生石高原の麓から

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鳶が巣城

 「旧小川村の伝承」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していた記事のうち、旧小川村(現在の紀美野町小川地区)に伝わる故事や行事に関わるものを再掲するとともに、必要に応じて注釈などを追加していきます。

 

 今回は、前項、前々項で紹介した子守不動の伝承に登場する興津権之丞という人物が築城したと伝えられる「鳶が巣(とびがす)」のご紹介です。

 興津権之丞は、現在の紀美野町小川地区を拠点としていた中世の豪族で、高野山の命を受けた神野荘の河野氏により謀殺されたと伝えられています。(詳しくは「紀州 民話の旅」カテゴリー中「興津権之丞」の項を参照してください)
興津権之丞 ~野上町(現紀美野町)奥佐々~ - 生石高原の麓から

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鳶が巣城(とびがすじょう)

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鳶が巣城跡(中央奥の山頂付近)

 前述の興津権之丞が、隣接する神野氏の領地(現在の紀美野町神野市場)を見張るために築城した城と伝えられる。鳶が巣山(標高390m)の頂上にあるためにこの名がある。現在、この城跡は深い森の中にあり、わずかに空堀の跡が残るだけである。

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 鳶が巣城について、旧野上町が編纂した「野上町誌」には次のような記述があります。

鳶ヵ巣城<坂本>
 鳶ヵ巣山は標高893メートルある(筆者注:393メートルの誤りと思われる)。その山頂に東西約25メートル、南北約60メートルの城郭跡が残っている。本丸跡はその北端に当たり、10メートル四方の平坦地である。曲輪は南に三段続き、その先端には空堀跡が残る。空堀は北方にも一本確認できる。
 『紀伊風土記』に鳶ヵ巣古城址として、
 「村(坂本村)の丑ノ方登ること八町許 神野荘の界なり 誰の城址なるか詳ならず
 また『那賀郡誌』には次のようにある。
 「梅本権之丞なるあり 弓術を以て著はる 竊(ひそか)信長の為めに内応をなすの計あり、小川・神野二庄の境界に鳶ヶ巣山あり 其山脚延び河辺に及び 安井の東を限り 山頂平坦なる所 城の平と呼び 福田とは指呼の間にあり 権之丞ここに居て常に河野氏の背面を覗ふ 河野氏深く之を恐る。
 右記の「城の平」は、美里町にある河野氏の居城地である。この城を見張るために、梅本権之丞が鳶ヵ巣山に築城したというのである。この権之丞の屋敷は、麓の島地区に伝わっている。平時の屋敷であったのだろう。また、中腹に「殿屋敷」と呼ばれる約10アールの地も伝わる。鳶ヵ巣山とは直線距離で500メートルの位置にあたる。城郭は狭く、しかも高所であるため、このように山腹や山麓に家臣などの屋敷を置いたのであろう。
  鳶ヵ巣城は、当地豪族坂ノ上対馬守春実の居城地だとみる説もある。坂ノ上氏は『紀伊風土記』に代々当地に居住しているから、無視できないというものだが、推測の域は出ない。
 当城から北西約150メートルの峰続きに福井城跡がある。この福井城は居住としての城郭様式であるだけに、鳶ヵ巣城との関係も今後の調査、研究の待たれるところである。

 町誌には、続いて権之丞の屋敷跡についても次のような記述があります。

梅本屋敷<中田>
 小川の梅本橋の西方、西方寺の北にあたる一角に梅本氏の屋敷跡が伝わる。
 『紀伊風土記高野山之部の中に
 「古此村に興津権之丞というものあり 二心を懐きて織田信孝に内応せしに依りて天正十六年河野秀道に命して戮せしむ 今に其屋敷跡あり
と記録されている。この興津(梅本)権之丞は、四国より来た河野氏が隣接の美里町に城を築いたので、それを監視した。それが鳶ヵ巣城であったと思われる(鳶ヵ巣城の項参照)。これに立腹した河野氏は、高野山側の命を受けて梅本氏を攻めた。この付近は、もともと真言宗の多い地区であった。しかし、梅本氏の領地小川地区は、南北朝以来浄土宗で真言宗には属さなかった。高野山側にとっては、このことが以前から気にくわなかったので、この際とばかりに梅本氏を攻めたと『那賀郡誌』は伝えている。
 屋敷跡は、小川小学校の敷地で、今はただ平坦地を残すだけである。

※筆者注:西方寺については不詳。同じく「野上町誌」には野上町柴目(現在の紀美野町柴目)にある西方寺が明応5年(1496)に中田村から柴目に移転したとの記述があるので、かつて中田地区にあったとされる同寺を指すものか。

 

 また、平成30年(2018)に発行された「図解 近畿の城郭Ⅴ(中井均 監修/城郭談話会 編 戎光祥出版)」では次のように解説されています。

鳶ヶ巣山城(とびがすやまじょう)
 所在:海草郡紀美野町坂本
 遺構:曲輪、堀切
 規模:15×70m
 標高等:標高393m、比高130m

【選地】標高870メートルの生石ヶ峰から北西に延びる尾根のピーク、標高393メートルの鳶ヶ巣山に位置する。城の南方を、小河柴目荘(おがわ しばめのしょう)坂本から高野山領神野荘安井に越える街道が通る。
 神野・小河柴目両荘の荘界にあたる飯盛峠を押さえる場所に位置し、城のすぐ南の長峰山脈を越えると有田郡である。山頂からの眺望はよく、東方の高野山領に対してはとくに良好である。

【歴史】当城は歴史上、二度登場する。一度目は、15世紀後半の応仁の乱の時期である。紀州では、東軍の畠山政長(まさなが)方と西軍の畠山義就(よしひろ)方が、応仁の乱以前から家督相続をめぐって戦いを繰り広げていた。中央で劣勢になった義方は南朝後南朝の勢力と手を結び、高野山領や奥熊野に勢力を保持した。
 文明2年(1470)7月8日付け室町将軍家御教書案(「間藤(まとう)家文書」『和歌山県史中世史料(二)』所収)によると、東軍方の願成寺(がんじょうじ 海南市重根)長賢坊が、紀州鵄巣城合戦のときに貴志民部丞を打ち取るという手柄を立て、東軍の大将細川勝元から感状をもらったことがわかる。貴志(きし)民部丞は、おそらく義就方に与して失地回復を目論んだ湯浅氏の一党であろうが、そのときに貴志(義就方・西軍)が拠った「鵄巣城」は、鳶ヶ巣山城ではないかと推定される。
 文書を伝来した間藤家願成寺は、城から西北約9キロの海南市重根(しこね)に位置し、義就方であった貴志氏は、城から約10キロ北の貴志荘(現紀の川市貴志)を本貫地とする在地武士である。合戦には、戦場に近い武士が動員されることが原則なので、これら鳶ヶ巣山城に近い貴志・重根の武士は「鵄巣城合戦」に関わっていることから、「鵄巣城」は「鵄ヶ巣城」であった可能性が高い。
 二度目は、戦国末の天正9~10年の織田信長高野山攻めのときである。信長にとって高野山攻めは喫緊の課題ではなく、信長方の在地武士高野山が紀ノ川表で小競り合いを行った程度であったようだ。
 「那賀郡誌」によると、織田信孝高野山攻めの大将とされる)に内応した梅本権之丞(興津権之丞とも。城の西麓小河荘の土豪が、高野山の有力荘官河野(こうの)(城の東の神野荘の荘官の動向を見張るため、鳶ヶ巣山に拠ったとされる。この伝承を裏付ける史料はなく、史実とするわけにはいかないが、高野山攻めの戦闘は、結果的に局地的であっても織田方の調略の手は広範囲にわたっていたことを反映する伝承であり、当城が高野山領との境目にあることをふまえると、見張りのために使用された可能性があるのではないだろうか。

(中略)


【評価】痩せ尾根で急峻なため、曲輪面積も狭く、遮断施設も発達していない。このような山城は、「見張り場」と評価されがちである。しかし、単なる見張りならば、堀切などの施設は不要だろう。

 和歌山県の山間部には、堀切などの遮断施設を持たない平坦地のみの小規模な山城が点在するが、当城はそのような、比高が高いだけの山城ではない。城の立地する場所は戦国期高野山膝下荘園とその西の守護領や根来寺の影響力の強い地域の境目にあたる。
 しかも、紀ノ川流域から有田郡へ越える街道が山麓を南北に通り、高野山領に至る街道が城の南の飯盛峠を越えている。
 交通の要衝を押さえることのできる立地であり、領域の境目を設定するために機能する、「境目の城郭」と評価できる。敵の動向を見張って情報を伝達するだけではなく、領域を支配する勢力のシンボルになるのがこの城の役割だろう。応仁の乱という紀州の在地勢力を分断する戦乱時や、高野山織豊政権の摩擦が生じた時期に文献や伝承にその名が登場するのは、その立地ゆえであろう。

 

 地元では「とびやすのてん(「鳶が巣の天」の意か)」と呼びならわされ、昭和の中頃までは見晴らしの良い景勝の地であったと伝えられていますが、現在はすっかり木々に埋もれ、その場所を特定することも困難な状態になっています。
 また、鳶ヵ巣山の山頂からやや坂本地区の集落に下ってきたあたりは「どのひら(堂の平)」と呼ばれ、かつてはこのあたりに民家が立ち並んでいたそうですが、今はもう民家もほとんど無くなってしまいました。

 しかしながら、この地がかつて応仁の乱織田信長の天下統一の過程において、ひとつの歴史の舞台となったであろうことを考えると、その風景の見方も大いに変わってこようというものです。