生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

わかやま電鉄貴志川線と「三社参り」

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前回は架け替え工事が進められている河西橋かせいばし)の話とともに南海電鉄加太線の歴史を少し紹介しましたが、今回は加太線と同様に軽便鉄道(けいべんてつどう)として発足した和歌山電鐵貴志川線(通称は「わかやま電鉄貴志川線」で、一般的にはこの表記が用いられることが多い)の草創期の話を紹介したいと思います。

(わかやま電鉄貴志川線 貴志駅

 

 わかやま電鉄貴志川線といえば、近年では「ねこの駅長(初代は『たま』)」のいる鉄道として全国的に知られていますが、それ以前は地元の通勤・通学客が利用者の大半を占める典型的なローカル鉄道にすぎませんでした。

toyokeizai.net


 同線の歴史について、日本民営鉄道協会の広報紙「みんてつ Vol.75 春号(2021)」に渋谷申博氏が次のような記事を寄稿しています。

民営鉄道の起源を訪ねて -鉄路は何を目指したか
      日本宗教史研究家 渋谷申博

神話と特産と猫の短くも長い鉄路の話
 神話の舞台というと出雲や日向地方が思い起こされがちだが、和歌山市付近にも多くの神話の舞台がある。
 たとえば、天照大神あまてらすおおみかみ)天の岩窟(あまのいわや)に隠れてしまった時、誘い出すために鏡が鋳造されたが、そのうちの2枚が神武天皇によって畿内にもたらされ、この地で祀るよう紀伊国造(くにのみやつこ)に命じたという。また、神武天皇の兄、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は天下の平定を目前にして戦死し、竈山(かまやま)に葬られたと伝えられる。一方、須佐之男(すさのおのみこと)が天上からもたらした木々の種を日本国中にまくことを命じられた五十猛命(いたけるのみこと)は、仕事を終えて今の伊太祈曽(いだきそ)に鎮まったとされる。
 これらの神話を由緒とする日前・國懸(ひのくま・くにかかす)神宮竈山神社伊太祁曽(いたきそ)神社西国三社と称され、古くから正月などにこの三社をめぐる西国三社参りの風習があった。その参詣者の輸送を目的に、大正5(1916)年に設立されたのが和歌山電鐵貴志川線の前身、山東(さんどう)軽便鉄道である。
 当初の路線は今の和歌山駅の南西にあった大橋駅を起点として、山東駅(今の山東駅ではなく、伊太祈曽(いだきそ)駅のこと)までの8・1km。小ぶりのかわいい蒸気機関車が運んでいたのは参詣客だけでなく、山東付近のタケノコなどの産物もあり、大橋駅から船に移され各地に出荷されていった。
 大正13(1924)年の紀勢西線※1開業を機に起点を和歌山駅(今の和歌山駅とした。昭和6(1931)年には社名を和歌山鉄道に変更、同8(1933)年には貴志駅まで延伸された。西国三社参りは依然盛んで、晦日には終夜運転もされていた
 昭和32(1957)年には和歌山電気軌道※2と合併して貴志川線として同社の鉄道線となり、さらに昭和36(1961)年には南海電気鉄道に合併され、その路線網に加わることとなった。高度経済成長期と重なったこともあって乗客は右肩上がりに増え、朝の通勤通学時間には駅員が乗客を満員の車内に押し込むこともあったという。
 しかし、自動車の普及により乗客は減少に転じ、和歌山市内の道路整備が進んだことがこれに拍車をかけた。
 こうした状況を受けて南海電気鉄道貴志川線からの撤退を検討することとなり、これを知った地元の人々の間から存続の道を模索する運動が起こった。
 県と市、旧貴志川町が支援を決め、後継事業者の公募により選ばれた岡山電気軌道※3が事業を継承、平成17(2005)年に和歌山電鐵が設立された。
 和歌山電鐵いちご電車※4を走らせるなど、さまざまなアイデアで乗客の増加を図ったが、中でも一大ブームを起こしたのが猫駅長たまであった。猫を要職につけるという当時としては斬新な発想は広くマスコミに取り上げられ、和歌山電鐵の名を一気に全国に広めることとなった。
広報誌「みんてつ」2021 Vol.75 | 日本民営鉄道協会

※1 現在のJR紀勢本線のうち、現在の紀和駅(当時の名称は「和歌山駅」)から新鹿駅(あたしかえき 三重県熊野市)までの部分の旧称。1924年大正13年)2月に(旧)和歌山駅箕島駅有田市)間が部分開業した。紀勢本線 - Wikipedia

※2 和歌山市海南市路面電車を運行していた会社。和歌山電気軌道 - Wikipedia

※3 岡山市を拠点とし、路面電車と路線バスを運行している会社で、「両備グループ」の中核会社の一つ。岡山電気軌道株式会社

※4 鉄道デザイナーの水戸岡鋭治氏がデザインを担当した車両。紀の川市貴志川町の特産品であるイチゴをモチーフにしたデザインで、貴志川線では初めてのデザイン車両。電車について | 和歌山電鐵

 

 上記引用文にあるように、和歌山電鐵の前身である山東軽便鉄道(さんどう けいべんてつどう)は、日前・國懸神宮竈山神社伊太祁曽神社※5という三つの神社をめぐる「西国三社参り」の参詣者輸送を目的として開設された鉄道であるということがしばしば語られます。現に和歌山電鐵のWebサイトにある「沿線観光情報 観光スポット」の項にも「注目のパワースポット 西国三社参り」というページが設けられています。
※5 神社の名称は「伊太祁曽神社(「祁」の字は正しくは「ネ(しめすへん)」に「阝(おおざと)」)」と書き、「いたきそ じんじゃ」と呼ぶ。これに対して神社が所在する地名及び和歌山電鉄の駅名は「伊太祈曽」と書き、「いだきそ」と呼ぶ。両社はしばしば混同されるが、関係者の間では比較的厳格に使い分けられているので注意が必要。

wakayama-dentetsu.co.jp

 

 そもそも「三社参り」とは主に正月の初詣の際に三つの神社を詣でることを指し、地域によって若干の違いはあるものの、西日本の各地に見られる風習であるとされます。
三社参り - Wikipedia

 

 中でも福岡県を中心とした九州北部地方では今でも正月には「三社参り」が盛んに行われているとのことで、福岡のテレビ局であるRKB毎日の取材によればそのルーツは鎌倉時代源頼朝が「箱根神社」「伊豆山神社」「三島大社」の三社に参詣したことに由来するそうです。

「三社参り」の由来とは?!
 「三社参り」の由来は何なのか?真相を探るため、宗教学者でもある皇學館大学名誉教授の櫻井治男先生に話を聞きました。

 「三社参り」の始まりは鎌倉時代に遡ります(※諸説あり)櫻井先生によると、1181年1月1日に源頼朝が神奈川県鎌倉市鶴岡八幡宮に初詣しお供え物を差し上げたという記録が残っているのだそう。その数年後、源頼朝は神奈川県箱根町の「箱根神社(箱根権現)」と静岡県熱海市の「伊豆山神社伊豆山権現」を二所権現と称してお詣りし、さらに静岡県三島市の「三島大社」にもお詣りしました。源頼朝がこれら3カ所をお詣りしたのが「三社参り」の始まりです。
 福岡で三社参りが行われるようになったのは、江戸時代。源頼朝がお正月に神社をお詣りしたことをきっかけに、武将たちにも広がっていき、福岡・黒田藩の武士たちも「住吉神社」「日吉神社」「筥崎宮」に「三社参り」をしたと言われています。
さらに福岡では第二次世界大戦後、神社・鉄道会社・旅行会社が連携して、「正月の参拝は電車で!」を推奨したキャンペーンを拡大。宮地嶽神社筥崎宮太宰府天満宮の三社を1日で回るプランも提案され、ルートが確立されたことで「三社参り」が福岡中に広まっていきました。

rkb.jp

 

 この「三社参り」について、上記で紹介したWikipediaの「三社参り」のページには特別に「和歌山の三社参り」という項目が立てられており、和歌山電鐵のWebサイトで「西国三社参り」として紹介されている日前・國懸竈山伊太祁曽の三社参りが非常に特別なもののように取り扱われています。そして、それを踏まえて冒頭の渋谷氏の寄稿にあるように「和歌山電鐵は西国三社参りの参詣者輸送のために設立された」との紹介がしばしばなされています。
 それは事実であったのか、和歌山市が編纂した「和歌山市史 第8巻近現代史料2)」に山東軽便鉄道の発起趣意書が掲載されていますので、これを見てみることにしましょう。

 

山東軽便鉄道発起趣意書および仮定款
                          ○園部愛信家文書
   山東軽便鉄道発起趣意書
 近時国運の進歩と共に交通運輸の機関著しく発達し、全国都市の連絡今や殆んど完成せんとするに至れり、然るに都市と密接の関係を有し、其営養者たる都市(郡村か)との連絡機関に至っては、未だ其一端をも充たす能はざるは甚だ遺憾とする所なり、是れ蓋し従来の鉄道敷設には巨額の資本を要し、容易に着手するを得ざりしが為なり
 然るに近時此の欠陥を補ひ、都市と郡村とを連絡せしむる唯一の方法として軽便鉄道敷設法なるもの現はれ、今や各地到る処に其企画を見るに至れるは、国家のため慶すべきことなりとす
 顧みるに我和歌山市は南海第一の大市にして、近時交通機関の発達と共に人口の膨脹、産業の進歩実に驚くべきものあり、更に附近町村の状況を観るに、彼の海草郡南部地方及河西町村の生気撥々として日に発展の徴あるは、全く電鉄、軽鉄の敷設に因るものにして、交通機関整備の必要なる今更に急を感ぜざるを得ず、吾等茲に山東軽便鉄道の布設を企画せるもの洵に故なきにあらず
 山東軽便鉄道官鉄和歌山駅を起点とし、中之島及市の東端に沿ふて瓦町附近に出で、左折して宮村三田村岡崎村を経て西山東村大字伊太祈曽に達する六哩○鎖間に、資本金弐拾五万円を以て軽便鉄道を敷設せんとするものなり

 此の線路には名所旧跡多し、今試に其主なるものを掲げんに

官幣大社※6日前国懸神宮
 宮村大字秋月に鎮座まします日前国懸神宮は、古来伊勢大廟に亜ぎ代々天皇の崇敬し給ふ神宮にして、日前大御神は御鏡、国懸大御神は天日矛を御霊代とし、神武天皇の御彦五瀬命の納め給へる御弓・御矢、允恭天皇の納め給へる古鏡等の什宝珍器を蔵し、森厳の気人に迫る

官幣中社※6竈山神社
 三田村大字和田の竈山に鎮座せり、祭神は神武天皇の皇兄彦五瀬命にして、神武東征の時賊徒の流矢に傷き、遂に此地に崩御り給ひしなり、歌仙本居宣長の歌に
  をたけひの神代の御声おもほへて
       嵐はげしきかまやまの松

国幣中社※6伊太祈曽神社
 西山東村に鎮座せり、祭神は五十猛命抓津姫命大屋津姫命にして何れも素盞鳴尊御子なり、我紀伊に木種を布き給ひし神なり

 地方の産業としては、米穀・綿ネル・柑橘を初め有名なる山東の松茸・筍等あり、近時農工業の発展頗ぶ著しきものあり

 斯くの如く霊跡に富み、物産の豊富、土地の肥沃、人口の密度又他に譲らさる此地方に対し、軽鉄を布設し交通運輸の便を図らんか、年々日前・伊太祈曽・竈山の三大神社に参詣する数多の旅客に便利を与ふるのみならず、地方の富源を開発し産業を発達せしむるや明らかなり、是吾等の本軽便鉄道を発企計画せし所以也
                  発起主唱者記

※筆者注:読みやすさを考慮して適宜漢字・カタカナ等の表記を現代のものに改めた。以下同様。

※6 明治4年太政官布告に基づき定められた神社の格式。官社(国から奉幣(ほうへい 神に捧げる供物)が贈られる神社)については、一般的に格式が高い方から「官幣大社国幣大社官幣中社国幣中社官幣小社国幣小社別格官幣社 」の順とされる。近代社格制度 - Wikipedia

和歌山市史 第8巻 (近現代史料 2) - 国立国会図書館デジタルコレクション

 この発起趣意書では、鉄道軽便鉄道のニーズを説明する項の最初に「此の線路には名所旧跡多し」として日前国懸神宮竈山神社伊太祈曽神社を順に紹介した後に「三大神社に参詣する数多の旅客に便利を与ふる」と記されており、これらの神社への参詣客が重要なターゲットであったことが確認できます。確かに、この鉄道は日前国懸神宮・竈山神社・伊太祁曽という3つの神社の参詣客を主要なターゲットとして開設されたというのは間違いないようです。
 ただ、この趣意書には「西国三社参り」あるいは「三社参り」といった文言は使用されていません。上述したとおり、一般的に「三社参り」というのは教義には正月に三つの神社を順番に巡る行為を指すものとされていますが、趣意書を読む限りでは正月にこれら三社を順番に参詣する風習については触れられていませんので、もしかするとこの鉄道の開設が計画された明治末期から大正年間にかけての時代には、まだこうした風習は定着していなかったのかもしれません。

 


 ところで、Wikipediaの「和歌山電鐵貴志川線」の項には「和歌山市と野上町を結ぶべく計画されたが、同時期に計画された野上軽便鉄道※7の計画に敗れ認可が下りず、計画を変更」との記述があります。
和歌山電鐵貴志川線 - Wikipedia

※7 大正5年(1916)に日方駅(現在の海南市日方)- 野上駅(後に紀伊野上駅に改称 現在の紀美野町小畑)間を開業、後に生石口駅(後に登山口駅に改称 現在の紀美野町下佐々)間が開業した。平成6年(1994)に廃業。野上電気鉄道 - Wikipedia


 ところが、いくつかの記録を調べてみてもなかなか「山東軽便鉄道が野上町(現在の紀美野町まで伸びる計画だった」ということを明確に記した資料が見つかりません。和歌山県が編纂した「和歌山県史 近現代資料四」には「山東鉄道株式会社発起および鉄道敷設の件」という資料が掲載されており、軽便鉄道制度が発足する前の明治29年(1896)に申請された事業計画が明治31年(1898)に却下されたことがわかりますが、この計画は後に成立する山東軽便鉄道と同様に和歌山市手平から西山東伊太祁曽へ至る路線を予定しており、野上町(当時は東野上村)へ繋がるものではなかったようです。

山東鉄道株式会社発起および鉄道敷設の件
(「第十回鉄道会議議事速記録」 第3号 明治31年5月12日 日本国有鉄道総裁室文書課所蔵)

諮詢第550号
                鉄道会議
別紙山東鉄道株式会社発起並鉄道敷設件を諮詢す
  明治31年5月9日
       逓信大臣文学博士男爵 末松謙澄
  山東鉄道株式会社発起並鉄道敷設の件
山東鉄道株式会社発起人より該会社を発起し 和歌山県海草郡宮前村大字手平より同郡西山東村大字伊太祁曽に至る鉄道敷設を出願せり、然るに本願線路は現今地方の状況 鉄道敷設の必要を認めざるを以て本願書は之を却下せんとす
(以下略)

和歌山県史 近現代史料 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 この後、先述の「山東軽便鉄道発起趣意書」に基づいて設立された山東軽便鉄道株式会社が大正5年(1916)に鉄道路線を開通させるのですが、どうやらそれより前にこれと同名の「山東軽便鉄道」の開設計画があり、この計画こそが和歌山市と東野上村を結ぶ路線だったようです。武知京三氏の「わが国軽便鉄道史の一側面-山東軽便鉄道の場合(「歴史研究 21」大阪府立大学歴史研究会編 1980)」には、実現したほうの「山東軽便鉄道(便宜上、こちらを「(新)山東軽便鉄道」という)」にかかる「軽便鉄道敷設免許申請書」と和歌山県知事による「意見副申」という資料が掲載されていますが、これによると「以前、野上軽便鉄道と起点・終点が同じ「山東軽便鉄道(以下、こちらを「(旧)山東軽便鉄道」という)」という事業計画があったものの、明治44年1月23日付けで不許可の決定を受けた」ということが記されています。

 

   軽便鉄道敷設免許申請書
今般私共発起人となり和歌山県海草郡中ノ島村 院線※8和歌山停車場より 同郡西山東村大字伊太祁曾に至る区間に 軽便鉄道に拠る鉄道を敷設し 一般旅客並に貨物運輸の業を営みたく 該区間には日前竈山伊太祁曾の三大社の存在するのみならず 地方物産の増殖産業の発達に資する事多大なりと相信候間 御許可相成度 関係書類相添え 此段申請候也
   大正元年12月27日
     山東軽便鉄道株式会社創立発起人総代
     和歌山県海草郡木ノ本村大字木ノ本1077番地
                   垣内太郎
  内閣総理大臣 公爵 桂太郎 殿

※8 鉄道国有化に伴い明治41年(1908)に設置された行政機関・鉄道院が運営していた鉄道路線のこと。後に鉄道省(1943年から運輸通信省)所管となったことにより「省線」と呼ばれるようになり、戦後は「日本国有鉄道」を経て現在の「JRグループ」となった。

 

   山東軽便鉄道敷設免許申請に付意見副申
今回 県下海草郡中之島国有鉄道和歌山駅より同郡西山東村大字伊太祁曾に至る軽便鉄道敷設免許の義 山東軽便鉄道株式会社発起人 県下海草郡木本村垣内太郎外11名より出願候処 本願の沿線には日前国懸の両官幣大社官幣中社竈山神社国幣中社伊太祁曽神社等 我国建国の歴史に最も関係深き諸大社※9あるを以て基参拝の衆庶に至便を与うる点に於て はたまた海草郡東部の交通機関を改善し 以て産業を振興する点に於て 最も必要なる計画と被認候
次に本願発起人の半数は現に加太軽便鉄道の経営者として相当の経験を有し 他の半数も相当の信用資産を有するを以て 成業の見込は充分有之ものと被存候
なお本願は 明治44年1月23日監第1589号を以て不許可の御詮議を受けたる山東軽便鉄道とは同名異体にして 基間何等の関係無之 かつ前者の如く野上軽便鉄道と基終点を同うせず その延長もまた短縮せられたるを以て 之と両立せざるが如き憂は毫も無之候 ついては右 速に御許可相成度 此段意見副申書類及進達候也
   大正二年二月二十二日
              和歌山県知事 川村竹治
内閣総理大臣 伯爵 山本権兵衛 殿

※9 冒頭に掲げた渋谷申博氏の文中にあるように、日前神宮・国懸神宮(一般的には両社をあわせて「日前宮(にちぜんぐう)」と呼ばれる)は天皇の権威を象徴する「三種の神器」の一つである「八咫鏡(やたのかがみ)」と同時に作られた同型の鏡をご神体として祀り、竃山神社には神武天皇東征の途中で倒れた神武の兄・彦五瀬命を祀り、伊太祁曽神社は日本全国に木々の種を蒔いて国中を青山にしたとつれる五十猛神(スサノオノミコトの子)を祀っている。本書ではこれらの故事を指して「我国建国の歴史に最も関係深き諸大社」と称したものである。

歴史研究 (21) - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 また、和歌山県が編纂した「和歌山県史 近現代史料4」には、「野上軽便鉄道敷設免許申請書」とともに和歌山県知事川上親晴が提出した「野上軽便鉄道株式会社発起申請に付意見副申」という文書が掲載されていますが、この内容を見ると、野上軽便鉄道の免許申請とほぼ同時に申請された「(旧)山東軽便鉄道」は、和歌山駅を起点とし東野上村を終点とする路線で、那賀郡南部地方(当時、東野上村は那賀郡に属していた)と有田郡東部地方の産物を輸送しようとする点で野上軽便鉄道と「ほとんど同一目的」であり、「二個の企業を同時に成立せしむるは あるいは困難なるべし」との懸念があったことが記されています。そして、この副申において知事は「本願路線(筆者注:野上軽便鉄道の方がはるかに好望」であり、「山東軽便鉄道許否の如何に係わらず、本企業は速に御許可あいなりたく」と述べて、「(旧)山東軽便鉄道」よりも野上軽便鉄道の許可を優先するべしと申し立てていました。
 結果的に、野上軽便鉄道はこの申請に基づいて事業着手の許可を得たのに対し、(旧)山東軽便鉄道は不許可となったようですので、上述したWikipediaにある「同時期に計画された野上軽便鉄道の計画に敗れ認可が下りず、計画を変更」という記述は間違いないようです。ただし、「同じ事業主が不許可を乗り越えて計画を変更し、ようやく伊太祁曽までの開通にこぎつけた」というストーリーではなく、東野上村までの路線を計画していた「(旧)山東軽便鉄道」と、伊太祁曽を終点とする事業計画をたててそれを実現させた「(新)山東軽便鉄道」とは異なる事業体であったということは理解しておくべきでしょう。

 

野上軽便鉄道株式会社発起申請につき意見副申
    鉄道省文書 日本国有鉄道総裁室文書課所蔵)

   野上軽便鉄道敷設免許申請に付意見副申
今回県下海草郡日方町より那賀郡東野上村に達する軽便鉄道敷設免許の義 野上軽便鉄道株式会社発起人 海草郡日方町 畑山忠右衛門外二十名より出願候処、
(中略)
尚又本願とほとんど同時に 国有鉄道和歌山線和歌山駅より海草郡岡崎村西山東村を経て 那賀郡東野上村に達する山東軽便鉄道の出願も有 之別に申請書を進達可致候処、右は本願と経過地を異にするも那賀郡南部地方及有田郡東部地方の貨物を輸出せんとするに付ては ほとんど同一目的に有之、従って二個の企業を同時に成立せしむるは あるいは困難なるべしとの懸念も有之候得共、経過地を異にせる以上は 経営方法の如何に依りては必ずしも両立せざる義も有之候間敷と存候、しかも那賀郡南部及有田郡東部地方の貨物を搬出するには距離の短きに於て 輸出港の連絡に於て 将又商取引上の現状に於て 本願路線の方に遥に好望と認候間、別願山東軽便鉄道許否の如何に係わらず、本企業は速に御許可相成度 此段意見副申書類進達候也
 明治44年5月31日
      和歌山県知事 川上親晴
 内閣総理大臣公爵 桂太郎 殿

和歌山県史 近現代史料 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 このように紆余曲折はあったものの、(新)山東軽便鉄道は大正 5年(1916)年 2月15日に無事に開業することができました。
 開業時の路線は、大橋(現在の和歌山市橋向丁)を起点として秋月神前竈山岡崎前吉禮(きれ)の各駅を経て山東(現在の伊太祈曽駅に至る約8.1kmでしたが、後に大橋駅から中之島駅まで延伸され、ここで国有鉄道(鉄道院)和歌山線(現在のJR和歌山線に接続しました。そして、紀勢鐵道(現在のJR紀勢線の開業により山東軽便鉄道の線路が分断されることとなったため、大正13年(1924)に中之島秋月間の路線を廃止し、これにかわって東和歌山(現在のJR和歌山駅秋月(現在の日前宮駅間が開業して、ようやく現在のわかやま電鉄貴志川線の姿ができあがったのです。


 こうした路線の変遷については、前回紹介した和歌山社会経済研究所の研究員(当時)であった亀位匡宏氏が詳細なレポートを発表していますので、ご興味のある方はこちらをご覧ください。
(Way Back Machine によるアーカイブ 南海貴志川線むかしむかし(改訂版) )
(上記をPDF形式で保存したファイルへのリンク 南海貴志川線むかしむかし用 - Google ドライブ

 

 その後は、ご存じのように廃線の危機に瀕しながらも南海電鉄から経営権を引き継いだ岡山電気軌道岡山市の小島社長の発案により三毛猫の「たま」を駅長に任命したことから全国的な人気を獲得していくという物語に繋がるのですが、このあたりのお話は既に様々なメディアで紹介されているので本稿では割愛させていただくことにします。

www.sankei.com      


 ねこの駅長ばかりが注目されるわかやま電鉄ですが、同社が運行する車両に「たま電車」「いちご電車」「うめ星電車」「チャギントン電車」など、ユニークでバラエティに富んだものが多いので、これらを乗り比べてみるのも面白い体験になりそうですよ。

電車について | 和歌山電鐵