生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

徳本上人と高積山(和歌山市禰宜)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回まで3回にわたって和歌山市禰宜和佐山連峰にある2つの峰、「高積山」と「和佐山(城ヶ峯)」に関する話を紹介してきましたが、今回はこれら一連の話題の最後として「徳本上人と高積山」に関する話を紹介したいと思います。

 高積山の中腹には、「徳本上人庵跡」と呼ばれる場所があります。これは、江戸時代後期に「流行神(はやりがみ)」とまで称されるほどに全国で熱狂的な支持を集めた僧・徳本上人(とくほん しょうにん)が一時的に滞在していたのあった場所です。


 徳本上人については、別項「徳本上人」で詳述したところですが、紀州日高郡(現在の日高町志賀)の出身で、全国を巡って嚴しい修行を行いながら、民衆に浄土宗の教義を広める活動を行った人物です。徳本上人によるわかりやすい説法と、(かね)木魚を激しく打ち鳴らす独特の念仏(徳本念仏)のスタイルは評判を呼び、身分や男女の区別を越えて信仰を集めるようになりました。
 文化9年(1812)に和歌山の総持寺で7日間の別行を営んだ際には2万人もの参詣者を集め、阿波・淡路から200隻の参詣船が集まったと伝えられています。
徳本上人 ~川辺町(現日高川町)千津川~

 

 徳本上人は修行と布教のために全国を行脚してまわりましたが、文化11年(1814)からは江戸小石川の「伝通院」を拠点とした後、「一行院」に移ってここで没します。一行院は寛永3年(1626)に創建された寺院ですが、徳本上人を中興として位置づけて現在までその志が受け継がれています。
一行院について – 天暁山 一行院

 そして、徳本上人が江戸へ拠点を移す直前の文化9年(1812)から文化11年までの約2年間、紀州藩第10代藩主徳川治宝(はるとみ)に招かれて和歌山で滞在していたのが、この高積山の中腹の地なのです。
 徳川治宝徳本上人との関係については別項「上人穴」で詳述していますが、徳本上人が、横暴の限りを尽くしたため若くして隠居させられてしまった紀州藩第8代藩主徳川重倫(しげのり 徳川治宝の父)に対して人の道を諭したところ、重倫がおおいに反省し、出家して徳本の弟子となったことが大きなきっかけとなります。徳川治宝は、誰が何を言っても一切聞く耳を持たなかった父・重倫を改心させた徳本上人に感動し、上人ゆかりの日高町に「誕生院」を創建したほか、「首大」で知られる和歌山市の「無量光寺」も徳本を開山として治宝により創建されました。
上人穴 ~美浜町三尾~ 
首大仏・無量光寺(和歌山市吹上)

 

 高積山に設けられたという庵も、これらの寺院と同じように徳川治宝により徳本上人のために建立されたものです。これについて、和歌山市が編纂した「和歌山市史 第二巻 近世」には次のような記述があります。

第四章 藩財政建て直しと徳川治宝
第三節 藩学と文化
和佐山の徳本上人
 文化9年(1812)5月29日、念仏行者と称された徳本は、藩主治宝に招かれて登城し、御座の間で十念(筆者注:浄土宗の修行として「南無阿弥陀仏」と十回唱えること)を授けた。徳本は、すでに寛政12年(1800)、隠居していた重倫にも帰依をうけていたが、治宝十念を授ける2日前に重倫浜御殿で戒を授けている。こうした藩主のみならず庶民の帰依をうけた徳本の活動のあとをたどってみよう。
 
 徳本は、宝暦8年(1758)6月12日に日高郡志賀谷久志村(現 日高郡日高町志賀)に生まれた。
 幼少のころから仏教に親しみ、天明4年(1784)6月、同郡財部村往生寺大円上人に得度を受け、徳本と名付けられた。
 その後、有田・日高郡の山中で念仏修行を重ね、その鎮魂呪術的な性格を持つ不断念仏の功徳を求める庶民の帰依が広まった。
 寛政12年、重倫徳本を引見し、有田郡須谷(現 有田市須谷)宝谷山山頂に庵を賜った。
 しかし、徳本は一処に常住せず、その後、近畿・関東・北陸を廻って布教教化に勤め、文化9年(1812)5月に、重倫治宝に招かれたのである。
 この時、治宝和佐山(現 和歌山市禰宜高積山)に庵を賜った。
 この庵は「大智寺隠居所」と称しているが、「徳本上人御庵所」であり、同年7月、寺社奉行が建設の準備を進めている(「徳本行者一件」中筋家文書)。
 庵の規模は、御堂(4間×3間)・御認所(2間半×2間)・随身間(5間×6間)・台所(3間×4間)・物置(2間×3間)、念仏堂(10間×8間、三方縁)・茶所(2間×8間)、左堂(2間×3間)であった。
 10月には、小豆島村船主11名が和歌山から和佐山までの材木積登しを寄進する旨申し出ており、多くの人々の助力によって竣工したと思われる。
 徳本を訪ねる人々も多かったためか、庵室と山麓との中間に接待所を設置したいと願い出ているが、これは許可されなかった。
 徳本は、文化11年(1814)春、和佐山の庵室を出て、京都を経て江戸小石川伝通院内の清浄心院に落ちつき、その後も関東、北陸を勧化して、文化13年(1816)9月、江戸に帰り、同15年(1818)10月6日、小石川一行院で没した。
 紀州領内はもとより、全国各地を遊行して不断念仏をすすめた徳本が、浄土宗の布教教化に果たした役割は、文化文政期の仏教史上、特筆すべきものであろう。

 

 また、同時期の徳本上人の活動について、旧・日高町が編纂した「日高町」にも次のような記述があります。ここでは先述した高積神社の祭神が徳本のもとに現れて「いと喜ばしい」と告げたという伝承も紹介されています。

 文化9年春、紀州(筆者注:当時の藩主であった徳川治宝のこと)からまた再三御使者がみえ 辞退しきれなくて5月に帰国して 和佐山庵室を賜って住んでいた。和歌山県梶取の総持寺で5月20日から7日間別時並びに説教があった。毎日の群参2万人を超え、遠く四国から渡海してくる船の数だけでも200艘にのぼり 港は繁昌したという。上人御十念を授けられ「地獄へは落ちるなよ、精々お念仏を唱えて極楽へ参れよ。」と声高く叫ばれたそうである。
 5月27日和歌山城へお招きがあり 紀州十代の徳川治宝弟子の礼節をもって上人を迎えられた。和佐山には高積神社があり都麻都姫命が祀られている。素盞鳴命の御子、五十猛命山東に、大屋都姫命は川永村に祭祀されていて二人は女神である。神様は三回も徳本の庵室に来たり、「この山は我が年久しく住める処である。たまたま師の来臨を得て いとよろこばしい。」と告げられた。山麓臨済宗歓喜がありー 往持徳本に帰依して大字の名号塔を建立している。
 文化11年の春 江戸増上寺大僧正 典海より和佐山に使者が来て関東下向を促し懇情したので南都の興福院をはじめ京都の円通寺箕面勝尾寺を出発して桑名、(筆者注:みや 現在の名古屋市熱田区 「熱田宿」とも)の駅 池鯉鮒(筆者注:ちりゅう 現在の愛知県知多市)の駅では群衆の人々雲霞のようで一歩も進めなくなり、家の軒に登って十念を授けられるという情況であった。大井川では蹟にひれ伏して十念を授かり、荒井箱根関守もすべて土下座して上人を迎えられた。鎌倉、神奈川の駅を経て六月十二日に江戸の伝通院に到着せられた


 この時設けられたという徳本上人の庵跡の遺構は残念ながら現在明確に確認することはできないものの、高積山和佐山への登山道(参道)の途中にある「地蔵尊」の横に「徳本行者六字名号碑」が建立されています。
 「名号碑(みょうごう ひ)」あるいは「六字名号碑(ろくじ みょうごう ひ)」というのは一般的に「南無阿弥陀仏」の六文字を刻んだ石碑のことを言いますが、中でも徳本行者にゆかりのある名号碑は通称「徳本文字」という非常に独特な、丸みを帯びた文字で書かれていることが特徴です。
【もんじ】そこにも徳本・ここにも徳本|徳本行者六字名号碑|広島県福山市から発見報告 | NOTES ON TYPOGRAPHY

徳本名号碑(左)と福地蔵尊(右)

 「念仏行者徳本上人研究会」という機関によると、こうした「徳本行者六字名号碑」は全国に1600基以上あるということで、決して珍しいものというわけではないのですが、全国を行脚してまわった徳本上人がその晩年に2年間もの間この地で滞在していたということですから、この地には徳本上人を惹き付けるに足る何かがあったということなのでしょう。
小林玲子の善光寺表参道日記:徳本上人名号塔、全国一は長野市(まだ増える可能性)

 

 

 ちなみに、高積山手軽なハイキングコースとしても知られており、登山道の脇には「一丁」「二丁」と記した標石があって山頂までの距離を示しています。下の宮付近が八丁山頂が一丁となっており、これを目安にすれば山頂までのだいたいの距離が判ります。

 

 登山道を辿って尾根に出ると、左に高積神社上の宮、右に行けば和佐山(城ケ峰)へと至る分岐点に梵字の刻まれた標石があります。この梵字は、観音菩薩勢至菩薩阿弥陀如来大日如来などを表しているそうで、ここが山岳修験などの行場としても利用されていたことを思い起こさせてくれます。

梵字の刻まれた石碑

 

 高積山の山頂付近には高積神社上ノ宮があって通常は登山道も整備されていますが、和佐山(城ケ峰)の山頂へは時期によって藪こぎ(雑草・灌木などをかき分けて進むこと)が必要なこともあります。どちらに向かうにせよ、「山登り」であることは間違いないので、入山される場合には靴・服装・所持品などを十分に確認するようご注意ください。