生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

西行法師(紀の川市竹房)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回は和歌山市禰宜高積山に庵を結んだ徳本上人(とくほん しょうにん)のことを紹介しましたが、今回は徳本上人と同じように全国を行脚してまわった僧侶・歌人西行(さいぎょう)について紹介します。

西行法師像

 西行は、平安時代末期に活躍した武士・僧侶・歌人で、23歳で出家した後に全国を行脚しながら詠んだ和歌が高く評価されて「歌聖」「漂泊の歌人」などとも称されました。後鳥羽上皇の命により藤原定家らが撰歌した「新古今和歌集」には西行の和歌が94首も収められており、これは作者別の入撰数では第一位の記録となっています。
西行法師の有名な和歌 代表作7首と歌風の特徴

 

 西行の俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)といいますが、この佐藤家田仲荘(たなかのしょう 旧・打田町周辺)を本拠とする在地領主(農村などの現地に在住しながらその領地を直接支配していた領主のこと。京などに住みながら遠方の領地を支配していた「都市領主」と対比される。)で、西行の父・佐藤康清検非違使(けびいし 平安京の治安維持を図る役人)左衛門尉(さえもんのじょう 本来は宮廷の門番を務める役人、後に一般的な武官の官職となる)に任じられて京都で暮らすことも多かったようです。
 佐藤家在地領主であったことから、義清西行はその領地である現在の紀の川市竹房付近で生まれ育ったと考えられており※1、同地には西行の像が建立されています(建立地の正式な地名は紀の川市窪)。この像のそばに建てられている説明板によれば、西行の生涯は次のように解説されています。
※1 佐藤家の家主は代々京都で暮らしており、義清は京都で生まれたとの説もある
    「わかやま何でも帳」を活用するために(PDF)

歌聖 西行法師(さいぎょう ほうし 1118~1190)
 西行法師【俗名 佐藤義清(さとう のりきよ)】は、平安時代末期か ら鎌倉時代初期にかけての代表的歌人である。
 佐藤氏は、田仲荘(たなかしょう)池田荘(いけだしょう)【旧打田町】在地領主で、代々京都に出仕して左衛門尉(さえもんのじょう)検非違使(けびいし)等の官職を勤めた。
 西行も保延元年(1135)、18歳で左衛門尉となり、北面の武士(ほくめんのぶし)として鳥羽上皇を護衛していたが、同6年(1140)に23歳で突然出家した。出家後は歌道の研鑽あるいは諸国行脚の日々を送り、宗教・文学・政治・芸能など、当時の文化の全領域に活躍した。
 また、西行が育ったとされる紀の川市竹房(たけふさ)は、現在地から東へ約500メートルの位置にあり、付近には「佐藤城址」という通称名が残り※2往時の佐藤氏の隆盛を窺わせる。
 西行は、建久元年(1190)73歳で、河内国(かわちのくに)弘川寺(ひろかわでら)【大阪府河南町にて没した。
          紀の川市教育委員会

Google マップ 説明板

※2 「龍蔵院」という寺院の周辺が佐藤氏の居館のあった場所とされており、同寺の境内に「西行法師生誕の地」の石碑がある
Google マップ 西行法師生誕地の碑

 

 義清西行が任命されたという「北面の武士」は、上皇の身近に使えて身辺の警護にあたるとともに、寺院の強訴(徒党を組んで強引に主張を認めさせようと押しかけてくること)などの際には上皇の直属軍として行動する組織で、院御所の北面(北側の部屋)を詰所としていたことからこの名が付けられました。いわば「上皇の親衛隊」とも言うべき組織であり、ここに選ばれるためには武芸に優れるだけではなく、出自や作法、文化的知識など様々な条件が求められたと言われます。つまり、義清は当代きってのエリートの一人であったと考えられるのです。
北面武士 京都通百科事典

 

 しかし、義清は23歳の時に突然出家してしまいます。平安時代末期の公卿・藤原頼長は、その日記「台記(たいき)」の中で25歳になった西行法師(「西行」は号、法名は「円位」)と出会った際のことを記しており、西行という人物について、「家系は歴代の勇士であり、家は裕福で、年も若く、心には何の憂いも無いようであったが、以前から仏の道に惹かれており、遂に出家してしまった。この行いを人々は賞賛した。」と述べています。

原文
西行法師来りて云はく、
一品経を行ふに依り、
両院以下、貴所皆下し給ふなり。
料紙の美徳を嫌はず、
ただ自筆を用ゐるべしと。
余、不軽を承諾す。
又余、年を問ふ。
答て曰はく、二十五なりと。(去々年出家。二十三)。
西行はもと兵衛慰義清なり。(左衛門大夫康清の子)。
重代の勇士なるをもって法皇に仕ふ。
俗時より心を仏道にいれ、
家富み、年若く、心、愁ひ無くして、
遂に以て遁世す。
人、 これを嘆美す。
 (『台記』永治2(1142)年3月15日。(  ) 内 は割注)
出典:下西 善三郎「「台記」の西行、「盛衰記」の西行:西行出家をめぐる言説・再考(「金沢大学語学・文学研究 23号」金沢大学教育学部国語国文学会 1994)」
金沢大学学術情報リポジトリKURA

 

現代語訳
西行法師がやって来て言うには
一品経※3の制作を行いたい
※3 一品経(いっぽんきょう)とは法華経28品(28章)を1品ごとに別々の人の手で書写して、全28品の写経を行うこと。待賢門院璋子(たいけんもんいん しょうし 藤原璋子 鳥羽天皇の皇后で崇徳・後白河両天皇の母)が仏門に入ることになったのでこれを支援するために西行が制作を志したとされる。西行待賢門院との関係については後段参照。
鳥羽院崇徳院をはじめ、皆が賛同してくれている
紙はどのようなものでもよいが
必ず自筆でお願いしたい、ということであった
余(私)は「不軽品※4」の書写を承諾した
※4 第20品「常不軽菩薩品(じょう ふきょう ぼさつほん)」のこと
また、余は西行に歳を問うた
答えて言うには、25であるとのこと(一昨年23歳で出家した)
そもそも、西行兵衛慰(ひょうえのじょう 在地領主の子等が都で皇族の護衛などの役務に就く際の役職)義清である(左衛門大夫康清の子)
佐藤家代々の勇士であったことから法皇に仕えていたものである
出家する前から仏道に心惹かれており
家は富み、年も若く、心には愁いも無く、
ついに遁世してしまった
世間の人々はこの行いを賛美した
※現代語訳は筆者

 

 当時、既に妻も子供もいたと考えられている義清が突然出家した理由については明らかにされていませんが、一般的には、「親しい友人の突然の死によって人生の無常を感じた」という説と、「高貴な女性(不詳であるが、前述の待賢門院璋子のことではないかとの説がある)への思慕の情を断ち切るためであった」という説が挙げられています。これについて、植村雅史氏は「中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(上) : 隠遁者西行、その生涯からみる死生観(「駿河台大学論叢 第48号」駿河台大学教養文化研究所 2014)」において次のように記しています。

 前述の如く、義清出家の動機については諸説ある。
 たとえば『西行物語』には、北面の同僚であり、親族の一人としても親しい存在であった佐藤憲康の突然の死がそれであったと書かれている。「あしたは必ずことにきらめきて参り給へ」と約束を交わしてから別れた翌日、「参りざまに誘ひければ、門にひとびと多く立ち騒ぎ、内にもさまざまに泣き悲しむ声」が聞こえてきた。それは憲康が昨夜急死したというものであった。その妻や母親が人目を憚らずに泣き、悲歎に暮れる姿を目の当たりにして西行は、「いよいよかき曇る心地して、風の前の燈火、蓮の浮葉の露、夢のうちの夢と覚えて、やがてここに髪を切らばや」と思い、出家を決断したというのである。

 また『源平盛衰記』「巻八、讃岐院の事」では、

さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋ゆゑとぞ承る申すも恐れある上臈女房(筆者注:「その名を口にするのもはばかられるような身分の高い女官」のこと、前述のように待賢門院璋子を指すのではないかとの説がある)を思い懸けまゐらせたりけるを、「阿漕の浦ぞ※5」という仰せを蒙りて思ひきり、官位は春の夜見はてぬ夢と思いなし、楽しみ栄えは秋の夜の月西へとなぞらへて、有為の世の契りを遁れつつ、無為の道にぞ入りける。阿漕は歌の心なり。
  伊勢の海 阿漕が浦に引く網も たび重なればひともこそ知れ
といふ心は、この阿漕が浦には、神の誓ひにて、年に一度のほかは網を引かずとかや。
この仰せを承つて、西行が詠みける
  思ひきや 富士の高嶺に一夜ねて 雲の上なる 月を見むとは
この歌の心を思ふには、一夜の御契りはありけるにや。重ねて聞こしめすことのありければこそ阿漕とは仰せけめ。情なかりけることどもなり

と、出家の動機が「恋ゆゑ」であるとしている西行「申すも恐れある」上臈女房と恋に落ちた。それは一夜限りの契りであった。しかし、決して結ばれることのない運命に上臈女房は金輪際逢瀬を重ねないことを誓い、義清を遠ざける。そして、その激しく狂おしい恋慕を断ち切らんがために出家という選択をしたというのである。
※5 上記文中の後段でも解説されているが、「阿漕が浦」とは、「阿漕という漁師が病気の母親のために禁を破って網で密猟をしていたが、度重なるうちに人に知られるようになり、遂には海に沈められた」という故事により、「隠し事もあまりに度重なれば人に知れ渡ってしまう」という意味を表す。
    
阿漕が浦に引く網 | 会話で使えることわざ辞典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス

駿河台大学学術情報リポジトリ

 

 出家後は京の草庵に住みながら、真言宗の僧として山岳修行などを繰り返していましたが、30歳の頃に高野山を本拠とするようになり、ここから全国各地へ漂泊の旅に出ては和歌を詠むという暮らしを続けました。晩年には伊勢に移りますが、この間の西行の動静について「朝日日本歴史人物事典朝日新聞出版)」では次のように解説しています。

 保延6年出家。法名円位
 遁世後は東山嵯峨に草庵を結び、鞍馬吉野大峰熊野などの地で真言としての修行に励んだ。
 伊勢にも赴き、30歳代以前に陸奥を訪れてもいる。
 その後は主に高野山に拠ったが、都との往還もしばしばで、保元1(1156)年には鳥羽法皇の葬送に参り合わせ、保元の乱に敗れて仁和寺に籠った崇徳上皇のもとに馳せ参じてもいる。讃岐崇徳上皇の配所にも歌を詠み送った。
 仁安2(1167)年もしくは3年には、弘法大師の遺跡巡拝と崇徳上皇の白峰陵参詣を目的とする中国四国行に出立。
 晩年は伊勢に移住し、本地垂迹説に拠る神祇信仰を深めつつ、和歌を通じて内宮祠官荒木田氏の人々と交わった。
西行とは - コトバンク

 

 一般的に西行約30年間にわたって高野山を本拠としたと伝えられていますが、その詳細についてはどうもよく判っていないようです。このことについて、目崎徳衛氏は「高野山における西行 (一) -西行伝記研究 その二-(「聖心女子大学論叢 第45集」聖心女子大学 1975)」において西行高野山に深く関係していた期間についての推定を行っており、概ね久安から治承までのほぼ三十年余であろうとの説を述べています。

 西行は出家後しばらくしてから晩年に至るまで、ほぼ三十年の久しきにわたって高野山と深い関係を結び、詞書に高野の文字のみえる歌も三十首前後に及んでいる。したがって、西行高野山との関係を具体的に考察することは、その思想史的研究の主要な論点の一つとなるであろう。
 西行伝記の研究がこれまで歴史学の立場から全く行われていなかったことにもよるのであろうが、西行の高野に関係した年代、高野入りの動機、および高野における生活の具体的様相について、従来の所説にはなお漠然たるところがある。本論文の意図は高野における生活の具体相について一つの見通しをつけようとする点にあるが、順序として高野入りと退去の年代およびその動機について、一応触れておかねばなるまい。
 まず年代について言うならば、『西行』の著者川田順氏は、「久安の中頃から治承四年の春まで、三十余年間、西行高野山を中心にして生活したものと推定される。」としてこれを「高野中心時代」と命名し、さらに仁安二年(1167)の四国行脚を分岐点として前後二期に区分された。また『西行の研究』の著者窪田章一郎氏は、生涯の区分基準を西行の旅に求める独自の立場をとられたが、結果的には初度陸奥行からはじまるその第三期と四国行からはじまるその第四期の合計は、川田氏のいわゆる高野中心時代とほぼ合致する。
 川田氏高野入りを「久安の中頃」としたのは、久安元年(1145)8月の待賢門院崩御後、その女房中納言が出家して高野山麓の天野に住んだ※6所へ、西行が「御山よりいであひたりける山家集816)ことを根拠としたのである。いかにもこの詞書は高野山との関係の初見とすべきであろう。窪田章一郎氏は前述のごとく初度の陸奥行を終った後高野に入ったと考えられたが、この旅の年時については諸説紛々としていて、しかも格別の考証がない。窪田氏待賢門院崩御後旅に出る気分になったのであろうとする風巻景次郎氏の説に賛成しておられるが、この風巻説もさして根拠のある推定ではない。それよりも、久安五年の高野山焼亡による復興事業に関連付けようとする、後述(筆者注:本引用には含まれない)五来重氏説が有力であろう。ここではともかく「久安の中頃」という川田氏の推測を以って、当らずといえども遠からざるものと見ておこう。
 高野を去って伊勢に赴いた時期については、入山の時期よりもやや明確に推定される。それは、『異本山家集』(2124)に、
  福原へ都遷りありと聞きし頃、伊勢にて月の歌よみ侍りしに
  雲の上や ふるき都になりにけり すむらむ月の かげはかはらで
とあるによって、治承四年(1180)6月の福原遷都西行伊勢で耳にしていることが推定されるからである。そして高野山文書『宝簡集』所収の年次不明3月15日付円位書状(大日本古文書高野山文書一)が治承四年のものと見なされるならば、西行が高野を去ったのは、同年4、5月のころとなるであろう。
 かくて西行高野山に深く関係したのは、久安から治承までほぼ三十年余と考えられる

(以下略)
聖心女子大学学術リポジトリ - 聖心女子大学学術リポジトリ

※6 かつらぎ町下天野に「院の墓」と呼ばれる墓石があるが、これが待賢門院の女房である中納言局の墓であるとされている。
   
院の墓|見所|かつらぎ観光協会

 

 また、西行高野山に拠点を置いていた期間は「(ひじり 諸国を回りながら布教活動を行うとともに「勧進(かんじん)と呼ばれる寄付を集める活動を行う僧)」としての活動を行っていたとも言われますが、これについても目崎氏は上記論文の続編となる「高野山における西行 (二)  -西行伝記研究 その三-(「聖心女子大学論叢 第46集」聖心女子大学 1975)」において、「勧進聖としての活動を行っていたことは間違いないが、これは組織的な聖集団としての活動ではなく「完全な一匹狼」として臨時自由に選択した行為であり、西行は結局いかなる存在なのかと問われるならば、私はさし当たり「数奇の遁世者」であると答えておかなければならない」という趣旨の解釈を示しています。
聖心女子大学学術リポジトリ - 聖心女子大学学術リポジトリ

 

 別項「美福門院の墓」でも紹介しましたが、西行は、高野山にいた際に荒川荘(現在の紀の川市桃山町の一部)を領していた美福門院(びふくもんいん 鳥羽天皇の皇后、近衛天皇の母)の納骨に立ち会ったようで、次のような和歌を詠んでいます。
美福門院の墓 ~桃山町(現紀の川市)最上~

美福門院の御骨、高野の菩提心院へわたさせ給ひけるを見たてまつりて、
けふや君おほふ五の雲はれて心の月をみがきいづらむ
  現代語訳
  今日から、あなたを覆っていた五つの障害の雲が晴れて、

  心の清らかな月が輝きだすだろう

西行上人集 三九一

 

 上記目崎氏の論文ではまた、待賢門院の女房(女官)である中納言天野かつらぎ町上天野・下天野)で暮らしていたと書かれていますが、天野にはこの他にも西行がしばらく暮らしていたという「西行」や、西行の妻と娘が暮らしたという「西行」が伝えられており、西行とは関係の深い土地となっています。
諸国行脚の歌人 西行が歌い歩いた道を行く | わかやま歴史物語


 西行の妻子についての公式な記録はないようですが、前述の「西行物語」には「冷泉院の局の養女となっていた娘が西行とめぐりあい、父の勧めによって出家して天野の里で暮らしている母のもとへ行き、母娘二人で修行の日々を送った」という話が描かれていますので、「西行」はこの物語を伝えるものなのでしょう。

挿絵とあらすじで楽しむお伽草子 第12話 西行物語
■ 巻四 ■
 都に着いた西行は、昔知り合いだった人をたずね、昔のことから今のことまで、一晩中語り明かしました。お互いに涙で袖を濡らします。話しているうちに、話題が西行の娘のことに及びました。
そうそう、あなたがあれほど可愛がっておられた姫君のことです。おかわいそうに、あなたが出家されてから、母君もすぐに出家されたのですよ。一、二年の間は母君とご一緒にお過ごしだったようですが、九条の刑部卿の姫君で冷泉院の局という方が、養女になさって、大切にお育てしているということです。母君高野山のふもと、天野というところで修行なさっているようです。この七、八年は、全く音信不通らしいですよ。最近冷泉院の局の姫君が婿をとったらしく、あなたの姫君はこの姫君付きの女房としてお仕えしているとのこと。ところが、日夜仏様にお仕えするばかりで、
生きている間に、お父様の行方をお示し下さいませ。
と祈っては泣いておられるそうです。
 西行は、何くわぬ顔でこの話を聞き、やがて帰っていきました。
 
 次の日、西行冷泉院の局のもとへ行き、主に頼んでを呼びました。が急いで行ってみると、は墨染めの衣を着てやつれはてた姿で座っています。けれども長年会いたいと思っていたです。涙が止まりません。西行も、
(わたしが家を出たときは、まだほんの子供だったのに、美しく成長したことよ。)
と感涙にむせびます。
長年たがいにどこでどうしているかもわからなかったが、今ここで会うことができた。そもそも親子の縁は前世の因縁という。このわたしの言うことを聞いてくれるか。
どうして聞かないことがありましょう。何事もお父上のお心のままに
うれしいことを言う。まだ幼かった頃は、大切に育てて院などにお仕えさせようと思っていたが、わたしがこのようになりはててしまったからには、それも叶うまい。しっかりした後見のない宮仕えなど、人に侮られるのがおちじゃ。思えばこの世は夢幻のようなもの。この上はお前も尼になって、母と一緒に後世を祈るがよい。わたしが極楽に往生する時には、必ずやお前たちも迎えよう。
は少し考えていましたが、涙をおさえて、
わたくしは幼い頃から父母に離れ、このように頼りない身の上になってしまいました。ですから、どうにかして出家したいと思っておりました。
と答えます。西行は喜んで、出家の日時を約束すると帰っていきました。
(中略) 
 西行を迎えとると、長い黒髪を切り、出家させました。
わたしが在俗のころは、出世を喜び、妻子や財産に執着していた。世の無常を悟って一度は俗世を去ったとはいえ、凡夫のならい、心の中ではそなたのことが気がかりであった。しかし今、お前が出家を遂げたからには、わたしのこの世での望みは果たされた。お前は見た目は女だが、将来は必ず成仏するであろう。お前とこの世で会うのもこれが最後じゃ。父は浄土でお前を待つことにしよう。母は高野山のふもと、天野というところにいるという。訪ねて行き、ともに仏道を修行しなさい。
と言って、法文を授けます。

 娘尼は、
わたくしは四歳で父に捨られ、七歳で母と別れました。それ以来人を恐ろしいと思って過ごしてまいりました。幼い頃から出家の志がございましたが、女の身なれば叶わず、残念に思っていたところ、この度念願叶って出家を遂げることができ、うれしゅうございます。たとえ万宝を与えられたとしても、それは一瞬の夢のようなものですが、父上が先ほど授けてくださった法文は、後生の道しるべとなりましょう。浄土で親子三人、必ずお会いしましょう。
と言って、泣く泣く天野をさして旅立っていきました。西行はその姿をいつまでも見送っておりました。

 娘尼は、天野高野のふもととは聞いていましたが、どちらへ行けばよいのやら、見当もつきません。心ひとつを道しるべに、慣れない旅を続けました。道行く人たちも、娘の様子を見て、
これはなにやら由ありげな尼君だこと。おいたわしい。
と涙を流します。さて、そうこうするうちに、娘尼はとうとう天野母親を訪ねあてました。昔のことや今のことなどを語り合い再会を喜びます。母子はともに修行して暮らしました。
挿絵とあらすじで楽しむお伽草子 第12話 西行物語 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

 

 

 さて、西行の和歌が後世に与えた影響は非常に大きいものがあるとされます。このことについてWikiprdiaでは次のように書かれています。

評価
(中略)
 後世に与えた影響は極めて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅の中にある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切り取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する。例えば能に『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。
西行 - Wikipedia

 

 以前「宗祇法師」の項でも詳述したところですが、「俳聖」とも称される江戸時代の俳人松尾芭蕉は、「笈の小文(おいのこぶみ)」と題した紀行文の「序文芭蕉の芸術理念の根本をよく表したものとして「風雅論」とも呼ばれる)」の中で、自らの理想の姿として最初に西行の名を挙げており、これに宋祇連歌雪舟(絵)利休(茶)の名を連ねています。
宗祗法師 ~吉備町(現有田川町)下津野~ -

西行和歌における
宋祇連歌における
雪舟における
利休における
其貫道する物は一なり
しかも風雅におけるもの
造化(筆者注:万物の創造主)にしたがひて四時(筆者注:四季)を友とす
見る處花にあらずといふ事なし
おもふ所月にあらずといふ事なし

 

 西行が詠んだ有名な和歌としては、伊勢神宮を参拝したときに詠んだとされる

   なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
   (どのような神様がいらっしゃるかは知らないけれども
               あまりのありがたさに 涙がこぼれ落ちるようだ)
や、
   願わくは 花のしたにて 春死なん その如月の 望月のころ
   (できるならば 満開の桜の下で 春に死にたいと強く願う
               ちょうど2月の 満月の頃※7に)

が特によく知られています。
※7 太陰暦では満月の日は必ず15日にあたるため2月15日を指すが、この日は釈迦が入滅した日でもある。

 中でも、「願わくは 花のしたにて 春死なん その如月の 望月のころ」については、西行が亡くなった日が「如月の望月の頃」とわずか1日違いの2月16日(文治6年(1190)2月16日)であったことから、この歌は「西行の辞世の句」とも「自らの死期を予言した歌」とも言われています。また、実際に亡くなったのは2月16日でしたが西行の願いは「望月の頃」であったことから、現代では毎年2月15日を「西行(さいぎょうき)」と呼んでおり、歳時記に取り入れられて俳句の季語となっています。
西行忌(さいぎょうき、さいぎやうき) 仲春 – 季語と歳時記

 

 かつて日本の行事は全て太陰暦(旧暦)にもとづいて行われてきましたが、現在では多くの行事が旧暦の日付をそのまま太陽暦新暦に移し替えて行われているので、旧暦に基づく行事の季節感が新暦の日付とうまく整合していないことがしばしば起きています。
 新暦で考えると西行が亡くなった2月16日といえば冬の真っ盛りでありとても桜が咲くような時季ではありませんが、調べてみると文治6年(1190)の旧暦2月16日は新暦にあてはめれば3月30日になるようですから、桜(当時はヤマザクラですが)が咲いていたことは十分に考えられます。
西行入寂の太陽暦換算


 西行は、本当に自らの願いどおりに桜の下でこの世を去ったのかもしれませんね。