生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

高積神社(和歌山市禰宜)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 これまで「紀伊国一宮」と呼ばれる三つの神社を紹介してきましたが、今回はこのうちの一社・伊太祁曽神社と密接な関係にあるとされる和歌山市禰宜(ねぎ)の「高積神社(たかつみ じんじゃ)」を紹介します。

 

 高積神社は、高積山(たかつみやま 237m 「和佐山(わさやま)」とも)の山頂に所在する神社ですが、その山麓に遙拝所(離れた場所から神仏を拝む場所)があるため、一般的には山頂にある本殿を「上ノ宮(かみのみや)」、山麓の遥拝所を「下ノ宮(しものみや)」と呼んでいます。

 

 同社の主祭神は、伊太祁曽神社の項で紹介したように日本中に樹木の種を蒔いて至るところを青山にしたと伝えられる兄妹神、都麻津比売命(つまつこめの みこと)五十猛命(いたけるの みこと)大屋津比売命(おおやつひめの みこと)の三柱ですが、三神の配置は都麻津比売命を中央にしていることから、特に都麻津比売命を重視した神社であると考えられているようです。

 この神社の由緒等については、同社下ノ宮に掲げられている案内板に次のような説明が記されています。

高積神社 御由緒
 高積神社は、和歌山市の東部に南北に続く和佐山連峰の北端に聳える「高積山(通称「高山」「高の山」)の山頂(海抜235米)に位置している。地番は以前「海草郡和佐村大字禰宜字高山1557番地」だったが、昭和31年(1956)の町村合併に伴い「和歌山市禰宜1557番地」(下の宮は禰宜1390番地)となっている。
 当神社は「高山」の地にあることから、古くから「高の御前(ごぜん)」「高の宮」の名で呼ばれており、人々の信仰は格別に厚い。特に疱瘡天然痘流行の節は、県内外からの参詣者が絶えなかったとのことである。なお、山頂にある本殿は「上の宮」、麓にある遥拝所は「下の宮」として親しまれてきた。
 主祭神は、「都麻津比売命(つまつこめの みこと)五十猛命(いたけるの みこと)大屋津比売命(おおやつひめの みこと)」の三人の兄妹神で、紀ノ国に木の種を伝えられた素戔嗚尊(すさのおの みこと)の御子である。垂任天皇の16年、日前・国懸(ひのくま・くにかかす)両神浜宮から秋月に遷られた折、この三神が秋月から伊太祈曽に遷られた。更に、文武天皇の大宝2年(702)に三神分祀の勅令によって、五十猛命伊太祈曽都麻津比売命高山大屋津比売命川永宇田森に祀られることになった。一応は三神分祀だが、中央に都麻津比売命を祀り、両側に他の二神を祀っていることから、当神社を「高三所大明神(たか みどころ だいみょうじん)」とも称えられてきた。
 なお、明治43年(1910)に、旧和佐村内に点在していた三十数ヶ所の神社が、内務省認可により高積神社に合祀された。
 当神社の所在地「高山」は、麓から800米余(筆者注:登山道の延長を指すものと思われる)登った景勝の地にあり、北方の紀ノ川は帯のように豊かに流れ、西方の和歌山市は足下に見え、遠く淡路四国まで一望できる。東は竜門山高野山、南は生石山や有田の山波が続いている。また、愛郷家によって育てられた春の桜が全山を色どり、秋の紅葉とともに風情は一入(ひとしお)である。

古銭埋蔵地※1
 大正14年(1929)本殿前のすぐ北の平地で、古銭一万数千枚が発掘され、本県の文化財に指定されている。
古城跡※1
 高積山の南方、500米の城ヶ峯(通称「城(じょう)」と言い、海抜は255米・和佐山連峰の最高峰)は、延文5年(1360)の南北朝時代の古戦場で、土塁・空堀などの陣地跡が残されている。
※1 筆者注:「古銭埋蔵地「古城跡」については別項で詳述する予定としている
[例祭日] 春祭は「上の宮」で行う。
春(四月第二日曜日)・夏(七月十五日)・秋(十月体育の日)-冬(十二月十五日)

    平成16年(2004)  高積神社総代会

Google マップ

 

 以前、伊太祁曽神社の項で、同社が秋月から「亥の森」に遷座したのち、(現)伊太祁曾神社大屋都比賣(おおやつひめ)神社都麻都比賣(つまつひめ)神社、の3社に分かれたという話を書きました。
伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)

 その際に創建された都麻都比賣神社というのは現在の和歌山市平尾にある都麻都姫神、もしくは和歌山市吉礼にある都麻津姫神のどちらかであろうとの説が有力であるとしましたが、異説としてこの高積神社がこの都麻都比賣神社に該当するとの意見もあることを紹介しました。
 これについては古くから議論があるようで、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「高積神社」の項に次のような説明が記載されています。

高積神社<和歌山市
 和歌山市禰宜にある神社。旧村社。祭神は都麻都比売命。相殿に大屋都比売命五十猛命を祀る。
 古くは高社高宮高御前神社などと称し、三神を祀ることから高三所明神とも呼ばれた。
 標高235.2mの高積山(和佐山)の山頂に所在し、和佐山が「和佐の高山」と呼ばれたことが、高社などの社名になったといわれている。

 「名所図会(筆者注:「紀伊国名所図会」のこと)」は祭神を高津比古神高津比売神気鎮社とし、延喜式神名帳名草郡条の「高積比古神社」「高積比売神」に比定し、また延享3年の「南紀神社録(県立図書館蔵)も同様に「高積比古神ハ天道根命六世孫若積命ナリ」とあり、紀国造の祖である天道根命の6世の孫若積命とし、紀国造の祖神を祀ったものとする。

 これに対して「風土記(筆者注:「紀伊風土記」のこと)」は神社考定部(筆者注:続風土記の中の一節)の中で、当社は延喜式神名帳名草郡条の「都麻都比売神社<名神大、月次新嘗>」にあたり、「名所図会」などがいう高津比古神・高津比売神・気鎮社を祀るという説は、高宮などと呼ばれたことによる牽強付会とする。

 つまり和佐荘と日前・国懸神宮領との用水相論※2の際の永享5年6月日付高大明神雑掌申状案に「今神宮領葦原千町者、為当社<手力雄尊>、敷地鎮坐之処、日前国懸影向之刻、去進彼千町於両宮、御遷坐山東、其後又御遷坐和佐高山」と見え、当社は伊太祁曽大屋都姫両社と同様に日前・国懸宮に社地を譲っていることが知られるから(湯橋家文書/和歌山市史4)、「続日本紀」大宝2年2月22日条に「分遷伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売三神社」とあることを参考にして当社は都麻都姫神だというのである。
※2 和佐荘と日前宮領との間に生じた水利権をめぐる争いで、和佐荘側では高積神社がもとは伊太祁曽神社とともに秋月の地にあって日前宮に社地を譲り渡したことを水利権の根拠の一つとして主張した。
日前国懸神宮と高大明神の用水相論 - Wikipedia

 

 このように、高積神社の祭神に関する解釈が「紀伊国名所図会」と「紀伊風土記」とでは大きく異なっています。この両者はいずれも江戸時代後期に編纂されたものであり、その成立時期がかなり近いものであるにもかかわらず、このように大きく見解が異なるのは比較的珍しいことのように思われます。

 両書における記述内容については下記の個人サイトにどちらも掲載されていますので参考にしていただきたいのですが、この中で私が注目するのは「名所図会」における「高御前神社(高積神社上ノ宮)」の祭神についての説明です。ここでは「同社は『延喜式神名帳』」にある『高積比古神社・高積比売神社』に該当し、その祭神は大直日神(おおなおびの かみ)と同一神である」とし、それ故に疫病、特に小児疱瘡(子供の天然痘から免れるのに御利益があると記されています。
高積神社 和歌山市禰宜1557

紀伊名所図会 気鎮神社、高御前神社

高御前神社
同じ村の東、山のうへにあり。祀る神三座、高津比古神庚津比売神気鎮社
(中略)
延喜式神名帳」に云く、高積比古神社高積比売神
本国神名帳」に云く、従四位上高積比古神高積比売神
社伝に云ふ、高神社(たかのじんじゃ)と申し奉るは、則大直日神にてます。
魔神降服の御姿にして、甲冑を帯し、矛を持ちたまへり、されは軍神とも仰がれ玉ひ、または悪風邪気を駆除したまふをもて、小児疱瘡の憂を免れしめ給へりといふ。
疱瘡流行のときは、山下気鎮社へ土人群参してこれをいのるに、かならずまぬがる々といふ

 大直日神(「大直毘神」とも)は、古事記日本書紀に登場する神で、黄泉(よみ 死者の国)から戻った伊奘諾尊(いざなぎの みこと)が穢れを払うための禊(みそぎ)をしたときに誕生した「(まが)つ神(災いをもたらす神 古事記では二柱、日本書紀では一柱)」を「直す(正常にする)」ために、禍つ神の後から生まれてきたとされます。つまり、「疫病」という災厄を直し、正常な状態に戻す霊力を有する神ということになるのでしょう。
大直毘神 – 國學院大學 古事記学センターウェブサイト

 

 このように、かつてこの神社に疫病退散の御利益を求める人々が列をなして訪れたのであれば、それは大直日神への信仰が中心となったものであり、現在主祭神の中央に祀られている都麻津比売命への信仰と考えるのは難しいのかもしれません。

 しかしながら、これにはやはり反論もあり、下記のWebサイトに掲載されている「高積神社奉賛会趣意書」では、地理的に見ると伊太祁曽神社、大屋都姫神社、高積神社はそれぞれ南北に約二里間隔で所在しており、いずれも東に面して本殿が建てられているのは偶然ではないとして、伊太祁曽神社から分割された都麻都比賣神社は同社であるとしており、その見解には頷けるところも確かにあります。

国土地理院電子国土Web」より一部を加工
地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

高積神社
(略)
 続紀(筆者注:「続日本紀」のこと)大宝2年2月己未分遷伊太祈曾、大屋都比売、都麻都比売三神杜とありまして 此御神初五十猛命大屋都比売命と三神共に 今の日前国懸神宮の鎮り坐る地に在しましたが 垂仁天皇16年日前国懸両神宮 浜の宮より今の地に遷り給ふたに因って 五十猛命の三神 其の地を去って今の山東伊太祈曾の地に遷り給ひ、其後大宝2年に、三神を分遷の勅命があり三神所を異にして鎮り坐したのであります。

 五十猛命山東の荘に在しまし 大屋都比売命は、紀の川の北平田荘に遷り、都麻都比売命は此高山に遷り給ひ 三神三所に分れ鎮り坐したのでありますが 三神共に其神を中央に祀って本杜とし外二神は猶左右に祀って旧の如く三神となして居るのであります。そこで是地の名を高三所大明神とは称へ奉って居ります。

 又是を地形に考へますと 三神南北に連って其間各二里余を隔て宮居し給ひ、何れも東面し給ふて居られるのは 土地を択ばれた意であって 偶然に出たのではありません。此神は紀伊国の三神とも申され紀伊国に於て最古に祭祀された御神で紀伊国の一ノ宮とも申され木を司る御神であることは周知の通りで此の三神によって始めて本県に植林されそこで紀伊国と名をつけられた由縁でもあります。
(以下略)
                    高積神社奉賛会趣意書
延喜式神社の調査 高積神社

 

 いろいろと見解はあるもの、高積神社の現在の主祭神都麻津比売命五十猛命大屋津比売命となっており、紀州藩の公式事業として編纂された「紀伊風土記において「都麻都比売神社説」を採用しているということを考えると、現時点では高積神社は伊太祁曽神社と密接な関係をもって創建されたもの(「都麻都比売神社」であるかどうかは異説もあるため不詳)とみなすのが適当なのでしょう。
 これに対して「紀伊国名所図会」は、紀州藩の御用商人・7代目帯屋伊兵衛高市志友 現在の「帯伊書店※3」の祖)が編纂したものであり、出版に際しては藩の許可を得ているものの、内容についてはあくまでも民間人の手によるものといえますので、内容の正確性(正統性)という点では「風土記」に一歩譲るのは仕方のないことでしょう。
※3 「帯伊書店ものがたり」和歌山最古の書店、400年の歴史たどる(1/2ページ) - 産経ニュース


 とはいえ、歴史の物語については「公文書」よりも「市井の伝承」の方がより真実を伝えているということもよくあるわけで、さてこの場合の真実は、どこにあるのでしょうか。