生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

丹生都比売神社(かつらぎ町上天野)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回・前々回はそれぞれ「紀伊国一宮(きいのくに いちのみや)」と位置付けられている日前神宮國懸神宮伊太祁曽神社とを紹介しましたが、今回はもうひとつの「紀伊国一宮」である丹生都比売神(にうつひめじんじゃ かつらぎ町上天野)を紹介します。

 丹生都比売神は、紀の川南岸から高野山に至る山地の中に開けた「天野盆地(あまのぼんち 「天野の里」とも)」にあり、古くから高野山と関係の深い神社です。祭神の筆頭となる丹生都比売大神(にうつひめの おおかみ)天照大御神(あまてらす おおみかみ)の妹である稚日女尊(わかひるめの みこと)と同一神とされ、この地に降臨した後は人々に農耕殖産(衣食の道・織物の道)を教え導き、最後に天野の地に鎮まったと伝えられています。

 また、空海が我が国に真言密教霊場を開こうとして全国を訪ね歩いていた際に、丹生都比売大神とその子・高野御子大神(たかの みこの おおかみ)空海高野山の地へと導いて、その土地を与えたとの伝承でも知られています。

 こうした由緒について、同社のWebサイトでは次のように紹介しています。

ご由緒
 紀ノ川より紀伊山地に入り標高450メートルの盆地天野に当社が創建されたのは古く、今から1700年前のことと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神告門 にうだいみょうじんのりと 』によれば、丹生都比売大神天照大御神の御妹神さまで稚日女命 わかひるめのみこと とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨※1紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。
※1 かつらぎ町三谷にある「丹生酒殿神社(にう さかどの じんじゃ)」裏の「榊山(さかきやま)」に降臨したとされる(丹生大明神告門では伊都郡庵太村の石口に降臨したとされるが、これと榊山が同一の場所であるか否かは不詳)

 また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后 じんぐうこうごう の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。

 ご祭神のお名前の「」は朱砂の鉱石(筆者注:「辰砂(しんしゃ)」のこと)から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝 ぎしわじんでん』には既に古代邪馬台国の時代にの山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は88社、丹生都比売大神を祀る神社は108社、摂末社を入れると180社余を数え、当社は、その総本社であります。
 丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り真言密教の総本山高野山を開きました。これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ明治の神仏分離まで当社は56人の神主と僧侶で守られてきました。
(以下略)

御由緒

 

上記由緒の冒頭にある「丹生大明神告門」は同社に伝わる祝詞(のりと)で、丹生都比売大神の出自や同社創建の由来などをまとめたものになっています。
 これによれば、丹生都比売大神伊佐奈支命(いざなぎの みこと)伊佐奈美命(いざなみの みこと)の子で、はじめに紀伊国伊都郡庵太(あんだ)村の石口(いわくち)に降臨したのち、次の各地を巡った末にようやく天野原に鎮座したとされています。また、この祝詞には各地で田を開いたり酒や木綿造りをしたとも記されており、これが丹生都比売大神農耕・殖産の神として祀ることの由来となっています。

丹生都比売大神の足跡(丹生大明神告門による)

  • 紀伊国伊都郡庵太村石口
  • 丹生川上水分の峰
  • 十市郡
  • 巨勢の丹生
  • 宇知郡の布々木の丹生
  • 伊勢津美
  • 巨佐布
  • 小都知の峰
  • 天野原
  • 長谷原
  • 神野麻国
  • 那賀郡の松門
  • 安梨諦の夏瀬の丹生
  • 日高郡江川の丹生
  • 那賀郡赤穂山の布気
  • 名手村の丹生屋
  • 伊都郡の佐夜久の宮
  • 天野原

 ちなみに、この祝詞については、国文学研究資料館の「電子資料館」で閲覧することができますが、いくつかのWebサイトに読み下し文が掲載されていますので、若干の異同はあるものの、こちらも参考にしていただければと思います。
【丹生大明神告門】
眞妻神社(筆者注:ページ最下段に読み下し文あり)

 

 また、同じく上記由緒で紹介されている「播磨国風土記」の記述は、古事記日本書紀には記載のない「丹生都比売大神(ここでは爾保都比賣命(にほつひめの みこと)と表記される)」が初めて文献上に登場したものとして知られています。残念ながら同風土記の該当部分は失われてしまっているのですが、鎌倉時代末期に書かれた日本書紀の注釈書「釈日本紀(しゃくにほんぎ)」において同風土記を引用した箇所が残存しているため、これによって記述内容を確認することができます。

爾保都比賣命御教

 

原文
播磨國風土記
息長帶日女命新羅下坐之時。
於衆神
爾時國堅大神之子 爾保都比賣命
國造石坂比賣命教曰。
好治奉我前者。
我爾出善驗
比比良木八尋桙根底不附國。
越賣眉引國。
玉匣賀賀益國。
苦尻。有寶白衾新羅國矣。
丹浪而將平伏賜
如此教賜。
於此出赤土
其土塗天之逆桙
神舟之艫舶
又染御舟裳御軍之着衣
又攪濁海水渡賜之時。
底潜魚及高飛鳥等不往來。

如是而平新羅已訖。
還上乃鎮奉其神於紀伊國管川藤代之峯

出典:栗田寛著「古風土記逸文」大岡山書店 昭和2年
古風土記逸文 - 国立国会図書館デジタルコレクション(第95~96コマ)

 

現代語訳
播磨国風土記に曰く
息長帯日女命(おきながたらし ひめの みこと 神功皇后新羅を平らげようと欲して下った時
多くの神々に祈りを捧げた
この時、国堅大神(くにかためましし おおかみ)の子・爾保都比賣命(にほつひめの みこと 丹生都比売神
国造の石坂比賣命(いわさかひめの みこと)に教えて曰く
今後、私をよく祀れば
 善い験(しるし)が出て
 比比良木 八尋桙 底不附國(ひひらぎの やひろほこ そこつかぬくに)
 越賣 眉引國(おとめの まゆひきくに)
 玉匣 賀賀益國(たまくしげ かがますくに)
 苦尻※2 有寶 白衾 新羅(こもまくら たからある たくふすま しらぎのくに)
  ※2 「苫枕」の誤字とされる
 丹浪(にの なみ)を以ちて平伏させられるであろう
かくの如く教えた。

そしてここに赤土(まはに)を出した
その土(に)天之逆桙(あまの さかほこ)に塗り
神舟の艫(とも 船尾)と舶※3(へ 船首)に建てた
  ※3 舳(へさき)の誤字とされる
また船の裳(も)軍の着衣(よろい)も赤土で染めた
海水をかき濁して海を渡った時
海底に潜れる魚も空高く飛ぶ鳥等も往来せず
前を遮られることがなかった
こうして新羅を平伏させ終えた
還上(かえ)ってすなわち、その神を紀伊国の管川(つつかわ)にある藤代之峰(ふじしろのみね)に鎮め奉った
参考:播磨国風土記 現代語訳-人文研究見聞録

 

 この記述によれば、神功皇后朝鮮半島へ攻め入った際に、爾保都比賣命(丹生都比売大神)の進言で「赤土(まはに)」を神の証である天之逆桙に塗るとともに、船体などにも塗っていくと、その前途を遮るものは何もなくなり、無事に新羅を平伏させることができたといいます。
 このときに用いられた「赤土」というのは単なる赤い土ではなく「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれる鉱物を指しており、古くから「朱」色の顔料の原料として用いられていたものです。かつては薬として用いられていたこともありましたが、その主な成分は硫化水銀であり、毒性があるため現在ではほとんど使われていません。
辰砂 - Wikipedia


 上記伝承では、こうして新羅を無事に平伏させることができた功績により、爾保都比賣命紀伊国で祀ることにしたとされており、これが後に応神天皇神功皇后の子であり、誉田別命(ほんだわけの みこと)として八幡神と同一とされる)による丹生都比売神社の創建に結びつくものと考えられています。
 ただ、上記文中では爾保都比賣命を祀った場所は「紀伊國管川藤代之峯」とされており、この場所がどこであったのは明確になっていません。一般的には、現在の高野町筒香(つつが)がこの「管川(つつがわ)」に該当すると言われており、丹生都比売神はそこから現在地へ遷座したものであるという説も存在するようです。
筒香荘 - Wikipedia

 

 このように丹生都比売神社の由緒についてはいくつかの説が混在しているように見えるのですが、いずれにせよ丹生都比売大神はその名のごとく(に = 辰砂 = 水銀)を生み出す土地の守護神として位置づけられている神であり、その神を祀る地や「丹生」という名を有する地はいずれも辰砂と深い関わりがあったものと考えられます。この点で、丹生都比売大神を祀る総本社である天野の地から辰砂が採れたという話が伝わっていないのはやや奇妙な感じがしますが、丹を原料とする朱色の顔料は神社仏閣には欠かせないものであり、これを司る神がこの地に鎮座したということは、それだけ当時古墳時代でしょうか)この地が全国に大きな影響力を持っていたということの証であると言えるのでしょう。


 以上が丹生都比売神社の創建にまつわる伝承ですが、これよりももっと広く知られているのが高野山の開創にまつわる伝承です。上記の由緒書にあるように、弘法大師空海真言密教霊場を開創するに際して地主神である丹生都比売大神から高野山の地を借受けたとされており、その際に丹生都比売大神の子である高野御子大神犬を連れた狩人の姿大師の前に現れて高野山へと導いたと伝えられています。つまり、「仏教」の霊場を開くにあたって「神道」の神がこれを助けたということで、これが日本独特の「神仏習合」という宗教のあり方の代表的例であるとして、しばしば紹介されるところであります。
 2004年7月、和歌山県奈良県三重県にまたがる「紀伊半島霊場と参詣道」がユネスコ世界文化遺産として登録されましたが、丹生都比売神も、その神仏習合のあり方が世界的に価値あるものと判断されて世界遺産の構成資産の一つであると認められています。
丹生都比売神社|和歌山県世界遺産センター

 

 さて、この高野山開創にまつわる物語について最初に体系的に紹介されたのは、平安時代末期(12世紀頃)に成立したと考えられている説話集「今昔物語集」です。 このうち「巻十一」の「第二十五」に「弘法大師始建高野山(こうぼうだいし はじめて こうやのやまを たつること)」という話が載せられていますので、以下にその内容を引用します。

弘法大師始建高野山語 第廿五

 

原文

今昔
弘法大師 真言 諸の所に弘め置き給て
年漸く老に臨給ふ程に
(あまた)の弟子に 皆 所々の寺々を譲り給て後
我がにして擲(な)げし所の三鈷 落たらむ所を尋む
と思て
弘仁七年と云ふ年の六月に 王城を出て尋ぬるに
大和国 宇智の郡に至て 一人の猟人に會ぬ
其の形 面赤くして長八尺許也
青き色の小袖を着せり 骨高く筋太し
弓箭を以て身に帯せり
大小二の黒き犬を具せり
即ち 此人 大師を見て過ぎ通るに云く
何ぞの聖人の行き給うぞ
大師の宣はく
我れ にして三鈷を擲て 禅定の霊穴に落ちよと誓ひき
今、其の所を求め行く也
猟者の云く
我れは是 南山の犬飼
我れ 其の所を知れり 速に教奉可し
と云いて
を放て走令る間 失ぬ

大師、其(そこ)より紀伊国の堺 大河の辺に宿しぬ
此に一人の山人に會ぬ
大師 此の事を問給ふに
此より南に平原の沢有り 是其の所也
(中略)
其の中に 一の檜の中に 大なる竹胯有り
此の三鈷 打立被たり
是を見るに 喜び悲ぶ事限無し
禅定の霊崛 と知ぬ
此の山人は誰人ぞと 問給へば
丹生の明神 となむ申す
今の天野の宮 是也
犬飼をば 高野の明神 となむ申
と云て失ぬ
(以下略)

出典:「攷証今昔物語集 中」 芳賀矢一編(富山房 大正2年
     
攷証今昔物語集. 中 - 国立国会図書館デジタルコレクション

                                                                                   
現代語訳
今は昔
弘法大師真言の教えを諸々の所に広めたが
やがて老齢になると
数多くの弟子に所々の寺を譲った後
私が唐で投げた三鈷の落ちた所をたずねていこう
と思い
弘仁七年(816)の6 月に都を出て尋ねていくと
大和国宇智郡に至って一人の猟師に会った
その姿は、顔は赤く、身長は8尺ばかり(約240㎝)であった
青い色の小袖を着て、骨は高く筋肉は太い
弓と矢を身につけていて
大小2匹の黒い犬※4を伴っていた
この人は、大師を見て通り過ぎて行く時にこう言った
そこを行くのはどちらの聖人でしょうか
大師はこう言った
私はから三鈷を投げて、『禅定の霊穴(ぜんじょうのれいけつ 瞑想するための神聖な洞窟)に落ちよ』と誓いました。
 今、その所を求めて歩いています
猟師の曰く
私は南山の犬飼です。私はその場所を知っています。すぐに教えましょう。
と言って
を放って走らせると、は失せてしまった

大師は、そこから紀伊国の国境にある大河のほとりで宿をとった
そこで一人の山人に出会った
大師がこのことを問うとこう答えがあった
これより南に平原の沢がある。そこがその場所です。
(中略)
その中で、一本の檜の中に大きな股となっている部分があり
そこに三鈷が打ち立てられていた
これを見た喜びと悲しみは限りないものであった
これこそ「禅定の霊崛(れいくつ 前述の「穴」が洞窟を意味したのに対し、「崛」は「そびえたつ山」を意味する)」であると知った
貴方(この山人)は誰ですか」と尋ねると
丹生の明神と申します。
 今の天野の宮(に祀られている神)です。
 (昨日の)犬飼高野の明神という者です。
と言って消えてしまった
※現代語訳は筆者
※4 ここでは「大小2匹の黒犬」となっているが、現在伝えられる伝承では「黒白二匹の犬」とされる

 

 このとき、犬を連れた猟師の姿弘法大師の前に現れたのは「高野の明神高野御子大神」であるとされていますが、この神はまた「狩場明神(かりばみょうじん 「明神」は「神」を仏教の立場から呼ぶ称号)」とも呼ばれ、二人が出会った場所とされる奈良県五條市犬飼町には狩場明神を祀った仏教寺院「犬飼山 轉法輪寺(転法輪寺」が建立されています。
境内マップ・寺史 | 犬飼山 轉法輪寺

 

 上述した高野山開創伝承について、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「丹生都比売神」の項では、この「寺院開創の際に地主神の奇瑞によって聖地を得る」という説話は比較的多く見られるものとし、丹生都比売大神に関する伝承は後世に高野山麓の在地豪族との関係性の中で生み出されたものではないかとの説を紹介しています。

 帰国後の弘仁7年大和国宇智郡の山中で黒白2頭の犬を連れた「南山之犬飼」と称する1人の狩猟者と出会い、その狩猟者空海高野山に案内したという。この狩猟者がのちに地主神として祀られる高野明神の化身とさ れ、高野山は地主神山王権現の神意によって開創されたという伝承を残している。
 山岳宗教では、寺院開創の際に地主神の奇瑞によって聖地を得ることに成功し、伽藍建立後は地主神が護法神として祀られるという説話は多くの場合に見られることで、この高野山開創伝承もそのような宗教伝説の1つと考えられる。また空海高野山開創については、丹生都比売神が巫祝に託宣して、「南限南海、北限日本河、東限大日本国、西限応神山谷」の神領空海に譲ったということが空海の「御遺告」に見えるが、この土着の神祇から神領を譲られるという形で寺地が設定されるという伝承も当社に限ってのことではない。
 ともかく高野山が開創されると山王権現は地主神として山上に祀られた。しかし、丹生都比売神の勧請は高野山開創後比較的遅くに行われたらしい。 (中略)  この間の事情については、10世紀後半~11世紀の高野山検校雅真仁海のころ衰微していた高野山は自らの再建のために山下周辺の有力者の援助を得る必要があり、そのために在地豪族で当時当社の祭祀権を有していた坂上との檀越関係を形成し、坂上氏の後援によって丹生都比売神高野山上に勧請したとする説がある高野山真言 台教の研究/山岳宗教史研究叢書3)。そして丹生都比売神が勧請されると、地主神として祀られていた山王権現高野御子神として丹生都比売神親子という系譜に組み入れられ、在来の神は外来神に圧倒されていった。なお延喜6年2月高野御子神従五位下に叙されているが日本紀略、これが高野山地主神を指すか否か明らかではないという。
 いずれにしても、山上の壇上伽藍御社として祀られ、また2神あわせて高野丹生明神などと呼ばれて高野山の鎮守となると、数多くの伝説が生まれた。
 黒白2頭の犬を連れた「南山之犬飼」と称する狩猟者空海高野山に案内したという説話は、「丹生祝氏本系帳」に天野祝である丹生氏もと狩猟者で神に捧げる贄を取るために2頭の犬を連れていたという伝承があり、これが高野山開創説話に取り入れられたものと思われる。丹生都比売神空海神領を譲ったという伝承もその一部であろう。

 

 

 少し話は変わりますが、この丹生都比売神については、いわゆる「ボーイズラブ」の先駆けといえるような物語が日本書紀に記されていることでも知られています。
 この物語は、上記で紹介した「播磨國風土記」にも描かれた神功皇后朝鮮出兵に関連するエピソードで、「天野祝(あまのの はふり)」という人物が登場します。「(はふり)」とは神社に所属する下級の神職のことを指すので、この場合の「天野祝」とはおそらく丹生都比売神社の下級の神職のことなのでしょう。
 神功皇后は、朝鮮半島から大和へ戻る途中でしばらく小竹宮(しののみや 現在の御坊市薗にある小竹八幡神社とされる)で滞在することとなりました。※5
※5 この経緯については別項「産湯の話」を参照されたい 産湯の話 ~日高町産湯~ 

 ところがその時、突然暗闇が何日も続くようになり昼と夜の区別がつかなくなったのです。調べてみたところ、これは小竹宮の神職(小竹祝 しのの はふり)天野の神職(天野祝)同じ墓に葬ったことが原因であることがわかり、あらためて両者を別々に葬ったところ、日が輝き始めて昼夜の区別がつくようになったというのです。
 この物語では、二人の神職(おそらくどちらも男性)を同じ墓に葬ったことが「阿豆那比(あずない)の罪」にあたると記されているのですが、これがどのような罪であったのかは明確にされていません。一般的な解釈としては「異なる神に使える二人の神職を同じ場所に葬ったこと」が罪にあたるとされているようですが、これとは別に「当時は禁忌とされていた男性同性愛者を同葬したこと」による罪であるとの解釈もあるようです。
参考:難波美緒 「「阿豆那比の罪」に関する一考察」(「早稲田大学大学院文学研究科紀要 第4分冊」早稲田大学大学院文学研究科 2014) 早稲田大学リポジトリ

日本書紀 巻第九 氣長足姬尊 神功皇后

 

原文

時人曰
常夜行之也
皇后紀直豐耳
是怪何由矣
時有一老父
傳聞
如是怪謂阿豆那比之罪
問何謂也
對曰
二社祝者、共合葬歟
因以、令推問巷
一人
小竹祝天野祝
共爲善友
小竹祝逢病而死之
天野祝血泣曰
吾也生爲交友
何死之無同穴乎
則伏屍側而自死
仍合葬焉
蓋是之乎
乃開墓視之實也
故更改棺櫬
各異處以埋之
則日暉爃
日夜有別。
日本書紀/卷第九 - 维基文库,自由的图书馆

 

現代語訳
時の人曰く
常に夜が続くのです
皇后紀直の祖である豊耳に問うた
この怪異は何によるものであるか
そのとき一人の老父が曰く
伝え聞くところでは
 この怪異は『阿豆那比(あずない)の罪』というものであろう
それは何であるかと問うと
答えて曰く
二つの神社の祝(はふり)を 共に合せて葬ったのではなかろうか
そこで、巷(ちまた)の人々に問い合わせさせると
一人の人物が曰く
小竹祝(しの の はふり)天野祝(あまの の はふり)
 共に善き友であったが
 小竹祝が病に逢って死んでしまった
 天野祝はひどく嘆き悲しんで
 『私たちは生きている間は非常に良い友であった
  死んだ後も同じ墓穴に入るのが当然だ
 と言って亡骸のそばに伏して自ら命を絶った
 そこで合葬した
 けだし、このことであろう
すぐに墓を開いてみると、そのとおりであった
故にその柩を改めて
それぞれ別の場所に埋めた
すると日が輝き始め
昼と夜の区別がつくようになった

※現代語訳は筆者
参考:
自殺の中世史 15 ─日本の古代11(殉死)─ - 周梨槃特のブログ

 

 丹生都比売神丹生都比売大神に関しては様々なエピソードが重層的に残されており、簡単にまとめることは到底不可能なのですが、個人的に興味を惹かれた部分のみを整理してみました。興味をお持ちの方はどんどん深掘りしていくといくらでも面白い話が出てくると思います。