鎌足以来の名門、藤原主流の長実の子として生まれ、のち鳥羽天皇の妃、近衛天皇の母となった得子-美福門院(1117~1160年)閑居の地とされる「安楽川荘」。その一角に最近、小さな祠ができた。門院の遣骨を葬った地という。
ま新しい祠の中央に、大きな五輪塔があった。祠のわきに建てられた、コンクリートづくりの五重塔の下に、その遺骨が納められているという。かたわらに直径20センチ、高さ60センチばかりの円柱の碑があった。その表に「奉為美福門院菩提也」。
「門院は、あの取休山に登り、鳥羽上皇をしのんで高野山を拝んでいたんです。それを村の人たちが、遠くから拝んだ。いまここらの正公田いうのは、そのときいわれた焼香田やいうことで…」
土地の人が、近くの小山を指さしながら、そんな説明をしてくれた。
- 美福門院(びふくもんいん)は、第74代鳥羽天皇の寵愛を受けた女性。鳥羽天皇が崇徳天皇に譲位した後に寵姫となったにもかかわらず、院政を敷いた鳥羽上皇の権威を背景に、異例にも上皇の妃ながら「皇后」に立てられた。
藤原得子 - Wikipedia
- 美福門院は、永久5年(1117年)、父・藤原長実、母・片子のもと、藤原得子(ふじわら の とくし/なりこ)として生まれる。
- 得子の父・長実は、藤原四家(ふじわら しけ)のうち最も栄えたとされる藤原北家(ふじわら ほっけ)に連なる家系(奈良時代の公卿・藤原魚名(ふじわら の うおな)の後裔)とされ、権中納言として白河法王の側近を務めたが、政治手腕等についての評価は芳しいものではなく、「中右記」という書物では「無才の人」と酷評されている。
藤原長実 - Wikipedia - 得子の母・方子は、「堀川左大臣」と称され能書家としても知られる公卿・源俊房の娘であるが、方子の兄弟にあたる仁寛が鳥羽天皇の暗殺を企てたとして流罪になったことから、得子が誕生した頃には俊房(得子の祖父にあたる)も政治的権力を失ってしまっていた。
源方子 - Wikipedia
- 得子は幼いころから美貌の持ち主であったようで、得子(美福門院)の没後まもなく編纂された歴史書「今鏡」によれば、父・長実は得子について「ただ人にはえゆるさじ(並みの人物と結婚させることなど考えられない)」と語っていたと伝えられる。小笠原愛子氏は、「帝紀及び列伝に見る『今鏡』の時代区分意識(大阪夕陽丘学園短期大学紀要 第61号 2018)」において当該部分を注釈付きで掲載しているので、これを下記に引用する。
《近衛帝紀「男山」章冒頭 美福門院入侍》
鳥羽の帝、位の御時より参り給へりし后(=待賢門院)は、みこたちあまた生
み奉りて、位下りさせ給ひしかば、女院と申しておはしましき。法皇(=白河院)
の養ひ奉りてかしづき給ひしに、法皇おはしまさで後、宇治の后(=高陽院藤原
泰子)参り給ひて、御方々いどましげなれども、院(=鳥羽院)はいづかたにも
うときやうにてのみおはしまししに、忍びて参り給へる御方(=美福門院)おは
して、いづこにも離れ給はず。やや朝政事もなかるべし。いとやむごとなき際に
あらねど、中納言にて御親はおはしけるに、母北の方は、源氏の堀河の大臣の御
女におはしける上に、類ひなくかしづききこえて、ただ人にはえ許さじともてあ
つかひてなむ。 (上 270)
第61号 | 大阪夕陽丘学園短期大学 図書館
- 鳥羽天皇は、嘉承2年(1107)、父・堀河天皇が没したため5歳で即位した。しかし、当時は白河法王による院政が敷かれており、鳥羽天皇が実際に政務を司ることはなかった。
鳥羽天皇 - Wikipedia - 鳥羽天皇は、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院 たいけんもんいん)を妃として迎えて同妃との間に5男2女をもうけ、保安4年(1123)には第一皇子である崇徳天皇に皇位を譲るが、その後も実権は白河法皇が握り続けた。
- 大治4年(1129)に白河法皇が崩御した後は、崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の3代28年にわたって鳥羽上皇が院政を敷くことになる。
- 鳥羽上皇が院政を敷きはじめて後は、白河法皇により蟄居させられていた前関白・藤原忠実の娘・泰子を妃に迎えて「高陽院(かやのいん)」として上皇の妃としては異例となる「皇后(現在の宮内庁の見解では「尊称皇后」とする)」としたほか、白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子を遠ざけ、藤原得子を寵愛した。
- 保延5年(1139)、得子は待望の皇子である体仁親王(なりひとしんのう)を出産したが、後に親王を崇徳天皇の養子とした。
- 崇徳天皇は、いずれ体仁親王に譲位して自らは上皇として院政を敷くことを期待した。鳥羽上皇は、この胸中を知りつつ崇徳天皇に体仁親王への譲位を迫り、結果的に崇徳天皇はわずか22歳で体仁親王に皇位を譲ることになった。こうして体仁親王は近衛天皇として即位したが、この際の公式文書である「宣命(せんみょう)」には体仁親王が「皇太弟」であると記されており、これは崇徳上皇が院政を敷く正当性を排除するものであった。この背景には、自分の実子を天皇の位につけたいとする得子の願望があり、鳥羽上皇がこれを強引に実現しようと図ったものであると考えられる。当然のことながらこの仕打ちに崇徳上皇は憤り、これが後に「保元の乱」の火種となる。
- 永治元年(1141)に近衛天皇が即位すると、その生母である得子は「国母」として高陽院同様に上皇の妃でありながら皇后に立てられた。さらに、久安5年(1149)には「美福門院」の院号を宣下された。
- 久寿2年(1155)、病弱だった近衛天皇が崩御し、崇徳上皇の皇子である重仁親王(しげひと しんのう)と、鳥羽上皇の孫である孫王(そんのう)との間で後継争いが勃発した。美福門院は信西(しんぜい 平安時代の学者・僧侶)らと策謀して、崇徳上皇の影響力を排除するために孫王(このとき皇太子となり守仁親王(もりひと しんのう)となる)を後継とし、王が成長するまでの中継ぎとして孫王の父である雅仁親王(鳥羽上皇と待賢門院との子)を皇位につけることとした。これが後白河天皇である。
- 保元元年(1156)、鳥羽上皇(康治元年(1142)に受戒し法皇となる)が崩御すると、崇徳上皇と藤原頼長が兵を集め反乱を起こそうとしているという噂が都で流れ、後白河天皇・美福門院との対立が表面化した。崇徳上皇側には源氏の棟梁であった源為義(みなもと の ためよし)やその息子の源為朝(ためとも)らが加勢し、後白河天皇側には平清盛(たいら の きよもり)、源義朝(よしとも)らがついた。同年7月11日に行われた合戦では後白河天皇側の勝利となり、崇徳上皇は後に讃岐に配流された。この一連の騒動は「保元の乱(ほうげんのらん)」と呼ばれ、公家社会から武家社会へと移行する大きなきっかけのひとつとなった。
『保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込んだ。そして崩御するまで爪や髪を伸ばし続けて夜叉のような姿になり、後に天狗になったとされている。また崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めているのにも関わらず血が溢れてきたと言う。
崇徳天皇 - Wikipedia
- 崇徳上皇の没後、京では大火や争乱、有力皇族の死去などが相次ぎ、これが「崇徳院の怨霊」によるものであるとの噂がまことしやかに語られるようになった。後に成立した「雨月物語」などの文学作品においても怨霊として描かれており、「崇徳院」は、「菅原道真」、「平将門」と並ぶ「日本三大怨霊」としてのイメージが定着している。
- 保元の乱後、後白河天皇は信西、平清盛らの力を得て荘園管理や行政組織の改革などを行った。これに対し、美福門院は、当初の約束通り守仁親王を皇位につけるよう要求した。保元3年(1158)、信西と美福門院との協議により後白河天皇が譲位し、守仁親王が二条天皇として即位することとなった。両者とも出家であったこともあり、当時の公家が記した日記「兵範記(へいはんき/ひょうはんき)」では、この信西と美福門院との協議を指して「仏と仏の評定」と表現している。
- 保元の乱で後白河天皇についた源義朝は、同じく天皇側であった平清盛に比べて低い地位にとどまっていたこと等に不満を持ち、平治元年(1160)、清盛が熊野詣でに出かけて京都を留守にしたすきをねらって兵をあげ、信西を捕らえて殺害(自害)したほか、後白河上皇、二条天皇を人質とした。清盛は、紀伊の湯浅宗重(ゆあさ むねしげ)や熊野別当湛快(くまの べっとう たんかい)らの支援を得て急遽京都に引き返し、計略をもって天皇と上皇を脱出させた。その後、源義朝の軍勢と平清盛の軍勢は内裏や六波羅付近で衝突したが、源氏側から平氏側へ寝返った者がいたこともあり、清盛軍の大勝に終わった。これが「平治の乱」であり、これにより源氏の勢力が衰退し、平氏が政権基盤を築いていく端緒となった。
※平治の乱の際、熊野詣の途中で知らせを聞いた清盛が急いで京にもどるのを湯浅宗重らが助けたというエピソードについては、別項「夜泣き松」において詳述している。
- 鳥羽天皇の祖父にあたる白河天皇は、上皇となったのちも「院政」を敷いて政治権力の中枢に位置していたが、同時に「荘園」を天皇の財政基盤として積極的に活用した。白河上皇没後にその権力を引き継いだ鳥羽上皇も多くの荘園をその支配下に納めており、その皇后である美福門院も荘園に対して大きな影響力を有していた。
- 荒川荘(現在の紀の川市桃山町の一部)は、もともと平等院大僧正行尊(ぎょうそん 平安時代後期の僧侶)の所領であったが、鳥羽天皇の護持僧(ごじそう 天皇の身体護持のために祈祷を行う僧)となった行尊が天皇に寄進した。(「角川日本地名大辞典 30 和歌山県(角川書店 1985)」)
- 鳥羽上皇が崩御した際、荒川荘は美福門院の所領となったが、平治元年(1160)の美福門院令旨によって、鳥羽院の菩提を弔うため同荘を高野山に寄進して一切経会を修すべき旨が命じられている(角川日本地名大辞典)。このために高野山の壇上伽藍に六角経蔵が建立され、美福門院が自ら書写したとされる紺紙金泥一切経3575巻が納められた。経蔵は焼失・再建を繰り返しており、現在の建物は昭和8年の再建であるが、紺紙金泥一切経は国の重要文化財に指定され、霊宝館に保管されている。
- 美福門院は、永暦元年(1160)に44歳で崩御した。鳥羽法皇は、生前、自らの墓所を鳥羽の安楽寿院と定め、同地に美福門院の墓所として三重塔(新御塔)(現・安楽寿院南陵)も建立した。しかし、美福門院はこの指示に従わず、高野山に自らの遺骨を納めるように言い残して崩御し、遺言通りに火葬して遺骨は高野山に納められた。
- 美福門院の墓所は、高野山の不動院(高野町大字高野山字蓮花谷)にあるが、正式には「高野山陵(こうやさんのみささぎ)」と呼ばれ、宮内庁の管理下にある。和歌山県内にある「陵(みささぎ、天皇・皇后・太皇太后及び皇太后を葬る所)」は唯一この高野山陵のみである。なお、和歌山市の竈山神社(かまやまじんじゃ)には神武天皇の兄である彦五瀬命(ひこ いつせ の みこと)の墓所があるが、これは「竈山墓(かまやま の はか)」として「墓」に位置付けられており、「陵」ではない。
鳥羽上皇の没後、美福門院は北面の武士・近江守を伴って荒川荘の尼岡(紀の川市桃山町最上と同町調月との境界付近)に移り、堂塔を建立して高野大師を信仰した。
高い山に上って高野山を遥拝した。このとき、木の枝を取って休憩したので、この山を取休山という。
この地に尼僧が居住したので、後に「尼岡」と呼ばれるようになった。
美福門院が崩御した際にはその亡骸を寺田という場所へ葬り、槐(えんじゅ)の木を植えて陵の印とした。
修禪尼寺は、明応(1492 - 1501)の頃に由良興国寺の僧らにより火を放たれて全焼した。
美福門院の五百回忌に際して鳥羽上皇の墓所がある京都の安楽院に参拝しようとしたが洪水により川を渡ることができなかったので対岸から香を焚きしめて供えた。後にその地を「焼香田」と呼ぶようになった。
- 美福門院が修禪尼寺を建立した場所は、飛鳥・白鳳時代に寺院が建立されていた「最上廃寺跡(もがみはいじあと)」であると伝えられ、「尼岡御所」とも呼ばれる。
- 美福門院が高野山を遥拝したと伝えられる取休山は、修禅尼寺の南東にある丘陵を指す。この伝承について、院が遥拝したのは高野山(こうやさん)ではなく、高野村(たかのむら 現在の紀の川市高野地区)であったとする説もある。江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊続風土記」の「高野村」の項には次のような記述があり、高野山は女人禁制の地であったため、美福門院がこの地を高野山に模して遥拝し、これにあわせて地名を「高野(たかの)」としたという伝承が紹介されている。
高野村
(略)
竹房村の未(ひつじ 南南西)の方
紀の川を隔て二十六町(約2.8キロメートル)許(ばかり)にあり
当村南に高野領大原村あり
北に高野領遠方村あり
高野 タカノ 村南の方に突出す
昔美福門院安楽川に住せ給い
高野は女人結界なれば
その山の形を此地に摸し給ふ
因りて村名を高野というなり
然れば古は此地も安楽川に属して
門院の御領にてありしなるべし
(以下略)
※かっこ内は筆者による
※読みやすさを考慮して適宜漢字、かなづかいを現代のものに改めた - 現在の紀の川市高野(たかの)地区について、昭和62年に旧・打田町教育委員会が作成した「打田町の民話と伝説」という書籍には次のような話が掲載されており、この地に美福門院が高野山に似せて大門等を建立したと伝えている。
美福門院と高野
美福門院は、父藤原長実(ながさね)、母は源俊房(みなもと としふさ)の娘で、永久5年(1117)に生れ、名は得子(とくこ)といい、大へん美しい方でありました。鳥羽天皇に寵愛をうけ永治元年(1141)に皇后となられました。久安5年(1149)に院号を授けられて、美福門院と名のられました。
久寿2年(1155)に、門院がお産みになられた近衛(このえ)天皇が僅か17歳でなくなられ、ひき続いて翌年には鳥羽上皇がおなくなりになられていたので、悲しみのあまり髪を切って仏門にはいられ真性(しんじょう)と名のられました。
お二人の霊を弔うために、奥盛弘を連れて高野山に近い高野領の安楽川村最上(もがみ 現桃山町最上)へこられました。ここに修禅尼寺(しゅぜんにじ)を建て毎日念仏を唱え、又南の取休山に登って遥か高野山をのぞんでは、お二方の霊をなぐさめておられました。
しかし、ここでは満足されず、女人禁制の高野山に登ることもままならず、この近くで土地を求めたところ、丁度高野山と同じような地形の地がありました。ここすなわち高野(たかの)で、高野山の小形のような土地であるので、さっそく大門その他の建物を建立し、安楽川より、近いこの地に度々お参りしては、お二方のご冥福をお祈りされたといいます。
それで、この地を「こうや」の文字をそのままにして「たかの」というのであります。
高野には、大門跡、奥の堂跡、無明橋跡、等の地名が残り、樒尾(しきみお)、蓮(はす)池、経塚(きょうづか)、念仏田等々の仏の道にゆかりのある地名が今に残っています。
- 美福門院が所領とした荒川荘は、たびたび周辺の荘園管理者との領地争いを起こしている。先の美福門院令旨が発せられた平治元年(1160)頃には隣接する田仲荘の預所(あずかりどころ 現地管理人)である佐藤仲清とのトラブルが記録されている。この佐藤仲清は、佐藤義清こと西行法師(さいぎょう ほうし 1118 - 1190)の実の兄弟である。このことについて、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県(角川書店 1985)」の「荒川荘」の項では次のように解説している。
当荘は、東を石清水八幡宮領鞆淵荘、西を法成寺領吉仲荘、北を摂関家領田中荘、南を真国荘と接しているが、先に見たように高野山領となる以前から境相論(筆者注:領地の境界をめぐる争い)が起こっていた。先の平治元年の後白河院庁下文によれば、田中荘の預所(筆者注:あずかりどころ 荘園の現地管理者の職)佐藤仲清は鳥羽院在世中から当荘に対する押妨をなし、院の崩御後はほしいままに当荘を押し取る状態であったため、鳥羽院下文にまかせて境相論を停止すべき旨を命じている。これに応じて永暦元年10月20日には田中荘の領家である藤原忠通政所下文が、さらに同22日には美福門院令旨が発せられて押妨の停止がなされている。仲清は、「尊卑分脈(筆者注:そんぴぶんみゃく 南北朝時代から室町時代初期に完成したとされる各姓氏の系図集)」によれば歌人西行の兄にあたり、田中荘の預所であると同時に内舎人摂政随身という地位にあり、押妨停止の下文や令旨が発給されたにもかかわらず平治の乱後も押妨を続けている。
- 史実では、美福門院が崩御した際、鳥羽東殿において火葬されたのち高野山へ納骨されたとされる。納骨には弟の備後守時道、藤原成道、藤原隆信らが立ち会ったが、当時高野山で隠遁生活を送っていた西行も立ち会っており、次の歌を詠んでいる。
美福門院の御骨、高野の菩提心院へわたさせ給ひけるを見たてまつりて、
けふや君おほふ五の雲はれて心の月をみがきいづらむ
今日から、あなたを覆っていた五つの障害の雲が晴れて、
心の清らかな月が輝きだすだろう西行上人集 三九一
- この地は貴志川と紀の川の合流地点に近く、昔から川の氾濫に見舞われることが多かったため、「荒れる川」として「荒川」の名称で呼ばれてきたが、美福門院領となった際に院が「安楽川」と名称を改めたとの伝承がある。
- 「正公田」は現在の紀の川市桃山町市場にある字の名称。
- アマチュア天文家で小惑星や彗星の探索に取り組んだ浦田武氏(1947 - 2012)は、平成2年(1990)10月に発見した小惑星に「美福門院(Bifukumonin 小惑星番号5683)」と命名している。
美福門院 (小惑星) - Wikipedia
- 本文では、「その一角に最近、小さな祠ができた」とあるが、これは昭和56年(1981)5月に地元の蓮台寺住職が私財を投じて整備したことを指す。紀の川市が発行する「広報紀の川」平成23年(2011)6月号に掲載された「わたしのまちの文化財44 美福門院の御墓」という特集では、美福門院の墓について次のような記述がある。
美福門院の御墓
(略)
一説によると、荒川荘には2年在住し、永暦元年(1160年)11月23日、44歳で亡くなりました。そしてここ荒川の地で火葬・納 骨され、槐(えんじゅ マメ科の落葉高木)を植えて墓所としました。その後、高野山菩提心院(ぼだいしんいん 現・不動院) に分骨されたと伝えられています。一方、研究者の通説によると、門院は京都の 白川押小路殿(しらかわ おしこうじどの)で亡くなり、鳥羽東殿(とば ひがしどの 現・安楽寿院)で荼毘に付されたとされています。そして遺言により、遺骨は高野山菩提心院に納められ、宮内庁が現在管理しています(美福門院陵)。
延宝年間(1673 - 1681)、荒れ果てていた荒川の墓所の姿を憂え悲しんだ高野山の僧などが五輪塔や石灯籠を置き、墓標としました。また文化六年(1809年)、門院の六百五十回忌法会が営まれ、卒塔婆が建てられたとも書き残されています。その後、昭和56年5月、再び荒廃した墓所を地元の蓮台寺(れんだいじ)住職が私財を投じて整備しました。地元の人々はこれを御墓(みはか)と呼び、毎年4月29日には念仏を唱え門院を偲びます。
通説のとおり、門院の納骨先が荒川荘でないなら、ここ荒川の地にある墓所は何を残したのでしょう。歴史上の事実はさておき、門院への追慕の思いは没後約八百五十年経た今も地元の人に受け継がれています。
広報紀の川 バックナンバー
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。