03復刻&解説「紀州 民話の旅」-08紀の川市
町の北、和歌山市に接する山の斜面が、ゴルフ場に生まれ変って久しい。だが、かつてはこのあたり一帯に土蜘蛛(つちぐも)がはびこり、村人たちを悩ましたという。
高野山を源にして59キロ。やがて紀の川に合流しようというあたりの貴志川は、古くからホタルの名所。いま、こどもたちの手で、ホタルの復活運動が盛り上がっている。 そんな貴志川にも、のぞけば思わず引き込まれそうな深い渕がいくつかある。国主渕(くにし…
人魚を食べると不死身になる~。そんな話は西欧に多いが、この日本版とでもいえそうな話が貴志川に残されている。
一面に、桃畑がひろがっていた。ピンク色のみごとなジュウタンが姿を消したあとの畑では、濃緑の葉の中に、みずみずしい桃が、日ごとにいろどりを増して行く。桃山の一年は、桃に明け、桃に暮れる。
鎌足以来の名門、藤原主流の長実の子として生まれ、のち鳥羽天皇の妃、近衛天皇の母となった得子-美福門院(1117~1160年)閑居の地とされる「安楽川荘」。その一角に最近、小さな祠ができた。門院の遣骨を葬った地という。
山がちの紀州には珍しく、広々とした水田がひろがり、あちこちに桃畑とミカン畑が点在していた。そんな、のんびりとした田園地帯の片隅に、ひとつの碑があった。
車一台がどうにか通れるほどの、曲がりくねった道をたどると、生垣に囲まれた小広い一角に出た。 「ここが生家跡です。墓はすぐそこです」
紀の川の水面がキラキラと輝やき、その向うに、飯盛山がなだらかな起伏をみせていた。 飯盛山(標高746メートル)と竜門山(757メートル)で、紀の川流域と区切られた鞆渕には、後堀河天皇(在位1222~1232年)の局となった鶴千代姫が、天皇のはからいで石清…
粉河寺から東へしばらく行くと、小山にはさまれた小広い一角にたどりつく。このあたりが白拍子・籠祇王(ろうぎおう)が、捕われの父のために舞いを舞ったところという。
広い境内は、閑散としていた。大門のあたりのざわめきも、枯山水の石庭のあたりまでは届かず三々五々、本堂を訪れる参拝客の、ひそやかな話し声だけ。
曲がりくねった県道を、ほぼ登りつくしたあたりに、庄司利一さんの家があった。 ある日、犬鳴山の近くで狩りをした紀州の殿さま。途中、ひと息入れた農家で、近くの山のクンノキダキ(栗の木谷)というところに大蛇がすむ~と聞いて、にわかに冒険心がわきだ…
神通へ向う打田線の途中。玉ネギ畑の奥の権現寺の土塀は朽ちかけていた。その境内右はずれの一角に、曽我十郎の愛人だったという虎御前の墓がある。
慶安2年(1649)、打田の村人たちは、過酷な年貢の取り立てに塗炭の苦しみを味わっていた。前年、禁伐の山から用材を伐り出せという代官の命令を断わったがための仕打ちだった。