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河西橋と加太軽便鉄道(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、南海和歌山市駅の北側にある河西橋かせいばし)という橋と、かつてこの橋を通っていた鉄道(現在の南海電鉄加太線を紹介します。

河西橋 Wikimedia Commons:Wikipedia

 南海電鉄和歌山市駅の北側には、紀ノ川の南岸と北岸を結ぶ河西橋という橋が架けられています。和歌山市道市駅湊線の歩行者・二輪車専用橋梁と位置付けられているこの橋は、紀の川北岸と中心市街地とを結ぶ重要な橋であるものの、幅員が狭く、また非常に老朽化が進んでいることから、令和7年度供用開始を目標に架け替え工事が進められているところです。
 市道 市駅湊線(河西橋)|和歌山市

河西橋架け替え計画

 この橋は現在では前述のように「歩行者・二輪車専用橋梁」とされていますが、もともとは鉄道橋として建設されたものでした。その建設の経緯についてWikipediaでは次のように解説されています。

 本橋梁は元々、南海加太線の前身である加太軽便鉄道紀ノ川橋梁(きのかわ きょうりょう)として建設した。加太軽便鉄道は、1910年(明治43年)8月4日に設立され、1912年(明治45年)6月16日に和歌山口加太間で営業を開始したが、この時点の和歌山口駅は紀ノ川北岸の北島に位置していた。
 1913年(大正2年)4月5日に当局から南海鉄道(後の南海電気鉄道和歌山市駅構内までの延伸を免許されると、加太軽便鉄道は10万円の増資を行ったうえで、1914年(大正3年)2月15日に紀ノ川橋梁の起工式をおこなった。8月5日には橋脚が完成、9月7日に橋桁の架設も完成し、9月15日に竣工式を実施した上で9月17日に試運転を実施して9月23日に開通となった。
河西橋 - Wikipedia

 

 上記引用文にあるとおり、河西橋加太軽便鉄道(かだ けいべんてつどう)紀ノ川橋梁として建設されたものでした。現在の南海加太線和歌山市駅紀ノ川駅との間を南海本線と共用していますが、当時の加太軽便鉄道南海電鉄(当時の社名は南海鉄道とは全くの別会社であり、紀ノ川橋梁開通後に南海和歌山市駅の敷地内に新たに設けられた駅の名称も「和歌山口駅※1」として別施設であることを明確にしていました。
※1 後段で詳述するが、開業当時は紀ノ川北岸に「和歌山口駅」が設けられたが、後に南岸に新たな「和歌山口駅」ができ、北岸の「元和歌山口駅」は「北島駅」に改称された。

 

 こうした経緯について、大正15年(1926)に発行された「和歌山県海草郡和歌山県海草郡役所編)」では次のように書き記しています。

4  加太軽便鉄道 
 本鉄道は加太軽便鉄道の敷設経営にかかるものにして、明治44年11月15日起工式を挙げ、同45年6月1日竣成、同16日より乗客貨物の運輸を開始す。当時野崎村大字北島より加太町に到る5哩50鎖※2の線路にして停車所を和歌山口(北島) 島橋(狐島) 中松江(松江村)  八幡前(小屋) 二里ヶ浜(本脇) 磯の浦(磯脇) 加太の七箇所に設置したり、加太港は古来より淡路・四国との連絡要津にして紀淡海峡を控え、殊に深山重砲兵隊※3の設置せらるるありて運輸及び軍事上の最も重要線路なるが故に、和歌山市に延長する事0哩5(現在石橋丁)にして、大正3年2月15日紀の川鉄橋架設起工式を挙げ、同年9月15日竣成せしかば同月23日より開通するに至り 以て南海鉄道和歌山市駅に連接せしが為め大に運輸の便を得るに至れり。而して和歌山口駅を同3年9月21日現位置に移転す。本線軌間※4は3呎6吋にして現時線路延長6哩7鎖なり、当初資本金20万円なりしが、大正2年12月30万円に、同13年12月50万円に増資して今日に至る。
※2 5マイル50チェイン。マイルは約1.6km、チェインは1/80マイル(20.1168m)を指す距離の単位で、5哩50鎖は9km52.7mとなる。
※3 加太町深山地区(現在の和歌山市深山)で編成された大日本帝国陸軍の野戦重砲兵連隊の1つ、野戦重砲兵第三聯隊。美山地区には昭和8年(1933)から昭和13年(1938)まで存在した。深山重砲兵連隊跡(休暇村紀州加太)
※4 「軌間」とは鉄道の線路の幅を指す言葉。加太軽便鉄道は、その名のとおり「軽便鉄道法」に基づいて開設された鉄道であり、3呎(フィート)6吋(インチ)(1067mm)という軌間軽便鉄道の中ではほぼ最大幅の規格であった(多くの軽便鉄道は2フィート6インチ(762mm)の軌間を採用した)。この軌間は現在のJR在来線等で広く用いられている通称「狭軌」と呼ばれる規格と同じサイズであり、結果的にこの軌間を採用したことが加太線存続の大きな理由となったと考えられる。軽便鉄道 - Wikipedia

和歌山県海草郡誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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 ここで「軽便鉄道(けいべんてつどう)」という言葉がしばしば登場していますが、これは、全国規模の鉄道網が「鉄道国有法(1906)」に基づき国有化されて統一規格となったのに対して、一地方に限定して運営される鉄道は比較的安価で簡易なもので良いと定めた「軽便鉄道(1910)」に基づき建設された鉄道のことを指します。
 南海電気鉄道が昭和50年(1985)に編纂した「南海電気鉄道百年史」には、「加太軽便鉄道」という項があり、ここで加太軽便鉄道設立の経緯から河西橋紀の川橋梁)の建設に至る時期について、次のように解説されています。

五、加太軽便鉄道の動向
 先述の「南海鉄道の国有化問題」の項でも述べたように、明治39年(1906)に鉄道国有法が成立した。その第一条に、「一般運送の用に供する鉄道はすべて国の所有とす。但し一地方の交通を目的とする鉄道はこの限りにあらず」とある。つまり地方路線は私鉄にまかせて、国鉄の幹線の培養線(平易にいえば、旅客・貨物を幹線へ集めるための路線)にするという考え方を採った。これを受けて制定されたのが、明治43年(1910)の「軽便鉄道」と44年(1911)の「軽便鉄道補助法」である。
 従来の私設鉄道を規制する私設鉄道は幹線鉄道を前提とした法律で、相当きびしく規制を加えていたのに比べて、軽便鉄道はゆるやかな規定になっていた。
一、設備の簡易
二、運賃の最高限度がない
三、事業主体は株式会社でなくてもよい
四、免許手続は一回で済む
 等々の便法があったために、従来私設鉄道によっていた鉄道も、軽便鉄道に変更するものが続出した。
 加太軽便鉄道も、この軽便鉄道ブームに乗って出願されたものの一つである。(なお、私設鉄道法、軽便鉄道法は大正8年4月、地方鉄道法の公布により廃止)

開業
 日清戦争(1894〜95)後にも、和歌山県海草郡野崎村大字北島を起点とし、同郡加太町に至る鉄道路線を敷設する計画があったが、実現はしなかった。和歌山県名草郡の松本利左衛門ほか6名が、明治29年1月に「加太鉄道株式会社鉄道敷設申請書」を提出した。しかし、その当時の逓信省では、この路線の必要性を認めない、として却下したのであった。
 その後、明治42年(1909)10月28日付で、海草郡木本村の垣内太郎ほか6名がほぼ同じ区間の鉄道敷設願を提出したのが、そもそもの発端である。
 ところが、先述の軽便鉄道が制定されたために、43年8月4日付で、軽便鉄道として免許申請を出し直したのであった。

     軽便鉄道敷設特許願
 今般我等発起となり和歌山県海草郡野崎村大字北島字祭ノ神起点として、同村大字野崎・大字狐島・同郡松江村・同郡木本村大字小屋・同郡西脇野村大字西ノ庄・大字本脇・大字磯脇を経て海草郡加太町大字加太字太谷に至る五哩六十鎖間に軽便鉄道を敷設し、一般旅客貨物の運輸を営みたく候。抑も加太町は人口約八千人を有し、日用の雑貨は多年の習慣としてこれを和歌山市にあおぎ港湾の便よろしく淡路、四国、大阪等の連絡要港にあり。殊に有名の淡島神社は参詣者おびただしく、深山重砲連隊もまた設置せられ、旅人の出入頻繁なり。また、同地方の特産物なる魚類および沿道の農産物は、おもにこれを和歌山市に販売せり。しかるに、和歌山市との交通は不便すくなからず、ここに文明の利器を採用し鉄道を敷設し多年宿望なる公衆運輸の便を開き同地方の発展を計画いたしたく侯につき、ご詮議のうえ、軽便鉄道敷設の義、許可あいなりたく、この段、関係書類あい添え願い奉り候なり。
  明治43年8月4日
   発起人
     和歌山県海草郡木本村大字木ノ本1070番地
                   垣内太郎 (印)
                    他六名
 内閣総理大臣侯爵 桂太郎 殿

 

 以上の願書に見られるように、加太軽便鉄道の目的は、至極当然のことではあるが、紀北地域の中心地たる和歌山市に連絡することであった。

(武知京三『局地鉄道の成立と展開』)
氏名 住所 引受株数 備考
垣内太郎 海草郡 250 和歌山県会議員
田上甚平 徳島県 200   
広田善八 和歌山市 550 米穀商
神前純一郎 500 綿ネル製造販売
木本主一郎 海草郡 100 和歌山県会議員
貴志喜三郎 150   
江川質純 250   

 

 加太軽便鉄道の資本金は20万円で、株式総数は4000株。 このうち、四割近く(正確には37.5%)を上の発起人7名が引き受けていた。

 発起人の顔ぶれをみればわかるように、加太軽便は、地元の政治家と実業家が主導権をとって計画した路線である。県会議員の木本主一郎は、のちに阪和電鉄※5の設立に尽力した人物であり、政友会系の議員である。
 政府においては、発起人が相当の資産(少ない者でも1万5000円、多い者は10万円以上)と信用を有している点と、荷車および人力車営業者に影響するのは避けられないとしながらも、地元産業の発展、旅客の交通に多大の利便を与えるものとして認めたのであった。
 加太軽便は、明治44年(1911)1月10日創立され、45年6月16日、和歌山口(紀ノ川西岸)〜加太間を開通した。

 

和歌山市駅へ接続
 加太軽便は、大正2年(1913)1月20日付で、南海鉄道和歌山市駅への線路延長を願い出ている。
 開業以来の宿願であっただけに、加太軽便はこのとき、10万円を増資して紀ノ川に橋梁を架設したのであった。出願直後、地元の和歌山県知事総理大臣あてに副申書を提出し、バックアップをしている。

 

   加太軽便鉄道線路延長免許申請につき意見副申
 今回県下海草郡野崎村大字北島より南海鉄道株式会社和歌山市停車場に至る線路延長免許の義、加太軽便鉄道株式会社より出願候ところ、右は旅客貨物の運送及び産業振興のため最も必要なる計画と認められ候。右線路延長起点たる北島和歌山市駅とは、わずかに半マイル(○・八キロ)の距離を隔つれども、その間紀ノ川の介在するありて、運輸交通上の不便すくなからず。
 ついては、早く已てに、同線敷設免許申請の際、同川に架橋して和歌山市駅まで延長し、もって、関西、南海の両鉄道及び和歌山水力電気軌道と連結し、本線敷設の目的を充分に達せしめんとの希望を有し候えども、同会社創立当時の資本をもってしては、到底、この挙に出ずることあたわず。
 よって、他日営業成績良好にして、これが企画に堪えうるの時を待ちおり候次第にこれあり候。
 爾来、営業の成績良好にして、今回10万円の増資をなし、架橋延長の資に充て、もって、従来の不備を完成せんと欲し、この出願を見るに至りたるものにして最も機宜適したるものと存じ候。
 この計画にして、実現せられんか、5000人の人口を有し、淡島の名祠と深山重砲連隊との所在地たり、かつまた、大阪・徳島・淡路および県下の諸港と連絡する要津たる加太町は和歌山市と直接の交通を開くべく、而してまた、同時に前記の諸線と相連絡し、交通機関の改善を見るに至るべく候。
 ついては、右すみやかに、ご許可あいなりたく、この段意見副申書類進候なり。
  大正2年2月15日
                和歌山県知事 川村竹治 (印)
内閣総理大臣公爵 桂太郎 殿

 

 この副申書でもわかるとおり、加太は、本州と四国、淡路をむすぶ連絡港としての役割をもっていた。また深山に重砲連隊が設置されてから、軍事上もきわめて大きな意味を持つようになったのである。
 大正2年7月、資本金を30万円に増資し、翌年9月23日をもって、和歌山市駅に隣接する和歌山口駅まで乗り入れた。
(その後、昭和5年(1930)12月22日、商号を加太電気鉄道と変更。第二次世界大戦突入後、合併統合の気運に応じて、17年2月1日、南海鉄道加太電気鉄道を吸収合併、新しく加太線として発足せしめた)
※5 「阪和天王寺駅(現在の天王寺駅)」と「阪和東和歌山駅(現在の和歌山駅)」との間を結ぶ鉄道。昭和5年(1930)に全線開業した。「大阪 - 和歌山45分」という「超特急」を運行したことで知られるが、後に南海鉄道と合併して「南海山手線」となり、昭和19年(1944)戦時買収により「国鉄阪和線(現在のJR阪和線)」となった。阪和電気鉄道 - Wikipedia

南海電気鉄道百年史 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 大正時代から昭和のはじめ頃にかけては全国で鉄道事業者が乱立しており、昭和恐慌世界恐慌の影響を受けて昭和5年(1930)から6年(1931)にかけて日本全国が危機的な経済状況に陥ったことを指す)と相まって鉄道経営が困難となる事例が相次いだようです。時あたかも盧溝橋事件(1937)に端を発した日中戦争が勃発した時期であり、日本が戦時体制へと移行していくことも相まって、全国の鉄道事業者は新たに制定された「陸上交通事業調整法」に基づいて合併を求められるようになってきました。これが、上記引用文の最終行にある「第二次世界大戦突入後、合併統合の機運に応じて・・・云々」という文章につながっていくのです。
 この時期の南海電鉄の変遷について、Wikipediaでは次のように記されています。

1940年(昭和15年)に南海鉄道阪和電気鉄道を合併。
1941年(昭和16年)に大阪電気軌道が子会社の参宮急行電鉄を合併して関西急行鉄道が誕生し、1943年(昭和18年)に関西急行鉄道大阪鉄道(現在の近鉄南大阪線を合併した。
1944年(昭和19年)5月、旧阪和電鉄から引き継いだ南海山手線が国有化され(現・西日本旅客鉄道阪和線、1944年(昭和19年)6月に南海鉄道関西急行鉄道が合併して近畿日本鉄道近鉄が発足した。
終戦後、近鉄は1948年(昭和23年)6月に旧南海鉄道を分離し、高野山電気鉄道が譲受して南海電気鉄道が発足した。

陸上交通事業調整法 - Wikipedia

 これを見ると、現在のJR阪和線は一時期南海南海鉄道保有していた路線で、現在の近鉄南海鉄道関西急行鉄道が合併して設立された会社だったことがわかります。また、現在の南海電鉄は戦後に近鉄から分離された会社で、意外なことにその母体となった会社は高野山電気鉄道※6であったというのも興味深い話です。
※6 現在の南海高野線高野下駅 - 極楽橋駅間と、南海鋼索線極楽橋駅 - 高野山駅間(ケーブルカー)に当たる路線を建設・経営していた会社。高野山電気鉄道 - Wikipedia


 さて、話を冒頭の河西橋に戻します。上記で紹介したように、加太軽便鉄道の開業当初は紀の川北岸の「和歌山口駅」が和歌山市街地側の起点でした。それが、大正3年(1914)に紀ノ川橋梁(現在の河西橋)が完成したことにより現在の南海和歌山市駅の隣接地に新たな「和歌山口駅」が開業し、それまでの「(旧)和歌山口駅」は廃止されて新たに「北島駅」が設けられたのです。それでは、この二つの和歌山口駅北島駅というのはどこにあったのでしょうか。
 平成17年(2005)、和歌山社会経済研究所の主任研究員であった亀位匡宏氏は同研究所のWebサイトに掲載された「南海加太線むかしむかし」というレポートの中で次のように考察しています。

III.2つの和歌山口駅
 加太軽便時代、始発駅は「和歌山口駅」といいました。しかし、紀の川橋梁完成前と後、2つの和歌山口駅がありました。それぞれについて見てみましょう。

1.紀の川架橋後の和歌山口駅和歌山市駅むかしむかし−
 順番が逆ですが、まず、紀の川橋梁完成後の和歌山口駅を見てみましょう。そう現和歌山市駅です。

 加太軽便和歌山口駅は現在の和歌山市駅の車庫付近にありました。一方南海和歌山市駅は駅舎が現在のバス車庫の辺り、ずいぶん西にありました。終戦後すぐの航空写真で確認すると、両駅をつなぐ跨線橋は、それぞれの駅舎から遠く離れたホームの端にあり、乗り換えは大変だったようです。
 市電を利用するときは和歌山市駅下車ではなく、杉の馬場を利用していました。そのため和歌山口駅は「杉の馬場駅」とも呼ばれていたようです。
 そしてこの状況は南海合併後、和歌山市駅に統一されても変わらず、昭和25年の旅客ルート切り替えまで続きます。

 

2.紀の川架橋前の和歌山口駅−初代和歌山口駅は北島駅か−
 では、初代和歌山口駅はどこにあったのか。多くの資料には北島駅がそうであったと記されています。紀の川渡河に際し、そのまま線路を延ばせばいいのですから無駄がありません。しかしほんとにそうだったんでしょうか。初代和歌山口駅ができた時は渡河ルートは未定だった上、時代が下った北島支線廃止時でさえ、北島駅周辺は一面のハス池だったらしいです。そんなところに始発駅があったんでしょうか。
 ちなみに南海本線も当初、終着駅は「和歌山北口駅」といって紀の川北岸、堤防に近い粟地区にありました。しかし、資料では紀ノ川駅と混同されているものが多いのが現状です。和歌山口駅も同様では・・・・。
 当時の新聞に、こんな記事が出ていました。

 

●和歌山新報(大正3年9月19日)
加太輕鐵紀の川鐵橋一昨日試運轉の結果好成績を示したるを以て(中略)尚ほ賃銀は同會社の申請額 杉の馬場より和歌山口まで 三銭にして其儘許可となることなるべし

 

●和歌山新報(大正3年9月23日)より
加太鉄道は昨日まで、紀の川の前方、北嶋からでなければ乗車することが出来なかったそれがため北嶋橋を渡るまでは誰れでも億劫で堪えられなかったが、昨日からは杉の馬場市駅の南海プラットと平行した加太のプラットが出来て、それに汽車がペタリと着く、(中略)杉の馬場の駅は和歌山口駅というので、紀の川を渡った北嶋のところが地名をそのままの北嶋駅と改称した、(後略

 

 これらの記事によると北島駅初代和歌山口駅であったかように読みとれます。
 これに対し紀の川架橋以前の加太軽便が記された地図が見つかりました。もちろん陸軍測量部の地図ではありません。民間出版です。下図がそうです。


大正2年発行の和歌山市街地図)

 

3.和歌山口駅の変遷に関する一考察
 次に、初代和歌山口駅から二代目和歌山口駅へのバトンタッチの過程を「和歌山縣海草郡(大正15年発行)」から拾ってみましょう。

(前略)大正三年二月十五日紀の川鐵橋架設起工式を擧げ、同年九月十五日竣成せしかば同月二十三日より開通するに至り以て南海鐵道和歌山市に連接せしが爲め大に運輸の便を得るに至れ。而して舊(旧)和歌山口驛を同三年九月二十一日現位置に移轉す。(後略)

 さて、いまいち分かり辛い記述です。紀の川橋梁が9月23日開通であるのに、2日早い21日に、杉の馬場和歌山口駅を「移転」したのでしょうか。無論この2日間は杉の馬場和歌山口駅を発着する列車はありません。
 とすると、「現位置」とは北島駅を指していると考えて差し支えないと思われます。駅を廃止したというよりは、同じ大字北島地内で駅を移転した、ということでしょう。

 さて、紀の川橋梁開通2日前に営業を開始したこの新線上の駅、9月21日から「北島駅」だったのでしょうか。それとも2日間だけ「和歌山口駅」だったのでしょうか。前掲の和歌山新の記事も考えあわせると、和歌山口駅であった可能性も捨て切れません。残念ながら、どちらであったかを確定するだけの資料は見つかりませんでした。しかし、ここでは9月21日の移転当初から「北島駅」であったと考えます。昭和43年、国鉄和歌山駅の名が1ヶ月間消えた※7のと同じ「襲名披露」の儀式がたった2日間ではありますが行われたのではないでしょうか。
(以下略)
南海加太線むかしむかし(WayBackMachine によるアーカイブ)

※7 Wikipediaの「和歌山駅」の項に次のような記述がある。「そして、1898年以来和歌山駅を名乗っていた現在の紀和駅が1968年2月1日に現名へ改称される。さらにこの駅(筆者注:国鉄の東和歌山駅についても同時変更による混乱を避けた1か月後の3月1日に現在の名称たる和歌山駅に改称となる。これによって名実ともに和歌山市の玄関駅となったのである。和歌山駅 - Wikipedia

 

 上記引用文が掲載された「南海加太線むかしむかし」というレポートは加太線に関する様々な考察が盛り込まれた非常に貴重な資料ですが、現在は亀位氏が所属していた和歌山社会経済研究所のWebサイトがリニューアルされたためか閲覧できなくなっているようです。引用文末尾のリンクからWayBackMachineに保存されているコピー(アーカイブ)を閲覧することができますが、これもいずれ消えてしまう可能性があるので念のためpdfとして保存しておきます。
和歌山社会経済研究所 _ レポート「南海加太線むかしむかし」.pdf - Google ドライブ

 

 さて、こうして大正3年(1914)に紀ノ川橋梁(現在の河西橋)が完成したことにより和歌山市中心部と加太の町とが線路でつながったのです。そして、この加太軽便鉄道(後に加太電気鉄道、南海鉄道加太線の沿線は順調に発展を遂げ、昭和17年(1942)には住友金属工業和歌山製鐵所(現在の日本製鉄株式会社関西製鉄所和歌山地区)※8が開設されたことにより、この鉄道は旅客のみならず軍需物資の輸送という新たな役割を担うことになりました。ところが、これが紀ノ川橋梁の運命を大きく左右することになったのです。 
※8 歴史・沿革 | 関西製鉄所 和歌山地区 | 製鉄所 | 日本製鉄

 

 「関西の公共事業・土木遺産探訪」という個人のWebサイトには次のような解説が記載されており、紀ノ川橋梁が軍需物資などの重量物の運搬に耐えられなかったことから、現在の南海本線の橋梁を経由して紀ノ川駅東松江駅を結ぶ貨物専用の「松江支線」が設けられた経緯を紹介しています。そして、後にジェーン台風(1950年)、紀州大水害(1953年)と相次ぐ水害により紀ノ川橋梁が大きな被害を受けたことから、この橋梁は鉄道橋としての使命を終えることとなりました。

(前略)

 その南海鉄道も、19年5月に「関西急行鉄道」と合併して「近畿日本鉄道」となる。ところが、いくら会社が大きくなっても加太線は所詮は軽便鉄道でしかない。重量物の運搬に紀ノ川橋梁が耐えられなかった。そこで、これを迂回するために、同年10月に本線の紀ノ川駅加太線東松江駅を結ぶ貨物専用の「松江支線」が非電化で建設された住友金属への引き込み線が東松江駅から出ていた)
 翌20年にわが国は終戦を迎える。戦後まもなく(22年)近畿日本鉄道から「南海電鉄」が分離し加太線は同社に編入されるが、加太線の歴史は戦後も変転に富む。まず、25年7月に貨物に加えて旅客も紀ノ川駅経由に変更され(前年に電化されている)東松江北島和歌山市間は「北島支線」として単行運転の電車が往復するだけとなった。その後直後の9月に、ジェーン台風紀ノ川橋梁が被災北島和歌山市間が運休している。復旧して軽量化された車両で運行を開始したものの、28年7月の水害で同区間は再度の運休を強いられ、そのまま復旧することなく30年に廃止が決まった。残った東松江北島間は延長1.8kmの盲腸線※9として運行を続けたたが、41年に国道26号の建設に伴い廃止され、加太線は現在のように加太紀ノ川間だけになった。なお、住友金属の減産やトラック輸送への転換により、59年には加太線の貨物輸送が廃止されている。


南海電鉄加太線が現在の路線になるまでの経緯)

※9 営業距離が短く、他の路線に接続されずに行き止まりの形状になっている路線をさす。盲腸線 - Wikipedia

関西の公共事業・土木遺産探

 

 しかしながら、鉄道橋としての使命を終えてもまだこの橋の命運が尽きることはありませんでした。
 敗戦からの復興が進み自動車交通が盛んになってくると交通渋滞が大きな社会問題として取り上げられるようになり、紀ノ川の北岸と南岸を結ぶ道路が事実上北島橋しかなかった※10ことが問題視されるようになってきたのです。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(人文地理学研究室)
※10 北島橋の上流には紀ノ川橋梁の建設資材を運搬するために架設された仮橋を改修した「南海橋(通称:一銭橋)」があったが、これも昭和37年(1962)の大規模改修まではしばしば洪水で流失するようなぜい弱な橋であった。和歌山市歴史マップ 南海橋(再アップ) | ユーミーマン奮闘記

 

 そこで、和歌山市では廃橋となった紀ノ川橋梁を譲り受けて大規模改修を行い、道路橋として再活用することとしました。この経緯についてWikipediaでは次のように記しています。

 紀ノ川橋梁が廃橋となった当時、北島橋の渋滞緩和が行政課題となっていたことから、この橋を道路橋に転用することが検討された。1956年(昭和31年)9月28日に、和歌山市議会で150万円でこの橋を買収する譲渡契約が承認された。続いて1957年(昭和32年)6月1日に市道路線として認定し、予算1000万円をかけて改築することが議決された。1957年(昭和32年)の改修工事では、橋脚の修理、橋台の補強、鋼材による床版の設置、コンクリート舗装、欄干の設置、3か所の待避所の設置などが行われ、9月末に完成した。
河西橋 - Wikipedia

 これが現在の「河西橋」となるわけですが、この改修された橋も昭和40年(1965)の台風で一部の橋脚と橋桁を流失するという甚大な被害を被りました。このため、市では古い橋脚を一部撤去して新たにコンクリート製の橋脚を建設し、全面的な復旧・補強工事を行いました。古いレンガ造りの橋脚と新しいコンクリート造りの橋脚が混在し、路面が微妙にうねっているという河西橋特有の形状は、この時の復旧・補強工事の賜物であったのです。

tetsudo-ch.com

 

 当時の状況についてWikipediaでは上述の引用箇所に続いてこう記しています。

 1965年(昭和40年)9月18日、台風24号の襲来により河西橋は2か所で橋桁が流失し、添加されていた工業用水の水道管も破断した。この際に、橋の流失に気づかなかったとみられるバイクが転落して、運転者が行方不明となる事故が起きている。1966年(昭和41年)4月19日に復旧工事の起工式が行われた。台風で2か所に分かれて3基ずつ橋脚が流失しており、さらに南側の6基、中央部の2基、北側の1基の計15基を撤去して、新たに6基の鉄筋コンクリート橋脚を建設した。7300万円を費やして、1967年(昭和42年)2月20日に復旧工事が完成した。


 加太軽便鉄道紀ノ川橋梁が完成したのは大正3年(1914)のことであり、ちょうど今から110年前にあたります。110年の長きにわたって紀ノ川の北岸と南岸を結んできたこの橋も、冒頭の写真にあるようにいよいよ架け替えによってその使命を終える時期が近づいてきました。計画では1年後の令和7年度に新たな橋の供用開始を予定しているとのことですので、それまではなんとか無事に風雨に耐え続けて欲しいものです。