリカもジョン・グレンフレンドシップ7号(宇宙船のコールサインで米国初の友人宇宙飛行を成功させた。この時にグレンが使用したカメラが「ミノルタ ハイマチック(実際にはハイマチックをベースに各種の改造が施された特別モデル)」であったことから、これ以後「ハイマチック」は「世界で初めて宇宙に飛んだカメラ」として世界中に名をはせることとなった。産業技術史資料データベース
※6 二眼レフカメラとは、縦長の箱形の筐体に上下二つのレンズが並ぶという特徴的なカメラで、上のレンズが構図を決めてピントをあわせるための役割、下のレンズがフィルムに撮影するための役割をそれぞれ有している。後に、より小型化が可能な「レンジファインダー式」や「一眼レフ式」のカメラが登場すると急激に人気を失っていった。二眼レフカメラ - Wikipedia
※7 昭和39年(1964)に我が国はOECD経済協力開発機構)に加盟したが、これに伴って外国企業等から日本への資本移動(直接投資など)を自由化するよう国際社会からの圧力が高まった。本引用文が掲載された雑誌が発行された昭和43年(1968)は、昭和42年(1967)から昭和48年(1973)までの間に5段階に分けて実施されていた資本移動自由化の真っ最中であったと言える。
資本自由化 - Wikipedia

 

 このように、我が国輸出産業の花形とも言える地位を獲得したカメラ業界ですが、この当時、その「御三家」とも言える存在の一角が上記引用文で特集されていた「ミノルタカメラ株式会社」だったのです。

 ミノルタカメラ株式会社の創業は、昭和3年(1928)に田嶋一雄(たしま かずお)兵庫県で設立した個人企業の日独写真機商店に遡ります。その後裔にあたるコニカミノルタ株式会社のWebサイトにある「沿革」にはこの当時のことが次のように記されています。

田嶋一雄、「日独写真機商店」(後のミノルタ株式会社)を創立、国産カメラの製造に着手(1928)
 父が経営する神戸の貿易会社に勤めていた田嶋一雄は、欧州訪問の際に光学機器の将来性に着目。帰国後の1928年11月11日に「日独写真機商店(後のミノルタ株式会社)を設立し、現在の西宮市武庫川河畔に最初の工場を開きました。当時、周辺に下請け工場などはなく、ドイツから呼び寄せた技術者たちの指導のもと、小さな部品の1つ1つにいたるまで自社生産が行われていました。そして翌年にはカメラ一号機「ニフカレッテ」を発売します。

詳しい沿革 - 企業情報 | コニカミノルタ

 日本経済新聞には昭和31年(1956)から現在まで続く名物企画である「私の履歴書」という連載記事があり、昭和58年4月には田嶋氏がその半生を振り返っています。記事の全文は国立国会デジタルコレクションに収載されている「私の履歴書 経済人 21日本経済新聞社 1986.12)」という書籍で閲覧することができますが、ここではその中で田嶋氏の生い立ちから日独写真機商店の開業に至るまでの道程を抜粋して紹介します。

 私は明治32年11月20日和歌山県海草郡日方町で生を受けた。今の海南市である。海南市和歌山市の南に隣接し、紀伊水道に面したところにある。日方町、黒江町など4町村を合併して昭和9年に市となった。
(中略)
 私の生家は旧日方町の熊野街道に面した一角にある。道幅せいぜい数メートルのこの道路は、今は市の中心部がアーケード付きの商店街となるなど様変わりしているが、生家の付近などは格子戸の漆器問屋や白壁の土蔵がそこここに残っており、往時の面影がしのばれる。
(中略)
 明治39年春、私は家から100メートルそこそこの日方尋常高等小学校に入学した。前年に日露戦争で勝利をおさめ、日本全土がわき立っていたころだ。
(中略)
 明治45年春、小学校を卒業した私は、父に言われるままに和歌山市立和歌山商業学校(現在の県立和歌山商業高校に進学した。さらに上級学校を目指す者は和歌山中学(現在の県立桐蔭高校)に進学するのが普通だったが、父はこのころは私に家業を継がせるつもりで和商に入らせたようだ。
(中略)
 和商はもともと進学校ではなかったし、入学当初は父も私自身も進学などは頭から考えていなかったのだが、学年が進むにつれて向学心が芽生えてきていた。当時、和商の学生の間では神戸高商(現在の神戸大学)への進学があこがれの目標であった。私も父が商売で神戸に縁が深かったこともあって、受験の第一志望を神戸高商、と心に決めていた。
 ところが、それなりに勉強もしたはずなのに、入学試験で見事に落ちてしまった。
(中略)
 それから親戚一同が家に集まり、私のことで何やら相談しているなと思ったら、あとで父から慶應義塾大学を受けろ、と勧められた。当時の慶應の塾長が和歌山県出身の鎌田栄吉先生であり、親戚の中に先生と親しい者がいて、私を推薦してくれる、というのであった。特に断る理由もなかったので受験したところ、入試は得意の英語だけ、それも比較的簡単な問題で、首尾良く経済学部に合格できた。
(中略)
 慶應義塾で学生生活を謳歌した私は、大正12年春、卒業と同時に日本電報通信社に入社した。海南の同郷で父の代から親戚同様のつきあいをしていた日疋(ひびき)信亮氏が、同社社長の光永星郎氏と親しい間柄だったことから、入社を勧めてくれたのである。
 同社は、電報通信社日本広告が一緒になってできた会社で、私の入社当時は通信と広告の2部門があり、私は広告に配属された。通信部門はのちに現在の共同、時事通信社の前身である同盟通信社の母体になり、私が入った広告部門はのちに現在の電通になった。
(中略)
 ようやく仕事にも慣れ始めた9月1日のこと、その日は朝から蒸し暑く怪しげな雲が東京上空にのびていた。ちょうど昼休みに入る寸前の正午前、ビル全体が緩やかに揺れ始めたと思ったら、突然グラッと大きな横揺れがきた。相模湾震源地として発生したあの関東大震災の始まりであった。
(中略)
 数日して、音信不通の私の身を案じた父の言いつけで、番頭が神戸から上京して来た。すぐに一緒に神戸に帰ってください、と言う。
(中略)
 さて、神戸に帰った私は、父の会社・田嶋商店に入った。関東大震災は、こうして私の人生を大きく変える〝前触れ〟ともなった。
(中略)
 田嶋商店のことについては、先にも若干触れた通りだが、父の次弟由松と末弟鋭三郎が早くから相次いで豪州に渡り、この二人からの要請で父が日本製品を神戸から豪州に送り込んだのがきっかけとなって設立された貿易商だ。言ってみれば、海をはさんで内外相呼応した田嶋三兄弟の旺盛な起業家魂の結晶であった。取扱商品は、当初は絹織物、綿布や陶磁器などの雑貨類だったが、その後、脚光を浴び始めた人絹織物に主力を移した。やがて豪州の繊維市場で名をはせ、大正から昭和の初めにかけて田嶋商店は日本の繊維輸出業界でかなりの地位を占めるまでに発展していた。
(中略)
 昭和2年11月、私は、神戸港の岸壁に立ち、胸を高鳴らせていた。「日本商品旅商団」の一員として、これから約6ヶ月間の予定で中近東、東欧諸国に向けて出発するのだ。
(中略)
 私は一行と別れて単身、ドイツのベルリンへ行った。そこで母校・慶応義塾の留学生たちと会い、2,3日過ごしたあと、日疋誠という人を訪ねてパリへ向かった。
 汽車でベルリンをたった私は、初めて見るヨーロッパの風景にうっとりと見とれながらも、心はパリへ急いでいた。パリに着くとすぐ「仏国通商」という貿易会社に日疋誠さんを訪ねた。
 日疋さんは、私に日本電報通信社への入社を勧めてくれた日疋信亮氏の子息で、私より11歳年上ながら、和歌山・海南時代から弟同様に私をかわいがってくれていた。
(中略)
 パリに着いてから数日後、日疋さんは仏国通商と取引のあるいくつかの工場へ私を案内してくれた。その中の一つにSOMというフランスでも第一級の光学兵器会社※8があった。巨大な工場の一角に一歩足を踏み入れて、私は思わず目を見張った。そこには最新鋭の測距儀 (目標までの距離を測定する装置)がずらりと並んでいたからだ。
※8 Societe d Oputique et de Mecanique(ソシエテ・ドプティク・エ・ド・メカニーク)。1838年に創業したフランスの眼鏡メーカー・ベルチオ(BERTHIOT)が1913年に設立した光学機器メーカーで、第二次世界大戦までは主に軍用光学機器を製造していた。SOM BERTHIOT


 「これは全部、日本軍が発注したもんだ。日本向けにほとんど独占的につくっているから、価格もメーカー側の言い値で通る。うちの会社のマージンも結構いいんだよ」と日疋さんは得意気に説明する。「日本ではこういうのはつくれないですかね」と私が質問すると、「無茶だよ。測距儀というのは光学機器の中でも最高に難しいんだ」と彼は言う。
 私は、SOM社がうらやましかった。父の扱っている雑貨類の商売は値が通らず、利益が薄いし、特に繊維は商品相場の変動もあり安定性に欠ける。そんなものより、たった今、目の前にあるような精密な光学機器をつくってみたい・・・私はそう考えた。
 この時以来、「光学」という二文字が頭にこびりついてしまった。そして、日疋さんの言うようにチャンスがあれば自分もこれに賭けてみよう、と固く心に誓った。
(中略)
 中東、ヨーロッパへの外遊を終え、神戸に帰ったのは昭和3年6月の末。旅行の報告は簡単に済ませ、一見、何事もなかったかのように、父の経営する田嶋商店でそれまで通りの仕事に戻った。
 だが、仕事にはどうしても打ち込めなかった。もともと叔父たちの経営のやり方が私の意に沿わないものであったし、それに何といっても、旅商団での体験やパリでの〝光学兵器〟との出合いが、脳裏に鮮烈に焼きついて離れなかったからである。
 その思いが通じたのか、ある日、私のところへ二人のドイツ人が訪ねて来た。
 一人は仕事の関係でかねて顔見知りのウィリー・ハイレマン、そしてもう一人はビリー・ノイマンといった。ハイレマンは早くから神戸に住み、そこを本拠地としてドイツ製の写真機用品などを輸入販売する商売をしていた。一方のノイマンハイレマンの紹介によると、クラウス社というパリの光学機器会社に勤務していた、写真機に詳しい職長級の技術者。以前にも来日して東京の小西六本店(現在の小西六写真工業※9に勤めた経験があるという。ノイマンは先の来日中に好きになった、ある日本人女性のことが忘れられずに再来日したそうだ。
※9 明治36年(1903)に国産初の印画紙を発売したことで知られる我が国の写真用品メーカー。第二次世界大戦後は「さくらカラー」の名称で販売された写真要カラーフィルムが国内トップシェアを獲得し、後に「コニカ」のブランド名で発売した世界初のフラッシュ内蔵カメラ「コニカC35EF(愛称:ピッカリコニカ)」、世界初のオートフォーカスカメラ「コニカC35AF(愛称:ジャスピンコニカ)」が大ヒットしたことによりカメラメーカーとしても飛躍した。平成15年(2003)にコニカ株式会社とミノルタ株式会社が経営統合し、コニカミノルタホールディングスが発足した。

 ハイレマンはどこで聞いたのか、私が何か新しい事業を始めたいと考えていることを知っていて、同じ在日ドイツ人のよしみで付き合いのあったノイマンを連れて来たのだ。そして、二人とも私に対して「写真機をつくらないか」と、しきりに勧めたのである。
 この話を聞いた私は、思わず「ウーン」とうなった。パリで見たあの測距儀と、いま二人が持ちかけた写真機とが、「光学機器」という〝共通項〟でくくれたからである。高等数学の難問が解けた瞬間のようだった。私はもちろん望むところであり、「これこそ渡りに船」「天与のチャンス」と思った。そういえば、日疋誠さんは「光学兵器は難しくて日本では無理だ」と言ったが、そうだ、写真機ならできるかもしれない--。
(中略)
 もちろん、長男の私はこのままいけば、当然父の家業を継げるという恵まれた立場にある。父もそうなることを期待しているし、親孝行の観点からすれば、その方がよいかもしれない。
 だが待てよ。たった今、目の前に新しい道が、無限の可能性が、大きく開けようとしているではないか。旅商団で貴重な体験ができ、パリで光学機器の素晴らしさを心に焼きつけられたのも、もとはと言えば、父の外遊の勧めがその発端だ。とすれば、新しい道に賭けることは、必ずしも父の意に反するとも言えまい。
 こう考えて、私は「ゴー」の決断をした。押し寄せてくる潮のようなものが、そうさせたのである。窓外では、真夏の暑い日差しが照り返し、蝉しぐれが今を盛りと続いていた。

私の履歴書 経済人 21 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 こうして発足した日独写真機商店は、「モルタ合資会社(1931)」、「千代田光学精工株式会社(1937)」、「ミノルタカメラ株式会社(1962)」、「ミノルタ株式会社(1994)」と組織体制を変更しながら発展し、平成15年(2003)に「コニカ株式会社」と経営統合して「コニカミノルタホールディングス株式会社」へ、さらに平成25年(2013)に現在の「コニカミノルタ株式会社」へと至りました。
 この過程で、残念ながら「ミノルタ」の名声を世界に轟かせるきっかけとなったカメラ事業からは平成18年(2006)に全面撤退することとなりましたデジタル一眼レフカメラ事業はソニーに譲渡)が、田嶋一雄氏が描いた「光学機器」への思いはコニカミノルタにも脈々と受け継がれており、同社は「イメージング」を核とした電機メーカーとして確固たる地位を築いています。

KONICA MINOLTA - 日本 | コニカミノルタ


 ところで、我が国のカメラメーカーやカメラ製品は、それぞれユニークな名付けがなされていることが良く知られています。
 例えば、先述の「キヤノン」は、創業者の一人が観音教を信仰していたことから試作機に「KWANON(カンノン)」と名付けたことが由来となっています。
カンノン(試作機) - キヤノンカメラミュージアム

 また、「オリンパス」はもともと「高千穂製作所」という社名だったのですが、「高千穂」というのは日本神話において神々が集まる場所であると伝えられていることから、これに対応するギリシャ神話の神々の山である「オリュンポスOlympus」の名前をブランドとして掲げました。
創業の精神:沿革:オリンパス

 さらには、かつて中判カメラ(一派的な35mmフィルムを用いるカメラとは異なり、よりサイズの大きい120フィルム(日本での通称は「ブローニーフィルム」)を使用するカメラ)の高級機が多くの写真ファンに人気であった「ゼンザブロニカ」というブランドに至っては、「創業者である吉野善三郎氏が開発したブローニーフィルムを使用するカメラ」という意味から「ゼンザブロー + ブローニー + カメラ」をブランド名にしたという冗談のような由来を有しています。
ゼンザブロニカ

 ミノルタもまた、当初はカメラのブランド名として用いられた「ミノルタ」が「(みの)る田」に由来するものであり、そのレンズのブランド名であった「ロッコール」は、レンズ工場が「六甲山(ろっこうさん)」の麓にあったからだ、との説がしばしば語られています。
 これについて当の田嶋氏は上述の「私の履歴書」の中で「ミノルタというのは、「マシナリー・アンド・インスツルメンツ・オプティカル・バイ・タシマ(Machinery and INstruments OpticaL by TAshima)」という英語の文字からとって「MINOLTA」としたもので、これも私自ら名付けた。」と書いてあり、公式にはこれが語源とされているようです。しかしながら、田嶋氏は続けて「これには、語呂合わせのようだが、「(みの)る田」の意味も含ませてある。私の生母が生前、「稔るほど頭を垂れる稲穂のように、常に謙虚でありなさい」とよく私に言って聞かせてくれたことを、永く肝に銘じたかったからだ。」と語っています。憶測ではありますが、おそらく本来は通説どおり「稔る田」の方が語源であり、英文の方は略称が「ミノルタ」になるようにかなり頑張ってひねり出したものなのではないでしょうか。
 また、ミノルタの多くのカメラに使用されているレンズに冠されていた「ロッコール(ROKKOR)」というブランドについては、かつて同社(当時の社名は千代田光学精工株式会社)が発行したパンフレットによれば次のように解説されています。

何故ロッコールと名付けられたかと申しますと、これは昭和3年、千代田光学精工が誕生する時、兵庫県で最も風光明媚といわれる武庫川の畔に工場が建設されたのです。その時背景の山なみ、六甲山の頂に輝く夕陽が一際美しく生えていましたので、ロッコールという名が生まれたのです。

ロッコール」の由来

クラシックカメラ オンライン・グラフ誌 Camara Graphic 2024.8
セミミノルタIIIAと戦後関西のカメラ産業

 

 この引用文にあるようにミノルタの創業の地は兵庫県ですが、田嶋氏の出身地である海南市にもミノルタの関連工場がありました。現在は大阪府大阪狭山市に本社を置くコニカミノルタアドバンストオプティクス株式会社は、もともと海南市で創業された南海製網という会社を母体とする企業であり、永く海南市一眼レフカメラの中核部品であるペンタプリズム※10の加工を行っていました。
※10 一眼レフカメラに使用される光学部品で、レンズを通して得られる画像をカメラ本体後面上部のファインダー(アイレベルファインダー)へ導くために用いられる。ペンタプリズム - Wikipedia

コニカミノルタアドバンストオプティクス株式会社|コニカミノルタ

 

 日本労務研究会が平成5年に発行した「労働基準 1993年12月号」には、当時「南海光学工業株式会社」と名乗っていた同社の概要が次のように紹介されていました。

カメラ用プリズム加工メーカー
 南海光学工業(株)の所在地、海南市は早咲き桜で有名な紀三井寺をはさんで和歌山市と南北数キロメートルの位置にある。人口5万人程の南国的な明るく清浄な環境は光学機械器具製造業の適地といえるかも知れない。しかし同社は創業時からカメラ関係の仕事をしていたわけではない。同社の前身は昭和15年に創業された南海製網(株)で魚網や海南市特産の漆器や和傘などの和雑貨を製造していた。
 戦後、経営的に行き詰まっていた同社に経営再建の救いの手を差しのべてくれたのは同市出身でミノルタカメラ(株)の創業者である故田嶋一雄社長であった。同氏の〝うちの仕事を手伝ってくれないか〟の一言で資本と人材を提供してくれ、昭和21年に南海製網から南海光学工業に社名変更、一眼レフカメラの重要部品であるプリズムの専門加工工場として再スタートを切った。
 同社の社訓である
   新しい可能性に挑戦しよう
   自ら考え、自ら実行しよう
   責任をもって、役割を果たそう
 この社訓はミノルタカメラ(株)と同じものを掲示し戒めとしている。現在も大松社長竹村工場長他2名がミノルタカメラからの出向であり、親会社子会社の関係というより、ミノルタカメラの海南工場\といった存在。

労働基準 45(12)(534) - 国立国会図書館デジタルコレクション

 残念ながら平成17年(2005)に南海光学工業の本社は大阪狭山市へ移され、同時に海南事業所も閉鎖されてしまいましたが、何度かの体制変更を経て現在は「コニカミノルタアドバンストオプティクス株式会社」として産業用高精度光学系のレンズ加工や組立調整などの事業を展開しています。
ご挨拶 - コニカミノルタアドバンストオプティクス株式会社|コニカミノルタ


 このように自らの出身地である海南市へも工場を置いて地域発展の一角を担っていた田嶋氏ですが、氏の生家である「田嶋家」は海南市の歴史に残る由緒ある一族であり、その意味では海南市内の企業を支援してミノルタの一部へと位置づけたというのは、田嶋氏にとっては一種の「ノブレス・オブリージュ※11」であったと言えるかもしれません。
※11 「高い社会的地位には義務が伴う」ことを意味するフランス語。本来は西洋の貴族社会において、貴族に自発的な無私の行動を促すような明文化されない社会規範であったが、近年では富裕層、有名人、権力者、高学歴者らには「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任がある、という趣旨を表す言葉として用いられることが多い。法的な義務ではないため、これを為さなかったことによる法律上の処罰はないが、社会的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われたりすることもある。ノブレス・オブリージュ - Wikipedia

 

 その「田嶋家」について、田嶋一雄氏は前述の「私の履歴書」において次のように記しています。

 私の生家は旧日方町の熊野街道に面した一角にある。道幅せいぜい数メートルのこの道路は、今は市の中心部がアーケード付きの商店街となるなど様変わりしているが、生家の付近などは格子戸の漆器問屋や白壁の土蔵がそこここに残っており、往時の面影がしのばれる。田嶋家の先祖がいつごろからこの地に住みついたのかは定かではないが、わが家の家紋にまつわる伝説が事実だとすれば、少なくとも六百余年の昔にさかのぼることができる。
 元弘元年(1331年)秋、南朝方の大塔宮護良親王熊野落ち※12の途中、この地に立ち寄られた。当時、大野荘園と呼ばれる広大な荘園を管理していた大野十番頭という十人の郷士がいて、近くの春日神社殿におかくまいし、ご警護申し上げた。宮はこれを多とされ、十番頭の一人だった田嶋家に、それまでの「下がり藤」に代えて今の「左三つ巴」の家紋を賜った、という。今の生家は徳川時代後期に建てられたものらしい。いずれにしても、かなりの旧家ではあったのだろう。
※12 大塔宮護良親王後醍醐天皇の子。鎌倉時代末期に後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を掲げて笠置山京都府相楽郡笠置町)で挙兵した際、護良親王楠木正成らと呼応して兵を挙げたが、やがて笠置山が陥落し後醍醐天皇隠岐に配流されたことから親王はわずかな家臣とともに熊野を目指して潜行した。これが「熊野落ち」と呼ばれる行動で、その様子が「太平記」の巻第五「大塔宮熊野落事(おおとうのみや くまのおち のこと)」に描かれている。本ブログでも「
軍道の腰神さん ~印南町崎の原~ - 生石高原の麓から」等で紹介しているので、これらの記事も参照されたい。

私の履歴書 経済人 21 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 上記引用文にある「大野十番頭」と大塔宮護良親王にまつわる伝承については、海南市教育委員会が昭和29年(1954)に発行した「海南郷土史」の中で、「大塔宮の熊野落と大野十番頭」という項をたてて次のように紹介されています。

 笠置が落城したのは元弘元年9月28日(西紀1331)であったが同じく10月21日に赤坂も落城したので、大塔宮金剛山法輪寺に入られ、楠木正成四条隆資等と倒幕の計について協議された後、紀州経略の第一歩として高野山に赴かれた。然し高野は、北条氏を憚って中立を標榜し積極的な援助を肯じなかったので宮はやむなく花坂、池尻を経て布施屋より小栗街道に従って山東荘須佐より藤白に向って歩を進められた。これは元弘元年11月中旬より下旬にわたる頃である。お伴の武士は、光林坊玄尊、赤松律師則祐、村上彦四郎父子、片岡八郎平賀三郎、矢田彦七等であった。
 さて、此の途上、は大野荘幡川の禅林寺に一夜参籠御通夜をされたが、落人の心細さから、此の辺に武士たるもの無きやとお尋ねあった。ここに大野十番頭の面々が馳せ参じ、警固の任に当り、一時春日神社に隠し申上げた。故に今に至る迄、同社の相殿三扉の中、一は空位であるという。大野十番頭達の忠勤を深く称せられ、自ら春日大明神の御名を書き、その脇に先祖の受領をも書添えられ、一幅ずつ賜ったという。その十人の祖は
  鳥居浦 三上美作守   同浦  稲井因幡
  同浦  田島丹後守   同浦  坂本讃岐守
  同浦  石倉石見守   神田浦 尾崎尾張
  井田浦 井口壱岐守   中村  宇野辺上野守
  中村  中山出羽守   幡川村 藤田豊後守
であり、紀伊風土記には、大塔宮御親筆図としてその図を掲げ、長さ一尺七寸幅五寸五分と説明しているが、今は皆紛失して一も遺るものなしと註している。但し名高専念寺等の学僧全長上人の記する所に依れば元祿の頃には少くとも二つは現存していたらしい。

海南郷土史 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 上記引用文で触れられている「紀伊風土記※13」における記述を以下に引用しますが、これによると聖武天皇(在位期間 724年 ~ 749年)の頃に春日神社が奈良からこの地に勧請された際に、勅命により各地から招集されて受領(ずりょう その地に居住して領地の管理を行う役人)に任じられたのが「大野十番頭」であると伝えられています(「続風土記」ではこの説を書き記しつつも、後段で疑念があることも同時に記している)。
※13 江戸時代後期に紀州藩儒学者の仁井田好古らに編纂させた紀伊国の地誌。紀伊続風土記 - Wikipedia

 また、大塔宮熊野落に関しては、大塔宮大野十番頭の一人ひとりに「春日大明神」という文字に加えて各番頭の先祖の受領名(「〇〇守」という肩書)を書き記した書を与えたこと、十番頭はこの書を「身の守」として肌身離さず携えて各地の戦場に赴いたこと、などが 書き記されています、

大野十番頭
十番頭は大野荘荘中の著姓にて栗栖六番の類なり
その十姓は 三上氏 稲井氏 田島氏 坂本氏 石倉氏 尾崎氏 井口氏 宇野辺氏 中山氏 藤田氏なり
十番頭の姓名その党伝うる所の文明 長享 明應 文亀 天文等の文書に見えたり
今その子孫現存する者 
日方地士に藤田氏 田島氏あり
黒江ノ地士 尾崎氏あり
また那賀郡小倉荘満屋村地士に井ノ口氏あり
同郡田中荘打田村に坂本氏あり
宇野辺氏は軍学を以て奉仕し 名取氏と改む
その余は今皆断絶す
明暦記に
春日ノ社聖武天皇の御宇勧請す
そのとき勅を受て国々より十人参り来たりて各受領を下さる
大野荘中の免田 春日社領の外は十人の番頭五十四人の中﨟これを知行す
十番頭の者荘中の諸事を下知して春日社に奉仕す
古は綸旨をも持伝たりしに数度の合戦にこの者ら討死して失いたりという
また大塔ノ宮熊野落の時 
春日の奥院幡川禅林寺に詣で給える時この十番頭を頼み給い
その由緒を聞き給いて自ら春日大明神の御名を書き給い
その脇に先祖の受領を書き給いて一幅づつ賜わりたるを身の守と放たず所々の戦場に出たと言えり
その十人の組の名は 
 
鳥居浦 三上美作守 同浦  稻井因幡
同浦  田島丹後守 同浦  坂本讃岐守
同浦  石倉石見守 神田浦 尾崎尾張
井田村 井口壹岐守 中村  宇野邊上野守
中村  中山出羽守 幡川村 田豊後守 


大塔宮真筆図

長一尺七寸 幅五寸五分

この図の如きを十人に賜わりしに
今は皆紛失して一も遺るものなしという

十番頭の家に伝うる説にては
神護景雲(筆者注:767年~770年)中 
春日社勧請の時十人の祖 南都より当荘に来たり住すと言えり
然れども 中村春日社は大春日神社にて南都より勧請せる神にあらず
また受領の名に宇野辺上野守とあるは誤なるべしとおもうに
図には果たして和泉守とあり 
さればその余の伝えも擾亂の世を歴し事なれば 
古の実を失いし事 多からめり 

紀伊続風土記 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 大野十番頭の一家であり、海南市漆器商を営んでいた尾崎家のWebサイト漆器の尾崎)には「大野郷十番頭について」という項があり、大野十番頭について詳細な解説が記載されていますが、その中で特に注目されるのが現在も執り行われている「大塔宮十番頭まつり」という行事に関する記述です。これによると、同祭では大野十番頭の各家が輪番制で祭主を勤めており、平成14年(2002)には田嶋一雄氏の長男である田嶋英雄氏が祭主になったことが記されています。

「大塔宮十番頭まつり」
 当時のこの地(現在の海南市西部と和歌山市南部の一部)を統治していた士族で、大塔宮護良親王から受領名を賜った、海南の十家の豪族の末裔の大野十番頭の子孫が、時を越えて、毎年6月第1日曜日、地域の歴史と文化を知ってもらい、子孫に語り告いで行きたい願を込めて古式ゆかしく行われるお祭りです。
 中世のころまでは、1年毎に春日神の神主を勤めていましたので、それにちなんで、毎年輪番制で、一日春日神社の祭主を勤めます。
 2002年は大野十番頭頭末裔 元ミノルタカメラ名誉会長 田島丹後守英雄※14が執り行なわれました。(筆者注:原文のまま)

※14 田嶋一雄氏の長男。1982年6月にミノルタカメラ株式会社社長に就任。1993年から会長ミノルタカメラ株式会社→ミノルタ株式会社)、1999年から名誉顧問ミノルタ株式会社→コニカミノルタ株式会社)大野十番頭

 この「大野十番頭祭(大塔宮十番頭祭)」は、新型コロナウィルス蔓延により一時中断を余儀なくされたものの、無事に復活を遂げて令和7年(2025)6月にも開催されたようです。

春日神社 | いにしえの祭り。 大野十番頭まつり!(春日十番頭まつり) 今年は6月1日、日曜日に開催いたします。| Instagram

 

 日本を代表するカメラメーカーを一代で築き上げた田嶋一雄氏が、実は聖武天皇の御代に遡る由緒ある家柄の出身で、鎌倉幕府崩壊につながる一大事件の当事者であった大塔宮護良親王にもかかわりを有していた、というのは実に興味深いことではありませんか。